第3次世界大戦終結試案

 1952年,独逸海軍が事実上全滅した挙句に英本土が奪回されたことはヒトラーを激怒させた.
 これに対して報復としてグアンタモナへの反応弾攻撃を指令.しかし,4月8日に反応弾頭を輸送していた重巡<ブリュッヒャー>が<御剣“伊23”一角>により撃沈されたことでこれも失敗に終わった.
 もはや誰もヒトラーの怒りを抑えることは出来なかった.「無能者の集団の海軍も,本土上空すら守れない空軍も,敗北続きの陸軍もあてにならん!頼れるのはSSだけだ!」こう叫んだと言われている.
 1952年6月8日,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を正式採択.方針は日本本土並びに温存英本土各地へのSS戦略ミサイル軍による全面無差別反応兵器攻撃であった.攻勢開始予定日は8月6日。実際に行われれば翌週には日英の数十の都市が蒸発していたであろう.
 この採択は国防軍に対しては極秘裏に行われた.当たり前である.ドイツ本土への全面反応兵器攻撃を確実に巻き起こすであろうこの命令を知ったらクーデターを起こしかねない.
 しかしながら,もはやハイドリヒはヒトラーに付き合う気はなかった.自らがやがて統治すべき民を消してしまうこのような計画は阻止されねばならない.彼は国防軍へ情報を漏らした.
 7月20日,ヒトラー暗殺によるクーデター発生.混乱の中,全権を掌握した(というより祭り上げられた)ロンメルは26日に日英同盟に対して英本国・ジブラルタル・クゥエートからの完全撤退,ミシシッピ川を東西合衆国の暫定国境とすると言う内容での休戦提案(いわゆるポツダム宣言)を行った.
 自由フランス政府を始めとする各亡命政府からの猛烈な抗議(というより哀願)が有ったものの,1939年以来(途中休戦期はあったものの)10年以上戦いつづけて国力が疲弊の極みに達していた日本政府はこれを承諾。8月15日,休戦条約が発効し,事実上第3次世界大戦は終結した.