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日本帝国陸軍機関小銃開発小史

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陸軍機関小銃開発小史


元ネタ(部分的に使用):塚本印刷所(「こみっくパーティ」/Leaf)

参考架空戦記:「遥かなる星」「亜欧州大戦記」「大日本帝国航空隊戦記」他


■日本陸軍自動小銃史・断章

 大日本帝国陸軍は、第二次世界大戦当時、最も自動火器の導入について積極的な組織の一つだった。その最大の理由は、八八艦隊計画が実働した結果、陸軍人員の大規模な削減(※1)が行われたためである。加えて、日露戦争の結果、大陸に日本が保持していた利権の大半が失われ、陸軍の任務が基本的に本土防衛となってしまったことも、装備の質的向上による戦力補完が可能と考えられた理由の一つでもある(※2)。
 日本初の自動小銃は、1934年に実用化された有坂式自動小銃である。これはガス圧作動の単発式自動小銃であり、当時の歩兵銃であった38式に比べ極めて高価で、かつ構造も精密に過ぎたため、野戦での動作不良が頻発する失敗作だった(※3)。

 ここで注目されたのが、1918年、ロシア王族の唯一の生き残り、アナスタシア王女とともに亡命したフェデロフが持ち込んだアヴトマット自動小銃だった。38式小銃と同一の6.5mm弾を使用し、セレクタによって全自動射撃も可能なアヴトマットは、後の突撃銃の原型ともいえるものであった。しかし、持ち込まれてから約20年、アヴトマットは陸軍から無視されつづけていた。
 無視されつづけたフェデロフとアヴトマットが再び注目されたのは、有坂式の失敗が明らかとなった37年だった。
 「ラ・セーヌ会」OBであった参謀本部付の某陸軍少佐は、有坂式自動小銃の失敗をみて、「場合によっては三八式小銃で『次の戦争』を戦わなければならない」という危機感から、個人的にアヴトマットの改良をフェデロフに要請した。これは明らかに私物命令であり、軍政的にはかなり問題のある行動と言えないこともなかったが、ともあれ試作品は38年には完成し、実用試験に供されることとなった。
 ちなみにこの「要請」には少佐自身の個人的な経験、第一次大戦で欧州に派遣され、歩兵突撃の無力さを痛感していたことが強く影響しているらしい。第三次大戦後に上梓した著作で、「同期のほとんどが呆気なく死んでいった敵陣への白兵突撃を、『次の戦争』で繰り返させるわけにはいかなかった」と彼自身が述懐している(※4)
。 ただし、この完成した時期は最悪であった。東条英機を首魁とする「統制派」がもっともその権勢を奮っていた時期だったのだ。曰く、全自動射撃が可能では弾薬消費が多すぎる。曰く、単発発射時の命中精度が悪すぎる(※5)云々、果ては、「このような銃器は陸軍の誇りである突撃精神が汚染されてしまう」という、難癖以外の何物でもない要求を突きつけることさえあった。
 葬り去られるはずの試作自動小銃を救ったのは、皮肉にも綏遠での大敗北だった。その後の調査と大更迭によってこれまで採用を阻んできた歩兵万能主義者(正確に言えば「白兵突撃万能主義者」というべきだろう)が取り除かれた結果、試作自動小銃は制式採用が決定される運びとなった。
 また、この決定には諸兵科連合戦術の影響もあった。突撃支援兵器としての戦車ではなく、戦車による機動戦を支援するための歩兵部隊もまた、充実した火力を持たなければならない。部分的な改正(冬季戦を想定し、手袋をしたままで操作できるよう、トリガーガードやセレクタを大型化した)を加え、1940年、百式機関小銃として採用された(※6)。
 先進的な設計であった二式だったが、問題がないわけでもなかった。特に木製の曲銃床は(幾ら反動の少ない6.5mm弾を使用していても)発砲時の銃口跳ね上がりを強めてしまい、全自動射撃時の命中率を極端に悪化させることになった。また、銃全体で見た場合加工工数も多く、戦時の量産にはあまりにも不向きだった(※7)。
 この対策として陸軍は極端に思えるまでの修正を行うことを決定した。三式工数削減のため、機関部レシーバー等にプレス加工を多用、また銃床もほぼ鉄パイプ同然の銃床に改められた(※8)。この結果、単発時の命中精度は悪化したものの、コストは約1/3程度まで削減された。また、鉄パイプ同然と揶揄された銃床にしても、結果的に直銃床となったため、全自動射撃時の集弾率は劣化するどころか向上することとなった。ちなみに三式は「町工場でさえ量産できる小銃」と言われており(※9)、機関短銃との完全な置き換えが可能と思われていた。
 三式機関小銃もまた、開発時期の問題から生産数は少数に留まった(太平洋戦争の終結が最大の原因)。しかし、これは実質的な発展型である四式機関小銃(銃床を木製直銃床に変更、照門を二式と同型のものと改正)が生産の主力となったためである。
 また、派生型として四式機関小銃をベースに、銃床を折り畳み式フレームストックに改めた派生型(七式機関騎銃)が開発され、機動連隊および空挺旅団向けに生産されている。

(※1) 戦時13個師団(平時9個師団+6個旅団)。人員は平時13万人、戦時の最大で16万人程度。ただし、実質的な充足率はさらに低く、即応可能な師団はせいぜい4個師団程度だった。
なお、この理由について第一次2.26事件の報復とする説もあるが、公式な記録には残っていない。
(※2) ただし、予算上の問題から装備増強自体も困難であった。なお、このことが「統制派」と呼ばれる、極端な精神主義を唱える一派が一時的な優勢を握る遠因となった。
(※3) 装弾不良が頻発した結果、「一発ごとに装填レバーを引くのならば三八式と変わらない」と、実験的に配備された部隊から苦情が出るほどであった。また、実戦配備と輸出を想定したコスト軽減の結果、命中精度も劣っていた。
(※4) ちなみに彼自身もこのときの負傷で片足が不自由になっていた。その後、粛軍を機会に技術畑に転任、歩兵装備の改善に尽力した。
(※5) 実際、銃身長は四四式騎兵銃と同程度に切り詰められていた。ただし、実戦で想定される交戦距離での命中率は必要十分だった。
 また、比較対照として挙げられた三八式は優れた命中精度で知られており、第3次大戦を通して三八式は狙撃銃として運用されつづけた。性格のまったく異なる銃器を比較するところに、白兵万能主義者の問題点があるといえる。
 ちなみに、彼らは機関短銃の導入も同様の理由から消極的だった。
(※6) 制式採用が遅れた最大の理由は、開発指示と同年に行われた大粛軍による軍政の混乱が影響している。ただし、制式採用段階ですでに、一部部隊への配備は始まっている。
 なお、機関小銃の名称は全自動射撃が可能であったことに由来している。
(※7) 第二次大戦を通して二式機関小銃の配備は空挺部隊、海軍陸戦隊を中心とした、太平洋戦域の一線級部隊に留まった。
 また、代用として陸軍はMP18を原型とした百式機関短銃および、ステンSMGを改良、国産化した一式機関短銃を主力装備とした。
(※8) 工数削減のために、参考品として輸入されていたステンSMG、捕獲品のMP40等が大幅に参考とされた。
(※9) 事実、後には出版部門も抱えることになる塚本精工(このころはまだ町工場以外のなにものでもなかった)が躍進できた理由は、陸軍から三式の生産を受注できたためだと社史にも記されている。