北崎・エンジニアリング・ヨーク社

(元ネタ・「Key」会社そのもの,「遥かなる星」「虚栄の掟」佐藤大輔氏著)
 

 1922年,隆山湾。この湾に,新たなる連合艦隊の艦がその姿をあらわそうとしていた。そのフネは,ほかの軍艦とは大きくその形状が異なっていた。艦上には目立つ武装は無く,非常にのっぺりとしていた。大艦巨砲主義全盛期の海軍としては,なんとも頼りなさげに見える艦であった。
 その時,内陸から一つの「影」が空から現れた。その「影」はこのフネを見つけると,急速にそちらに近づいて行き――遂に,その船の上で静止した。日本最初の空母<千鶴(T)>が始めて艦載機の収容に成功した瞬間である。
 そして,その光景を陸上から眺めている一人の男がいた。彼の名は北崎望といった。
 日本最初の航空機「月」を開発したことで知られる彼がこの光景をどの様に思ったかは言うまでも無いだろう。これからの国防の基本は航空機――そう思ったことは言うまでも無い。
 しかしながら,中島飛行機時代の彼は,その功績とは裏腹に完全に冷遇されていた。<一式艦上攻撃機(注1)>を開発して中島に多大な恩恵を与えた彼であったが,その彼に与えられた物は余りにも少ない物であった(注2)。
 1930年,中島に対して辞表を叩きつけた彼は英国へ渡った。新会社を作って再起を図ろうとしたのである。
 しかしながら,現実は甘くは無い。大恐慌の最中の英国は新型機を導入する余力は無かった。<ソードフィッシュ>等のライセンス生産をしながら,彼はひたすら時を待った。
 事態が代わりだしたのは1936年からである。この頃,ドイツの再軍備に合わせ,独逸でも空軍の強化が急速に進んでいたが,ハインケル社はその反ナチ的姿勢から冷遇されつづけていた。この境遇が似ている二人が息投合した事は言うまでも無い。折りも折り,世界では噴進式の飛行機の開発が始まっていた。次代の航空機は噴進式飛行機だ――彼らの意見は一致していたが,北崎にはその金が無く,ハインケルには後ろ盾がなかった。
 1938年,事態は更に急変する。独逸の噴進式戦闘機開発に慌てた英政府は動揺の機体の開発を行おうとしたが,ほとんどの会社は既存の航空機や,新型戦闘機(注3)の開発に忙殺されていたことから,北崎に目がつけられたのである。
 更に,日本も海軍甲事件の影響を受けて噴進式戦闘機に興味を示しだした。遅まきながら北崎に頭を下げた海軍は,日英合同出資の会社として北崎の再編成を行うことにした。北崎・エンジニアリング・ヨーク社誕生の瞬間である。
 会社設立と同時に北崎が行ったことは,ハインケルの引抜だった。これで人材を確保した北崎は,以後四年間,ハインケルにジェット機の開発を専従させることになる。日英の豊富な資金と,彼らに対する信頼がそれを可能にした。
 しかしながら,開発は難航した。まず,日本側が「将来は艦上戦闘機としての運用も可能とする様に」という無茶な注文を出したためである。これに答えるべく,ハインケルは「胴体内に二基のエンジンを搭載する」という全く新しい手法を採用することになった。
 また,1939年,また日本側が「ついでに次期艦上偵察機(注4)の開発も引き継ぐ様に」という事まで言ってきた。これに答えるべく,北崎は英国情報部と協力して拉致同然に三人の技術者を新たに独逸から招聘(注5)し,彼らに開発を専従させた。
 1942年,9月に完成した試作機3機で投入された<Air>飛行隊は期待にたがわぬ働きを見せたが,いかんせん,技術の成熟を無視して作り上げた機体のため,あまりにも繊細過ぎ,その稼働率は最低であった。
 1943年,いやいやながら日本に移転した北崎は,日本で採用したS元Y一技官等と共に改良にあたることになる。その最大の問題はエンジンの信頼性であった。
 1944年,なんとか「それなりに」使えるエンジンを開発することに成功した北崎に,次なる衝撃が襲った。来栖川への技術供与命令である。散々抵抗した物の結局これを飲まざるを得なくなった北崎は以後,日本と来栖川を激しく憎悪することになる。この時,第三次世界大戦後の冷戦下における日英同盟内での最大の企業対立が始まったとする史家は多い。
 1945年,横須賀の海軍工廠の払い下げを受けた北崎は打倒来栖川を合言葉に企業経営の拡大を続ける。<Air>の改良(後退翼の採用,機首レーダーの搭載など,後期には全く別の機体となった)による航空機技術の蓄積に加え,同じく不遇を買っていた黒木氏をも参加に加え,噴進弾・弾道弾の両面においても有数の企業へと急成長していく。
 1958年,トラックから打ち上げられた(注6)日英同盟側最初の人工衛星(注7),<サンダーバード一号>(注8)はその技術の結晶として輝いている。1996年,某国が最新式の太陽発電衛星を打ち上げ,その技術を誇ったとき,最晩年の黒木氏はこう述べた。「これで全世界のエネルギーはあそこが握った,だって?馬鹿を言うんじゃない,あの衛星を打ち上げたロケットは我が社の製品じゃないか」この頃,世界のロケットの大半は北崎製になっていた。
 また,経営の多角化を目指し,例えばエンターテイメント部門にも進出した。その具体例が,円谷監督の「鋼鉄のビューティーガール」を娯楽戦争映画の頂点として見るとき,実録系として同じく最高峰に数えられる戦争映画(注9),「Air――RAF,その勝利と敗北の記録(注10)」である。
 2047年現在,航空宇宙産業を押さえた北崎・エンジニアリング・ヨーク社は,ロボット技術を押さえた来栖川と共に,世界の三大財閥の一つとして世界経済の上に君臨し,英国の国際的地位を高める大きな要因となっている。
 

注1:十三式艦上攻撃機の後継として1926年12月30日に正式採用。唯一の(級呼称制度での)「一式」の機体であり,「One」と呼ばれた。
注2:中島自身は彼の功績を多大に評価していたが,海軍と決定的に対立していた中島に対して完成機を買い叩いたため,三円五〇銭が限界であった。
注3:第一次バトル・オブ・ブリテンで大活躍するスピットファイア戦闘機のこと。
注4:<彗星>(英国名<Kanon>)のこと。
注5:独逸側の妨害を避けるため,イシカワ・ジン・トゴシのコードネームで呼ばれた。
注6:北崎は英領からの打ち上げを希望したが、大半の植民地が独立した英国には、それに適した(赤道に近い)打ち上げ場所が無かった。
注7:ご存知の通り,最初に人工衛星を打ち上げたのは,フォン・ブラウンが開発チームを率いる,独逸である。
注8:なお,このネーミングについては「北陸訛りのある日本人」が暗躍したといううわさもあるが,詳細は不明。「HMX−12」事件と同一人物である,というとっぴな説まである。
注9:北崎・エンターテイメント・ヨーク製作
注10:数々の不備により,上映開始は2000年7月から9月まで延期された。マニアの間からは,「そこまで<Air>の再現しなくていい」と言われた。



本案は、「北崎=Key」のコンセプトによるものです(七崎)