日米講和試案

 1943年後半,今までのウソ(戦意高揚の為に「マーシャル沖の敗北は条約違反で作った46cm砲搭載戦艦のせいだ」と言っていた。実際には載せ代えは条約失効後であった)がばれて窮地に追い込まれた合衆国政府は不充分な兵力でのマーシャル・マリアナ侵攻を決意。結果はマリアナ沖海戦での大敗北につながり,ハワイにまで危機が及ぶにいたって44年の大統領選挙で落選。
 これをチャンスと見た日本政府は次期大統領との水面下での交渉を行い,翌45年1月,新大統領就任と同時に日米講和条約を締結.骨子は,

    日本は台湾を中華民国政府に返還する.
    合衆国はフィリピンから完全撤退,独立を認める。

 の二点であった。日本側から見れば「フィリピンをファシズム(合衆国の実態は第二次大戦中といえどもそこまで悪くは無かったのだが)から解放した」として,また合衆国側から見れば,「新しい市場(台湾)を確保した」としてそれぞれの面子を立てた物であった.
 これは,日本側では屈辱的講和(何しろ米本土まで到達していたのだ)として反対運動が盛り上がったが,実態はそれどころではなかったのだ.何しろ,五年以上に渡って続いた戦争のおかげで国力は疲弊しきっていた.実はこの返還にはウラがあり,「植民地統治時代に作った社会資本の代金は支払う」ということで莫大な資金が中華民国から日本に渡されることになっていたのだ.更に言うならば,返還後も基地の使用権は日本にあった.決して悪い物ではなかったのだ.
 それ以前の問題として,日本はもはや手詰まりであった.これ以上は押すことなど出来ないし,一年も経てば建造中の合衆国艦艇によって叩きのめされるのは目に見えていたからである.

 しかし,反対派はこれを不満として行動に出た。いわゆる第二次ニ・二六事件である(第一次は1921年,隆山条約締結に関して海軍優遇に腹を立てた陸軍将校が戦後不況と海軍を結び付けて決起したもの)。
 なお,この第二次ニ・二六事件は帝国海軍同士の交戦にまで発展,何とか鎮圧に成功し,講和条約は締結されたものの,このドサクサにまぎれて行われたドイツのケベック作戦に有効な対応を取ることが出来なかった.

 ちなみに,中華民国は日本に対する支払いのため莫大な額の借款を合衆国から受けたが,ドル立てであったため,48年のドイツ軍合衆国侵攻により,その負担は大いに減ることになった(ドルの値打ちが暴落した).