仮想戦記における農業問題についてのSS(著:あつんど殿・題名:七崎)

 急ピッチで戦力の増強を進める陸海軍、両軍を見つめる目はさまざまだ。大蔵省は軍事費の増加に顔をしかめつつも、国力増強による税収増加は歓迎する。運輸省は輸送力の徴発に顔を歪め、造船所への援助にはにっこりとした顔をする。科学技術省はいうまでもない。技術の爆発的な進歩、その背景にはかなりの確率で戦争や軍事がある。しかし、ここに、渋い顔をしっぱなしの人達もいたりする。
 

 約束の時間がせまっていた。松井茂は足早に歩き、角を曲がり、吹き付ける北風に無表情で対抗しつつ目的の場所に向かった。そこは男は10分ほど前までいた仕事場からさして遠くはなかった。官庁街に接するようなかたちで存在する飲み屋、その一つであった。目的の店についた。さっそく戸を開けると、女将に名前と先客の存在を告げる。女将は営業スマイルで迎え、先客達の場所を告げた。

「おお来たか。遅いぞ、言い出したのはそちらなのに」待ちきれなかったのか、すでにビールに口をつけている男が言った。
「すまん。こういうときに限って」松井は素直に詫びた。上司がどうということもない用事で無意味に引き止めたことは口にしなかった。
「確か、前もそうじゃなかったか?」横に座っていた男 ― 上滝和典が笑いながら言った。
「まぁ、そういうことで野中さん。松井さんも来たことですし、あらためて始めましょう」戸口のすぐ横に座っている男がなだめるように言った。
「よっしゃ、始めるか。濱野谷、注文は頼んだぞ」
「分かりました」目下にも目上にも全く態度の代わらぬ男 ― 濱野谷健吾はいつもの丁寧な口調でそうこたえた。
 

 酒はすでに飲兵衛の野中のためにいくらか運ばれていた。濱野谷はすぐに追加の酒と料理を注文する。酒はすぐ来たが料理は少し遅れた。この時間帯、居酒屋の需要は供給を常に上回る。

 全員、つい最近まで酒を口にする暇すらなかったので宴ははずんだ。近況からはじまり、家族のこと、趣味のこと ― 野球の話になると全員が目を輝かせて話をした ― ここに居ない友人達のこと、話はつきなかった。しかし、最後にはどうしても仕事の話をせずにはいられない。仕事の話 ― 彼等は農林省の官僚達だった ― になると自然とテンションは下がっていった。それでも酒が後押ししているのか、陰々鬱々とした雰囲気にはならなかったのが救いだった。

「連中、本気だよ」野中がそれだけ言った。
「本気は前から分かっている」上滝がそう答えた。
「じゃぁ、訂正する。やる気だ」
「何を?」
「正式な指示は追って出すが、そのうちトラクター工場を戦車工場に転用するから準備しておけ、だとさ」
残りの三人は一様にため息をついた。
 

 農林省、彼等ほど陸海軍が生み出す問題に直面している官庁はない。基本的に、農業というのはひどく人手を食うものである。特に日本の場合は耕地が少なく、それを作付面積毎の収量の多さに頼っているという現実もある。くわえて、山間部等おおよそ農地に適さないところも無理に耕地化しているというのが現状。これでは人員の減少は即生産量の低下に繋がる。一方、年々の消費量については増える一方。一般的に戦争が起きると食料消費は激増する。戦時の兵隊はおそろしく食料を消費するし、銃後でも生産増強が叫ばれるからやっぱり食料消費は激増する。つまりは好景気と同じなのだった。ちなみに、一例を挙げるなら、日露戦争前の米消費量はおよそ700万トン前後で推移していたが、戦争中はこれが850万トンまで一気に跳ねあがった。じゃぁ戦争が終われば元に戻るかといえばそうでもない。日露戦争終了後も米消費量は750万トン前後にとどまっている。

 単純な話である。

 戦争に負けたのならともかく、勝った場合や引き分けの場合は次がある。次に備えなければならない、となるとより一層の富国強兵が必要、ということになる。結果、食料消費は増えることになる。風が吹けば桶屋が儲かるの理屈といえないこともないが、実際はそうである。
 そして、戦争、戦争こそ人手を消費する存在はほかにはない。当然、軍が人間を引っ張れば食料増産に影響が出る。そして、その影響は戦争が終わった後も長く続く。そして、影響が出るならまだしも(よくないが)、同時に軍は食料を大量に、そして安価に供給することを要求してはばからない。仲が悪いのも当然といえた。

 軍と農民(のボス達)が角突き合わせるのは人員だけではない。耕地もそうである。軍が必要な施設というのはごく一部を除き(高地に建てられるレーダーなど)、平地に施設を建設する。そして、平地というのは大抵が耕地としても適した土地であったりする。軍が新しい施設を建造すれば農林省が耕地の減少を嘆くのは当然の帰結だった。もっともこれについては、他の省庁についてもいえることではある。公共事業反対、といえば市民団体の専売特許と思われがちだが、実際のところ公共事業反対を陰に日向に唱えてきたのは農林省がはじめてだった。別に自然を守りたいわけではない。食料増産を国是とされてきた集団にとって、当然の結論である、ただそれだけだった。

酒が口を滑らすのだろう。一旦沈んだ野中のテンションはまた上昇していた。
「んでな、言ってやったんだよ。今後、欧州情勢が一段と緊迫の度を増してくると農業人口の大幅な減少となるのに、トラクターまで無くなった場合、農業生産の維持は到底覚束ない、ってさ」
「んでんで」松井が先を促した。
「そこまで言ってるのに奴等ときたら、『農業生産のさらなる拡大については農林省の努力に期待している』だってさ。まったく、同じ言葉を何回言えば気が済むんだか」
「海軍の連中と来たら、いつも同じことしかいいませんよね」濱野谷が同意した。
「ふん、連中、食料などいつでも必要量調達できると考えているんだぜ。『神通』事件なんてとうに忘れているに違いないや」

 『神通』事件といえば、一見海軍内の事件とも思えるが、語感と現実がこれほど異なっている事件もない。事の起こりは1917年6月27日、軽巡洋艦『神通』で起きた集団食中毒事件が発端だった。食中毒の原因は、主計官のミスで保存期間を過ぎた糧食が出されたためであるが、これが発表されるや否や、何故か話は妙な方向へと動いていく。当時といえば第一次世界大戦の最中、日本軍の欧州戦線出兵、その頃は準備段階だったシベリア出兵も相俟って米の値段は暴騰を続ける一方だった。1915年に一石(0.15トン)11円をつけていた米価は、暴騰に次ぐ暴騰を続け、わずか2年で50円を突破してしまった。このような政情不安の中、主計官のちょっとしたミスは、政府が食料売り惜しみをする財界を規制していないことの不満へと発展してしまった。海軍の食中毒事件は、海軍 ― 政府が実は米の売り惜しみに荷担していると受け取られたのである。政府としては何もしていなかったわけではなく、その直前に行われた規制や緊急輸入によって、この後米価は下落するのだが、未来は現実に何ら影響力を持たないのはいつもの話である。

 日本全国で同時多発的にデモ行進や暴動が発生した。警官隊が対抗できず、陸軍や陸戦隊が出動した地域すらあるほどだった。当時の内閣は責任を問われて総辞職する騒ぎとなった。最近の歴史家ではこれを通称の「神通事件」とは呼ばず、「米騒動」と記録する人間もいる。

 ともあれ、「神通事件」は日本の食料供給、その致命的な弱点を白日の元に晒し出した。流通が自由なうえに、豊作と凶作の差が激しい。おまけに需要に対して供給は常に不足しており(米の場合、供給量の約2割は輸入)、流通量に余裕がないから価格は容易に乱高下する。主食のくせしてこれほど流通が不安定な品目も珍しかった。

 この事件後、農林省は食料生産体制のさらなる拡充を訴えていた。少なくとも本人達はそのつもりだった。しかし、現実は常に農林省に面倒を押しつけている。

「土地、人間、機械、ないものねだりだな。どれもこれも。あと余っているものといえば…」
「ガソリンと資材。そんなところですね。英国のおかげですよ」
「馬匹を忘れてますよ」
 上滝が口を挟んだ。馬匹は、陸軍の機械化に伴って軍馬の需要が低下し、現在では農業生産にほぼ必要十分に確保されている。もっとも、陸軍の機械化が進んだのは、陸軍が要求した軍馬の割り当て増強要求に対して農林省が頑強に突っぱねたのが理由の一つであるから、これは農林省の成果でもあった。大正のころ、これを勝ち取った農林省ではまさにお祭り騒ぎだったが、現在では忘れ去られた過去の栄光である。馬匹を有効に活用するのはやはり人間 ― 馬匹を操るのに長けた人間ということを忘れていた報いだった。昭和に入って起きたエネルギー革命により、トラクターがそれなりに普及したことも理由のひとつだった。

 耐えきれなくなって盃を眺めていた野中突然顔をあげた。
「馬匹か…そうだな。例のアレ、やっておけばよかったかもしれないな」
「アレって?」濱野谷が怪訝そうな顔で野中を見やった。野中の表情は、今にも冗談のネタを言いたくてたまらぬ顔をしている。
「アレはアレだ。ほら、例の。北海道帝大の」
「ああ、アレですか」
濱野谷は一瞬顔を歪めると笑い出した。上滝と松井も野中が何を言いたかったのか理解したらしい。濱野谷と同様に笑い出した。かつて、北海道帝大で菱沼という名前の学者がおこなっていた研究のことを指していた。馬に特殊な調教を施し、音声で操ることによって農作業における人間の負担を軽減する、という内容の研究で、農林省ではほとんど冗談のネタとして扱われていた研究だった(ただ、裏を返せばそんな研究すら門前払いにできないほど、当時の農林省は人的資源の不足に悩んでいた)。

「ああ、そういえばあの学者……新聞で対談やっていましたね。」松井が思い出したように言った。
「へぇ。知らなかったな。どの新聞だ」
「いや、農業専門紙ですよ。面白いことを言っていましたよ」
「ほう?何だって」
「そう、今は犬の研究をやっているそうでね。20年もたつと、尋常小学校に獣語の授業があって、それで30年後には犬が家事の大半をこなすことが可能になるとか」
 全員が苦笑を浮かべた。普通の人間にとって、犬を愛玩動物以外の何かにするという行為は理解の範疇を超えていた。
 

「まぁ、それはおいておくとして、外野は単位面積当たりの収量増加、いつもこればっかだな。こちらが打てる手…獣語の授業はともかく、2,30年後のための研究はさておき、肥料はどうなんだ?」
「今のところ、心配はないです。」上滝が答えた。
「北大じゃありませんが、馬匹がそれなりに揃っているおかげで堆肥の生産はまずまずです。後は、化学肥料ですが、外務省と協力して英国と話を通す…ってのはご存知ですよね?」
「ああ。それは知っている。もう交渉に入ったのか?」
「クリスマス、ナウル…他は…ど忘れましたが、ともかく英領諸島の燐鉱石の輸入枠拡大については順調に話が進んでいます。向こうは雲行きが怪しいどころの騒ぎじゃないですから。独、仏、合衆国のカリウムが絶たれるのはほぼ確実ですからこれは絶対に通してみせますよ」
「頼むよ。農業技術だけではどうにもならないからね」

「それにしてもなぁ…労働力、労働力、働ケド働ケド我ガ暮ラシ楽ニ成ラザル」
「手を見ても俺達の問題は解決しないぜ」濱野谷のぼやきを松井が無理矢理中断させた。
「単位収量はなぁ…今のところほぼ限界いっぱいいっぱいというところだ。今、帝大と協力して穀物の品種改良をやっているが、まだ結果が出るのは先だ。麦関係はもうそろそろ新種を投入できるところだけど、パンだけでいきるのはキリスト教徒だけだからな。米が供給できていないのはつらい。それに未だに稲刈りは労働力がないとどうにもならない。野中さん、例の機械はどうなんですか」
「アレ?稲刈り機のことか?」
「そうです。私はそれが実用化できればずいぶんと楽になると思っているのですが」
「東北の農機具屋…井関とかいったっけな。あれと共同開発しているが、まだ研究段階だ。モノになるにはまだ時間がかかるだろう。機械化が労働力の補填に役に立つのは分かっているが…くそっ。また海軍か」
 全員が押し黙った。農林省において、大抵の憎まれ役は陸海軍のどちらかが引き受ける。実際その通りなのだからしょうがない。それに、海軍は「八八(cm)艦隊」のような、農林省の年間予算を数倍しても足りない大計画を平然と通している。予算配分の多い省庁を羨むのは弱小省庁の性である。ちなみに、これが統合軍令本部に置き換わるのはそう遠い将来ではない。

「機械化、労働力…野中さん」松井が何かを思いついたらしく、箸を振り立てて野中を呼んだ。
「どうした?」
「トラクターの件ですけど、こちらから逆に仕掛けてみてはどうです?機械化のさらなる進行は、農業に必要な労働力の劇的な低下をもたらすって。どうです?」
「それはもう言ったよ」野中は渋い顔で応じた。
「でも、図表であれこれ言っても説得力薄いでしょう。そうだな…そうだ!もし、農業の完全な機械化が達成できたら、壮年男子が存在せずとも食料生産の維持が可能であるとか言ってみてはどうです?」
「おいおい。そんなことをして一体だれが農作業をやるってんだ」
「そうですねぇ…隠居の老夫婦、銃後を守る妻、あと女性その他…つまり爺ちゃんと婆ちゃん、ついでにお姉ちゃん、そんなところですね」

 あっけに取られた場は突如、爆笑の渦に包まれた。誰もが、腰が曲がった老婆が皺だらけの手でもって、トラクターを流暢にあやつり田畑を耕す姿を思い浮かべて、そのあまりのブラックさに耐えきれなくなったのだった。笑いはしばらく止まらず、周りの人間が何が起きたかと覗きこむほどであった。

 彼等は知っていた。今の状態が続くならば、それが将来の農村の将来に他ならぬことを。彼等が腹をよじりながら、涙を流しながら笑っているのはその現実に耐えきれなかったからこそだったのだ。


 リアル系仮想戦記世界でも(いや、であるにもかかわらず)等閑に置かれる、非常に重要な問題に対して光を当てた、非常に興味深いSSです。
 確かに(史実ほどではないにせよ)当時の日本人口の半分を占める農業人口を少なからず徴兵されては、史実並ならともかく生活水準が高い「隆山世界」の日本で食糧自給率が激減するのは確かでしょうね。
 機械化も、陸軍とのトラクター工場の奪い合い。各種食糧も、軍需物資との船腹量の奪い合い。そして人手も・・・
 日本がそれなりの強国で良かったと思います(苦笑)

 でも「獣語」って・・・介護犬ならわかりますが、家事の大半って・・・。
 犬耳少女ってなら大歓迎ですが(爆)

 そして最後の締めが、史実の現状そのままなのが・・・こればかりは「隆山世界」でも同じなんですよね、きっと。
 農業改革は行なわれても史実より甘口でしょうし、史実より悪くなってるかもしれないし・・・。

 で、懺悔を一つ。
 実はこの作品、2661年秋に投稿いただいたものなのです。これまで失念及び躊躇していました。
 投稿頂いたあつんど殿には、大変申し訳無い事を致しました。
 



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