<来栖川“紀伊”綾香>級戦艦
(Kurusugawa“Key”Ayaka Class,IJN)

 88(cm)艦隊計画による戦艦第ニ期シリーズ。別名、「エクストリームの申し子」。

 日露戦争後、合衆国海軍からの恐怖感を払拭するために(そういっても間違いではなかろう)計画された88(cm)艦隊計画。その計画は第5〜8号艦<天城>級の最終設計が完了した直後、突然暗礁に乗り上げた。<天城>級の後続である第9〜12号艦<来栖川“紀伊”綾香>級設計の途中で巻き起こった論争、「エクストリーム論」の影響である。
 エクストリーム論とは、当時絶対的主流だった大艦巨砲主義に真っ向から対立する新たなる主義だった。その内容は、大きな技術的躍進をしながらもいまだ補助兵器の域を出ていない航空機(と空母)、潜水艦、護衛艦そして戦艦を代表とする砲撃戦力をバランスよく建造、配備した海軍を目指すと言うものだった。いうならば無差別艦隊建造計画と呼べるものである(この論は中島知久平などが唱えた“戦艦無用論”と同一視されやすいが、エクストリーム論は戦艦戦力に価値を見出している点で大きく異なる)。
 このエクストリーム論の出現には、第一次世界大戦がもたらした数々の衝撃が影響している。なかでも、大戦中ドイツ潜水艦によって大損害を受けた現実とジェットラント沖海戦で露呈した艦隊決戦主義への疑問、そして大戦末期に行われたキール奇襲攻撃が大きく関係している。特にキール奇襲攻撃の影響は飛びぬけて大きい。この作戦は英海軍が空母<アーガス>を利用し、ソッピース・クック艦上雷撃機を装備した世界初の雷撃隊を用いてキール軍港のドイツ戦艦群に奇襲をかけた攻撃である(発案者は英艦隊司令長官デビット・ビーティ提督)。この作戦は結果的にドイツ駆逐艦数隻を沈めただけであったが、航空機の可能性を見出した点で後に与えた影響は大きかった。
 海軍内の反大艦巨砲主義者達はこぞってこの論に賛同した。第一次世界大戦で軍部に対し徹底的に不信感を抱いた国民、そしてマスコミもその列に加わった。また大戦中輸送船を大量に沈められたことで海軍に半端ではない恨みをもっていた陸軍までもがエクストリーム論を支持した(陸軍にとってこれは日露戦争後予算の大半を分捕り続ける海軍への“いやがらせ”の面もあった。また、彼らは戦艦建造数が少なくなれば浮いた予算は自分達にまわせると期待もしていた)。
 海軍内部だけでなく外部にまで賛同者を得たエクストリーム論は一大勢力となった。88(cm)艦隊建造を進めていた艦政本部でもそれは無視できないほどに膨れ上がっていた。海軍のあらゆるところで論争が巻き起こり、事実上<来栖川“紀伊”綾香>級の設計作業は停止してしまう。
 結局、エクストリーム論は新たなる主義として日本海軍の内部で認められた。だが、大艦巨砲主義はいまだ根強く残っており,この認識が日本海軍から剥がれ落ちるのは「(初代)<千鶴>の悲劇」を始めとする幾多の苦闘と犠牲の後である。

 一方、<来栖川“紀伊”綾香>の設計は、激しい論争の結果――というより、大艦巨砲主義派がエクストリーム論派を一時的になだめるために、エクストリーム論派の意見を大々的に取り入れたものとなった。また、海軍内部の論争に加え、予算上の問題から昭和8年から竣工したため、多くの最新技術の導入に成功していた。このため、第一期シリーズである<天城>級とは似ても似つかぬ姿に変貌していた(この点は原案でも同じなのだが)。
 基本設計はさすがに原案のまま――誘導煙突、パコダマスト、クリッパー方式の艦首採用など――だったが、その他の装備には数々の変更が為されていた。日本海軍では前代未聞の事に副砲が原案の半分――8門に減らされ、また魚雷水上発射管も撤去された。変わりに高角砲を原案の2倍――24門装備し、航空兵装は原案でも十分広い作業スペースをさらに拡張した。
 だが、そのようなこまごました(実際はそうではないが)よりも、もっとも目を引く変更点が彼女には存在している。この変更をエクストリーム論派が唱えたのか大艦巨砲主義派が唱えたのかは88(cm)艦隊の謎の一つとされている。
 <来栖川“紀伊”綾香>級は、主砲を原案の45口径40センチ砲連装五基から、第一,第五砲塔を三連装に変更することによって連装三基、三連装五基の計12門を装備することとなったのである。
 この大きな変更は、合衆国海軍が計画、建造していた<サウスダコタ>級の影響だった。<サウスダコタ>級は50口径40センチ砲を12門を搭載しており、本級はそれに対抗するために砲数を変更した。この変更は原案発案当初から語られた案であったが、当時は新砲塔の設計に時間がかかるために却下された。だが、論争の結果空費された時間が、三連装砲塔設計の時間をひねり出し、結果的に採用されたのである。エクストリーム論派との論争が本級を(砲戦力に限って言えば)大艦巨砲主義者が望んだ姿にしてしまったことを考えると、おおいなる皮肉と言えるかもしれない。
 ただ、砲門数の増加と装甲の強化により<天城>より1ノット低下したが、事実上の性能はほとんど変わらなかった。加えて、原案では小型化された艦橋も最終設計では従来の大きさに変更され、巨大なパコダマストとあわせて「ナイスバディ(死語)な艦」と竣工時に話題となった。
 本級は、エクストリーム論の正しさを証明するようにその(後世から見れば)バランスのよい(ナイスバディな)戦力でもって大戦において活躍した。その活躍は攻守速のバランスがとれた設計思想に裏打ちされたものであった。

 なお、本級の設計に大きな影響を与えたエクストリーム論は以後も海軍に存在し続け、日本海軍の改変に大きく寄与した。
 余談ではあるが、最近はやりの無差別格闘技、「エクストリーム」の名称はこの先見的な論名から取られたのではないかと言われている。

 

 <来栖川“紀伊”綾香>級の戦歴

 本級の戦歴を語る上で無視できないのが、一番艦<来栖川“紀伊”綾香>と二番艦<坂下“尾張”好恵>との確執である。

 一番艦<来栖川“紀伊”綾香>には、当然のごとくエクストリーム論派が多数乗り込むこととなった。もちろん艦長も激烈なエクストリーム論派だった。彼はもともと大艦巨砲主義者だったが、自らエクストリーム論に乗り換え、現在、その先頭を突っ切り続けるエクストリーム派の星そのものだった。
 ここまでは問題がない。海軍省が論争に気を使ったのが分かる。下手に両派を混同させて乗り込ませればどんな面倒が起きるか知れたものではない。
 だが、二番艦は違った。ここで大艦巨砲主義派は反撃に移った。遅れて完成した<坂下“尾張”好恵>には、海軍省の同派をたきつけ、大艦巨砲主義派を大量に送り込んだのである。もちろん艦長も例外ではない。しかもその艦長は根っからの大艦巨砲主義で、さらには<来栖川“紀伊”綾香>の同期にして彼の“裏切り”を苦々しく思っている男なのであった。この艦長同士の対立はすぐさま乗組員を巻き込み、両艦の対立にまで発展した。
 対立はいかなる所にでもあらわにされた。演習では必ず殴り合い、様々な会議でもぶつかり合った。だが、<坂下“尾張”好恵>の人々は絶対に彼らがライバルと定めた者達に勝てなかった。演習の戦術、論の正誤に関わらず、何をしても勝てなかった。この打ち続く敗北がさらなる対立を生んだ。悪循環であった。
 もっとも、<来栖川“紀伊”綾香>艦長はべつに彼らにライバル心などもってはいなかった。ただ、自らが歩む道を邪魔されたくないだけであった。この点、<来栖川“紀伊”綾香>は乗組員と共にまさに最強であり完璧だった。
 結局、この対立により、<来栖川“紀伊”綾香>級四隻で戦隊を組ませるのはかなりの無理が生じた。実際、<来栖川“紀伊”綾香>は二番艦とコンビを組むことはあまり無く、むしろ三番艦<駿河>とコンビを組んでいた。無論、<坂下“尾張”好恵>は四番艦<近江>とである。また、なぜか<来栖川“紀伊”綾香>は88(cm)艦隊計画一番艦<来栖川“長門”芹香>と頻繁に戦隊を組んだ。これは海軍二大無口艦の片割れであった<来栖川“長門”芹香>と<来栖川“紀伊”綾香>が妙に意思(連絡)の疎通がしやすかったのが原因と見られている。
 大戦勃発後、彼女らは競い合うように戦果を上げ続けた。が、実戦でも<坂下“尾張”好恵>は戦果の面でライバルに勝てなかった。いつまででも勝てなかった。
 あるいは、彼女を惨劇へと歩ませた原因はそこにあるのかも知れない。

 対米戦末期、<坂下“尾張”好恵>は第二次2.26事件において「艦隊派」の反乱軍側に付き(この決断では<坂下“尾張”好恵>内で唯一人の反対者も無かった)、米特使乗艦船団への襲撃に参加した。これは、ライバル<来栖川“紀伊”綾香>が船団近海の泊地に投錨していたことが影響している。
 この襲撃に参加すれば、実戦でこの恨みを―――。
 乗組員達にそのような考えが浮かんだのは想像に難しくない。彼女は<柳川>(孤独の狩猟者として有名)を含む反乱艦隊に加わり、船団を目指した。積年の屈辱を果たすべく。
 だが、運命の女神は彼女の望みを果たさなかった。
 反乱艦隊の出撃にきづいたGFは当然<来栖川“紀伊”綾香>を含む艦隊を派遣したが、皮肉にも反乱軍に加勢した潜水艦の一本の魚雷により<来栖川“紀伊”綾香>は被雷、浸水し速力低下を引き起こし、迎撃艦隊について行くことができなくなった。それでも<来栖川“紀伊”綾香>はあきらめず、応急処置をしつつ反乱艦隊の迎撃に向かった。
 一方、<坂下“尾張”好恵>はライバルが出現しないことに落胆(そして内心の安堵)を感じつつ迎撃艦隊と激突した。質的に優勢な反乱艦隊は迎撃艦隊に痛打を与え続けた。だが、<坂下“尾張”好恵>乗組員は満足していなかった。畜生、俺達はこんなことのために来たんじゃない――。
 その時、突如として彼女にねらいを定めた駆逐艦がいた。<松原“島風”葵>。護衛戦隊<ハリセ―ン>で活躍した駆逐艦だ。そして乗組員は、すべて<来栖川“紀伊”綾香>と同じくエクストリーム論派。艦長は<来栖川“紀伊”綾香>艦長を尊敬しているというエクストリーム論派の若き先鋭。
 親の敵は子の敵。そんなものにも似た感情を抱いて、彼女は<松原“島風”葵>に砲身を向けた。この駆逐艦とは、演習中に何度も手合わせしている。
 激闘は長時間にわたった。実戦に不安のあるはずの<松原“島風”葵>はなぜかその真価を発揮していた。ありとあらゆる兵装を用いてその小さな船体で攻撃を継続した。
 結果、<松原“島風”葵>を押していたはず<坂下“尾張”好恵>は一瞬の隙を付かれて“必殺の”93式酸素魚雷を右舷に四発叩きこまれた。
 急速に傾く<坂下“尾張”好恵>。だが、乗組員達は諦めていなかった。しかし、反乱艦隊旗艦が沈没したこと、他の艦も戦闘能力を実質的に失っていたことにより艦長達は戦意を損失、ここに皇軍相打つという悲劇の「公称の無い戦い」は終了した。

 大破、航行不能に追い込まれた<坂下“尾張”好恵>は、結局迎撃艦隊に投降した。その状態は、控えめに見ても日本にたどり着けるか怪しいものだった。迎撃艦隊司令部では自沈の論議さえでた。
 <来栖川“紀伊”綾香>が浸水に苦しみつつ戦場に到着したのはその時だった。
 一瞬、<坂下“尾張”好恵>の艦内はののしりに包まれる。
 だが、<来栖川“紀伊”綾香>は無線から垂れ流されるその種の言葉を無視し、<坂下“尾張”好恵>に対し危険きわまりない曳航作業を開始した。艦隊司令部の命令も無しにである。唖然とする<坂下“尾張”好恵>乗組員。だが、彼女のライバルは過去の確執などなかったがごとく作業に全力を投入した。浸水した船体で。
 苦しい作業の末、見事<坂下“尾張”好恵>の曳航に<来栖川“紀伊”綾香>は成功した。途中,何度か危険な状態になりつつも無事に日本にたどり着いた。<坂下“尾張”好恵>の無線からは、曳航開始から終了まで何も言葉は無かった。
 <松原“島風”葵>は曳航される彼女を哀れむように寄り添いつつ航行し続けた。。
 日本の軍港――呉にたどり着いた途端、再び<来栖川“紀伊”綾香>に浸水が始まった。さすがに曳航と言う無理が祟ったのだ。だが<来栖川“紀伊”綾香>はそれを誰にも報じず、命じられた場所へ向かっていった。

 結局、<坂下“尾張”好恵>はこの後大改装の末復活し、新たなる戦いに身を投じてゆくのだが、乗組員達のライバル心は晴れることは無かった。ただ、必要以上に<来栖川“紀伊”綾香>に食い付く事はなくなっていた。戦隊も文句を言わずに組んだ。

 それは、いうならば無言の契約、互いを認め合った証だった。

 この他にも、<来栖川“紀伊”綾香>級――特にその一番艦の戦歴は無数に存在している。<松原“島風”葵>との関係、軽巡<長瀬>(後の英国教導駆逐艦<セバスチャン>)との演習での死闘、海外遠征――。
 だが、それらはここで語るべきものではないので、割合させていただく。
 ただ、戦後の話なら可能だろう。<来栖川“紀伊”綾香>級の一番艦と二番艦は、戦後記念館として残される。一番艦は三重の尾鷲湾に。二番艦は愛知の名古屋港に。お互いが反り合うような姿で。
 しかしその艦首は、常に両者ともに東を向いていた。
 あの、「公称の無い戦い」が行われた海域、その一点だけを見つめるように。
 

 要目(新造時)
 全長  250メートル     機関出力  95000馬力  全幅  35メートル      最大速力  29ノット
 基準排水両  51100トン
 兵装
 主砲  45口径40センチ連装砲三基六門
     45口径40センチ三連装砲ニ基六門
 副砲  50口径14センチ連装砲四基八門
 高角砲 40口径12.7センチ連装砲12基24門
 同級艦 <来栖川“紀伊”綾香> 
     <坂下“尾張”好恵>
     <駿河>
     <近江>