北崎・エンジニアリング・ヨーク社(元ネタ・Key自体)
 

 1938年の海軍甲事件の影響を受けて急速にその必要性を認められるようになった航空機。北崎エンジニアリングはその需要を満たすために英国のヨーク州に作られた国策会社である。
 海軍甲事件の結果,重視されたのは制空権確保の重要性である。航空機による戦艦の撃沈が可能,この事実はいまだ少なからずの力を持っていた大艦巨砲主義者を恐怖させた。その対策として,戦艦部隊の戦力拡充のために予算が削られぎみだった戦闘機開発予算が大幅増額された(注1)のはもちろんであるが,制空権の絶対確保のため,これまでとは次元の違う,あらゆるライバルを一撃で撃墜するような革新的な機体が求められた。こうして,噴進式戦闘機開発の新たな国策会社,北崎が作られたのである。
 当初,一番の問題となったのは,当然のことながら人材である。これを北崎は極めて単純な方法で解決した。ナチスと対立をして冷遇されていた独逸のハインケルを始めとする各社の技術者を引き抜いたのである(注2)。これにより,開発は比較的順調に進んだ。

 しかしながら,北崎の最初のオリジナル機は噴進式戦闘機ではない。日本の空技廠から開発の依頼された艦上偵察機(後の艦爆<彗星>)である。日本では,英本土攻防戦の末期の1943年1月に対戦艦用特殊大型爆弾<鬼殺し>(注3)を用いて作戦行動中の戦艦を始めて航空攻撃のみで沈めた飛行機(注4)として知られているが,欧州では37ミリ砲を搭載した対戦車用襲撃機型(注5)の方が良く知られている。これを用いた自由オランダ空軍による対戦車攻撃の成果はご存知の方も多いだろう。同機はアフリカ戦線では<オランダの空飛ぶ大砲(Kanon)>として恐れられた。

 さて,肝心の噴進式戦闘機の方であるが,1942年初頭,幾多の技術的困難を乗り越え,遂に世界初の実用航空機用ジェットエンジン<空>が完成。さっそく初飛行が行われようとしたが……機体構造の致命的なバグが見つかり,量産化を目前にして急遽延期が行われ,実験部隊の編成は7月14日から9月8日にずれ込んだ。
 この年,英本土航空戦は独逸がB-17の量産(ライセンス生産)及びガンシップタイプの実戦投入を開始したことから急速に日英同盟側に不利に傾きつつあった。この非常時,チャーチルは遂に非常の決断を行った。既に後方で活躍していたWAAF(婦人補助空軍)の前線への投入である。そしてこの中には大日本帝国女子航空隊英国派遣部隊も含まれていた(もちろん,同意した者のみではあるが)。
 難産の末完成した噴進式戦闘機(<蒼電>と名づけられた)ではあるが,初飛行直前にバグが見つかったことから搭乗員から総スカンをうけた。このため,テストパイロットには発足したばかりで発言力の低い,女子航空隊戦闘機部隊から選ばれることになった。
 7月,女子航空隊のエース,神尾中尉・遠野少尉・霧島少尉の三名がテストパイロット兼最初の部隊要員として転換訓練を開始。9月8日,特殊実験部隊<Air>は実戦に投入された。
 この日は合衆国から供与されたP-51が始めて実戦参加した日でもあり,レシプロ機迎撃機部隊が対応に苦慮する中,この実験小隊は易々と護衛のP-51戦闘機隊を突破,同じく実験段階の試製空対空噴進弾を用いてコンバットボックスを組んだB-17部隊に対して大損害を与えることに成功した。
 大きな戦果を上げた<Air>部隊であったが,そのエンジンの信頼性は低すぎ,またあまりにも複雑でありすぎた。空襲が本格化する中,まともなエンジンの量産は遅々として進まず,また,事実上,一度飛ぶたびにエンジンの交換が必要とあってはどうしようもなかった。北崎は必死に改善を図ったが,所詮魔法が使えるわけではない。工場のラインにはエンジンの無いいわゆる「首無し機」が溢れた。いくら高性能が約束されていたとしても,飛べない翼には何の意味も無かったのである。

 1942年12月,独逸軍の英本土上陸により<Air>部隊の活躍も終わりを告げた。北崎は<ダンケルク>計画に従って日本へ疎開,また<Air>部隊も解散,日本へ帰還することとなった。
 <Air>部隊で実際に飛行することの出来た<蒼電>の機数は両手の指の数にも満たなかったが,被撃墜数ゼロ,撃墜したB-17は100機を越え,その活躍は一種の伝説となった(注6)。そのため,第3次世界大戦の休戦から50年近く経った今日でもその名は知られている。
 なお,独逸が以後重爆撃機の保有に消極的となり,ロケットの開発に邁進するようになったのは本機が爆撃機のもろさを見せ付けたから,と言われている。これが事実だとしたら,<蒼電>はB-17だけでなく,後に続くはずだった数多くの重爆撃機群をも「撃墜」したと言っても過言ではないだろう。

 ダンケルク作戦後,英本土から日本の横須賀に移転することになった北崎だが,やっと<空>エンジンの信頼性が向上(注7)し始めた<空>2型の量産が始まった頃,海軍から下された命令は<空>の技術の来栖川への供与命令だった.北崎は猛反発したが,結局は飲まざるを得なくなる.
 元から険悪だった両社の仲はこれで決定的に悪化した.以後,北崎は「打倒来栖川」を合言葉に会社経営を拡大させていくことになる.

 当然,航空機メーカーなのだから自社の<Kanon>こと<彗星>,<蒼電>(英国名<Air>)の改良に全力を注ぐ(注8)のは当然であったが,更に多角化を目指し艦船の調達にも手を出すべく,対米戦終結後払い下げられることになった海軍の横須賀工廠の購入にも手をだした.
 その結果,隆山地区に多数のドックを抱える来栖川ほどではないものの,艦船の調達もするようになり,揚陸指揮艦<水瀬‘秋子”>を始めとする幾多の艦艇をも建艦することとなる。
 また,主に英国艦の建造や改修(注9)も多数行われた.代表的な物は,未完成状態で英本土を脱出した戦艦<デューク・オブ・ヨーク>に対する(自社で開発した)対艦誘導弾道弾搭載戦艦への改装であろう. 
 

注1:これが「九六戦で充分」と言っていた海軍上層部の意識を変えさせ,2年後に現在も名機として名を残す零戦を生み出すことになった。
注2:この結果,技術者のほとんどが引き抜かれたハインケル社は一時操業が麻痺状態に陥り,以後ほとんど別の会社となった。
注3:未完に終わった<高倉‘武蔵”みどり>の主砲弾改造。
注4:なお,当時日本本土からのパイロットの補充がほとんど途絶えていたため,<テルピッツ>攻撃の指揮を取っていたのは女子航空隊の隊長,水瀬大佐であった。
注5:ちなみに,英本土で作られた初期生産型には<anemoscope>と呼ばれた音響兵器がつけられていた。「これを最後まで聞いてしまったら命中する」と独逸兵は恐れた。
注6:但し,日本本土での<蒼電>による部隊の編成が行われたのはエンジンの耐久性が向上した1944年以後のこととなった。
注7:あくまで比較の問題ではあったが.
注8:<彗星>の改造は雷撃能力の付与・ターボプロップエンジンへの換装という大規模な物であった.このため,新しく機体を作った方がいいんじゃないか,と思われるほどの人材が投入された。その顔ぶれを見たある海軍技官は「ドリームキャストだな」と呟いたそうである.
注9:<綾香>の次期艦載戦闘機で<蒼電>艦載機型が採用されたため,二度続けて主力艦戦の選定から漏れた(海軍OBの天下りを多数抱える)三菱との関係が悪化.そのため,戦闘艦艇は主に英国艦の建造・改装が多い.