<保科"天城"智子>級巡洋戦艦
 (Hoshina"Amagi"Tomoko Class,IJN)

 八八(cm)艦隊計画巡洋戦艦の第1期艦として建造された艦である。しかしここでは、主に同級4隻の中でもっとも波乱に満ちた生涯を送ったネームシップの<保科"天城"智子>について述べることをご了承されたい。
 1番艦<保科"天城"智子>は、民間造船所へ技術を習得させるという当時の国家事業の一環のため、川崎重工神戸造船所にて起工された。このころ、隆山においては国際海軍軍縮条約会議の真っ最中で、彼女の建造も、交渉を有利に進めるため――戦艦保有の既成事実を作るため――急ピッチで行われた。
 艦体が8割がた完成した時点で、隆山条約が調印され日本は念願の八八(cm)艦隊の保有が認められたため、建造を急ぐ必要もなくなり<保科"天城"智子>の工事は通常の進行速度に戻されたが、この直後、彼女の建造は停止してしまった。この大正の時代は労働組合が各地で設立され、その活動が最も活発な時代でもあった。各地で労働争議が相次いで発生したが、彼女がキールを横たえるこの川崎重工神戸造船所も例外ではなかった。特に工員たちは<保科"天城"智子>の急ピッチな建造に不眠不休を強いられたため、会社への賃上げの要求額は大きく、会社経営側と真っ向から対立することになった。
 「親」たる造船所における内部対立により、進水直前で工事が事実上中断してしまった<保科"天城"智子>。この事態に海軍は、隆山、呉の海軍工廠から工員を神戸へ派遣し工事を再開、とりあえず彼女に進水式を迎えさせることにした。おりからの会社と労組の対立の中、本来なら民間人も招待して盛大に行われるはずであった彼女の進水式は、海軍関係者と造船所関係者の一部しか出席しないという寂しいものであったという。進水後は造船能力に比較的余裕のあった横須賀工廠への速やかなる回航が命じられ、彼女は曳船に引かれて関東地方へと向かって行った。なお川崎重工神戸造船所の労働争議は、後に国の仲介により、会社側と労組側の双方の主張の中間を取ることで妥協し、どうにか解決を見ている。

 <保科"天城"智子>は横須賀工廠において建造が再開された。その直後、関東大震災が発生したがすでに進水していた彼女には何事もなく、まだ砲塔などが取りつけられていない彼女の巨大な艦体は多くの避難民を収容し、彼らを風雨から防いだ。その後彼女の建造はほぼ順調に進み、ようやく完成した彼女は45口径41センチ主砲連装5基、速力は30ノット、防御も<来栖川"長門"芹香>級よりも堅固であるという、理想的な「高速戦艦」として世界中から感嘆と羨望を集めた。そして彼女に遅れて完成した2番艦<岡田"赤城">、3番艦<松本"愛宕">、4番艦<吉井"高雄">と共に連合艦隊第4戦隊を編成し、艦隊決戦の際にはその砲力と速力を生かして多いに活躍すると期待された。

 しかし、ここでまた新たな問題が発生した。第4戦隊旗艦たる<保科"天城"智子>と僚艦の<岡田"赤城"><松本"愛宕"><吉井"高雄">との対立が生じたのであった。
この対立は主に僚艦3隻が旗艦に反発するという形で発生、<保科"天城"智子>にもまったく問題がなかったとは言えないが、彼女はほぼ受身の立場であった。対立の問題は訓練計画における意見の不一致による艦長同士の言い争いから始まり、さらには艦隊運動の乱れ――2番艦以下が旗艦に追従しない――にまで発展していった。しかしそれでも<保科"天城"智子>は屈しなかった。彼女の艦長以下乗組員すべてが自己を鍛えるために過酷な訓練に励み、その訓練量は僚艦の倍にも達するとも言われている。その証拠として、昭和14年の海軍大演習の際、<保科"天城"智子>対<岡田"赤城"><松本"愛宕"><吉井"高雄">という想定での紅白戦が行われた。1対3という圧倒的に不利な立場であったが、戦闘の結果は「<保科"天城"智子>小破。戦闘、航行に支障無し。<岡田"赤城"><松本"愛宕"><吉井"高雄">いずれも大破。特に<岡田"赤城">は自力航行不能」という<保科"天城"智子>の圧勝に終わっている。
 なお、このころの<保科"天城"智子>艦長は戦隊内でも孤独で、艦橋の防空指揮所でひとりたたずんでいる姿を乗組員によって目撃されているが、その寂しげな姿ゆえに声をかけそびれたという。

 演習においてその実力を見せつけた<保科"天城"智子>だが、対立は解消しなかった。そればかりか、僚艦による「嫌がらせ」は、エスカレートし、ついには連合艦隊司令部からの命令書に朱塗りの落書きをされるまでに至った。第4戦隊内の不和は兼ねてからGF司令部でも懸念されていたが、この嫌がらせを知ったGF司令部は、これ以上の対立は海軍の作戦行動そのものにも支障をきたすと判断、直接介入にうって出た。司令部に呼び出された<岡田"赤城"><松本"愛宕"><吉井"高雄">の艦長たちはGF長官直々の厳しい叱責を受け、この対立を速やかに改善することを命じられた。3艦の艦長も良心がとがめたのか、<保科"天城"智子>艦長に直接謝罪し、長かった対立に一応の終止符を打ったのであった。以後は何かと文句を言いながらも旗艦からの命令には従い、作戦行動にも支障をきたさないまでにはなった。

 この和解とほぼ時を同じくして、欧州において第2次世界大戦が勃発、英国支援のための遣欧艦隊の第1陣として、<保科"天城"智子>以下3隻の第4戦隊が選ばれた(なおこの派遣を口さかない者は「修学旅行」と称したという)。この重要な時期に第4戦隊が正常に行動できるというのはまったく幸運であった。欧州に派遣された第4戦隊は1940年6月、北海で船団護衛中に、ドイツ巡洋戦艦<シャルンホルスト><グナイゼナウ>に捕捉され、撃沈の危機にあったイギリス空母<グローリアス>を救うなどの活躍を見せた。1941年に12月にマーシャル諸島沖で発生した日米初の艦隊決戦には参加できなかったが、1944年1月のトラック沖海戦においては30ノットの高速で決戦海域を縦横無尽に暴れまわり、大勝利の一翼をになった。それはまるで「女学生が暴漢を鞄で張り倒す」かのようであったという。
 1944年2月26日、対米講和に反対する一部の軍部が叛乱を起こした。世にいう「第2次2,26事件」である。このとき、第4戦隊でも2番艦<岡田"赤城">が不穏な動きを見せていたが、結局叛乱勢力には同調せずに終わった。一説によると、<岡田"赤城">艦長が<保科"天城"智子>を敵に回すのを恐れていたためであるという。しかし、この叛乱には、<保科"天城"智子>艦長の海兵時代の親友二人が叛乱勢力に加わっていた。このことに衝撃を受けた<保科"天城"智子>艦長は、雨の降りしきる母港横須賀の市内を、傘も差さずに呆然と歩き回ったという。
 結局叛乱は失敗に終わり、日米講和は成立した。そして続く第3次世界大戦においても<保科"天城"智子>とその僚艦たちは船団、機動部隊の護衛、そして艦隊決戦に活躍した。なお彼女たちの最後の水上砲戦となったベルファスト沖海戦のときには、<保科"天城"智子>とその僚艦との間にあった確執はすっかり消えていた。戦後しばらくして、<保科"天城"智子>も退役、記念艦となることが決定したが、その保存場所をどこにするかが問題となった。彼女の母港であった横須賀を保存場所にするという意見で決まりかけていたとき、<保科"天城"智子>元艦長の「彼女の故郷は神戸だから」の一言がすべてを決定した。現在<保科"天城"智子>は神戸港において、当時の美しい姿をそのままに残している。なお1995年1月に発生した阪神淡路大震災の際には、かつての関東大震災のときと同じように臨時の避難場所として機能、多くの被災者を救ったことは記憶に新しい。

 最後に<保科"天城"智子>にまつわる逸話を少し。彼女は改装後の一時期、艦橋と煙突にさらに大きな改装を加え艦影が一変、国内外からまったく別の艦と勘違いされたことがあった。しかしこの改装は一種の実験であって、すぐに元の姿に戻されたが、その外見はとても好評であり、世界中の艦艇専門家は美しさのあまりため息を漏らしたという。それと、夏のトラック諸島における彼女は、厳しい日差しを避けるため甲板に純白の天幕を張り、艦橋最頂部の測距儀に「麦わら帽子」の異名を取る特徴的なカバーをかぶせた。その姿を将兵たちは親しみを込めて、「白水着<保科"天城"智子>」と呼んでいた。
 
 <保科"天城"智子>級巡洋戦艦(改装後、第2次大戦開戦時)
[要目]・基準排水量 50000トン ・全長 252,4メートル ・全幅 32,3メートル ・機関出力 140000馬力 ・速力 30ノット
[兵装]・45口径41センチ連装砲5基 ・50口径14センチ単装砲12基 ・40口径12,7センチ連装高角砲10基
[同型艦]<保科"天城"智子> <岡田"赤城"> <松本"愛宕"> <吉井"高雄">