英航空機開発史(第2次世界大戦編)

空軍戦闘機
<北崎 Air Mk.1>
 北崎が開発に成功した世界初の実戦投入されたジェット戦闘機。
 1942年9月8日,初の実戦参加と同時に独逸爆撃機部隊を恐怖のどん底に叩きこんだが,実際にはあまりにも複雑な機構と信頼性ゼロのエンジンのため,手間をかけた割にはそれほどの戦力とはなっていない(とは言っても,わずかな機数で3ヶ月でB−17を100機以上落としているが)。
 第二次大戦後も改良が続けられ,艦載機型なども作られた。日本では<蒼電>の名で採用されている。
 改良が続けられた(そのため,後期型ではほとんどMk.1の面影は無い)本機は,第3次世界大戦終戦まで第一戦機として使われつづけ,第一次バトル・オブ・ブリテンの英雄<スピットファイア>と共に第2次/第3次世界大戦における英最優秀戦闘機としてその名を国民に知らせている。
 なお,本機の改良型を除いて北崎はしばらくこれといった目だった性能の戦闘機の採用実績がなく,一時は戦闘機市場からの撤退もささやかれた。
 特に,引き抜いたボーイング社の開発陣が開発した北崎700シリーズは全世界の民間航空機の大半を占めるまでに成長し,完全に民需転換を図ったとか,ロケット1本槍になった等と囁かれたが,可変後退翼を採用した新型戦闘機(合衆国名「トムキャット」。英日米の第4次世界大戦の主力艦載機)で一気にまき返した。
          (Air Mk1)
   最高速度……………時速807km
   作戦行動半径………200Km
   武装…………………空対空ロケット弾24発,20ミリ機銃4丁
 

海軍艦上戦闘機
<スーパーマリーン シーファイア Mk.1B>
 空軍の<スピットファイア Mk.5>を艦載機にしたタイプ。合衆国から供与されたイタリアの<コルセア>に辛うじて劣勢ながらも対抗可能な数少ない艦載機であったが,英本土防空戦に回されたため,旧式機で戦うことになった英地中海艦隊の空母は苦戦を強いられることになる。

<マートレット>
 日本海軍の零式艦上戦闘機を英軍でも採用。ただし,英本土での生産数は極めて少ない。防弾能力が皆無であるため,北崎ヨーク本社は「自殺機」と呼んで生産を拒否(ただし,日本支社では行われている)したためである。
 機数の割には戦果は多かったが,実際,パイロット生還率は<スピットファイア>等の方が高く,長期戦となる本土防空戦には向いていなかったのかもしれない。
 艦載機としてみた場合,欧州の常識を破るその多大なる航続距離は大変有用であったが,旧式化には勝てず,第2次タラント奇襲(艦載機としての<マートレット>の地中海戦線では唯一の実戦参加)を最後に引退した。

<スーパーマリーン シーファイア Mk.15>
 英本土脱出作戦(EP)に伴う混乱で開発が遅延したが,1942年,濠州に脱出していたロールス・ロイスがグリフォンエンジンの量産に成功,これによりようやく第2次世界大戦艦載機としては最強級のMk.15が誕生したが,その頃にはすでに英空母の活躍する場所はほとんど無く,英本土陥落後の地中海の作戦での艦隊直援任務のみが実戦参加の機会となる。

<ブラックバーン ファイアブランド>
 <ソードフィッシュ>の旧式化に伴い,急速に必要性が拡大した戦闘雷撃機であるが,英本土脱出作戦(EP)に伴う混乱により部隊配備は結局第2次タラント奇襲後となったため,実戦参加の機会は無い。
 雷撃能力を持つ<Kanon改>の採用後もそれなりに使われたが,活躍の機会も無いままひっそりと消えていった。
 

海軍艦上攻撃/爆撃機
<フェアリー ソードフィッシュ>
 第2次世界大戦時には既に旧式機と化していたが,代換機が無い(九七艦攻を北崎にライセンス生産させるという話もあったが,北崎はこれを拒否。曰く,「我が社は搭乗員に自殺を強要する機体を作るつもりはない。」確かに,九七艦攻は防弾設備が皆無ではあったが……)ため,第2次世界大戦のほぼ全期間に渡って第一戦で使用された。
 その最後の活躍は1942年,<アークロイヤル><遠野‘フォーミダウル”美凪>搭載機が夜間集中雷撃で米空母を沈めたことであるが,その数日後には逆に昼間攻撃に出撃した機体が全滅したことから,これを最後に第一戦からは撤退。
 しかしながら,恐るべきことに対潜機としては第3次世界大戦においても使われつづけた。
 なお,後継機として開発されていた<アルバコア>は,性能的に大差が無いとして,1939年,開発が中止された。

<フェアリー フルマー>
 戦闘機と爆撃機の任務を一機種で担うべく開発されたが,あまりの低性能ぶりに初陣となったアゾレス沖海戦(1941年)で早くも搭乗員の総スカンをくらい,すぐに前線から姿を消した。
 以後,「同じ低性能機ならば,まだ戦艦すら沈められるかもしれないソードフィッシュの方がマシだ」ということになり,徹底的な艦爆不信が生まれ,日本の九九艦爆導入の話も立ち消えとなった(但し,第2次タラント奇襲作戦には少数機の九九艦爆がが日本からの供与を受けて参加,その末路は……語るまでも無い)。

<北崎 Kanon>
 1942年10月26日,米空母の前に<イリジスティブル>沈没,<神尾‘イラストリアス”観鈴>中破の損害を受けながらも,昼間攻撃を強行した<ソードフィッシュ>部隊は全滅。
 さすがにこれでは役に立たないということで,日本軍(<彗星>)並びに空軍が既に採用していた本機を海軍でも正式採用。ただし,それは少し遅すぎ,結局<ダンケルク>作戦には参加できなかった。
 1943年には<Last regrets>作戦(第2次タラント奇襲作戦)の主力機として活躍している。