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日本帝国海軍陸戦隊概史

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日本帝国海軍陸戦隊概史(Histry of Imperial Japanese Naval Landing Foece)

元ネタ:佐藤大輔「レッドサン・ブラッククロス」・Leaf「こみっくパーティー」他多数


1.海軍陸戦隊前史〜海軍「海兵隊」と陸戦重砲隊


 日本の近代海軍に於いて、海兵的な性質を持つ部隊の発祥は幕末にその原点を置くと言われている。例を挙げると、宮古湾海戦に於ける旧幕府海軍の「軍艦〈千鶴〉切込隊」が(作戦の成否は別として)それに相当すると言えるだろう。
 その二年後の明治四年、明治新政府下の日本海軍に歩兵・砲兵・軍楽隊からなる「海兵隊」が誕生するが、明治九年には軍楽隊を除いて廃止され短い歴史を閉じた。しかし僅か五年の間にも幾度かの内乱鎮圧に出動しており、その機動力を活かして功績を挙げている。
 そしてこの機動力は軽視出来ず、海兵団で陸戦教育を受けた艦艇乗組の水兵から「臨時陸戦隊」を編成、必要に応じて陸戦任務に従事する事で陸軍部隊が動員・出動するまでの間を保たせる事になった。
 明治一九年一一月に「海軍陸戦隊概則」によって漸く編制された「海軍陸戦隊」は、鎮守府の海兵団内に設けられた小規模部隊でしかなく、戦略レベルで独立した陸戦隊は存在していないに等しかった。
 日露戦争では、余剰艦砲を転用した「海軍陸戦重砲隊」が旅順への擾乱砲撃を実施したが、これも砲兵任務に限定されたもので、歩兵としての直接戦闘を行う海兵隊や海軍陸戦隊とは性質を異にしていたと言っても過言ではない。これは第一次世界大戦で編成された「青島陸戦重砲隊」も同様で、この状態に変化が訪れたのは第一次世界大戦後である。


2.海軍陸戦隊黎明期〜陸軍叛乱への「楔」と、「本当の海兵隊」への錬成


 第一次大戦末期に実施された樺太出兵の失敗で、独自の作戦を実施する可能性を見出し、その直後に生じた「第一次二・二六(未遂)事件」で陸軍の政治的信頼性に疑念を抱いた海軍首脳部は、大正末期から海兵団に所属しない特別編成の陸戦隊(大隊規模)を恒常的に組織する様になっていた。
 昭和初期に、訓練・装備・定員の充足を図る為に海兵団から独立した「特別陸戦隊」を編制。「増強大隊以上、連隊未満」規模の部隊へと拡大された。
 当初これらの部隊が想定した任務は、公には「海外有事に於いて迅速に展開し、日本権益を保護を図る為」とされていたが、陸軍でも可能なそれを海軍が受け持つ事自体が政治的な色合いが強く、最大の仮想敵は日本陸軍―――再びの叛乱へ睨みを利かせる事にあったと言われている。
 一方で敵前上陸を中心とした先遣部隊としての任務も軽んじる事無く訓練を積み重ね、後には艦隊演習にも参加する様になり、艦砲による支援砲撃下の敵前強襲揚陸演習も披露している。
 この演習に戦艦が投入される事は第二次世界大戦前には一度も無かった―――「戦艦主砲を上陸支援如きに投入できない」との主流派の意向が影響していた事は言うまでもない。
 しかし、この演習に参加した駆逐艦・巡洋艦の艦長や士官がこれらの経験を得た事は、第二次世界大戦に於ける対地支援砲撃の実施に際しての連絡維持や効果的な砲撃となって実を結び、「葉号作戦」こと布哇奇襲占領作戦に於ける「戦艦による上陸支援射撃」の成功に繋がって行く。


3.海軍陸戦隊初陣〜欧州彷徨と太平洋決戦


 第二次世界大戦勃発と同時に対独宣戦布告、遣英艦隊及び援英支援船団の派遣を決定した日本は、陸上戦力の基幹となるべき陸軍が大陸での重大事件で混乱していた事から、海軍陸戦隊を―――その表向きの目的通りに第一陣として派遣する事に決定した。
 この時派遣された陸戦隊は呉の第二特別陸戦隊(以下「特陸」)と隆山の四特陸であったが、その後足掛け四年に亘る転戦の連続になるとは誰が予想していたであろうか。
 英国に到着後、仏蘭西への移動を待つ間に独逸による西部電撃戦で目的地を失って第一次バトル・オブ・ブリテンを体験し、地中海方面への移動中にUボートの攻撃で部隊の二割を損耗、ジブラルタルで足止めを食った後に北阿弗利加・地中海戦線を空襲とUボートに味方をすり減らされながら転戦し、昭和一七年に日本への撤収が決定した頃はエジプトで独逸アフリカ軍団との死闘を繰り広げていた。
 この間、昭和一六年からは佐世保の三特陸が二特陸と交替しており、昭和一七年には一特陸に置かれていた空挺大隊がエル・アラメイン戦に投入され―――六割の損害を出して後退した。また各特陸の規模も連隊級に増強されていた―――充足率や部隊の欠員は常に深刻な状態であったが。

 日本本土に帰還した海軍陸戦隊がささやかな休養と急速な再編成を経て投入されたのは、昭和一七年末に発動した「葉号作戦」である。
 この時投入された陸戦隊は実に七個。そしてこれを統合運用する海軍聯合陸戦司令部が布哇上陸の尖兵となって彼の地に第一歩を標した。
 なお―――編成途上にあった為本土に残された一特陸の本部及び二個中隊は、後に日本海軍最大最悪の事件「第二次二・二六事件」に加担する事になるのだが、その目的で本土残留が謀られた事実は存在しない。
 布哇決戦後の海軍陸戦隊は著しく損耗した為、一特陸を基幹に再編した連隊規模の聯合陸戦隊が中東方面の撤退支援に派遣されたのを最後に、第二次大戦に於ける海軍陸戦隊戦史は章を閉じることになる。


4.海軍陸戦隊新章〜真の海兵隊へ


 第二次大戦に於ける戦史がその章を閉じた時点から、海軍陸戦隊の新章―――大改編計画が実施に移された。
 その最大の目的は、布哇強襲上陸作戦の戦訓を取り入れた師団規模の上陸部隊としての改編であった。しかし各海軍区の陸戦隊を二万人を超す師団に増強する事は財政的にも人員的にも困難と認識しており、各海軍区の特別陸戦隊を聯合させた「聯合陸戦師団」として一個師団を編制する事となった。
 基幹となる横須賀・呉・佐世保の特別陸戦隊は旅団規模に改編し―――この時の改編で各陸戦隊から「特別」の呼称が除かれ、同時に「陸戦団」と改称された―――、これに戦車・砲兵等の各兵科を合わせた「海軍第一聯合陸戦師団」が完全充足状態に達したのは昭和二三年初頭の事である。同師団はソコトラ上陸を皮切りにパナマやメキシコ湾、英本土と世界を股にかけた戦いを繰り広げる。

 しかし、師団規模と言うのはそれ自体が足枷ともなり得る―――部隊移動の手間が増えて部隊の分散配備が発生し、それでなくても補給や補充の問題から師団の行動に制約を受ける事もあった。その為師団編制から外れて改編が遅れていた隆山の第四陸戦団を機動性の高い緊急展開部隊として改編。同陸戦団は輸送艦艇と回転翼機の優先的な配備を受け、カリブ海以降、神出鬼没の機動作戦を演じて海軍最強の陸戦団として名を馳せた。各陸戦団も、師団から分遣された諸兵科と連合した軽快な部隊として出撃した事も多い―――但し最終決戦とも言うべき英本土奪還作戦では四個陸戦団が一個師団となって英本土に足跡を残している。
 これらの紆余曲折を経つつ、海軍陸戦隊は合衆国海兵隊と並ぶ緊急展開・敵前上陸部隊としてその存在を全世界に示す事になる。

 また、海軍陸戦隊の特筆すべき事項として、第三次大戦直前の「海軍陸戦本部」と「海軍陸戦学校」発足がある。
 海軍陸戦本部は艦政や航空と同等に陸戦が取り扱われるようになった事の証であり、中将を本部長とする独立した行政機関の誕生で補給や装備の確保等が集中管理されるようになり、海軍陸戦隊の総合的戦闘力の向上に大きく貢献した。
 海軍陸戦学校は、当初海軍砲術学校の一分校として行われていた陸戦関連の教育を専門に行う為に独立したもので、士官・下士官に対する教育を行った。
 機構と並行して部隊の新設も進められ、大戦中に四国と九州に各一個陸戦団が設置された。


5.海軍陸戦隊戦後史〜緊急展開部隊として

  
 第三次大戦後の海軍陸戦隊は、可能性が著しく減じた大規模上陸戦から有事の緊急展開へとその主軸を改め、各陸戦団単位での単独作戦能力に重きを置いて行く。ちなみに、昭和三十年代に旅団編制の陸戦団は「陸戦旅団」に改称された。
 師団改編時の基幹要員として陸軍の同規模部隊よりも士官・下士官の比率が高められているが、これは即応性と臨機応変の作戦能力を確保する目的も併せ持つ。
 また、第三次大戦中には必要に応じて空母機動部隊等に支援を要請していた航空戦力についても、一個旅団に対して一個の航空隊が配備される様になった。大小の回転翼機と垂直離着陸戦闘攻撃機等百機以上の作戦機を擁するこの航空隊は、強襲揚陸艦を母艦として兵員輸送や直協支援作戦行動を行うのが前提である。
 更に、機動力や兵站の維持の為に海軍区毎に一個の戦闘支援隊を設けている。各支援隊には支援兵科の諸部隊や若干の輸送船に加え、連隊規模の装備を集積した高速輸送船も含まれている。
 これらの増加した陸戦隊諸部隊を統括する為に設けられた「聯合陸戦司令部」は、訓練や作戦と言った軍令上の統括を担う―――言わば「陸戦隊のGF司令部」とでも言うべき存在である。
 規模の拡大に伴って教育機関の充実も図られ、陸戦学校は隆山と沖縄に分校を設け、主に偵察や耐暑・耐寒訓練と言ったより実践的な教育を実施している。

 有事には海軍陸戦隊は完全編成の二個師団に改編され、大規模な上陸作戦も行い得るとされているが、現在の海外派遣の殆どは陸戦団程度の規模でしかない。
 但し、第三次大戦以来大西洋の拠点・英国へは恒常的に大部隊を派遣しており、「遣英陸戦団」として常時旅団規模の部隊が英国に展開しているが、これも各陸戦団から大隊単位で交替派遣されたものである。
 この他に、グアンタナモ等海外の日本海軍の根拠地にも陸戦隊が駐留しているが、陸戦旅団以上の部隊が一箇所に派遣されている場所は国内を含めても存在しない。

 ―――しかし。
 日本国内で年に二回、一個陸戦旅団―――即ち八千名以上の海軍陸戦隊が投入される「作戦」がある。
 作戦区域は東京の湾岸地帯。投入されるのは東京国際展示場とその周辺の数平方キロ。一個旅団が投入されるにはあまりにも狭隘な場所である。
 それと言うのも―――この「作戦」が、「極端な人口過密状態下での警備及び部隊行動並びに潜伏敵性部隊索敵無力化演習」と言う名目の民間催事協力であるが為なのだ。
 催事の名は「こみっくパーティー」。「こみパ」の略称を持つ同人誌即売会である。この会場たる東京国際展示場では海軍と準備会の緊密なる連携の下、完全装備の海軍陸戦隊の兵士が、如何なる場所でも一分の隙も無く立哨している光景を「十メートルに一度」は見る事になるだろう―――この会場のあまりに「苛酷な環境」故に、立哨は一時間毎に「交替」して「休憩」を取らねばならない程なのだ。

 また、昭和十年代に法制化され、三十年代にその態勢が確立された国内有事―――大災害等への緊急出動でも、独自の海空機動力を有する陸戦隊は発生直後の防災・救助活動で先陣を切る事が多い。
 平成七年一月に発生した阪神淡路大震災に際しても即日出動し、地元自治体や陸軍との緊密な連携の下迅速な被災者救助・支援活動にその機動性を遺憾なく発揮している。