美汐級/マコティーニ・サワトーリ級
 

 同型艦同士が敵味方となり、なおかつ奇妙な出会いをしたクラス

 大戦前に良識派によって結成前から葬られた日独伊三国同盟、しかしそれより以前から日伊は良好な外交関係を保っていた。
 そのことは伊がエチオピア侵略を画策した時に日が「国力の浪費であり、面子で戦うべきにあらず」と提言し、それを伊が聞き入れたという点をもって見てもわかるだろう(もっとも、エチオピア王子と日本華族の娘との結婚問題があったからということもあるが)
 折りしも日本が建造していた駆逐艦は雷撃性能に関しては例の酸素魚雷もあって他国を圧倒していたが、砲力、速度に関しては劣っている感があり、いずれ建造されるであろう米大型駆逐艦、高速化する米戦艦への対抗策が必要となっていた。
 水雷戦隊旗艦としては阿賀野級が計画されていたが、これとて砲は手動、速力は駆逐艦並、挙句に完成はずっと後で頼りにならない。
 そんな時に海軍内から提案されたのが「伊艦の輸入」である。
 ちょうど建造に着手しようとされていた伊のカピターニ・ロマーニ型を元に改良したタイプがOTO社から提案され、これを受諾することとなった。
 このクラスは排水量は阿賀野級より小柄なものの、40ノットの超高速と同程度の雷装(4連装2基)、高初速の主砲と適度な対空兵力、しかも航空機まで搭載という(さすがに航続力は阿賀野級の18ノット/6000浬に対して18/4250だったが)優れた性能を有し、古臭くなっていた軽巡の代役にはぴったりであり、早速1938年に建造契約が交わされた。
 この計画には軍内でのイタリアシンパである海軍の平出英夫、陸軍の有末精三(イ式重爆BR20の購入貢献者)が動いていたという説もある(詳細は例によって不明)
これに対して井上成美や御大と呼ばれたD.S(本名不明)提督は「腐った根性のイタリア人の艦など3日でバラバラだ」と酷評している。この両者の予想の結果は後々戦訓が巨大な皮肉になるのだが・・・
  4隻が建造され、OTOリヴォルノ造船所に一括発注された。
  ロマーニ型に対して一回り大きくなり、航空設備も3番砲塔の前に設置するとともに軽い防御を施している。
  艦分類は駆逐艦なのか巡洋艦なのかで揉めたあげく(伊の分類の「遠洋偵察艦」というのが理解できなかったらしい)、2隻は軽巡洋艦、2隻は駆逐艦といういかにも日本的妥協が成立、「美汐」「美凪」「美坂」「沢渡」と命名。
  兵装はさすがに伊式は使いこなせない(それ以前に部品がない)ので未搭載で竣工させ、回航後で装備することとなった。

  建造は順調に進み、揃って1941年に竣工・・・したのだが、ここで悲劇が起こった。
  開戦である。

  この時4隻とも竣工、2隻(美汐、美凪)が日本に向けて回航された直後であり、 2隻(沢渡、美凪)は回航寸前。
  美汐と美坂は日本に到着したが、 沢渡と美凪は正に「キツネにつままれたごとく」伊に素早く接収されてしまう。 
  回航を指揮していた天野重隆大佐(美汐艦長)達にとっては悲しみを背負った回航としか言いようがない。
  日本に到着した2隻は早速用意されていた兵装を搭載して竣工。伊に残された2隻の方は「マコティーニ・サワトーリ」「カリオ・ラ・ミーサ」と命名され、伊制式の兵装を搭載して竣工。こうして4隻は二つの国で働くこととなった。
  ただ、伊側に竣工した2隻は好評だったが、日側では色々な問題が起こった。 
  元々規格が違う(当然だ)上に地中海用に建造された船体は装甲はともかく、構造が弱い上に速力がデータ通りに出ないという欠陥を抱え、特に「美坂」は搭載されたベルッツォ・ギアードタービンとヤーロー缶に機関員が習熟できずにタービン羽根が破壊される事故が続出、文字通り不治の病を抱えたが、戦局は本艦の根本修理をさせてくれるほど楽なものではなかった。

  周知のとおり第二次大戦の日本は英国救援から始まったが、その中でも地中海は大変な状況となっていた。
  英のタラント空襲(41年6月4日)の失敗と伊空軍によるアレキサンドリア夜襲(41年6月23日)によって英地中海艦隊は緒戦で戦艦レゾリューションや空母イラストリアスを着底させられ、マタパン岬沖海戦では伊戦艦の前に戦艦ヴァリウントとマレーヤを失っていた。
  42年に入るとマルタ諸島(地図を見れば判るが単一の島ではない)攻防戦が激しさを増し、枢軸側に占領されたゴソ島と連合軍が死守するマルタ島への両軍の支援、奪回と侵攻、両陣営船団の護衛と攻撃・・・
  そんな中で遣欧艦隊も次々と増援がかけられる。水雷戦隊を始めとして地中海を所狭しと活躍し、伊独の海空軍からの猛攻撃を支えつづけた。
 当然ながら美汐級も派遣され、当初は島風級を率いて米戦艦に雷撃をするのが目的であったはずが地中海で船団攻撃や護衛に活躍するこことなる(第14戦隊:天野少将指揮)
 この時別れたサワトーリ級も第9戦隊に配属され、こちらも他戦隊とともに護衛や攻撃に活躍している。
 著名なところでは特攻輸送の巡洋艦バルビアーノとジュッサーノを護衛して英艦隊を壊滅させたボン岬沖海戦があげられる。
 他にも各所で「ブララ(伊語でいたずらの意味)」と言われるゲリラ戦術によって船団を脅かせる。
 その手段は高速性能を生かした一撃離脱や、その場をねずみ花火のように回る魚雷や機雷による戦術を特徴とした。
 美汐級の初陣は第一次シルテ沖海戦。この海戦では英K部隊と共に伊主力艦隊の矢面に立ち、補給船団を守り通す。
 この戦いでは日本艦隊は魚雷48本を放ちながら命中は後からのんきに撃ったとしか思えない名雪の放った1本だけという惨状を呈し、雷撃戦の難しさを残した(損害は日英駆逐艦4、伊駆逐艦1)
 そしてクライマックスはマルタ沖の日英のペスタデル作戦、伊独のヘラクレス作戦の対決。
 この戦いは唯一V・ヴェネト級が4隻揃って参加し、日本側も切り札として大和、武蔵が回航されて壮絶な死闘を演じる。
 英艦隊が伊旧式戦艦と巡洋艦達を道連れに壊滅した後、残された護衛兵力を守るのは霧島と榛名、那智や美汐を始めとする巡洋艦部隊
 しかし伊戦艦のレーダー射撃は強く、霧島、那智は瞬時に轟沈、榛名も大破し船団は風前の灯火。
 美汐座乗の天野少将は水雷一筋の人物であったが、次々に沈む僚艦を目の当たりにもしてきていた。
 「悲しみはもう嫌だからな」と伊戦艦を食い止めるべく突撃。雷撃によって伊戦艦リットリオを大破(後砲撃で沈没)し、撤退に追い込む。
文字通り奇跡的に船団を救うが(伊戦艦部隊はこの後大和、武蔵と撃ち合いつつ撤退、ローマ以外は全て大破)まだ終わっていなかった。
名将と言われたアンジェロ・パロナ中将率いる巡洋艦戦隊が立ちはだかったのである。
この時既に英戦艦ネルソンの断末魔の砲撃を食らったサワトーリは大破して撤退、日本側も美汐が大破して曳航されつつ撤退していた。
美坂の方は乱戦のために僚艦を見失い、こんな信号をラ・ミーサに出したという

「お姉ちゃんでしょ?」(どうやら文章組み立てに慌てていたようだ)
「知らない・・・そんなのはいないわ」(突如日本信号だったので混乱?)

この直後、ラ・ミーサは逃亡するかのように退却した。敵機の来襲でもなく、臆病でもなく、伊艦隊の真意は判らない。
この海戦で伊艦隊は戦術的には大勝したのだか、艦船をことごとく損傷させて再出撃が出来ない状況に陥り、結局これが致命傷となって講和まで進んでしまう。
しかしムッソリーニの跡を継いだ二代目統領デ・ガスペリの外交努力により戦争前の勢力を維持できたのは救いではあったが。
なお、この2クラスはまた合間見える悲劇を生むのだが、それは次の大戦の話にしたいと思います(¨;)

 

  要目(美汐級として)
  基準排水量 4087トン 常備排水量 5312トン 
  全長 144.9m 全幅 15.3m 喫水 4.3m
  主機/主缶 パーソンス式(美坂はベルッツォ式)ギアードタービン2基/2軸 ソーニクロフト水管缶(美坂はヤーロー水管缶)4基
  出力 120000馬力 速力 40ノット(実用航海速力は36ノット)
  燃料:重油1700トン 航続力 18ノット/4900浬
  兵装 14センチ50口径連装砲4基、8センチ65口径連装高角砲2基、
      25ミリ3連装機銃2基(後、40ミリ機銃16基と交換)
      61センチ魚雷発射管4連装2基、カタパルト1基、飛行機1機
  装甲 舷側30ミリ、甲板と砲塔20ミリ

  (マコティーニ・サワトーリ級として:兵装以外のスペックはほぼ同様。ラ・ミーサはベルッツォとヤーローの組み合わせ)
  兵装 13.5センチ45口径連装砲4基、6.5センチ64口径単装高角砲6基、
  20ミリ連装機銃8基(後、航空設備を撤去して6基を増設)
  53.3センチ魚雷発射管4連装2基、カタパルト1基、飛行機1基 機雷約120個搭載可能