トップ 新規 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ PDF RSS ログイン

世界の片隅で自転車を漕ぐ〜「世界」の中の視点から

ヘッドライン

最近の更新

連絡用掲示板 / 各種艦艇 / 〈長岡《加賀》志保〉 / 大ドイツ連邦軍指揮体制私案(2015年) / 世界設定 / ヘーアに関する覚え書き / クリーグスマリーネに関する覚え書き / ルフトヴァッフェに関する覚え書き / 大ドイツ帝国の年代別状況 / その他兵器

世界の片隅で自転車を漕ぐ〜「世界」の中の視点から

元ネタ:Leaf「痕」・佐藤大輔「レッドサン・ブラッククロス」他多数


状況:0640

「じゃ、行って来〜す」 
 私は、毎朝〇六四〇時に家を出る。
 自宅(と言っても一階建の古い官舎だが)から職場までの距離はおよそ一五キロ、一時間一五分。電車とバスなら四〇分、歩きも含めて一時間弱と言うところだが、大抵は自転車で通勤している。
 別に定期代を吝嗇っている訳ではない。時間はかかるが、こっちの方が眠気覚ましには都合が良いし―――何より海沿いの道から戦艦や空母が見えた時には、立ち止まる事が出来るじゃないか(ノンビリし過ぎると遅刻は覚悟しなくてはならないが)。
 何しろこの街―――石川県は能登半島に位置する隆山湾一帯は、日本最大級の海軍要塞地帯なのだから。


 隆山―――この地名が日本の歴史に地名として登場したのは、一五世紀頃の事である。
 かつて、能登半島中央部に日本海に湾口を開く、七尾湾と呼ばれていたこの地を巨大な災厄が襲った。隕石落下による火災、大津波、そして地殻変動…。七尾湾沿岸地帯から秩序が消え去り、混乱を極めた―――この時の無秩序が「鬼が現れた」と言われる程に。
 後、この地に蔓延る「鬼」を退治した「次郎衛門」と言う武士が秩序を取り戻した時、彼は柏木の名と所領を得、この地に居を構えた。その時、己が所領に「隆山」の名を与えている。

状況:0650

 家から出発してすぐ、家の前から続く坂道の東方に、大きな公園と小さな「お城」が遠望出来る―――「雨月城記念公園」。江戸時代隆山を仕切っていた能登 隆山藩の城で、日本海の海上貿易と造船業で随分と裕福な土地だった割には城は小さく、慎ましやかな、本当に藩の大きさに見合った質素な城だ。
 しかし、かつて前田家が築いた小丸山城址から北西に数キロほどの場所に築かれたこの平城は、信じられない事だが「当時のまま」だと言う。今や 「城の修復」と言って中身を完全に取り換えてしまう大工事を行う中、この城の中身は創建以来約四〇〇年を経てなお「そのまま」で、「鶴来城」と称された優 美さを保ち続けているのだ。
 それだけ、創建当時の基礎がしっかりしており、その後の保守管理が行き届いていたと言う事なのだろう。それも、御維新以降―――城が城としての役割を終えた後でさえも。


 次郎衛門の子孫は天城氏により所領を奪われ、その後能登畠山氏滅亡の頃まで浪人として各地を流浪し、天正年間に織田家に仕官していた「らしい」。
 「らしい」と言うのは、天正一〇年本能寺の変を境に柏木の名は忽然と陰を潜め、豊臣秀吉の治世にあっては事実上の幽閉状態にあったからだ。一説 には同じ信長に取り入った者として秀吉個人の不興を買って所領・家禄を召し上げられ、その手勢―――柏木水軍も取り潰されたと言われている。
 柏木水軍とは、ガレオン船相当の艦艇と外洋航海術を備え、水軍としての軍事力よりも航海技術を評価された集団であり、一説には独力で南蛮、印度まで進出していたと言われている。
 その後は前田利家の身柄預かりとされ、能登七尾の屋敷に於いて軟禁状態に置かれていた柏木家であったが、ある日一族郎党揃って姿を消してしま う。一説にはこの「脱獄」を利家自身が手引きしたとも噂されたが、この報が届いた時秀吉にはそれを咎め立てる気力と生命力は残っていなかった。秀吉、そし て利家の死後、前田家はこの事件の全責任を柏木家に押し付け、事件そのものを隠滅するべく画策した―――が、後に彼らは関が原合戦の結果を聞いて愕然とす る事になる。
 表舞台から姿を消した柏木家が再び歴史に現れ、関が原合戦東軍武将の一人―――所領無き武士集団五百人の頭目として、決して無視できない戦功を挙げたのである。
 この時の戦功により徳川家康の目に留まった柏木家は、前田利政所領となっていた故地・七尾湾周辺その以北の能登半島北半分を再び所領とし――― 加増を受けた前田家はこの地を柏木家に引き渡しても百万石を越えていたが―――、七尾を再び「隆山」と改めた後、能登隆山藩二万二千石と言う一小藩として 明治までを生き抜く事となる。
 江戸時代の泰平二百有余年、能登隆山藩は優れた造船技術―――この地で造られる弁才船は、特別に「洋駆船(ようくせん)」と呼ばれた――― と、日本海通商の中継点としての立地、更に藩内の商船隊の高度な航海術―――初歩的な外洋航海術を身に付け、外洋遭難率が非常に低かった―――を活かし、 小藩ながら経済的には日本屈指の富裕藩として、また造船に限らず建築・工業等に於いても優秀な「技術立国」として名を残している。
 その一方、政治面では殆ど名も悪名も残さず―――ごく平凡な藩として取り潰し・減封等の処分も無く存続した。
 この柏木家が日本の歴史に大きな影響を齎したのは、幕末の時代から明治にかけての事になる。
 しかし、その二五〇年間に隆山の民は当時最良の善政の下で平穏かつ安定した生活を享受し、経済的な発展をも手にした。その結果彼らは、御維新の 後でさえも柏木家を尊敬と信頼の対象と認めている。幕末の水軍再建にあっては「殿の頼みとあらば」と町民・漁民・農民から水軍に志願する者が殺到し、明治 後期に隆山へ鎮守府が置かれた時には、「これも柏木の殿様のお力添え」と皆が海軍に協力的であったと言う。
 城下町・隆山市七尾区始めとする能登隆山の市民にとって、今は主無き「殿様の城」は二五〇年間の平穏と発展の記念碑であり、これを大切に取り扱う事は当然の事と受け容れられているのである。

状況:0710

 自転車は雨月城公園を背にして、右手に造船所を見つつ西へと向かう。そしてここから およそ五キロにわたって、造船所の巨大な建造物と、船台上で生まれる日を待つ八万トン級コンテナ船や四万トン級客船の舳先、そして巨竜の化石の如き完成途 上の姿を船渠に横たえる二〇万トン級タンカー等、距離感やスケール感覚が麻痺しそうな光景が続く。
 「来栖川重工隆山造船所」―――長崎の三菱造船所をも凌ぐ日本最大の、そして日本最古の近代造船所の末裔がここに在る。
 来栖川財閥へ譲渡される前の「隆山造船所」は、嘉永七(一八五四)年には部分的操業を開始し、文久二(一八六二)年には初の鉄製蒸気軍艦を進水 させている。横須賀造船所の完成よりも五年以上も昔の話だ。廃藩置県後に一度閉鎖されたものの、西南戦争の頃に操業を再開、明治中期にはその規模を隆山湾 南西部全域に拡張し、日露戦争後は旧造船所設備を海軍に、第一次世界大戦後には残りの全設備を来栖川財閥に譲渡した。
 その創設者は、当時子爵となっていた柏木家であり、御維新以来海防に尽くした柏木家はその使命を果たしたと見るや海軍にも来栖川にも造船所を無償で譲渡したのである。
 これが日露戦・第一次大戦後の日本経済界に強烈なショック療法―――諸産業の思い切った再編の精神的後押しとなり、戦後経済の復興に貢献したと 言う経済学者の意見もあるくらいなのだから、柏木と言う家がどれだけ海防・産業と言うものに力を入れていたか恐ろしい程思い知らされる。
 流石、御維新のきっかけとなった黒船来航以来、一五年にわたる日本国内の混乱から一線を画しつつ海軍創設に心血を注いだ家と言うだけの事はあるのかもしれない。


 明治の御維新。そしてそれに先立つ一五年の間、日本国内は大混乱を極めた。
 まず開国と鎖国、次いで朝廷と幕府、二つの主張がぶつかり合い、最後には日本を西から東へと軍事的衝突の大嵐が暴れまわった―――鳥羽伏見の戦いに始まり、江戸無血開城、上野寛永寺の戦い、会津戦争、そして箱館戦争と続く、幕末最後の戦い「戊辰戦争」である。
 諸藩のみならず様々な組織が、己の思惑・信条に基づき結集し、時には分裂して対立し、流血の事態を引き起こす事もあった。

 そんな中で、柏木家の治める能登隆山にあっては嘉永六(一八五三)年のペリー来航以来、藩内の意見は(公表こそされない時期もあったが)統一されていた。
 「皇国二四〇年の泰平の恩義に酬い、その自存を保つを唯一の本義とし、欧州列強の武威は此れに屈さず、和を以て国を開く」―――現実的に最早開 国は免れない、平和的開国に賛成するが武力には屈しない。この事に専念し、日本が名誉ある独立を維持するならば幕府も朝廷も関係なく、国内の勢力争いには 与しない。それだけである。国内情勢から見ればある意味無責任ではあるが、それは必然的な歴史の流れと合致し、また対外的には強力な抑止力となっていた。 それに値する強力な海軍―――隆山水軍がその背景に存在するからこそ、これが可能であった。
 「平和的」であるからと言って非武装で国が立つとも思っていないのは、当時当然の思考であったようだ―――近年見られる「非武装中立平和国家論」には無理がありすぎる。
 隆山藩は、嘉永六年七月中に大船建造の計画を非公式ながら開始し、同時に水軍建設の第一歩として藩士を対象とした「士官学校」に相当する機関を設立――― 「隆山水軍兵学寮」がそれであった。第一期寮生は同年八月下旬に入寮と記録されている。
 第一期生は、正確には士官見習というより列強海軍の研究を主務とし、情報収集やその集積・管理・研究・比較等を行う事に―――そして、次代の水 軍指揮官を育成する土壌作りがその仕事であった。当時の寮生の平均年齢が三〇歳近い事、そして次年度の寮生になると平均年齢が一四歳だと言うのだから、そ の傾向は明らかだったと言えよう。
 同時に進められた近代蒸気船建造の為の製鉄・造船設備は、嘉永七年中に完成した第一号船台に於ける中古外国船の改装より操業を開始し、八年後には製鉄・造機・造兵の最小限の設備を整えた総合造船所として完成している。
 しかも、製鉄・鍛造用の水圧ハンマーや圧延機等は、信じられない事に欧州から入手した図面を頼りに能登隆山藩が複製したと言う事が、近年の研究で明らかになっている。
 その技術力が、一体いつ頃から能登隆山藩で培われていたのか、詳しく知る者はいない。明らかなのは、一九世紀に入って間も無く「将来あるべき夷 船の武威に備えるべく、欧州兵事工学の調査研究を”強化”せよ」との覚書が藩内を極秘裏に駆け巡ったと言う噂が「最古の記録」であり、それ以前―――即 ち”強化”以前はどうなっていたのかは資料が無い。
 しかも、能登隆山藩は”強化”の結果を反映させる「場」を持っていた。南方を百万石の大藩加賀前田家、他の三方を日本海に囲まれた能登隆山藩 は、造船・漁業・海運等の海事産業によって藩経済を支えており、海運・漁業での優位性確保の為に天測航法を始めとする本格的外洋航海術の保存や、「能登隆 山の生命線たる海の何たるか」を子弟に教育する精神鍛錬を行うべく、一七世紀末頃から「江戸屋敷との輸送連絡及び通商育成の為」と称して家臣子女に限らず 身分を問わぬ志願者を募り、藩船や海御座船を用いた航海修練を取り入れていたのである―――この場で資質を認められれば藩の公職や大店への推薦、場合に よっては武士への取立てすら叶えられると言うから、現在の海員学校と商船大学、海兵団に海軍兵学校の役割を果たしていたと言えるだろう。
 この場に、新たに欧州より入手した士官・水兵の教育手法や技術教育を盛り込んだ。元治元年(一八六四)の下関戦争で、能登隆山藩艦隊総勢十三 隻が見事な艦隊機動を発揮できたのは、この長年の実践教育によって蓄積された経験と研究、そして広範な裾野を持つ海員教育が実を結んだ結果である。
 海軍に直結する組織が成立し、然るべく機能を始めたのが嘉永六年頃とすれば、情報源や実物入手は限られるとは言え、実に五〇年以上にわたり情 報を集積し更にその成果を部分的ながら実践させていた能登隆山藩が、薩長始めとする列藩はおろか幕府にさえ先駆けて海軍の土台たる士官教育や造船所を完成 させた裏には、このような事情が隠されていたのだ。

状況:0730

 自転車は、約五キロの造船所地帯を通過し、北へ向かい橋を渡る。
 橋の手前は上り坂で、橋はそれなりに高い所に架かっており見晴らしは素晴らしい。その橋の西側には隆山湾最奥部の「遥来入江」を、東側には西隆山湾を―――沿岸の半分以上が造船所と海軍工廠になっている、世界最大級の造船地帯を一望出来る。
 更に言えば、ここからは稀に戦艦や空母を「見下ろす」事ができる。軍港地帯の末端で立入制限が甘く―――戦時には制限が厳しくなるが、東を向い ている筈の海軍工廠の南端が辛うじて視界に入る橋の上からは、丁度工廠の岸壁や沖合い、時には船渠にその身を横たえている戦艦や空母を遠く見下ろせるの だ。
 しかし―――今日は残念ながら一隻の大型艦も見る事が出来なかった。そのかわり、一隻の帆船が工廠のすぐ沖合に投錨し、作業船を横付けして整備と物資搬入を受けている姿が見えた。
 隆山鎮守府所属の海軍練習帆船<ちづる>。明治海軍―――いや、正しくは幕末以来、実に一四〇年にわたり隆山湾にその優姿を浮かべ、日本海軍の歴史を見守って来た艦。
 「海軍の始まり」の目撃者にして体現者。日本海軍の世界雄飛の小さな第一歩を標した最も美しき軍艦。近代皇国水軍の創生を知る者。とにかく、その栄光を語るには様々な言葉がある。
 この時期に整備と言う事は、また訓練航海か―――そう、あの排水量一,〇二三トンの鉄木混製艦は現役に在る。大正期より今まで、戦時を除けば数年に一度海兵団の選抜メンバーの手で英国までの訓練航海をやってのける。
 今回は日本海一周程度の短期訓練航海だろうけれど、この荒海に竣工以来一四〇年の艦が出航すると言うのだから、木造船と言う物は手入れさえ怠ら なければ恐ろしく長持ちすると思い知らされる―――数百年に亘る帆船史を彩る欧州の長命現役帆船に比べれば一四〇年は短いかもしれないが、日本の海軍・洋 式船史上で言えば出世作に相当する、そして驚異的な長命艦だ。
 いや、あの船はそれだけの手をかけるに相応しい名誉を背負っているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだろうか。


 安政〜慶応年間の日本では、諸藩が競って海軍を建設し、近代的な西洋式艦船を購入する事に躍起になっていた。
 同時に、海軍建設に必要な軍艦の独自建造にも力を入れ、薩摩藩など黒船来航の翌年には洋式帆船<昇平丸>を竣工させている(もっともこれには裏があり、黒船来寇以前から琉球警備の為に特例的に建造が進められていたのだが)。
 能登隆山藩も逸早く外国からの艦船輸入を進めていたが、嘉永七年に輸入した五一五トンの帆船<柏>を、造船廠の完成後蒸気機関搭載外車船に改装 した事を皮切りに、中古西洋型帆船の大改装を進め、文久二年までに輸入帆船の全てを蒸気機関搭載船化している―――更にその内の過半数はスクリュー推進船 であった。
 それらの経験を土台に、文久二(一八六二)年五月二三日、完全新造の蒸気機関推進船<千鶴>を完成させた。
 当時の記録によれば、排水量一,〇二三トン、全長六六メートル、蒸気機関を用いて航行した場合の速力一七ノット、帆走の場合一九ノット。搭載火 器・七〇ポンド一二七ミリ前装滑空砲四門。装甲として、船体及び防楯付砲台に厚さ一.七センチの甲鉄装甲帯を備えると言う、当時の国産としては驚異的な高 性能艦であった。
 搭載火砲が僅か四門と、ややボリュームに欠けるものではあったが、その速力は欧州列強を含めても世界有数のものであり、日本が最初に建造した「戦闘に耐え得る艦」―――戦闘艦だったと言って良いだろう。
 この艦を旗艦とし、その後の更なる増勢により全十六隻・一万二千七百トンと小藩としては過大とも言える艦隊を擁した能登隆山藩は、かねてよりの方針―――「対外国の海防専念」に従い如何なる国内勢力とも一定の距離を置き、朝廷・幕府のいずれにも旗色を鮮明にしなかった。
 それを可能にしたのもまた、この十六隻の「大艦隊」の放つ無言の抑止力だったのだろう。
 その「力」が始めて何者かに用いられたのは、元治元(一八六四)年九月七日。場所は関門海峡・下関。対峙したのは、列強四カ国の勢力を結集した二六隻の連合艦隊だった―――そう、下関戦争である。
 下関砲台による関門海峡封鎖と、それを突破しようと図る米艦を砲撃した事に端を発するこの戦争は、二六隻の軍艦による砲台攻撃で長州藩が一方的な敗北を喫する状況だった。
 その終末段階。抵抗を続ける砲台に四カ国艦隊が陸戦隊を上陸させようとした時、能登隆山藩艦隊は行動を開始した。
 十三隻の艦隊が、単縦陣をとりながら一七ノットの快速で難所・関門海峡を突破し、その最も狭い海域である壇ノ浦砲台と四カ国艦隊の間―――その幅僅か三〇〇メートルを突っ切ったのである。乱戦ならばいざ知らず、艦隊機動としてならば精緻を極めた機動であった。
 この突然の艦隊出現に、四カ国艦隊も長州軍砲台も呆気に取られた―――両陣営ともこの艦隊が接近するまで、敵か味方か判断がつかなかったのもそ の理由であろう。これほど「超高速」の「大艦隊」を日本の小藩が展開するとは誰も俄かには信じられなかったのだ。唯一の例外として米艦から放たれた一発の 砲弾が<千鶴>の舷側に弾き飛ばされこそしたものの、両陣営とも隆山藩艦隊に対する砲撃を躊躇い、陸戦隊の上陸は延期―――後に中止され、砲台も冷水を浴 びせられた様に沈黙した。
 双方が茫然自失とする中、能登隆山藩艦隊十三隻は即座に反転、再度両者の間を突破し、再び日本海へと引き揚げて行った。その艦隊機動はその場に居合わせた全ての者を魅了したと言われるほどに「芸術的」であったと言う。
 一七ノットの速力と陣形を維持しつつ、海の難所の最も狭い部分を突破した時、能登隆山藩艦隊の全艦がはためかせていた旗は「日の丸」だった。能 登隆山藩の旗や幟は一切掲げていない。この艦隊は、あくまで「日本の国土を侵略させない」為に出撃し、一門の砲門も開かず、陸戦隊の上陸を阻止した――― 日の丸を掲げた「日本」艦隊は、双方の加熱し過ぎた戦意を周囲の気温諸共に冷まし切り、見事に戦いを収めたのだ。
 同日午後、長州藩は高杉晋作を軍使として四ヶ国艦隊に派遣、停戦が成立した―――この一事は、明治大正に至ってなお「柏木家にだけは強気に出 られない薩長閥」と言う、能登隆山藩柏木家の政治・派閥闘争からの「独立」の保障になる。薩長閥の過ちを、その諫言で正させた事も一度や二度ではない。
 それはさておき、帝国海軍は公史の中でこの戦いを「日本全土を護持する意思を持った艦隊が、日本の国旗を掲げて積極的にその侵略意図を阻止する事に成功した最初の事例」と述べている。
 これこそが、<千鶴>―――今は、同文字の航空母艦が存在する為平仮名の<ちづる>になっている―――を日本海軍が丁重に扱い、採算を度外視して現役に置いている理由の一つである。
 船体の構造、材質は明治一〇年以来、そしてその機関や帆装・諸装備等は明治四五年の大修復以来九〇年以上殆ど変わっていない。その手入れにどれ 程の手間がかかろうと、隆山海軍工廠と来栖川重工隆山造船所―――<ちづる>の生地の継承者達が労を惜しむ事は無い。船大工以来連綿と受け継がれる船に対 する愛着と、更に二つの<ちづる>に対する敬意の理由―――「日本最初の観艦式で、最初の観閲艦であった」と言う栄誉と、明治大帝の最後の勅命によって。

 慶応四年=明治元年、戊辰戦争勃発後の事。
 この時、官軍海軍が天保山の沖合いで、僅か七隻の艦艇ではあったが観艦式を行った。
 本来の予定であれば、明治大帝は天保山から―――つまり陸上から艦隊を観閲する予定であったが、能登隆山藩内の混乱によって一部急進派が、官軍 参陣を匂わせる行動をとるべく<千鶴>を派遣していたのである。「海軍叡覧」―――本邦初の観艦式の僅か二日前、<千鶴>は天保山沖に投錨した。
 天保山沖で待っていたのは、「日本の防衛を果たした武勲艦」を迎える下にも置かない持て成しと、若き日の明治大帝の行幸であった―――そしてその船上、明治大帝は「この艦より艦隊を叡覧する」と宣言されたのである。
 そして海軍叡覧当日、<千鶴>が観閲艦として参加した事で、唯一の外国艦―――フランス海軍<デュープレッキス>一隻の排水量に辛うじて拮抗し、日本の面目は保たれた。
 この海軍叡覧の直後、能登隆山藩内の混乱が収束した為に<千鶴>は隆山湾に戻ってしまったが、明治大帝はその後も<千鶴>の事を気にかけられ、 江戸城無血開城により新政府参加を正式に決定した能登隆山藩が、<千鶴>以下全艦隊を江戸湾に回航した折は親らこれを迎え真っ先に<千鶴>へ乗り込み、日 本随一の戦闘力を誇る<千鶴>の強奪を図る旧幕府海軍に宮古湾で襲撃を受けた時など、『<千鶴>は無事なのか?』と御下問があったと言う逸話が存在してい る。
 明治大帝の海軍贔屓―――後に幾度となく内廷費を倹約し、艦隊増強に協力を惜しまなかった事の始まりは、この艦に出逢った事が切欠だったのかもしれない(この贔屓を、海軍が思い違いをした原因と見る意見もある)。
 宮古湾海戦の後、<千鶴>は損傷著しい船体を修復すべく隆山に戻るが、損傷修復困難との結論により隆山に止め置かれ、結局箱館戦争にも新政府海 軍へも参加せず、廃藩置県を隆山湾の片隅で迎えた。明治大帝はこれを惜しまれたが、私情で能登隆山の地へ赴く暇を割く事も出来ず、やがてその思い出も政の 多忙の内に埋没していった。
 明治一〇年に損傷の集中する武装や装甲を撤去、能登隆山藩の「水軍兵学寮」の後身にして日本初の私立商船学校「隆山海学寮」の練習船として余生を送り―――恐らくは解体される筈だった。
 その運命を覆したのは、明治四三年―――四〇年以上も後の事になる。

状況:0740

 自転車が橋を渡り切る直前まで来ると、小さかった帆船も次第に優姿を帯び、 全長七〇メートルの船上の様子程度は見分けられる大きさになる。練習航海に先立つ艦内の総点検だろうか、整備中の<ちづる>のまっ平らな甲板上では乗組員 達が整備を手伝い、同時に作業船からの物資搬入が進んでいた(この艦では、岸壁や艀からの物資搭載は訓練の為と称して全て人力で行っている)。
 兵員達の動きは、キビキビして危うさを感じさせない。重い包を担いでヨロけたりするような柔な海兵は、どうやら隆山海兵団にはいないようだ―――あの艦に乗っているのは、殆どが訓練未了の新兵の筈だと言うのに、だ。
 それは同時に、日本海軍の―――正しくは能登隆山藩水軍の伝統を引き継ぐ訓練の厳しさを証明している。
 日本で最初に水兵の教育までも組織化し、教範化したのも能登隆山藩だったと言われるが、藩船による航海実習の当時から一つの方針が定められている。
 「私的制裁の厳禁」。この一事が過去二百年以上連綿と受け継がれている。
 そのかわり、公的な制裁行為として「特に問題ある場合のみ、一事に付き当事兵に一回の拳骨」だけは認められているのだが、それによって時間が浮 いた分訓練の厳しさは尋常ではない。「鬼の末裔」と謳われる能登隆山藩以来、「鬼」の教練は精兵を生み出している。この「殴り続けなくても十分に強い」水 兵の存在が、昭和期一杯をかけた「陰湿且つ陰に篭った過剰制裁」撲滅の一助となった程だ―――時代時代の私的制裁撲滅論者は、殆どが隆山鎮守府での長期勤 務経験を持っていたと言う位だから。
 その代わり、訓練は過酷である。夜間罰直集合が無い分、海兵達は熟睡し疲れを残す様な事は無いと言うが、「とにかく訓練」「殴る暇があったら鍛え抜く」と言う方針が徹底され、新兵など上陸(外出・休暇の事)の度に鍛えられているのが民間人でも判ると言われるほどだ。
 昔の制裁を私も知る訳ではないが、苛め同然の制裁による自殺者が多発していたと言うほどの恐ろしい時代を払拭したのが、死ぬほどの訓練と言うの は、水兵にとってはどっちが幸せなのだろう―――いや、間違いなく後者であろう。少なくとも、痛い目を見る理由は在り、それが生き延びる手段に直結するの だから。
 自転車を停め橋から彼女を見下ろしながら、私は昔自分が味わった拳の痛みを思い出してしまった―――確かに殴られたのは手荒い失敗をした時だけだったし、その後に課せられた訓練は太平洋の海の上でも役に立ったのだ。うん、後者に決まっている。


 明治後期より昭和前期―――昭和一八年頃まで、日本海軍と過剰制裁は強固な連帯を保っていたと言ってよい。
 日露戦役後の国策大転換を機に国力は一層の増勢を果たすも、より強大なる艦隊を有する日本はその維持に相当な無理を強いられた。その無理の一部が、精兵を目指す余りの過酷な訓練であり、陰湿を極める過剰制裁であった。
 猛訓練は兵を鍛え、技量を高めるに有益であったが故に今なお残されているが、実に五〇年にわたり過剰制裁が放置された裏には「兵士のガス抜き」と言う無理の反動があったと言われている。
 旧兵は新兵を鍛えるのみならず苛め抜き、それを一年間耐えた新兵は新たな新兵にその鬱憤をぶつける―――この悪循環が続いていたのだ。
 そして、軍令部はそれを意図的に放置し、各艦の指揮官、艦隊指導部は諦観の念を持ってこれを看過せざるを得ない状況だった。中央が黙認しているのでは、どんなに努力しても自分が交代したら終わりである。ましてや後任が同じ理想を持っているとは限らないからだ。
 対して、下士官・兵は同じ艦に何年も乗組む事が多い。艦の事実上の「牢名主」と言ってよい彼らにとっては、士官はおろか提督でさえ内心では間借 人に過ぎないのだ―――例外的に隆山鎮守府所属の艦艇はこの傾向が弱かったが、それでも他の三鎮守府の悪影響は避けられなかった。
 この現状に、隆山海兵団と練習帆船<ちづる>で細々と続けられていた「過剰制裁の厳禁」を連合艦隊全軍に徹底させ、これを形式・実質の両面で払拭したのが、第二四代連合艦隊司令長官藤堂勝大将である。
 「明治の東郷。昭和の藤堂」と並び称されながら、第二次二・二六事件の余波で元帥を目前に予備役入りしたこの海軍昭和史と戦艦戦史上屈指の英雄 は、隆山海軍区内の勤務が多く海兵団の伝統や練習帆船の気風に触れる機会が多かった。最後には隆山鎮守府司令長官まで勤めている。
 その彼が昭和一七年に「二度目のGF長官に復帰」した折、一つの訓令と幾つかの指示を発令した。
 訓令は、隆山の伝統「特に問題ある場合のみ、一事に付き当事兵に一回の拳骨」をそのまま発令した。
 「幾つかの指示」は、しばしば新兵苛めに用いられる艦内用の諸器具―――飯炊き棒や綱取棒、ロープなどに、「菊花紋章」を付ける事を命じたのである。
 「陛下より賜った軍器」を罰直に使う事は罷りならない―――士官はおろか「上官の命令は天皇陛下の命令」と詭弁を弄する下士官や古兵も、全て見 通すような指示を下した藤堂長官の前に大人しくなり、少なくともこの長官の居る内は煩くて手が出せんな―――と当座は大人しくせざるを得なくなった。
 近年、藤堂長官は人道的配慮からこの処置を実施したのではなく、単に「海路数千里の大遠征に、兵を無用に疲れさせてはならない」と言う冷静な判断から断行したと言う説がある。
 しかし、この時の徹底した処置と、その後生起した「葉」号作戦から布哇沖海戦に到る藤堂長官の武功と威令、そしてその直後に発生した第二次二・ 二六事件の反動による海軍内部の大改革によって、この処置は普遍的なものとして生き延びた。更に第三次世界大戦の頃には制裁も自然となりを潜め―――決し て更に闇に篭ったという訳ではない。兵士を動かす為には、ある程度以上合理性が無いと戦えなくなってしまう時代が来ていた―――、昭和中期にはその藤堂長 官の訓令が字義通りに定着していく事になる。
 その代わり、平均的な教育レヴェルが上がり、兵器の運用も同様にそれを求める時代になると、兵士は体だけでなく頭も使う必要が出てきた―――訓練はより理論的になり、罰直の時間をも知識の習得に充てなければ訓練が追いつかない時代が来てしまったのである。
 「海軍の精神的近代化」とある軍人が述べたこの事例も、結局は時代の要求により生じ―――日本海軍がそれに逸早く乗る事が出来たと言うだけなの かもしれない。その成果が第三次世界大戦における「事実上の勝利」であるならば、幸運と言う他無いであろう。五年間も兵士が戦場の狂気と上官の暴力に晒さ れ続けていたら、どこかで何かが破綻していたかも知れないのなら。


状況:0750

 自転車は<ちづる>を後ろに見ながら更に北上する。次に右に現れるのは、隆山海軍工廠の重厚なる製鋼・造兵・造機・造船の諸施設群である。
 大神工廠が昭和二〇年に開設されるまで、日本で最大級の海軍工廠であった隆山。今でも二〇万トン級船渠や五万トン級船台がひしめく日本第二の工廠であるここは、日本海軍が日露戦争直後に柏木家から譲り受けた。

 明治三八年秋、事実上の敗戦を辛うじて痛み分け程度に抑える事に成功した日本を襲った一つの悪夢。
 佐世保軍港で、一隻の戦艦が爆沈したのである。その艦の名は「三笠」と言い、聯合艦隊旗艦を務めていた。
 陸軍が壊滅的状況にある日露戦後の日本にとって、海軍は唯一の希望であり勝利の証だった。「三笠」は、隆山造船所の協力で日本海海戦の傷を癒した後、沿海州や遼東半島、樺太など諸方面に出撃し、敗走寸前の陸軍の側面支援に尽力した。
 それらの混乱が収束し、ポーツマス講和条約が締結された直後に訪れた連合艦隊旗艦の悪夢―――更には聯合艦隊司令長官東郷平八郎大将や同参謀長加藤友三郎少将までも重傷を負ったこの凶事は、一事を誤れば露西亜に付け込まれる畏れすらある大事件だった。
 この国内の混乱を終息させるために、海軍の強化再興に役立てて欲しい、と柏木家が提供したのが、今眼下に広がる大造船所であったという。
 当時では破格の四万トン級船渠を筆頭に多数の船渠・船台を有し、製鉄・造兵・造機の諸施設も日本最高級の物か世界一流の輸入品で固められ、専門 の技術学校をも備えるこの造船所が、驚くべき事に工員も含めて無償で海軍に引き渡されたのである―――今でいえば「豊田や東通工や来栖川の主要工場を工員 付き」で国に差し出したような大事だ。
 日露戦争は「日本が一番真剣且つ巧みに戦った戦争」と言うが、この一事を見ても当時の日本は「天佑に恵まれていた」と思える。今の財界に此処 までの事が出来る化物がいるだろうか―――無理としか思えない。そして、軍はあれほど巧みに戦争が出来るだろうか―――軍に関係する者としては全く自身が 無い。国民はあれほどの艱難辛苦に耐えられるだろうか―――一国民として「無理だ」と言いたい。
 当時の国力を全て叩き込んだからこそ、あの戦争は負けずに済んだのだ。大国相手に戦争するならば、どうあっても勝つのは難しい事をはっきりと 思い知らされた戦争だった。もし日清戦争の如く辛勝でも勝っていたら―――日本は海軍以外も勘違いを続け、何処かで国民全部が全てを失っていたかもしれな い。


 明治三八年、日本海軍が圧倒的な勝利で雌雄を決した筈の日露戦争は、日本陸軍の満州失陥と言う形で幕を閉じた。
 日本海海戦後、講和交渉を有利に進めるべく行った露西亜帝国陸軍の限定攻勢は、満州軍―――この当時日本陸軍の殆ど全力であった―――の予想外 の弱体化に助けられ、一箇月で失地の殆どを回復した。日本が交渉支援の為に実施した樺太攻略も兵力が続かず失敗し、海軍の全面支援を受けつつ撤退した。
 更に追い討ちをかけるように、保護領と化しつつあった朝鮮で、日英合弁で建設した鉄道に対する大規模な襲撃が発生。このゲリラ活動には露西亜 に対する点数稼ぎを狙った朝鮮宮廷の暗躍があったと言われているが、これによる日本の動揺は大きく、後方を断たれる恐れを抱いた満州軍は完全潰走の危機に 陥った。

 だが、これが鉄道建設に出資していた英国の逆鱗に触れた。当初は日本の保護領という事と日英同盟に於ける複数国交戦時の参戦条項を遵守 して沈黙を保っていたが、朝鮮政府がこれを黙認する向きのコメントを発した直後、遂に英国東洋艦隊は威海衛を出撃、三日後には陸戦隊が京城に入城し、朝鮮 政府は英国の介入後一週間を経ずして英国の軍門に下る。この事変に於ける英国側の損害は軽傷数名、死者皆無であったが、当地の衛生環境の劣悪さから百名以 上の伝染病罹患者を出す事になる。後年「京城事変」と言われる一連の騒動は、英国植民地に堕した朝鮮半島の屈辱的失敗として、独立後の為政者の軽挙妄動に 対する戒めとなって生きている。日本はこの時速やかに英国へ朝鮮半島の鉄道権益全てを譲渡し、英国の朝鮮半島支配の確定を促した―――露西亜の進出を阻止 する為に。
 だが、この半島国家の軽挙妄動は、結果として日本を救う原動力となった。露西亜も英国と本格的に事を構えることを恐れ、北緯三八度線以北で朝鮮半島での侵攻を停止した。この国家分断線が消滅するには、一九二〇年の共産主義革命による露西亜撤退を待たねばならない。
 この一方で、日本陸軍も戦力が乏しいながらも粘りに粘った。殊に、日清戦争の賠償金で建てた華音砲兵工廠の砲兵部隊が起こした遼東半島防衛戦での「奇跡」は、幾度となく露西亜陸軍精鋭師団の攻撃を挫折させ、時間を稼いだ。
 その時間を利して秋山騎兵旅団が敢行した奉天奇襲により、極東露西亜軍総司令官リネウィッチ将軍及び第一軍司令官クロパトキン将軍、更には前線 視察中の極東総督・アレクセーエフ提督までもが揃って捕虜となり、さしもの露西亜皇帝ニコライ二世も講和の実現をポーツマスのウィッテ全権代表に訓令せざ るを得なくなったのである。

 この時、交渉前半でマスコミへの露出を欠いたために交渉に悪影響を与えた―――そして最悪の事態を招きつつある事を反省した日本側全権 代表小村寿太郎は、専属の広報スタッフとして日本人新聞記者の長岡と言う男を採用して、金子堅太郎共々あらゆる手段を尽くして国際世論への働きかけを行わ せた。必要ならば自らも進んで記者との懇談の場を設けた。
 これらの努力と幸運と、そして「奇跡」が積み重なった結果、満州はおろか朝鮮半島の北半分までもが露西亜に奪われながらも、幾多の戦術的勝利 と外交努力、絶対的制海権―――隆山造船所はこの時聨合艦隊の戦力修復に最大級の貢献を果たした―――に加え、事実上南朝鮮が英国植民地と化し、合衆国と 国際世論が日本の交渉を支援したおかげで、日本はロシアの支配下となる事も、租借も賠償金も免れ、不平等条約の締結すらなく、三国干渉で奪われた遼東半島 の支配権までも確立したのである。日本は、多大な犠牲を払いながらも戦略目標の半分以上を達成したー――まさに「奇跡」と言う他無かった。

 しかし、「奇跡」は起こり得ない故にこそ「奇跡」であったのかもしれない。

 辛うじて維持できた遼東半島は、戦後の債務返済の為に合衆国の支配下に置かれる事になった―――合衆国は自国の大陸進出の足掛かりとして 日本を利用したに過ぎない、と終戦後すぐに思い知らされたのだ。これによって、明治四〇年制定の帝国国防方針の仮想敵国として、露西亜帝国に次いでアメリ カ合衆国が第二位に浮上した(因みに第三位は中国)。後の軍拡競争の発端は此処に在ると言える。これも第一次大戦後、ロシアがソ連に転じ、シベリア出兵の ドサクサで合衆国が満州を占拠すると、仮想敵国第一位が満州を含めた合衆国になり、有事に満州への増援を洋上で阻止する為海軍力の強化が促進されていく事 となる。

 だが、日本国内で最大の怨みを買ったのは、合衆国でも日本政府でもなく、陸軍であった。
 如何に死闘の末に最後の反撃に成功したと言えど、結果的には大敗北―――世界史的観点から見れば、当時の日露の国力差でこの程度で済んだ(賠償 金の支払さえ無い)のは御の字の筈だが、国内世論はそうは行かなかった―――当時の国民の民度、国際的視点はまだまだ未熟だった。陸軍の権威は失墜し、海 軍と対照的に政治的発言権も失った。陸軍部内で責任の押し付け合い(指揮官クラスではなく、むしろ下級参謀クラスで対立が激しかった)が熾烈を極める中、 ただ一人、己も部下参謀にも何も語らせる事無く批判を従容として受けた乃木大将が、陸軍部内では「悪者」扱いを受けるようになる。明治天皇の庇い立てが あったものの、結局彼は戦後処理が終わり次第予備役になった(その後、明治天皇が学習院院長に抜擢した際も、強烈な批判が相次ぎ任期半ばで職を辞し、明治 末年失意の内に世を去っている)。この「定説」は、昭和後期に福田定一予備役陸軍中将が筆名で出版した某書で払拭されるまで長く人口に膾炙していたと言う ―――ちなみにこの出版物は時の天皇にも届き、「やっと御無念が晴らされましたね、院長」とのお言葉があったと伝えられている。
 かくて、権益を完全に掴んだ筈の朝鮮半島は英領コリア(日本が共同出資していた鉄道は、戦時債務弁済の一環として譲渡)と化し、最後まで保持 し続けた遼東半島を合衆国に明渡し、それまでの植民地獲得による「帝国主義的政策」を取る余地を失った日本に残された発展の道は、英国の広大な勢力圏の一 翼として貿易で国を立てる「貿易立国政策」しか残っていなかった。幸い日本海軍の実力は世界が認める所であるし、商船隊も日露戦争中に大増勢を果たしたと ころであった―――優秀船建造で名を上げるには大正期・第一次大戦中を待たねばならないが。
 国民には「臥薪嘗胆」の掛け声が再び沸き上がった。但し、今度の主目的は軍事増強ではなく「民力・経済養成」の為である。
 大量の労働人口を拘束する陸軍の規模は徹底的に縮小され、低下した戦力は火力と機動力で補った―――この陸軍の威信失墜を受けて、参謀総長山縣 有朋も政治的蠢動を控えざるを得ず、陸軍の長州閥も後ろ楯を失って衰退の一途を辿る。こうして全陸軍一丸となっての政治的生残策を模索し始めたのだ。
 海軍もまた戦力増強を控え、鹵獲した露西亜艦艇群の多くを有償返還し、「六・六艦隊」の維持に留めた―――この時の修復・返還代金が日本が露 西亜から獲得した事実上の賠償金と国民の目に映ったのかもしれない。この時、鹵獲艦艇を全て編入した場合に誕生したであろう「九・九艦隊」を手放さざるを 得なかった海軍では、事情を良く知らない少壮士官達が将来計画されるであろう艦隊増強計画でそれを実現するべく、暗い情熱を燃やす事となる。
 いずれにせよ、国民には合衆国との戦争ではなく、一時的ながら自らの生活向上の為に力を注ぐ時間が与えられたのである。
 もっとも、これも明治末から始まる「八・四艦隊計画」の発動によって次第に蚕食されていくが、国民にとってはこの時の記憶は残り―――これが第二次二・二六事件にも影響を齎す事になる。

 この一事で、日本はある意味救われたのかもしれない。その後の植民地政策は、「亜細亜人が欧州人と『引き分けた』」事実によって次第に統 制を失い、一九五〇年代には亜細亜植民地群は事実上の独立を「自治領」の名でありつつも果たしていく。つまり、日本が朝鮮半島に投資しても、結局利潤を得 る前に独立によって失った可能性は高いのである。
 一方の英国は、資源・産業・人材いずれの面でもこの半島に経済的魅力を感じなかったせいか、一部の都市地域を除いて近代化を推進しなかった。 一九四〇年代末に朝鮮半島が独立した後も、「漢江の奇跡」と言われる国内大改革実施まで世界有数の身分差別と封建体制が払拭できなかった―――その反動と 言うべきか、ここ数年は随分と頑張っている様だが、やはり無理のツケは大きい様だ。
 まあ、開国から七〇年で大国の末席に並び、百年で西側陣営の顔役にまでのし上がった日本から無理云々とは相手も言われたくは無いだろうが。


状況:0800

 橋から程なく、自転車は必ず停車を余儀なくされる。此処から先は海軍施設の中に入るのだ。
 鎮守府の衛兵が、第一の関門である検問所を守っており、朝の通勤時間帯は大抵ここで五分は待たされる。
 今や自動車通勤は士官のみならず下士官や兵―――特に許されて兵舎外居住を認められるのは特技兵が殆どだが―――にさえ普及している。その台数たるや、時間帯によっては検問待ちで一〇台は並んでいる程だ。
 ここでは公用車を除けば桜の数や金線の幅は関係ない。私の様な自転車通勤や歩行者であっても、ベタ金の提督でも平等に待たされる。大昔のトイレ の数さえ差別するが如き悪しき旧弊は払拭されているのだ。その証拠に、何年前だったか隆山鎮守府司令長官が徒歩で官舎から歩いて来たばかりか、私の後ろで 黙って並んでいた覚えがある。時の長官・藤堂大将も流石に一回で懲りたらしく、その後は鎮守府差し回しの長官専用車を大人しく使う事にしたらしい――― が、彼の退任前に検問所の拡張が行われ、待ち時間は三分の一に短縮される様になった。

 其処で顔見知りの衛兵の、相変わらず微妙な逡巡を交えた敬礼に御辞儀して、自転車はれっきとした「海軍用地」に入る。何台もの車やバイクに追い越されながら、自転車は第二の関門にたどり着く。
 その関門は、第一関門の頑丈だが味気ない造りとは全然違う、優雅ささえ感じさせる様な造りをしている。頑丈さでも検問所など比較にならない。
 ここが、「日本帝国海軍隆山鎮守府(IJN Takayama NavalStation)」の陸の表玄関であると共に、「鎮守府の裏口」になる。「海軍軍港にとっての表玄関は、常に海に向く桟橋」と言う風習が、この 築九五年、煉瓦造りの重厚な門をして「裏口」と呼ばわしめている。
 門の外からも見える鎮守府本庁舎、その後ろに控えるは隆山湾、そしてすぐ足元の泊地と桟橋には、海軍の誇る艨艟が静かに舳先を並べている。その艦尾では、喇叭が響き始める―――軍艦旗掲揚の時間だ。
 明治四一年の開庁以来変わらぬ、現代の「皇国水軍」たる日本帝国海軍の要「隆山鎮守府」の朝の光景だ―――ここで喇叭を聞くという事は遅刻は決定だな。やはり橋の上で暢気に<ちづる>に目を奪われ過ぎたか。


 明治三九年、華族令により旧小藩藩主として子爵になっていた柏木家が「皇国安寧を担い、その責を全うすべき帝国海軍の戦傷未だ癒えざる大 因は、艦艇修造力の寡少なるにあり」と指摘し、更に「皇国四方の海防を為さずして、皇国の平穏と民心の安堵はこれを望むべくも無し。これを再興するは一家 一族の繁栄に先んずべき大事なり」と言い切り、「今で言えば豊田や来栖川や東通工の全工場」に相当する大造船所を海軍に無償譲渡した一大「事件」―――こ れが、未だ設置されざる舞鶴鎮守府の更に一部所「隆山要港部」に過ぎなかった隆山湾に大きな転機を与えた。日露戦争の結果、舞鶴鎮守府(予定)の修造能力 に大きな疑問が生じていたのだ。
 本来、舞鶴鎮守府は明治三四年に東郷平八郎「中将」を初代長官に仰ぎ開庁する筈であった。しかし、日清戦争で直隷平野にまで迫った陸軍がその 功績を背景に砲兵工廠新設の予算を要求した為に海軍の予算は圧縮され、海軍内では呉や佐世保、横須賀の拡大改良に予算を集中していた事と、日本海側に一鎮 守府と一要港部を設置する計画を立てていた為に舞鶴へ投入される予算が不足し、開庁を延期されていたのである。そして止めとばかりに、日露戦争後の財政悪 化と軍事費圧縮で整備は更なる遅延が予想されていた。
 そこに、隆山湾の西部沿岸地帯一帯に広く私有地を持つ柏木家が、明治十年から営々と再建を進めた造船所とその周辺の土地全てを提供すると申し出たのである。
 しかも、造船所の北部には能登隆山藩と呼ばれていた当時から「水軍」―――と言っても、近代西洋艦による幕末の海軍―――根拠地があり、ささや かながら土台の整備は完了していた。それを拡張すれば、舞鶴で工事を中止されている諸施設の新造よりは安くつく算段も立っていた。
 ―――海岸線は、一五世紀の天変地異で複雑に削り取られ、「天然の桟橋」が僅かな手間で大桟橋に出来る程の「適地」だった。
 ―――水深は殆ど一定で、礁が極めて少なかった。
 ―――明治四〇年当時の第一仮想敵国・露西亜の極東根拠地ウラジオストックに真正面から睨みを利かせ得る位置に在った。
 ―――湾の奥行は約十五キロ、当時の艦砲射程から考えれば十分以上の安全距離を保っている。
 ―――湾口は二箇所だけ。しかも十分に防衛可能な幅で、両岸には砲台設置の適地が続いている。
 ―――柏木家の出資で整備された鉄道が、既に隆山湾の南半分まで伸ばされていた。
 ―――隆山の地は、適度に都市化が進みながら、治安面で全く問題が起こっていなかった―――日露戦争後の政府弾劾暴動の一件すら起きていない。
 ―――隆山湾の西側―――「奥」にあたる土地は全て海軍に提供された。
 ―――未だ夢想だに出来ぬ巨大艦をも建造できる造船所が海軍の自由に出来る。
 これ程の条件が揃えばこそ、東洋最大の軍港は生れるべくして生れたのである。
 明治四〇年、海軍は舞鶴鎮守府の設置を断念し、要港部へと降格させ―――同時に、能登半島隆山の地に鎮守府を設置、その名称を「隆山鎮守府」とする事を決定した。
 日露戦争敗戦の衝撃が、この柔軟な対応を明治末期の日本に可能にさせたのであろう―――敗戦の衝撃は国内随所で「驕り昂ぶりかけた」日本に冷水をかける効果を持っていた。
 決定後、直ちに要港部設備の拡大改良・増設強化が開始され、翌年春に正式に開庁を迎えた。柏木家はこの工事の中の幾つかを、「真ニ忠心ノ発露ナ ル」廉価にて請負いながら、資材の吟味と昼夜を問わぬ突貫工事を重ね、開庁の日までに見事大桟橋と本庁舎、そして「裏門」を竣工させている。

 そして明治四三年、開庁より二年を迎えた隆山鎮守府に、明治大帝の行幸があった。
 品川沖から軍艦に天皇旗を掲げ、津軽海峡を抜けて大桟橋―――表玄関より鎮守府に入御された明治大帝は、観兵式・諸施設の視察を終えられた後、予定外の挙に出られた。
 旧造船所の対岸に日露戦争直前から拡張を進め、漸く操業を再開した新たな「隆山造船所」―――柏木家は、ここで再び造船業の大手としての名を再 興していた―――、その片隅にある、一隻の小型船に御召艇の舵を取らせたのである―――これにより、その後の行程が一時間遅れることになった。
 そこに、朽ちかけ、浸水に傾いだ船体で辛うじて海没に耐えていたのは―――今や繋留練習船としても使われず、解体を待つばかりの<千鶴>だった。

 一説には、柏木家は「隆山海学寮」のオーナーでありながら、この船にかけられた嫌疑―――この船が「艦」だった頃の諸装備や、その出所―――を一刻も早く隠匿する為、解体を急がせようとしていたと言う。
 確かに、この船の幕末の記録には不可解な部分がある。
 まず、その搭載火砲―――七〇ポンド一二七ミリ前装滑空砲四門と言う、一〇〇〇トン級の艦にしては貧弱な装備について、「砲火一閃。寸刻置かず 二海里の先に浮かびし標的は四散せり。しかしてその後発砲の爆音を聞き、更に間を置きて炸裂の轟音響く」や「砲火は瞬時に標的に至り、周囲に火災を惹き起 したり」「飛翔せる砲弾、赤く輝けり」等、当時の火砲の威力・初速等から考えると異常な記述があったと言う。また、英国艦の一士官が残した非公式な記録で は、「隆山藩艦隊出現ノ直前、我等ガ艦隊ト長州軍砲台ノ間ニ推定五百『ヤード』ヲ超エル水柱四本屹立ス」との記述があったという(当時既に記述は焼失し、 記述者も急死していたが)。
 また、他の証言を信じるならば、僅か一七ミリの鉄製装甲帯が「列強聯合セル二六隻ノ内一艦(恐ラクハ米艦ト思ワレル)ヨリ数弾ノ砲撃ヲ受クルモ、装甲ハ此レヲ悉く跳弾セシメタリ」と非公式記録が綴る程の防御力があった言うのであろうか?
 また、如何に隆山藩と言えども欧米列強には劣る筈の機関工学で、何故一七ノットもの速力が出せる機関を用意できたのか? 欧州であっても、あの当時の機関は重く、効率は帆走よりも悪かった筈なのに。
 当時の通信統制技術ではまず不可能な艦隊機動―――単縦陣ではなく、砲台前を突破して反転しようとした時の散開・再編陣の機動が、何故可能であったのか?
 当時の日本人―――隆山藩の人間とて例外ではない―――の衝撃や身贔屓を勘案しても、この記録には不可思議な点が多い。ましてや、隆山藩の記録は「他では正確を極める」ものでありながら、この部分だけは資料が無かったり、あからさまな改竄が見て取れるのだ。
 盗作―――露西亜あたりからの密輸入ではないかとの噂も立ったが、それでもその能力について不可解な程の高性能と言う疑問が残る。
 この矛盾を隠し去る為だとすれば、この艦が宮古湾で戦闘を一度行なった後、直ちに隆山に戻っているのも合点が行く。以来その砲火は射撃演習に 二・三度放たれたのみで、明治一〇年には機関と火砲は朽ちて撤去・交換された。明治二六年にはその機関(交換後の機関は輸入品だった)も老朽化により撤 去、更に同三六年には繋留練習船となり、明治四〇年―――隆山鎮守府開庁前年にはその任務からも除かれ、西隆山湾南岸の造船所の片隅に放置―――名も無き 帆船としてそのまま姿を消す運命を目前に控えていた。

 それを明治大帝が見付けた―――隆山鎮守府から<千鶴>の繋留地までの距離は凡そ五キロ以上、その先にある全長七〇メートル未満の、し かも儀装、修繕中の船舶に紛れた老朽船を見付けたのは、ある意味奇跡的であった。天保山沖観艦式の若き日―――宝寿(御年)一七(歳)の御記憶が、何かを 呼び覚まし奉られたのであろうか。
 御召艇が<千鶴>に近づくと、艇首に玉体を乗り出し、舷側に近づくとまさにその船体に触れんとばかり手を伸ばされた(心配の余り侍従武官一名が内火艇から転落し溺れかけた)。
 その時の明治大帝の行動は、多く秘められているが、漏れ伝えられたる口伝によると「朽ちたる帆船を慈しむが如くに言葉をかけられ、時には目頭を拭われた」と言う。
 皇統は即ち、天照大神を祖とする―――この時、現人神なるが故にこの船に導かれ、それ故見える存在に語りかけていたのかもしれない。

 その夜、明治大帝は御駐泊所にこの船の所有者―――能登隆山藩最後の藩主・柏木梓郎から代替わりして間もない柏木家の現当主を呼び、何者も交えず話し合った。この時如何なるやり取りがあったのかを知る者はいない。
 しかし、その結論が如何なるものであったのかは、翌日隆山造船所に臨幸された折に親ら宣されたる勅旨によって明らかである。

「維新ヲ遡ル事拾余年、皇国ノ泰平乱レシ御世ニ在ッテ、皇国ノ水軍タルヲ宣シ、其ノ責ヲ担イタリ。
 亦、天保山沖ニテ挙行サレシ本邦初ノ観艦式ニ於イテ、観閲艦タル栄誉ニ浴セル艦ニシテ、其ノ存在ガ帝国ノ海軍力ヲ諸国ニ知ラシメタル功極メテ大ナリ。
 朕此処ニ、帝国海軍ノ起源タル大勲ヲ讃エ、此レヲ悠久ニ記念スルヲ願フ」

との聖旨が、随行者・拝謁者達の集う中で伝えられた。
 ところが、この聖旨を授かりし<千鶴>の所有者、柏木家当主は此れに奉答し、「臣謹みて聖旨を拝す。なれど、光輝ある帝国海軍の礎なるも、今や この艦老朽を極め、大勲を示すべき何物も無し。これを記念し保存を為すと雖も、それは諸外国の嘲笑を招くに他ならざる虞あり。畏れながら、このまま解体 し、舵輪・装飾類を遺物として保存するに留めるが至当に他ならずや」と反論し、解体を進言した。
 これに明治大帝聖旨を発せられ、

「卿ノ言一理有ルモ、今猶船体ハ老朽ニ抗ヒテ海没スルヲ見ザリ。
 皇国水軍ノ名ヲ奉ジ、帝国造船史ニモ重キヲ為ス文武ノ勲ヲ無為ニ打壊スハ慙愧ニ堪ヘザリ。
 欧米列強ニ於イテハ、木造帆装ナガラ齢百年ヲ閲シ猶大洋ヲ往来シ得ル船在リシヲ聞ク。
 往時大勲ヲ為シタル姿ヲ復元シ、修復整備ヲ為サバ如何?」

と、竣工時の姿を復元した上で記念艦とする事を提案したのである。
 これには柏木も反論出来ず、「臣柏木、お上の格別なる聖旨を賜り、恐悦の極みに存じ奉る。この上は、臣聖旨を奉じ復元に臨み、往時文久二年本船竣工時の姿を取り戻す旨誓約申し上ぐ」とその場で再びの奉答に及び、私財を投じた復元を確約した。

 翌日から、柏木家が残していた江戸時代以来の記録、隆山海軍工廠と隆山造船所の資料室から収集された幕末の資料等を元に<千鶴>の復元が開始された。
 機関は新造当時のレシプロが可能な限り復元され、装甲板も再び貼り付けられた。しかし、幕末当時の材質では質的劣化や爆発・故障の危険が高いた め、明治末期の資材を使用しての復元となった部分も少なくない。この中で、竣工当初の<千鶴>が、欧州にすら一部先行して高効率の機関を搭載していた事実 が明らかになった。「水管蒸気缶」「表面復水器」「二連成機関」等、後年普及した様々な技術を用いた推進システムが生み出す蒸気圧は、実に一平方インチ当 たり百五十ポンド―――同時代の標準的機関の七倍に達した。工業製品としては高めの機関爆発の危険性さえ除外すれば、確かに記録どおりの速力が出せたの だ。
 また、装甲板も、当時主流であった「錬鉄」ではなく、錬鉄から強度を飛躍的に高める「製鋼技術」と、錬鉄とは製法の異なる鋼板を張り合わせる 「複合鋼板」も使用されていた事が判明した。<千鶴>の装甲は鉄製と言われていたが、鋼鉄又はそれに準じる材質が使用されていたのだ。
 砲について、半世紀の眠りから紐解かれた設計図を検証した結果―――恐ろしい事に「当時最強を謳われたアームストロング砲を凌駕する威力を発 揮するであろう」との結論が、隆山海軍工廠の造兵技術陣から発表された。後に、この図面の複写が米英仏独伊の造兵技術者にも届けられ、彼等の手で再検証さ れたのだが―――結論は同じだった。日本の技術力を見縊っていた某国からは「貴国の『新型砲』は三十年程度遅れている」と勘違いした回答さえ届いた――― それはつまり、一八六〇年代に「一八七〇年代に相当する技術」が実用化されていた事の裏づけとなったのだ。
 勿論、図面通りの威力が発揮できたかは不明なままであり、その製造は工業と言うよりは工芸の領域に近いとの付帯意見が付けられている事を忘れてはならないが、当時の柏木家の「オーヴァーテクノロジー」がそれを可能にしていたのだと誰もが納得した。
 また、艦隊陣形の研究が進むに連れ、能登隆山藩の艦隊機動はさほど困難ではないと結論付けられた。ただ、幕末の当時にあっては世界最高水準である事を否定する者はいない。
 これらの一連の新事実は、柏木家の―――能登隆山藩のみならず、その後の隆山造船所に到るかの家の技術研究の先見性を証明し―――この年から隆 山造船所の商船建造受注量は急激に上昇する事になる。第一次世界大戦中には海軍から駆逐艦輸出の補完の為に海軍用駆逐艦の大量生産も受注し、二等駆逐艦 <梓>や<楓>等十隻以上を建造。昭和期に至って後は特型駆逐艦<初音>等も受注・建造し、更に八八(cm)艦隊の主力艦建造も請け負って行く。

 こうして、明治四五年七月二七日に二度目の―――そして最後の大修復を完了した<千鶴>は、帝国海軍にその船籍を移し、「帝国海軍軍艦・千鶴」として練習帆船(分類上は練習艦)となり「菊花紋章」を艦首に装備するに到った。竣工より実に五〇年を経た後の事である。
 この報に接した時、既に御不予の状態にあった明治大帝は、一時的ながら意識明瞭にして玉体を起こされるまでになり、柏木家や隆山鎮守府、更に<千鶴>にまで特に御下言を発せられる程に快復を見せられた。
 国民や近侍の者のみならず侍医連さえ「持ち直されたか」と期待を寄せたのだが、翌日より殆ど昏睡状態に陥られ、更にその翌日、宝寿六一(歳)にて御崩御された。
 時に、明治四五年七月三〇日。混乱に始まり、飛躍に終わった激動の明治が幕を閉じた。

 この、明治大帝の最後の「勅語」は、かくの如しであったと言う。

―――<千鶴>ハ皇国水軍即チ世界第一等ヲ極メシ帝国海軍創始ノ証ナリ―――
―――艦長以下全乗組員ハ、コノ誉ヲ忘ルル事莫レ。帝国海軍ノ真髄タレ―――

 <千鶴>の栄光と名誉は、これによって不滅に等しきものとなった。


状況:0810

 いつもどおり自転車を漕いで鎮守府の中心部、鹿島崎の真中を今度は東に進 む。昔の地形をなるべく残したまま施設造営を進めた結果、鹿島崎地区の関係施設は殆どが高台で、「裏門」から本庁舎に向かう中央道路を除けば、道路部分は 低地となっている。津波の場合にはこれを避ける役割を果たし、万が一にも各建物が堡塁になり得る。
 鹿島崎の東の端に聳える隆山鎮守府本庁舎への坂を登ると、既に業務開始時間を一五分近く経過していた。
 遅刻が確実になった状況では、焦って走ってもどの道間に合わないのは確実なのだから、無駄な抵抗はするまいと覚悟を決めたのだが―――どうやら 今日は遅刻で何かを言われる心配は無くなった様だ。職場どころか、鎮守府の手空き可能な将兵・文官・雇員(軍務学生等の所謂アルバイト)が皆揃って鎮守府 庁舎前に並んでいる。良く見れば…鎮守府長官までいる。どうやら艦隊―――空母か戦艦級を含む大艦隊の出航らしい。もしくは―――。
 その時、汽笛が鳴った。出航する艦が鳴らしたのであろう。その音は、一つ…<ちづる>の出航だ。たった一隻の出航で鎮守府長官の見送りを受ける栄誉は、彼女にしか与えられていない。
 兎に角、こればかりは急いで見送りの列に並んだ。海路に赴かんとする艦の見送りを怠る事と遅刻では話が違う。


 完工直後に大正を迎えた<千鶴>は、柏木家の無償譲渡の時の要望と日露戦争後の人員維持の為に隆山鎮守府に併設とされた「海軍兵学校隆山分校海軍 軍事総合研究所」、通称「隆山軍事総研」に直属する練習艦となった。とは言え、その任務は基本的に海兵団の水兵訓練であり、研究所付であるからと言って特 別な実験に供される訳でもなかった。
 大正初期、海軍が「教育機関である海軍大学校、及び個別研究機関である諸研究所と分離した、海軍の全般の研究に従事する」機関として設置した 「隆山軍事総研」は、七尾城址に建てられた―――隆山通信隊を除けば、隆山鎮守府の海軍諸施設とは一〇キロ以上離れている―――研究所庁舎以外施設を持た ず、士官ばかりの研究所員は殆ど<千鶴>の運用に携わる事になり、その合間に研究を行うと言った状態が、その後大正後期のまで続く事になる―――が、この 「副業」が大きな成果を齎した。
 研究だからと言って白亜の塔(と言うほど贅沢な建物では無かったのだが)に篭る事を潔しとせず、時に洋上にあって潮風に身を晒し、訓練を指導 しながら合間を見て思考し、また時には陸に上がり、洋上にあって思索した諸案仮説を文献・資料を手に検証し、また洋上に戻らば時には研究を実践する――― <千鶴>は、よい意味で頭を切り替える場となった。
 かくて隆山軍事総研研究員は、海兵隆山分校の教官を兼務する伝統が今も尚続き、幾多の顕職・逸材を輩出し―――一度は日本をも救っている。その揺籃を担うのが「千鶴(ちづる)」だった。
 そう、彼女には、過去の栄光のみならず、未来への期待さえも託されている。数百人の研究員と、数万人の練習生の教育の場として。


状況:0812

 息せき切らして整列の端の端に並んだ時、まさに彼女は目の前にいた。
 造船所での整備を終えて抜錨、今まさに船足を進め始めた彼女は、文久二年―――竣工当時の姿を取り戻している。
 嘗ての砲郭甲板には、礼砲として使用可能な状態で復元した七〇ポンド砲が四門しっかり装備されている。
 整備が行き届いている故か、九〇年前の缶と機関が現在でも最大一三.七ノットを叩き出す―――往年の一七ノットを出そうと思えば出せると言うが、貴重な「文化遺産」を酷使する愚は誰も冒さない。その代わり帆走ならば平然と一八ノットが発揮出来る。
 流石に、錆び易い装甲板の塗装は寿命を延ばす為に最新の塗料を用いているが、水面下の銅版や船体の非装甲部分は昔と同じ仕様のままだ。

 名前だけは、大正期に<千鶴(せんかく)>の名を与えられた航空母艦に漢字を譲り<ちづる>と平仮名にて表記されるのだが、誰もその様な事を気にしない。
 それに<千鶴(せんかく)>の名は、この<ちづる>にも勝るとも劣らない武勲と栄誉に彩られているのだ。誰もが<千鶴>の名を継ぐに相応しいと思う程に。


 明治大帝の「遺言」によって不滅の栄冠を冠された「千鶴(ちづる)」。
 その彼女の名を、海軍の新たなる戦力に与えたい―――その様な申し出があったのが、大正一一年の事である。
 この時、日本海軍は一隻の空母を完成させつつあった。
 旧名<プリンセス・リズエル>―――「業界の狩猟者」を僭称した英国新興海運会社エル・クー社が残した「栄光の記憶」たる商船を前世とする改装空母である。
 第一次世界大戦という戦乱の最中に生まれた彼女―――一万三千総トン・全長一七〇メートル・最大速力二五ノットのこの船は、ロイド船級からも逸脱した「異界の者」であり、その速力・航続力は当時の同級商船とは比較にならぬ能力を持っていた。
 彼女と「妹」達は、いずれもエル・クー社が誇りとする船として、嘗て「鬼」の栄えし隆山造船所に発注され、生を受けた高性能船である―――戦争の直中にある英国では彼女達の様な手間のかかる商船を建造する余裕は無かった。
 一万五千総トン・二三ノットの欧亜航路高速貨客船<プリンセス・アズエル>
 一万一千総トン・二七ノットの太平洋航路高速客船<プリンセス・エディフェル>
 七千総トン・二五ノットの海峡高速連絡船<プリンセス・リネット>
 これに長姉たる欧亜航路のリズエルを併せ、人をして「エル・クー社の四王女」と言わしめるこの強力なる商船隊は、戦乱に明け暮れる世界の海を駆 け巡りながら、如何なるUボートの攻撃も受け付けず、その流麗を極めたる彼女達の船体は、第一次世界大戦が終わるまで何者にも傷つけられる事は無かったと 言う。

 しかし、戦と言う非常時が終わり、海運を含めたあらゆる産業が平静に戻り―――必然と言うべき戦後不況に突入すると、彼女のような「異形」は狩られる立場に回った。
 「狩猟者」は狩り尽くされ、この地球上での短い栄耀栄華に幕を閉じ、その残した異形は英国を追われた。
 確かに、彼女達はその個体性能たるや目を見張るものがあった。しかし、それだけでは決して富を生むものではない。むしろ、その高性能が採算上の不利になる。ましてや標準船級規格からも逸した彼女たちともなれば、その経費も比較にならない。
 戦時と言う非常時を利したエル・クー社はこれを無視し得る環境にあったが、戦後その無理の「反動」によって業界から討伐された。

 その異形を受け入れたのは、彼女達の生地日本―――中堅から準大手に飛躍したばかりの「来栖川海運」だった。
 来栖川海運は、公卿華族であった来栖川子爵が設立した小さな船会社であり、誰もが「お公家の道楽」「三年持つまい」と高を括っていた。だが、寡 黙な当主が手品・妖術の如く勝機を読み、他の公卿華族から集めた金を資本に事業を展開し―――少なくとも損はさせなかった。明治末年には数隻の大陸航路船 を持ち、第一次大戦で中堅会社に成長し、大々的に造船所の経営にも乗り出していた「成長株」である。
 彼らは新たな「狩猟者」の地位を求めたのではない。それが、来栖川が海運業と造船所を柏木家から―――即ち、再び日本最高の技術水準と規模を 取り戻した「隆山造船所」と日本準大手の海運会社「隆山洋駆船会社」を―――「無償で」譲り受けた時の「約束」であったと言うだけだ。

 当時の柏木家は、造船業は世界屈指の優秀船メーカーとして駆逐艦の量産にも参入し、海運業でも第一次大戦で少なからず利益を揚げ、見た 目上は優良大財閥であったのだが―――内実は行き詰まりを見せ始めていた。能登隆山藩の頃からの資本により、旧藩士が中心になって創業し、その後もその空 気が少なからず残り続けていたが為に―――言ってしまえば、幕末以来の「直臣」により「社内華族」層が出来始めていたのである。
 柏木家が造船景気に過剰投資をせずに済み、戦後不況を殆ど無傷で乗り切ったのも、元来の規模が大きかった為ではなく、経営陣の鈍さが齎した「怪我の功名」に過ぎなかった。
 今でこそ経営は順調、国益にも公益にも、企業利益でも問題は無かったが、経営の硬直がいつ毒を撒き散らすか知れたものではない―――大正後半に到って、柏木家が資本家として主導権を握れる時代にも終焉が訪れつつあったこの時期、柏木家の当主は大英断を下した。
 「柏木家は、隆山の旅館兼割烹「鶴来屋」を除く全事業から手を引き、現在の経営陣は全て退陣する。その事業の全ては、来栖川家に無償で譲渡される」と―――。
 柏木家は旧藩以来の家臣―――役員連を引き連れて鶴来屋と言う城に身を引き、日本経済に大きな影響を与える事業を、健全な経営陣に委ねたのである。

 その来栖川海運が、殆ど唯一の代償として求められたのが、「四姉妹」の安住の地となる事だった。
 来栖川としても、新会社の象徴となりうる優秀船を欲していた。今までは標準的な性能―――低速だが静かな航海の出来る商船しか運行した経験の無 い来栖川海運にとっては、象徴であると共に「教育材料」として高額の維持費も容認できる、と結論付け―――柏木・来栖川の双方の合意の下で、引取り交渉が 開始された。
 英国エル・クー社の破産管財人にとっても、解体止む無しと諦めていた四姉妹に引き取り手が現れた事を喜び、交渉は速やかに纏められ終戦一年を待たずして四姉妹は日本への「帰途」に就いた。

 だが、その帰途の途上、彼女達の去就に注目したとある組織が、来栖川に接触した。
 大日本帝国海軍―――その中でも未だ揺籃期にある海軍航空関係者である。
 大正三年、日本海軍は水上機母艦「神威」から出撃した水上機により、世界初の「航空攻撃」を青島で敢行した。
 それを契機に、海軍内部で、陸上機を運用できる「飛行場を備えた母艦」を希求する動きと、その実現に向けた研究が始まった。
 まず、飛行場を構成する甲板は大きくなくてはならない―――そうしなければ、「着陸」できない。具体的には一万五千トン超は欲しい。
 また、速力は決して見劣りする事があってはならない―――日本海海戦の如く総力を持ってぶつかる決戦に遅れてはならない。二五ノットは無ければ困る。
 しかし、その建造は決して高額の費用を要してはならない―――八八(cm)艦隊計画には、残念だが勝ち目が無い。
 八八(cm)艦隊計画と、それを主導する大艦巨砲主義者の権勢の隙間を縫いながら、大型高速且つ廉価な母艦を―――。
 この条件を満たしている艦が、海軍には無かった。新造など夢のまた夢―――高速軍艦の建造は、機関船体とも高くつくのだ。
 其処に寄せられた情報―――それが、「四姉妹」の来栖川移籍だった。其処にある一隻の高速客船。
 速力二五ノット。総トン数一万三千―――しかし、排水量に換算すれば総トンは通常二〜三割増になる。そして倒産在庫からの転用―――大きく、速く、そして安かった。
 「艦」ではなくてもいいのではないか。「船」であっても「艦」にすればいいのだから―――現に、英国では既に客船改装の空母が完成し、まごう事なき戦果を挙げたではないか。

 海軍は、来栖川にこう求めた。
 「海軍新兵器の為に、彼女を海軍へ譲って欲しい」
 これには、来栖川海運も難色を示した。柏木家との約束と言う他にも、社運を委ねようとした船である。
 しかし、海軍もこの千載一遇の機会を逃す事を臨まなかった。平行線を辿る交渉の中で、最後に二つの提案を持ちかけた。
 一つ、このままでは、海軍は貴社の「誠意」に疑念を感じざるを得ない。その様な会社に海軍からの発注を行う用意は無い。
 一つ、貴社の「誠意」に対し、海軍は最大級の礼節と栄誉を以てこれに応える。
―――脅迫と名誉。最後の二者択一を突き付けたのだ。
 直後、来栖川の交渉責任者は、電話交換手に鶴来屋への取次を求め、その電話は繋がって半分を経ずして切られた。一回の遣り取りが精一杯の時間だった。
 「長女」が「家―――商船」とは違う世界―――「海軍」に身を置き、妹達が安堵されるなれば―――これに対し柏木は、一秒を置かず「了承」した。
 交渉の席に戻った来栖川の交渉責任者―――来栖川子爵本人が、再開された交渉の席で了承を海軍に申し伝えた。

 一方の海軍が来栖川に約束した「栄誉」―――ここで、「千鶴(ちづる)」の名が求められたのである。
 その名を「千鶴(せんかく)」と言う名として、日本海軍の魂と創始の象徴。その名を継ぐ者として、日本の新たな国の護りを世に知らしめるために。
 この時、海軍には空母に命名基準など存在しなかったが、この名が始まりとなって「空母の名は空を飛ぶ鳥・竜などの美称を以て此れに供する」との風習が生まれ、その後基準として二〇年以上存続していく事になる。

 この当時、隆山軍事総研にも少なからず航空に興味を持つ研究員がいた。
 彼らにしてみれば、大艦巨砲主義者のでかい面に多少憤懣もあったのであろう。
 この頃は、「厄介者」ではなく「変わり者」が隆山軍事総研の主流であったが、どうやら当時から反骨精神は息づいていたようである。彼らは、「軍事総研としては異議を挟まず。彼女の名は平仮名にて表記するを以て存続せしむるべし」との結論に到った。
 かくて、帝国海軍創始の栄光を担う名は、帝国海軍航空史の創始の名となった。この決定に至る裏には、大正天皇の明治大帝に対する葛藤や、海軍部内の派閥闘争等の説もある。
 その一方で、航空関係者や隆山軍事総研には皮肉な事に、大艦巨砲主義者にとって見れば好都合な事だった。何しろ、喧しいほど「空母艦隊建設を」 と吠え出しつつある急進派に名誉と安上がりな空母を与えて黙らせる事が出来るのだから。「八八(cm)艦隊計画」成就の為には、あらゆる物を犠牲にしても 已む無し―――喩えそれが、明治大帝の勅命であろうと。
 この思い上がりが、その後二五年にわたる海軍の思い違い、政治介入、好戦思考の発端であったと言える。
 この頃、「三笠」爆沈事件で負った古傷が原因で死去した東郷平八郎元帥・海軍大将の遺言こそが、彼らにとっての真の「勅命」だった。即ち―――
「八八(cm)艦隊あらば、皇国は安泰なり。諸子、この成就に真摯なれ」
と―――。
 かくの如き経緯を経たとはいえ、空母「千鶴(せんかく)」は晴れて改装を完了した。
 排水量一万六千トン。全長一七一メートル。飛行甲板全長一七〇・三メートル。最大速力二五ノット―――この改装の経験は、隆山軍事総研でもしばしば研究の対象となり、第二次・第三次世界大戦時の改装空母急速建造に活かされている。
 彼女の最初の公試運転にあって、艦尾の名盤をそのままに<ちづる>と名を改めた練習帆船が出航を見送っている。
 時に大正一一年。その光景は、二〇年以上も歴史を先取りした「主役交代」の儀式であったのかもしれない。
―――「砲」を以て戦う時代から「翼」を以て戦う時代への。


状況:0815

 <ちづる>は優雅な姿を朝日に晒しながら、ゆっくりと隆山湾口に向けて舵を取っている。
 その姿は、やがて海軍主力艦艇の定泊地―――通称「第一錨地」へとさしかかる。そこでは、十万トンになんなんとする巨大反応動力空母や、一万トンを越す大型防護巡洋艦、三万トンもの装甲巡洋艦や八万トン近い戦艦が、登舷礼で彼女を見送っていた。
 どの艦も、彼女よりも大きな護衛艦艇を引き連れる艦隊旗艦級の艦であるにもかかわらず、だ―――それも当然で、<ちづる>の艦長は帝国海軍でも 最先任か五指に入る海軍大佐が勤めている。喩え空母に名の半分を取られても、彼女の名誉や栄光はひとかけも失われていない。むしろ、その栄光は新たな名前 の下で更に高められたのだから―――その証人が、彼女の航路から離れた所で、静かにその優姿を休めている。
 帝国海軍練習空母「千鶴(せんかく)」。昭和一六年に竣工して以来、赫々たる戦果を重ねた排水量約三万トンの彼女は、「千鶴(せんかく)」の 名を冠された二代目の艦である。初代の栄光を讃え、再びその名が用いられているのだ―――初代が被雷沈没と言う悲運に遭いながらも。この一点をとっても、 その名が齎した武勲と栄光を証明している。


 大正一一年五月二三日、正式に帝国海軍軍艦籍に編入され、菊花紋章を艦首に掲げた<千鶴>であったが、その後も様々に改修・改良を受ける事になった。
 何しろ、設計概念だけは英国の「アーガス」を基にしてはいたが、技術的にもまだ揺籃期にある「航空母艦」と言う未知の領域は、様々な実験・試験を必要としていたのだ。
 それらが全て完了したのが、大正一一年も押し迫った頃―――実に半年以上に及んだ。そして―――

 大正一二年一月、富山湾。この月のある日、日本海軍は<千鶴>より最初の装輪型航空機の発着艦を成功させた。しかも、その全てを日本人の手で。
 この日発着艦に成功した最初の日本人は、柏木賢志海軍中佐。青島攻略戦以来、印度洋・地中海・休戦直前には大西洋の前線に出て航空機乗りとしての腕を磨き、吉良海軍大尉と並び着艦第一号を期待された人物である。
 この決して若くない海軍士官が、一回の失敗も無く見事に空母<千鶴>の飛行甲板に自機を滑り込ませた時、日本の海軍航空の基礎が確立したと言って良い。
 誰もが一回や二回の失敗がある事を覚悟していた。その為に、予備機として三機の同型機が<千鶴>の格納甲板に用意してあった位なのだ。しかも、 同日中に(万が一の時の予備要員として)待機していた吉良大尉も着艦に成功する。彼は、更に数ヵ月後に<鳳翔>への着艦に成功しているが、この時の経験が ものを言ったのか一回で着艦に成功している。

 それ以来、日本の空母部隊は<千鶴>と<鳳翔>の二隻によって戦力と為し、昭和期以降の空母戦力拡大まで幾多の艦上航空機搭乗員・空母運用要員・航空作戦立案者の育成に貢献した。
 殊に<千鶴>は、その艦体の大なるを利し様々な航空機・空母装備の試験を受け容れ―――この辺り<鳳翔>の様な小型空母ではちょっと大きな機材 や機体を積んだだけで「大荷物を抱えた少女」の如く転んでしまいそうになるため、その度に大改装の様な思い切った準備が必要だった―――、昭和一〇年頃に 至り多くの空母が完成すると、今度は練習空母に転じ元客船の広い空間を教育の場として提供した。つまり―――<千鶴>は昭和一〇年から一五年頃までに空母 に携わった殆どの海軍士官・下士官兵にとって「忘れ得ぬ若き日の思い出」として焼き付けられているのである。それ以前からの者達にとっては「幼き日の思い 出」―――当時から空母に携わっていた者と言えば、少なくとも空母に興味がある筈だったから、彼女との日々は苦労があったとしても(いや、それ故に)忘れ る事など出来なかった。
 その思い出が「恋慕の情」の如き高みにまで達していたと言う証拠が存在する。
 高速客船とは言え商船改造に過ぎない彼女の艦体は、長槍の如き駆逐艦や重厚なる戦艦に比べれば確かに「寸胴」の感が否めなかった。その事を隆山 の歓楽街で声高に嘲笑したある戦艦の水兵達が、これを聞き付けた<千鶴>乗組水兵と乱闘を起こし―――「三六対一二の優勢にありながら完全に撃滅され」た のである。しかも、<千鶴>乗組水兵は一人として巡邏隊に拘束されず、周辺住民への人的・物的被害も皆無だった。見事な「パーフェクト・ゲーム」で誹謗を 打ち砕いた。
 大正から昭和初期にかけて、八八(cm)艦隊が完成する途上、航空機に対する風当たりが決して小さくなかった頃―――「空母と航空機に有用性 を見出そうとするなど、帝国海軍の『偽善』だ。ヒコーキ屋もあの空母も『偽善者』だ」ととんでもない勘違い(当時はこの程度の認識だった)を吹聴した海軍 士官が、次の日の朝泣き震えながら『ごめんなさいもういいませんゆるしてください』と繰り返してているのが発見された。この日を境に彼もまた航空主兵論に 転向したと言う。
 またある年、陸軍のある将校が隆山湾に停泊する<千鶴>を見て「船乗りは良く船を女性に喩えるそうだが…あの艦はさしずめ『胸の貧しい女』に でもなるのだろうな」と言った途端、周辺の海軍軍人全員が恐怖に硬直した。案の定その陸軍将校は、次の日には全身傷だらけになりながら(それでも陸軍の面子と精神力で立って歩いていた)「あの空母ほど美しい女性はいませんな。貧しい等ととんでもない心得違いを致した」と振れ回ったと言う。
 かくて帝国海軍禁句集(?)には「空母千鶴ヲ指シテ『ズンダウ・ギゼン・ヒンニウ』ヲ語ル莫レ」と追記された―――この禁句集は、今も海軍軍人の精神に叩き込まれている。

 そんな彼女に対する記憶の中で、乗組員が体験した唯一つと言って良い「怖い思い」が、数度にわたり発生した「食害事件」である。
 食中毒でも疫病でもない、「食害」事件―――これは、ある日突然、唐突に、何の前触れも前兆も無く、艦内で供されるごく普通の食事全てが「人間 の理解の外にある」味を発揮すると言う「正体不明の事件」である。その都度に徹底した調理経過の調査・衛生状態の確認・使用食材の入手ルートや備蓄食料の 品質調査・不法侵入者の捜索等が徹底して行われたが、結局合理的な調査結果は得られなかった―――大体、士官と下士官兵の食事は別の所で作られ、その献立 も殆ど相違する筈なのに、必ず同時に事件が起こる事の何処に合理的説明がつけられるであろうか?
 その中で、炊烹に携わった士官・下士官・兵全員の共通した証言が「そういえば、綺麗な黒髪の娘さんを見た」と言う一点である。
 しかし―――そんな事があるだろうか? 停泊中とは限らない軍艦に、数年に一度発生する事件の度必ず同じ「容疑者」(しかも乗艦していない筈の妙齢の女性)が浮かぶ等―――この結論が数度の事件に於いて繰り返された時、誰もがそれ以上の詮索を止めた。
 それ以降、この「食害事件」は事件ではなく、こう認識されるようになる。
 ―――<千鶴>に乗って「この飯」を食ったら、貴様も一人前の乗組員だ。貴様の為に千鶴さんが手料理を作ってくれたぞ―――と。


状況:0823

 <ちづる>が船足を早めて「第一錨地」を抜けて行く。嘗ての「主役交代」の 時、見送る側だった艦が今も生きていて、見送りを受けた側の艦は既にない―――しかし、その名を継ぐ艦があの練習空母<千鶴>だ。そして彼女もまた、三万 トンの優姿を静かに動かし始める―――見送りを兼ねた発着艦訓練だろう。<ちづる>の航跡を追う様に舵を取る。
 気がつくと―――見送りの列に解散の号令がかかっている。鎮守府本庁舎や周辺のオフィスに勤める将兵や文官・軍務学生達がめいめい職場へと帰って行く。もう少し見送りを続けたいが―――致し方ない。今日は遅刻がバレなかっただけ良しとしよう。
 私も自転車を駐輪場に置いて、本庁舎に入った。

 鎮守府本庁舎の玄関ホールには、嘗て隆山鎮守府を母港とし―――七洋に散華した艦艇の絵が飾られている。
 その中の一枚―――そこに、見送られた側の<千鶴>の姿が、今もなお生きている。―――荒波を断ち切りつつ九六艦攻を発艦させる姿は、まさに彼女の最後の戦いを髣髴とさせるものだ。
 昭和一五年一一月二六日・於北大西洋。輸送船団護衛任務中、独軍潜水艦により雷撃撃沈さる―――墓碑銘は彼女の最後をそう語っている。


 昭和十四年九月、第二次世界大戦勃発。同十五年六月、独逸軍仏蘭西侵攻。
 これらの戦乱が欧州大半島で繰り広げられる最中、大西洋上は潜水艦対輸送船団の死闘の場となっていた。
 日本から派遣された「援英艦隊」は、その主戦力を戦艦に置き補助艦艇や支援艦艇については「本土同様」の戦力しか備えられておらず―――殊に問 題視されたのは駆逐艦以下の海上護衛任務に供し得る戦力の決定的不足だった―――この慢性的問題はその後二年近く尾を引き、艦隊戦たるべき独逸戦艦〈日野森《ビスマルク》あずさ〉追撃戦中に於いてすらもUボートによる戦艦雷撃を許している。
 そんな中で、日本から英国までの海路一万数千浬に連なる商船の護衛に廻し得る艦艇は、絶望的な寡兵でしかなかった。第四次援英輸送船団までに付けられた日本の護衛艦艇は、最良の状況でも輸送船団に対して一〜二隻程度―――損害が五〇%を切る事は稀だった。
 事ここに至り、昭和十五年初春よりこの「護衛戦力」に援英艦隊から一隻の航空母艦が増強された。それが<千鶴>である。同時に、彼女を旗艦とし て駆逐艦三隻―――内一隻は貴重な特型駆逐艦である―――を指揮下に置く護衛隊「第八一護衛戦隊」が編成された。この部隊の各艦――――全艦隆山海軍工廠 で竣工――――の持つ名前が、偶然に江戸期能登隆山藩の姫君の名前と重なる事から「四姉妹」と通称され、Uボートの脅威が待つ大西洋突破行の強力な味方と なった。
 「四姉妹」――――<千鶴><梓><楓><初音>の四隻に、同年夏の第八次船団からは更に駆逐艦<柏>(この艦も隆山海軍工廠製)が増派され、第五次の被害比率は三〇%を、第六次には一五%をも切ると言う快挙を成し遂げた。
 殊に、哨戒・護衛任務に特化した<千鶴>の搭載機群――――対潜爆弾を搭載した九六式艦攻と艦隊防空を担う零式艦上戦闘機を主力とする―――― による昼間の対潜水艦戦の戦果は上々であり、船団は太陽が出ている間は大分緊張を解して航行する事が可能となり、その当時日本――――正しくは世界唯一の 護衛空母として、護衛される商船の乗組員には「ちづるさん」と親しまれた。
 夜間にあっては、流石に<千鶴>飛行隊の威光も及ばないものの、昼間にささやかな憩いを得た船員達は夜間監視精度と陣形の維持に集中する事が 出来、更に駆逐艦の巧みな連携――――<楓>が索敵、<梓>が攻撃、<初音>が船団に張付、<柏>は潜水艦攻略ルート次第で遊撃と言う役割分担により、夜 間の損害も格段に減少した。
 これに加えて第六次船団の英本土入港後、九六式艦攻に日英共同製作の試製機載対水上電探を装備する現地改装を受けると、薄暮払暁の発着艦に よって錬度を上げた<千鶴>飛行隊員は夜間の対潜哨戒をも開始するようになった。昼夜を問わぬ対潜哨戒機という「爪」により、第七次船団の損害は十%、第 八次船団では遂に五%を切ったのである。
 「四姉妹」の名は日英同盟に与する商船全てに響き渡り、殊に当時日本唯一の護衛空母であった<千鶴>は、丁度この頃流行していた「漢字一文字 の題名の映画」のヒロインになぞらえ英国の商船乗組員達に「チヅル」と親しまれたという。日本人でも彼女を「ちづるさん」と呼ぶ若手士官・水夫はいたが、 その名が現役の海軍練習帆船である事を知る古参の乗組員はそれを苦笑いしながら聞き流していたと言う―――死と隣り合わせの陰鬱な航海に咲いた「希望」 を、わざわざ手折る事も無い―――と。

 そして、昭和十五年十一月。第九次船団はケープタウンから「四姉妹」+一隻の護衛を受けて英国を目指した。
 この時の船団規模は実に七二隻――――偶然ながら、「四姉妹」の艦齢の総和と同じであった――――に達し、護衛戦力は前述の「四姉妹」+一隻に ケープタウンから英本土へ回航される英巡洋艦<ヨーク>が加わる、総勢七八隻の大船団である。今回の喜望峰周りの航路は、大船団が地中海を航行する事が困 難であるとして採用されたものであった。
 が、この航海も順調に赤道を通過、船団の損害も僅かに三隻――――日吉丸・相田丸・小出丸の喪失を見るに留まり、船団乗組員の殆どが「今回も 無事英本土に着く」と楽観論に傾いていた頃、<千鶴>に座乗する戦隊司令部は言い様の無い不安に駆られていた――――今回の喪失船三隻を仕留めた潜水艦の 巧みな戦術に。
 この時、第九次援英船団を執拗に追尾していたのは、「イェーガー・デァ・アトランティック(大西洋の狩猟者・以下JDA)」――――独逸海軍潜水艦隊司令長官デーニッツ中将が、満足とは言えない配下から精鋭を選抜した「対・四姉妹」の最強のUボート戦隊である。
 そして、十一月二六日――――「四姉妹」にとっての災厄が始まった。

 同日払暁、一隻の潜水艦が夜間警戒の緊張を解きかけた船団の至近に出現、船団指揮船<次郎丸>を標的に四本の魚雷を放った。
 この時、夜間警戒を離れて洋上で燃料補給を受けたばかりの<楓>が<次郎丸>の後方至近にいた。そして彼女の舵を取る艦長は――――「機関全速。指揮船を守れ」と静かに、しかし即座に発令した。
 この機動の結果何が起こったか――――放たれた四本の魚雷の内二本は、<次郎丸>の前方を通過しつつ船団を離れ、残り二発は<次郎丸>の右舷二百メートルの位置で炸裂した――――<楓>の舷側を直撃したのだ。

 大正年間に竣工した樅級二等駆逐艦に過ぎない<楓>には、この雷撃は致命傷だった。
 二発の魚雷は<楓>を血まみれの骸に変え、冬の大西洋はその乗組員をも白き骸へと変えんとした。
 だが、この時幸運にも<楓>の乗組員の多くは周辺の船団によって救助され、また<楓>の戦闘航海記録その他の、貴重な対潜水艦戦の「記憶」も無事回収された。
 ちなみに、この直後の海上護衛総隊創設から開始された護衛駆逐艦建造の中で、<楓>の記憶は新たな<楓>に引き継がれた―――一年後に竣工した 丁型駆逐艦<松>級の一艦<楓>に、旧<楓>の先任士官以下多数が勤務する事になるのだが・・・其の瞬間の大西洋では、<楓>爆沈で全てが終わったわけで はなかった。

 四姉妹の一翼、索敵にあたる<楓>が喪われた事によって船団の結界と結束に綻びが生じた。
 そしてその夜―――「四姉妹」の終焉が訪れた。
 この夜戦で、<千鶴>は電探搭載型九六式艦攻で照明弾や航空爆雷を投下、また<梓>は試作兵器である15センチ多連装対潜噴進砲を存分に振り回し、一時はJDAの商船攻撃を撃退(撃破ではない)出来るかと思われた。
 しかし、「狩猟者」として組織されたJDAは当初から攻撃目標を<千鶴>以下の護衛艦艇に集中していた。テレパシーでも用いているかのように彼等は連携し、巧みな攻撃で<千鶴>と<梓>を狙う。この「目標の差」が「四姉妹」の対応に齟齬を生んだ。
 そして、悪夢の瞬間が訪れた。<千鶴>を狙ったかと思われた魚雷二本がその疾走線上に<梓>を捉え、逆に<梓>が回避した魚雷三本が<千鶴>の 進路に直交した。共に防御力に乏しく―――殊に<千鶴>は竣工以来二十三年の決して若くない船体に無理を重ねて限界近くまで酷使されており、英本土到着後 は徹底した整備が必要と誰もが考えていた状況だった。
 両艦は、殆ど同時に触雷、爆沈した。さながら二隻が刺し違えたかのように。

 船団の乗組員達にとっては悪夢としか思えない光景が展開される中、誰もが残る二隻<初音>と<柏>の次は・・・と思った。しかしこの時、 英本土南岸から駈け付けた英国海軍の対潜部隊が空と海から敵潜を撃退し、船団潰滅の危機は辛うじて免れた。敵潜発見の連絡を受けた時点で、船団に同行して いた<ヨーク>が救援信号を発信していたのだ。とは言え、臨時編成護衛戦隊は壊滅的打撃を被り、払暁までに新たに商船三隻を喪失した。

 かくて太陽が昇った時―――四姉妹の生き残りは僅かに<初音>一隻を残すのみとなっていた。
 時に昭和十五年十一月二六日、「四姉妹」―――第八一護衛戦隊は悲しき記憶と共に消滅した。


状況:0832

 <千鶴>の「遺影」の両側には、<梓>と<楓>、そして<初音>と<柏>の絵が飾られている―――通常は駆逐艦程度であれば飾られなくなるのが常だが、「四姉妹」は特別な待遇を受けていると言って良い。
 空母<千鶴>が沈没の間際に発し、駆逐艦<柏>が受信した発光信号は、「彼女」の最後の言葉を次のように記録している。
――――イモウトタチヲタノム――――
 彼女―――<千鶴>にとっての「妹達」が何者を指しているのか、またこの規定外の信号を誰が発したのか、艦橋要員の多くが戦死した今となっては誰も知る由は無い。
 だが、彼女の言う「妹達」とは―――私は商船隊の事ではなかったのかと思っている。彼女は空母である以前は商船であり、その後に起こった海軍内での嘆願血判書の山は、結果的に商船達を守るためのものになったのだから。


 空母<千鶴>が残した遺言「妹達を頼む」―――彼女の死を惜しむ者達はこの「遺言」に過敏なまでに反応した。

 大正期、海軍全体が八八(cm)艦隊成就に邁進する中、彼女は黎明期の帝國海軍空母戦力をその細腕(元客船の持つ優美さをそう表現した) で支え続けた。彼女は帝國海軍海上航空戦力にとって「母親のような」優しさを持つ存在であって、艦上機乗りや空母乗組員が「姉さん」と読んでいた事がそれ を顕著に顕わしている。「母親」と表現しないのは、彼女もまた海軍空母部隊の発展と共に成長―――改良されていったからであろう。それに、「千鶴さんの手 料理」の風評は、母親の手料理とは程遠かったようだ。

 そんな彼女を喪った悲劇は日本海軍に衝撃を与えた。特に「隆山軍縮条約」で議長を務めた某提督を始めとする元<千鶴>乗組経験士官に航空主兵派がこぞって同調、「姉さんの死を無駄にするな」と強硬に常設の船団護衛専従部隊の設立を主張した。
 ―――もし、彼女以外にも護衛空母がいれば。
 ―――もし、護衛艦艇の数がもっと多ければ。
 ―――もし、対潜戦術について海軍の研究が徹底していれば。
 ―――もし、第一次世界大戦の「血の教訓」を海軍がもっと早く思い出していれば。
 海上護衛戦の遅れが<千鶴>喪失の原因であると言う論調が、彼等の手で海軍全体に浸透していくのに時間はかからなかった―――海軍内部に少なか らず存在する「潜在的同志」達が、血判書まで持ち出して海軍海上護衛戦の拡充を訴えて廻る彼等の熱弁に賛同し、又は気迫に押され、時には<千鶴>喪失に悔 し涙を流しながら血判を押していったのだ。

 現役士官は言うに及ばず、下士官兵・予備役退役に至るまで数千人分の血判書が海軍大臣山本五十六海軍大将に提出されたのは、何と昭和十五年十二月一日。僅か五日で集まった血判書の山を見て山本海相は「まるで新高山だな」と言ったとか言わなかったとか。
 だが、この時既に彼はこの「血判の新高山」を登る覚悟を決めていた。
 彼はこの時期<千鶴>沈没後真っ先に怒鳴りこんできた二人の海軍士官――海上護衛を研究している某中佐と、護衛戦力不足が援英作戦失敗に繋がる 懸念を抱いた某中将(後の統合軍令本部長)――に尻を叩かれて海上護衛總隊の緊急発足に振り回されており、遂にその日の朝宮城に参内し、海上護衛専従部隊 設立に了承を得て来たばかりだったのだ。

 これによって、当時掌握兵力・予算配分等の調整に手間取って企画段階であった「海上護衛總隊」が、必要とされるあらゆる権限・装備・そして予算を与えられ即時設立を果たす。
 当初案の海防艦・哨戒艇等の戦力に加え、本来なら連合艦隊から借り受ける事とされていた旧式駆逐艦二個水雷戦隊と護衛空母を正式な所属部隊とし て掌握し、さらに基地運用の対潜航空隊や対潜兵器の研究部隊、果ては対潜訓練用の潜水艦までも指揮下に加え、更に全世界的な護衛作戦を指揮する総合指揮所 の設置まで検討される「日本的」とは程遠い徹底した統括護衛組織が作られたのだ。
 この結果、駆逐艦や艦載機に思いきった改装が施せるようになり(例:雷装の全廃・艦底部への大型音探設置・海面監視の為の風防拡大等)、乗組員の意識改革も促進された為、単位当たりの戦力は飛躍的に強化された。
 更にこの時、「姉さんの仇討ち」と少なくない飛行士、航空士官が海上護衛總隊への配属を志願した事が、未だ乏しい対潜航空戦力の活用に繋がって行く。
 時に昭和十五年一二月八日。「姉さん」の死から僅か十二日後の事である。この日を以て「日本海軍が外洋型海軍に生まれ変わった日」と後世の史家は語る。

 この日を境に、彼等航空主兵派は大人しくなった―――りはせず、今度は更なる要求を海軍省に突きつけた。
 <千鶴>沈没―――「彼女の名を帝國海軍全てに対する戒め――海上護衛という海軍の本分を忘れた罰――として残すべし」と言う議論が持ち上がったのである。
 本来なら、戦没艦の名は再びは使用されないのであるが、<千鶴>は日本海軍初の空母にして、長く「海軍空母部隊のヒロイン」と空母主兵派が称え続けた、言わば「旗印」―――。
 ある士官は言う。「その魅力は、小ぶりの(それゆえ竣工以来撤去されなかった)島型艦橋と唯一試験的に搭載された傾斜煙突、そして対空兵装を殆ど有さない舷側が醸し出す、刺々しさの無い調和の取れた艦容にあった」と。
 ある搭乗員は言う。「鳳翔よりも着艦が容易であり、常に我等を包みこんでくれる頼れる”姉さん”だった」と。
 ある参謀は言う。「<鳳翔>の様に新機軸を積みこみ過ぎて改装に手間取られなかった事もあり、常に戦力として頑張り続けた」と、とにもかくにも人気は高かった。
 その彼等がぶち上げたのが上記の意見である。彼等にとっては海上護衛と言う敵討ちに続いて「我等が千鶴さん」の復活を望んだだけだったのだが、隠れた<千鶴>ファンの有形無形の協力を得て次第に話が大きくなって行った。
 その頃、航空主兵派の親玉たる海軍大臣その人は、この時丁度海上護衛總隊の緊急発足に奔走しており、特にこの議論に口を挟まなかった(正しくは 挟めなかった)。この事が、この議論における彼の中立を示しているかと思われた。その多忙な彼が議論から抗争に発展しかかっていた本件の調停案として、自 らの権限内で出来る最大の提案を持ち出した。海相は軍艦名に関して陛下の命名を賜わる役どころである。これを利用して、
「現在隆山で建造中の<芳賀《翔鶴》玲子>級空母三番艦の艦名について、陛下の御聖断を賜わろう」と。ギャンブラーとして名高い彼ならではのアイディアと言えよう。
 但し、<千鶴>ともう一艦の艦名を陛下に奏上申し上るにあたり、「<千鶴>は戦没艦の名である」事も奏上する事とした。陛下を騙す事は、臣下には許されない事であるからだ。陛下の名を出された事で、保守派も「千鶴派――<千鶴>復活推進派」も黙らざるを得なかった。
 そして、<芳賀《翔鶴》玲子>級空母三番艦の進水を控えたある日、海相は自ら皇居へ参内、約束通り<千鶴>ともう一艦の艦名を陛下に奏上する。
 その時、陛下より発せられた御下言が、

 '「・・・『ちづるさん』は、惜しい事をしたな」

 陛下の手には、一冊の映画解説冊子(パンフレット)が握られていた。その表紙には、一文字の漢字が書かれていた。

 '「先程の大尉から貰ったんだ。この映画、ぜひ見て見たいのだが、どうも侍従達は頭が固くてネ」

 その時、山本海相ははっきりと思い出した。御所に入るときにすれ違った、深い痕を頬に残す陸軍大尉の顔を。
 今もってその男の正体は謎である。陸軍のいかなる機関もこの日、皇居に大尉を参内させた記録は無いのだ。とはいえ、こうして全ては決まった。
 日本帝國海軍軍艦・<芳賀《翔鶴》玲子>級航空母艦三番艦<千鶴>誕生の瞬間である―――彼女が世界史上初の航空機による戦艦撃沈の戦果を上げ、合衆国首都 上空に航空隊を送り込み、「鬼の爪」の恐怖と恐れられ、更に五十年以上もの時間を生きる事になるとは、誰が予想していただろうか。


状況:0855

 本庁舎の階段を登り、二階の更衣室で通勤服から文官服に着替え、さも見送りを終えたばかりを装って自分の机につく。幸い班長にも係長にも何も言われなかった。
 で、何の気無しに話題をその「見送り」に置き換えるべく、同じ島の兵曹に話を切り出す。彼は私と年も大差なく、れっきとした武官とは言え等級も俸給も似たり寄ったりなので感覚的には同僚と思っている。
「いつもながら思いますけど、ちづるさんは綺麗な船ですねぇ」
「そうっすか? 俺はあの艦を見るとゾッとしますがねえ。あの船での猛訓練は今思い出しても修羅場でしたから」
「ああ、兵曹はあの船に乗った事があるんでしたね。でも、別に殴られたって訳ではないんでしょう?」
「いや、そう言う事じゃありやせん。何しろこの電子兵器の時代に『この船は高射装置無しで敵機六機を落とした。貴様らもそれくらいの気合を持て』ですぜ?」
「確か昭和一七年冬の隆山防空戦ですね。第二次と第三次では対潜海防艦として隆鎮の警備やってたから・・・とは言え良くそんなに落とせたもんですよねえ」
「俺は其の頃の事は覚えてる暇が無いんですがね。ともかくそれで二十粍を振り回して練習機を追いかけさせるんですから、時代錯誤もいいとこですよ」
「でも、流石に本気じゃないんでしょ? その訓練」
「まあ、半分ゲームみたいなモンでしたけど、班長がやたら張り切ってましてねえ。どう練習したってそんなまぐれ当たりが出る筈無いのに、特訓特訓また特訓、あの艦で気が休まったのはハンモックの中だけでしたよ。お陰で原稿一つ描けやしない」
「そりゃ大変でしたね。まあ、彼女は幕末以来微妙に運がイイですからねえ。あの時も沈まなかったどころか返り討ちにして無傷だったんですから」
「そうだったんすか?」
「ええ。降爆を見事に回避して、その敵機を悉く血祭り。挙句自分は至近弾と機銃掃射を喰らいまくってなお損害無し・・・そんな『まぐれ』じゃ誰だって忘れさせたくないでしょう」
「へぇ・・・」
「まあ、敵機六機ってのは、実は嘘が混じってるんですけどね」
「嘘?」
「ええ、撃墜したのは敵機五と『味方の戦闘機』一機だそうですよ。もっとも搭乗員は全員無傷だったとか」


 昭和一七年、三代目<千鶴>が就役し欧州に出征する頃、初代の<ちづる>は隆山鎮守府防備隊にその所属を遷していた。彼女は練習帆船から海防艦に転じ、隆山鎮守府近海の警戒に当たっていたのである。
 当時の隆山鎮守府司令長官・兼・海軍兵学校隆山分校長井上成美海軍中将は、着任前に行われていたこの異動を決して快く思っていなかったと言う。 彼は当時の海軍兵学校が卒業を切り上げている事に徹底した批判を投げかけており、練習任務にある艦を海防艦にする事もそれと同列と見ていたらしい。その例 証として「このような旧式帆船を海防艦にするなど・・・」と眉をひそめたと言う証言がある。だが、井上中将のこの批判には感情的な面も否定できない――― 彼はその「旧式帆船」に対して「フネ自体は実に良い。まさに兵学校の練習船に相応しいものだ」と日頃から絶賛していた為、その練習帆船が海防艦に転用され た事が気に入らなかっただけなのではないかと言われているのだ。
 この時、<ちづる>は竣工以来八〇年を経ていたが、何者にもその時間を感じさせない機動性で慣れ親しんだ能登半島近海、そして日本海をパト ロールし、一度ならず合衆国潜水艦発見の功績を、時には敵潜を探知する為帆走による無音航行を実施しつつ、爆雷投下で敵潜水艦を損傷させ浮上止む無き状況 に追い込んだ事や、更に水上砲戦で白旗を揚げさせた事すらあった。
 これ以降、合衆国海軍極東潜水艦隊はこの「帆走フリゲート」を発見すると「蒸し暑い艦内が一気に凍りつく」程恐れたと言い、その恐怖は隆山に 繰り返し飛来する在満米軍航空隊の空襲にも現れたと言う。同航空隊は「潜水艦隊の特別な要請」によって、作戦目標の一つに「帆走フリゲートの撃沈」を含め ていたと言うのだ。
 しかし、米軍相手に一歩も退かぬ陸軍〈柏木"飛燕"〉戦闘機隊の迎撃を潜り抜け、広大な隆山湾で僅か千トンの小型軍艦を見つけるのは至難の業 であり、外洋哨戒中となれば発見出来る筈もない。結局、米軍航空隊が彼女を撃沈するチャンスを得たのは、同年末の全力攻勢「対日陽動空襲作戦”フォール・ アウト”」に於けるただ一回のみであった―――在満米軍航空隊の最後の力を振り絞ったこの攻勢でもなお、日本海軍の戦意を削ぐ格好の目標として彼女は標的 足りえたのである。しかし、今度は航空隊もその「恐怖」に恐れおののく事になる。

 当時日本陸軍は本土防空戦闘機隊をも布哇の増援に転用しており、日本の空の護りは脆弱の一言に尽きる状況であった。そしてそれは隆山の 空にも敵機の跳梁を許し―――更に当時の隆山湾には<ちづる>が在泊し、弾薬と石炭、物資の補充を受けている最中だった。敵攻撃機隊が泊地の片隅に浮かぶ 帆船を見つけた時の狂喜乱舞の様は、隆山通信隊と防空指揮艦<ヨーク>が傍受した敵攻撃隊長の攻撃命令にも滲み出るほどだったと言う。その内容は―――
「何が優雅な帆船だ。そんな事を抜かす偽善野郎は(検閲)ってろ(削除)め。さあ諸君、あの偽善に満ちたジャップのオーガ(鬼)をぶちのめせ。帆柱が邪魔だが甲板はまっ平らで船体も寸胴だ。気を緩めなきゃ絶対当たるぞ。ターリホー!」
 ―――恐らく、お解りであろう。彼はその十分後には隆山湾に浮かぶ漂流者となり、十時間後には日本海軍の捕虜となっていた。その時彼は「オーガ が・・・オーガが・・・寒い・・・寒い・・・神よ・・・」とうわ言を呟き続けていたと言う。彼と共に<ちづる>を狙った攻撃隊は、彼女の哨戒任務配備に伴 い装備された二五粍連装機銃四基の射撃により立て続けに血祭りに上げられ―――緩降下爆撃を図った隊長率いる中型爆撃機三機は機銃の妨害と巧みな回避によ り爆弾投下のタイミングを外した挙句、一機は機体を引き揚げ損ない、一機は発動機に被弾して、一機は昇降舵を破壊され墜落。反跳爆撃を狙って低空から進入 した二機は、投下した爆弾に機銃が命中・爆発の余波に巻き込まれ一機が、砲郭の旧式砲から放たれた榴散弾(隆山軍事総研謹製の試作型三式弾と対空磁気信管 だったと言う説もある)により両翼をもぎ取られてもう一機が墜落し―――全滅したのである。
 目標・艦齢八〇年の老朽帆船。戦果・零。損害・攻撃隊六機全機未帰還(戦闘機による撃墜一機。目標の反撃による墜落五機)―――この報に触れた時、在満米航空隊司令部もまた潜水艦隊司令部と共に凍りついたと言う。

 では、一方の<ちづる>の損害は如何であったのか? 戦闘詳報によると「一二.七粍機銃弾ニヨル被弾二九箇所。同二〇粍一三箇所。至近弾 ニヨル弾片一八箇所。死者重軽傷者無シ。艤装、兵装共損傷無シ。戦闘行動ニ問題無シ。哨戒計画変更ノ要無シ」と至極簡単な記述しかない。つまりその程度の 損害で<ちづる>は生き残った。艦尾に露天搭載した一六発の爆雷への誘爆はおろか、殆ど剥き出しの機銃員、艦長以下の露天艦橋要員にすら損害は出ていない ―――これを完全勝利と言わずして何と言うべきであろう。
 だが、唯一の汚点がある。低空進入を図った二機をー――先程の通信傍受により発せられた警報に呼応して―――追尾してきた<柏木飛燕> が、砲郭の一二七粍砲から放たれた榴散弾の一部を被弾し―――不時着を余儀なくされたのである。その搭乗員は、周辺に浮かぶ米軍<ちづる>攻撃隊の生き残 りと共に<ちづる>に引き上げられ、翌日には原隊に復帰したが、一歩間違えば彼も死んでいたのだ。
 これを最後に隆山湾上空に敵機が現れる事は無くなり、<ちづる>も銃弾の穴を塞いだだけの修理で定期哨戒任務へと復帰した。


状況:1221

 時折無駄話を紛れさせつつ仕事を進めて遅刻の遅れを取り戻し、休憩時間になってからさっきの続きを思い出していた。
「アメさん連中にとっちゃ予想外だった様ですね。当時の機銃の命中率考えたらまさに奇跡。それも軍艦じゃなくて『帆船』相手じゃあ」
「その時沈んでたら、俺等がこんな目に遭わなくて済んだんでしょうね」
「まあまあ。そこまで言っちゃ彼女の立つ瀬がないでしょう。あの艦のおかげで残されているものってのは、別に奇跡的戦果の記録だけじゃありませんからね。例えば帆船の遠洋航海術とか」
「ああ、それならやりましたよ。日本列島一周を帆走だけでやった事がね」
「いや、そんなレベルじゃなく、英国まで」
「三年に一度選抜メンバーを集めて向こうまで行くってヤツでしょ? でもそれくらいなら<日本丸>とかあるじゃないですか」
「いや、航海訓練所の<日本丸>とかと違って、無茶の一歩前でやってるんですよアレは。その『技』は今じゃ彼女のみが引き継いでるらしいんで」
「へぇ」
「それも、彼女が生き残ってるからこそ残す気にもなった訳で・・・まあ言ってしまえば伝統芸能みたいなモノでしょうね。彼女があの戦いを生き残らなきゃどうなっていたか」
 あの後、<ちづる>は対潜哨戒の海防艦として昭和十九年まで生き延び―――そこで一旦練習帆船に戻された。木造帆船を改装するのは相当な手間が かかったのは想像に難くない・・・いや、ちょっと待て? 彼女は其の後も潜水艦以外と戦った筈だぞ―――それも、『叛徒』相手に。


 しかし、彼女にとっては戦いはまだ終わらなかった―――昭和一八年二月、再び彼女に戦闘出撃の命が下されたのである。
 その始まりは「第二次二・二六事件」。海軍の対米継戦派が主導し、当時の日本国内に蔓延していた「対米戦完遂論」を標榜する諸勢力を糾合して決 起した一大叛逆事件である。彼女が在泊する隆山鎮守府では、いち早く叛乱呼応者を拘束して事無きを得たが、帝都鎮守の任に当たるべき横須賀鎮守府、そして 帝都東京も叛徒の手に落ちた。
 この叛乱には、海軍の主戦派のみならず一部の報道機関や官公庁、更に宗教団体や少なからざる政治結社―――実際は暴力団やゴロツキどもの集団 をも参加しており、その「戦力」は帝都を完全に制圧するに足る規模であった。そして、彼らは通信・報道の拠点である日本放送協会と中央電話局、中央郵便局 等を押さえ、唯一全国放送網を持つNHKのラジオ・テレビ放送を介して聖戦を高らかに唱え、「臣民」の奮起と賛同を呼びかける迄に至ったのだ。
 しかし、日本国民はその様な妄言に弄されるほど軽率ではなかった―――正しくは「なくなって」いた。
 明治後期から大正初期まで僅かながら存在した「国民主導・民力養成の時代」。この時に薫陶を受けた若者達が、社会を動かす年代に達していた。
 また、八八(cm)艦隊の建設を進めながらもささやかに進められていた国民の質的向上を図る諸政策―――大正期の極僅かな良識派達が、政党の派 閥争いや軍部のごり押しを掻い潜ってスタートさせた小規模な教育事業―――が、約二十年にわたる浸透によって国民の軽挙妄動を抑える力となった。
 国民に、ただ盲目に従う事ではなく、その前に考える事を求める教育の小改造―――その為に歳出された予算総額は二〇年間で巡洋艦一隻の建造費 にも及ばなかったが、この「見えない巡洋艦」は間違いなく日本を内部崩壊から救い、全国の陸海軍部隊による反撃の時間を稼いだのだ。

 横須賀を制圧された段階で帝都に最も近い鎮守府となった隆山では、直ちに叛乱軍に対抗する戦闘部隊の帝都派遣を決定。金沢に司令部を置 く陸軍第九師団と共に作戦計画を協議したが、大兵力を迅速且つ容易に輸送できる船舶・艦艇は殆ど布哇攻略作戦「葉号作戦」に動員され、隆山鎮守府に在泊す る艦艇は沿岸警備用の小型艦艇か航海能力を欠く、若しくは酷い故障(それも応急修理では復旧出来ない)を負った船舶ばかりで、到底帝都と横須賀を制圧する 叛徒に対抗できるだけの戦力、装備を輸送する手段足り得ない。
 そこで次善の策として検討されたのが、鉄路を利用して隆山と金沢から軍用列車で兵力を輸送する作戦だった。しかし、指揮通信系が混乱した現状 では通過地点である名古屋や静岡、小田原等で完全に治安が維持されているかは保証の限りではない。そこで金沢の陸軍鉄道連隊分遣隊等と協力し、臨時装甲列 車を編成して先頭に立て、必要とあらば抵抗を制圧しつつ後方の輸送列車の安全を確保する方針が立った。しかし隆山軍事総研がこれを更に一段飛躍させ、最終 的な作戦計画では兵力輸送を進めつつ隆山で急造された陸上装甲砲艦―――装甲列車による帝都突入を主軸に置く事となったのである。

 その装甲列車も、隆山海軍工廠引込線内に待機していた国鉄の蒸気機関車を臨時徴用し、隆山海軍工廠の所有する重量物運搬用貨車等と連 結、海軍工廠の備蓄する巡洋艦や駆逐艦用の鋼鈑で装甲を造り、余剰の火砲・儀装を設置すると言う無謀な計画―――の筈であった。隆山軍事総研の有象無象の アイディアの中からその「陸上装甲砲艦緊急建造計画表」が「発掘」されなければ検討すらされなかったであろう。
 その綿密な計画表は海軍工廠のどの施設・機器を如何に動員すれば可能かと言う具体的なものであり、「突貫工事で一日半で可能」との見積もり に、陸上機動戦力を殆ど有さない隆山特別陸戦隊が建造に賛成、更に一人の叛乱協力者も出さなかった(為に発言権を強めていた)隆山軍事総研が「自ら建造の 指揮を執る」と表明。また、第九師団司令部も鉄道補給路確保の必要性を認めて賛同。最後に隆山鎮守府司令部も消極的中立から積極的賛成へと転向し、建造計 画提案から二時間で計画承認が決定した。
 唯一泣きを見たのは、扱い慣れない鉄道車両の改造を僅か四八時間で行うよう下達された隆山海軍工廠の技師達だったかも知れない。だが、建造の 指揮に当たった隆山軍事総研の研究員達は、技師・技手達の自尊心を揺さぶって建造を推進し、建造開始から四七時間後―――隆山海軍工廠の引込み線には真っ 白く燃え尽きた技術者集団に囲まれて、装甲列車一編成が出撃の時を待っていた。
 軌道装甲車整備車、艦首警戒車、一番砲塔車、第一兵員車、第一防空車、第一機関車(D五一)、第一石炭車、第二機関車(D五一)、第二石炭 車、給水車、発令車、通信車、第二防空車、第二兵員車、二番砲塔車、機械車、第三砲塔車、倉庫車、第三防空車、工作車、第四砲塔車、第三兵員車、艦尾警戒 車―――機関車重連、搭載火砲短砲身一四センチ砲三門、長砲身一二七ミリ砲一門、七五ミリ高射砲三門、四〇ミリ機銃四連装二基、二五ミリ機銃連装八基、備 蓄小銃約三百挺、機関銃約二〇挺、搭載車両・九五式装甲軌道車一両、乗組員約一五〇名、陸戦隊及び歩兵約百名、車両数二三両、全長四〇〇メートルを越す大 編成であった。大正期以降路線整備よりも重視された路線改良と、国際標準機への改軌が、この大編成を支えたのである。
 大正期、政党政治の弊害として選挙政策に鉄道整備が悪用される危機を乗り切り、「大正デモクラシーの弾圧」と酷評されながらも鉄道を政党から 国家へと奪回した暗闘の時代―――その末に「広軌改軌ヲ含ム路線改良ヲ優先」すると定めた「改正鉄道敷設法」なくしてこの大重量、長編成の装甲列車は走る 事が出来なかったであろう。先人の英断に助けられ、半ば正気を逸した頭脳と、誇り高い技術者達の汗と涙が生んだこの装甲列車は、完成次第隆山鎮守府に引き 渡され、「陸上装甲砲艦」の称号と<和倉>の艦名、そして艦尾警戒車に軍艦旗を掲げる栄誉すら与えられた。その指揮官は編成上では「艦長」と呼ばれ、「艦 内」の配置は分隊で分けられ、彼女は制度上はともかく事実上「軍艦」として遇された。

 その一方、洋上輸送の可能性も並行で再検討され、津軽海峡を突破して関東近海まで「出撃」可能な艦艇への将兵分乗で漸く八百名程度の戦力を派遣する算段がついた時、その「艦隊」に<ちづる>の名が挙げられたのである。
 だが、彼女に与えられた任務は其処までではなかった。霞ヶ浦海軍航空隊若しくは平塚海軍工廠に兵力を進出させた後に行うべき行動計画―――それ は、彼女を叛乱軍の鼻先である横須賀付近に遊弋させ、叛乱軍に対する無言の圧力をかけると言う作戦だった。「帆船」である彼女が出撃する事でその存在を顕 示し、しかも到着まで潜水艦に発見されにくい(既に叛乱軍に与した潜水艦による雷撃が始まっていた)と言う「名」と利点を徹底的に利用した「奇策」であっ た。よしんば彼女が叛乱軍に沈められるとしても、それは叛乱軍の非正当性―――明治大帝の「最後の勅命」を賜った栄光の艦を沈める事は、皇室に対する叛意 に等しい―――を天下に知らしめる事が出来る。僅か千トンの旧式海防艦を最大限活用する方策として隆山軍事総研と鎮守府参謀から提案された作戦だった。
 「投機性が高すぎる。それに万が一彼女を喪失した場合の責任は、叛乱軍だけのものとはなるまい」と言う井上長官の指摘を「長官のご心配は解り ますが、こんな時に及び腰になってどうしますか。一刻も早く奴等を叩き潰さにゃならないならば、必要な策は全部採るべきです―――たとえ彼女を生贄にしな きゃならんとしても」と押し切って承認を取り、<ちづる>艦長に作戦が下命された。

 かくして昭和一八年二月末、陸上装甲砲艦<和倉>を基幹にした一五〇〇名の鉄道輸送部隊―――通称「和倉戦隊」の出撃に先行して「ちづ る」を含む陸兵輸送艦隊が隆山を出航。整然と陣形を組み津軽海峡を突破して那珂湊に入港、海軍陸戦隊と陸軍の混成部隊一〇〇〇名を上陸させ、「和倉戦隊」 の静岡到達とほぼ時を同じくして霞ヶ浦航空隊に合流した。予科練の血気盛んな練習生達には叛乱に共鳴する向きに加え、逆に「海軍の不始末は海軍が血で贖わ ねばならん」と海軍省に対する航空攻撃―――それも赤煉瓦に対する体当たりを含む「自殺攻撃」でその決意を示そうと言う意見すら出ていたが、一〇〇〇名の 陸戦部隊による無言の圧力と、「同胞相打つ悲劇は聖旨に非ず。諸子等は軽挙妄動は慎み、予科練で鍛えた技量は今尚その牙を剥く独逸にこそ向けるべし」と説 得。周辺諸隊から二〇〇〇名の陸戦部隊と、練習機・二線級機が殆どで戦闘こそ無理とは言え一〇〇機以上の戦力を擁する航空部隊を味方に加えた。そして隆山 航空隊の大型飛行艇等も霞ヶ浦に進出、帝都上空偵察行への発進拠点となった。
 一方「和倉戦隊」は更に茅ヶ崎まで進出、東海道線経由による帝都突入、横須賀線経由による横須賀奪還、相模鉄道経由八王子からの側背攻撃の全 てを可能とする態勢を整え、更に鎮圧に協同する各地の部隊として鉄道輸送部隊二五〇〇名と自動車輸送部隊二〇〇〇名、一般歩兵部隊一五〇〇名が加わり、七 五〇〇名を越す大部隊となっていた―――彼等の多くは<和倉>の圧倒的存在感に威圧され旗色を明らかにした部隊である。隆山鎮守府と金沢第九師団の協同で 開始された叛乱軍鎮圧作戦は、南北両方面で参加兵力一万人を超えようとしていた。

 「和倉戦隊」が帝都突入態勢を整えつつあった頃、<ちづる>は後方兵站確保の為隆山に戻る輸送艦隊から分離し横須賀沖に向かった。自ら を人柱にする危険を冒して東京湾要塞の各種火砲の射程内に進出し、洋上監視を継続する事数日に及び―――連合艦隊の先陣が横須賀沖に到達するまでの間、つ いに彼女に対し砲門は開かれなかった。
 この時、「海軍政治参謀」の異名を取り、横須賀鎮守府占拠の指揮を執った横須賀鎮守府参謀長・石川信吾海軍少将は帝都におり、横須賀鎮守府が 主体的行動力を欠いていた事が彼女を無傷のまま残存たらしめたと言う意見がある。いずれにせよ、彼女が連合艦隊戦艦群の先頭に立って東京湾に突入、横須賀 鎮守府に入港した時、横須賀鎮守府の叛乱勢力は完全に恭順の意思を示していた。叛乱側指揮官は上陸してきた<ちづる>の先任士官に拳銃と短剣を預け、監禁 されていた豊田副武横須賀鎮守府司令長官を解放、鎮守府はその機能を速やかに回復した。
 そして横須賀鎮守府「奪還」の報と同時に、二正面作戦の懸念を払拭した「和倉部隊」は茅ヶ崎を発車し最大戦速(と言っても鈍行並の速度だが) で鉄路を驀進、大船・横浜を無停車で突破して連合艦隊が帝都沖に展開すると同時に東京駅に入線した。<和倉>乗車の陸戦隊と追随する輸送列車と併せて二〇 〇〇名の将兵は速やかに宮城他の要所へと進出し、上空を霞ヶ浦航空隊の練習機五十機以上が大編隊で飛行しつつ投降勧告の伝単(ビラ)を散布する中、隆山か ら進出した大型飛行艇隊は海軍特務陸戦隊の選抜空挺分隊百名を海陸軍省及び参謀本部、そして日本放送協会に降下させ、混乱下にある叛乱勢力の機先を制した ―――隆山鎮守府が主導した鎮圧部隊は、その機動力により帝都鎮圧の一番槍を掴み、逸早く情報機関を制して秩序の回復に寄与したのである。

 そんな中、落下傘で突入した海軍特務陸戦隊の中で、辛うじて降下術を履修した程度と言う頼りなげな空挺降下で帝都に降り立った一団が陸 海軍の軍政・軍令そして報道機関を押さえ、同行の隆山海軍情報部や「和倉戦隊」から派遣された陸軍憲兵隊と連携して証拠物件の確保と、叛乱鎮圧の速報・実 情暴露に全力を尽くした―――この隆山軍事総研臨時陸戦空挺隊(自称「空の神兵」隊)の迅速な動きが無かったならば、この叛乱の真相は殆どが闇に埋もれる か、主流派によって揉み消されて終わっていただろうと言われている―――彼らは非主流派かつ「変人」であるが故に、その様な政治的配慮を一切厭わず証拠固 めに邁進する事が出来た、と。そしてその証拠が無ければ、「旧」軍の膿は表に顕れず、第三次世界大戦に於ける生き残りすら危かったであろう、と。
 時に昭和十八年三月初旬、叛乱は陸海軍の「首謀者」の自決により一応の終息を見、日本は急激な政・軍改革への第一歩を標したのである。
 その中でたった一艦で横須賀鎮守府と対峙し、聯合艦隊の支援を受けつつも単身横須賀鎮守府へ入港、叛乱を征した<ちづる>―――一介の練習帆船改造の海防艦とは思えぬ「戦功」を、彼女は再び挙げたのである。


状況:1508

 休憩時間が終わり、午後の仕事―――明日の出張計画を纏めて一五時頃決済を受ける。
 直属上官の係長―――正規階級の主計中尉を筆頭に、班長、室長、課長、監理部次長、監理部長と決済を取って回るのだが、殆どは情報ネットワーク を経由した電子決済で事が足りる。が、時々「出勤しているが庁舎には居ない」為に別室はおろかはるばる工廠や港務部、極めつけは対岸の研究所街―――街で はないのだが―――、飛行場まで足を伸ばす事も有り得る。
 何しろ、「隆山鎮守府」は隆山湾の大半に広がる広い「役所」なのだ。但し遠方―――例えば一二キロ東方の能登島等、とてつもなく遠くに出てい れば外部出張扱いで代理権限の行使による決済で事が足りるものを、半端に遠いと翌日の出張先の半分くらいの距離まで「庁内」を移動してなければならない 為、港務部の定期便や所属艦の内火艇に便乗する必要も生じる。
 他の役所もそうだが、特に海軍ではたとえ翌日の予定でも事前の計画であればその種の横着は許されない。第二次大戦前にはかなりの横着も――― 事後決済で事前決済を受けた様に日付を操作する等当たり前にやっていたらしいが、あの戦争の後海軍はそう言った細かい所からもっと広範な視点に至るあらゆ る面で自らの襟を率先して正した―――何しろ「事件」の張本人だったのだから当然と言えば当然か。
 その分、戦時の軍行承行令の如く速やかに下位の責任者―――場合によっては上位者が代理権限で決済を行う等、迅速な手続きを既定どおりに実施 する為に、煩雑な手続きを簡素化しているから、本来ならプラスの方が大きいはずだ。精緻を極めても守れないルールよりは、簡素であっても遵守できる決まり の方がマシに決まっている。
 事実上勝機を失った欧州方面戦線で「敗戦処理」としての後退が進められ、太平洋戦線は対等の立場で停戦した頃、日本本土では「第二次二・二六 事件」の後始末が凄まじい勢いで「強行」された。これらの下地もその頃に―――煩雑な処理でモタモタしていられない現実を踏まえて構築されたと言う。
 今の視点で見てもその「後始末」は凄まじいの一言に尽きる。叛乱に加担した将兵についても、一人一人徹底した取調―――拷問こそ行われなかっ たが、嘘を吐き通せるものではない程度には厳く行われ、「命令に従っただけ」ではない、「聖戦遂行」と言う妄言に共鳴した者全員が処罰の対象とされた。
 また、この徹底した処罰は軍のみならず官公庁・政界・経済界・報道機関・教育界、果ては国家神道関係者に至るまで波及し、法的処罰の対象とさ れた者だけで数万人―――中でも悪質な数千名は事実上の懲罰徴兵に引っ張られた。これに組織内での処分を含めるのであれば全国で六桁以上の人間が何らかの 責任を問われた。
 そして、同時に行われた「政治団体の皮を被った暴力団」に対する大弾圧―――日本のヤクザ利権の大半を引き剥がし、その張本人共をまとめて最 前線に叩き込むと言う戦時ですら暴挙にも等しい国内政策は、幾つもの偶然と幸運により成功した。だが、この弾圧でも一定の「節度」を守っている―――言っ てしまえば「裏社会」の境界からはみ出して国政に悪しき影響を及ぼさなかった者達は、幾重にも「対策法」の鎖と首輪が掛けられ、「日本帝国政府」と言う名 の日本最大最悪の暴力団に歯向かえば容赦しないと散々脅しつけた上で御咎め無しとされはしたが。
 「この大弾圧以降、日本は日本らしさも失ってしまった」と著書で嘆いた学者がいたと言う。だが、日本という国は「その状況」をも呑み込み、やはり一定の「落ち着くところ」に落ち着く事になった。ただ、その「状況」に於いて彼等の影響力は著しく低下したのは間違いない。
 そして、日本という国家はこれにより「内部体質」を強引に改変したと言える。殊に、政官財の各界とそれらの組織の間に繋がっていた深くどす黒い パイプは殆どが断ち切られ、癒着や馴合い、利用しようと言う意識が消滅したのは大きな進展だったと言えるだろう。票集めにも役に立たず、地域住民を黙らせ る役にも立たなくなった以上、政界も財界も彼らを必要としなくなり―――それに引き摺られていた官公署は彼等の不当な要求を毅然として拒否する大義名分を 取り戻したのだから。
 その代償が「大幅に簡素化された内部規律の完全遵守」くらいならば、面倒ではあっても当然の、そして安い代償だと思う―――私がこれから内火 艇に便乗して、久木島補給廠改修工事の中間検査に立ち会う人事部長に、たった三件の決済を受けに行かねばならないのを除けば、だが。


 昭和一八年三月。クーデターは鎮圧され、首謀者はその地位を失った。陰に潜んだ「奥の院」も、昭和帝直々の勅諭を賜り終生身を慎んだ。
 本来なら、この「見える部分の処罰」でこの事件は幕を閉じるところだった―――陸海軍併せて一千名近い将兵が処罰されたのは、当時では十分以上に厳正な懲罰だったのだから。

 だが、この時一人の辣腕閣僚が、「今事叛逆ノ根底ニ埋没セル諸問題」を解決すべく、徹底した「癌手術」に着手する。
 国場内務大臣・兼・事変処理特命大臣。陸軍予備役大佐のこの初老の男は、この事件に潜む「病巣」に大鉈を振るい、その締めくくりとして同年九 月、帝国議会の承認を経て「特旨徴兵」制度を成立させた―――不思議な事に、彼にはあらゆる政治的取引や買収工作が通用しなかった。
 この制度は、言ってしまえば懲罰徴兵の法制化であり、第三次世界大戦後はその傍若無人な内容を糾弾され、昭和一八年九月に「本制度ハ其ノ発効 期間ヲ十年間ト定ム」として創設された時限立法でありながら、期限一箇月前、国場内閣総辞職の後を追うように廃止される事になる。しかしこの制度によっ て、これまで裏で行われてきた軍にとって目障りな民間人への嫌がらせのような徴兵を規制した事も事実だった―――この長所だけは、第三次世界大戦後の改正 兵役法制定にも受け継がれていく。

 同年中に、叛乱加担の容疑により処罰されるところを、「名誉ある軍役」に就く事となった議員・高級文官等の数、一〇八名。
 同容疑で免官されるべきところを「特旨により兵役」に振替えられた警官・公務員の数、六六六名。
 資本家や思想家で叛乱加担の容疑で逮捕後「軍に志願した」者の数、一〇〇〇名。
 同じく報道・教育関係者その他、四九四二名。
 政治家や政治結社、またはそれを騙る武装犯罪集団でこの制度の対象になった者、九九九九名。
 合わせて約一万七千人は同年一〇月二一日、国場内務大臣の主催する壮行会で雨降る国立競技場を銃を担いで行進し、逐次前線―――それも激戦地に 送られ、ある意味歪み切った精神を叩き直されて行く。その過程で少なからぬ数の「英霊」が生まれたし、味方にすら疎まれて戦場で背中を撃たれた者もいれ ば、逆に勇戦敢闘し多くの部隊を救い、伝説的存在として戦後映画にもなった部隊や、更には生甲斐を戦地に見出して傭兵集団を組織した剛の者もいたようであ る。
 その中で敢えて傾向を述べるとすれば、口先だけの主戦論者でしかない「自称・憂国の志士」や「自称・愛国者」と言った輩には、戦場では役に立 たない無能な働き者が多かった。彼等の多くは生き残る術を身に付ける前に「英霊」となった者が多い。その方が幸せだったのかどうかは、「一応」靖国に祀ら れた数万柱の本人のみが知るところであろう。

 一方、これに限らず強権的な改革を推進した中で、自らとその属する組織に危機感を感じた国家諸組織は、大慌てで自らの「体質改善」に着 手し始めた。内心で迎合していた「輩」と対峙し、然るべき権威と能力を発揮する為に―――これ以降、後の世で言われる行政対象不当要求は著しくその数を減 じて行く事となる。
 ことに、最大数の逮捕者と「特旨徴兵」対象者を出した内務省は、その組織自体を完全に組み替えられ、国民の弾圧・統制の機関としてではなく、 純然たる治安維持機関へと姿を変え―――多くの業務が他省庁・新省庁へと移管されて行き、公安・治安情報機関だけを受持つ事となった。また、悪名高き特高 ―――特別高等警察もその名を改め、「特別公安警察」―――通称「特公」と名を変える。なお、名前だけでなく中身もそれなりに改められた事を申し述べて置 く。
 各省庁が煩雑を窮めて現実的でない諸規定を簡素化したのもこの当時にその嚆矢が見られる。しかし代償に、或る程度の自己責任や説明責任の要素も求められるようになった為、行政機関の質的向上が進んだのもこの時代に端を発したと見て良いだろう。


状況:1637

 夕方、往復数キロにも及ぶ決済受領の「庁内移動」を終えて庁舎に戻る―――結局、就業時間間際まで一杯をその為に費やした為、明日の支度をしたら終業時間になりそうな気配だった。
 まあ、こんな事は滅多にないし、念の為今日中に終わらせるべき仕事は全部片付けてはいたのだ。それに、船酔体質でもない身には、軍港を突っ切る 内火艇の旅は良い気分転換ではある―――仕事の為とは言え、そこまで気を緩めて良いのかと問われるとぐうの音も出なくなる事は認めるが。
 それに、楽をした分しっかりと監理部長には釘を刺されている―――どうやら今朝の遅刻は部長のみならず長官にも見られていたようだ。
 と言う訳で、今朝の遅刻時間分一五分は、しっかりと勤務記録に残され、その分超過勤務時間は削られる事と相成った―――やっぱり、悪い事は出来ない。
 まあ、この辺り昔なら勤務評定上の失点として厳正に処理されたであろうところを、フレキシブルタイム通勤の適用扱いとなる部分は―――戦後の価値観大崩壊を経た後の「新・日本社会的温情」のしろしめす恩寵と言う所なのだろう。
 日本人が戦後数年に及ぶ混乱を経て自覚した、「自由」とそれの等価交換たる「責任」の「日本的解釈」と言えばいいのだろうか。合衆国や欧州ではこれ以上に厳しいとも言われているから、やはり「恩寵」と言わざるを得まい。


 昭和二七年八月一五日、日本は広島・長崎に襲い掛かった核分裂反応の劫火(共に五千トンの火薬相当)を除けば、日本本土は殆ど無傷のままに終戦の 日を迎えた―――正しくは「停戦」であり、その後四四年にわたる「冷戦」の始まりでしかなかったのだが、少なくとも大地を屍山血河で埋め尽くし、わだつみ を雷跡に怯えつつ船を進め、天空に特殊合金の猛禽が殺しあう事だけは終焉を迎えた。たとえ「仮初めの平和」だとしても。

 だが、戦争が終われば全てが丸く治まる訳ではない。むしろ、戦争と言う非常事態を終えた以上、然るべき報酬を国民は求めた。具体的に言えば、「平和の配当」である。
 それが「仮初めの平和」だけでは誰も納得しなかった―――過重な労働に耐え、乏しい物資は配給量で我慢し(闇取引を絶対必要とする程に欠乏はし なかったが)、少なからぬ親兄弟(時には母や娘や姉妹さえ)を戦場の露と喪ったのである。それ相応の報酬は、誰もが当然のものと考えていた。暴動が起きな かっただけ、明治日露戦役後と比して国民の自律心と教育水準が向上していた証拠であったのだが、その分国民の要求も高度になっていた。
 「自由と権利」―――国民が求めたものの内、日本政府が支払える報酬はこれしかなかった(ここに名誉が加わったが、その多くは軍人に対するも のだった)。いや、これまでの中央集権国家的な「全てを国家が支配する」事自体、戦争が終わっても強大な常備軍と「世界を焼き尽くす力」―――戦略反応兵 器戦力を維持しなければならない日本政府には「金が無いから出来ない」相談だった。
 国の手から離され、地方自治体―――これまで内務省の管轄にあった県以下の各級自治行政機関も独立した―――や、時には国民の手に委ねられた 権限や自由は多岐に及んだ。国民は此れを自由化と喜び、要求によって得られた物と尊重した。多少の勘違いはあるが、この「民意による権利獲得」との認識は その後も「権利と義務」の意識を育み、権利を蔑ろにしたり、義務の履行無く権利を求める「更なる勘違い」を抑える効果を発揮する事となる。

 だが、この自由化はあまりにも急激であり過ぎた。
 昭和一八年から二七年にかけて図られた改革と自由化を超える「解放」が僅か三ヶ月で行われたのである。
 自由と言う物が伴う「責任」。国家の統制の下で与えられ続けた「臣民」がこれに慣れている筈が無かった―――後にはこの混乱の反省が「責任」の認識に結び付くが、それは何年もの熟成を待たねばならなかった。
 精神が未だに「臣民」のままの国民は混乱した。そして、その混乱は多くの「臣民」を巻き込んで行く。

 この混乱は新たなる犯罪や不正の温床となった。国内の治安も悪化し、経済的不均衡が一時的ながら拡大した。自由が齎した混乱は国民を大い に動揺させ、それが引き金となり此れまでの宗教価値観を破戒する危険な思想や宗教が乱立した。その筆頭に挙げられると目された共産主義・社会主義のシンパ 達は、当時既に共産主義の総本山と称されたソヴィエトが崩壊し、共産主義革命運動自体が下火となっていた事から、彼らの運動は比較的穏便な「労働者の利益 保護」に向かいつつあった為、意外な事に「不法行為無き活動」に限って容認されたのである。「労働組合」も大幅に変革されたが、彼らは政治思想の押し付け 以前に、労働者の気を惹く事をまず考えねばならなかった為、組織固めを進めるに従って「労働者の交渉代表団」以外の何者でもなくなって行った。「革命」や 「闘争」など考える余裕も無かったのである―――その時間を「労働者保護活動」に振り向けねばならなかったから。
 その一方で、日本社会の根底に流れる道徳の屋台骨としての神道的な価値観は危機に晒された。企業も個人も、時には地域共同体すら道徳的に果た すべき社会的責任を放棄し、不法が罷り通り、それを矯正するべき存在がその機能を有さない―――強力な指導体制を以て戦争を完遂した国場内閣に対する反発 とも言える反動が、よりにもよって最悪の時期に到来したのである。中には明治初期の「廃仏毀釈」運動がその矛先を反したような攻撃に晒された神社や社も存 在したし、神官や巫女が拉致され一夜にして無人と化した神社すらあった。その後、この種の事件の多くが過激派新興宗教集団によるものと判明したが、「その 時」には誰もこれを阻止する術を持たなかった。

 この混乱の収束には、実に数年の時間を要した。この間、軍こそ派遣される事は無かったものの、戦後の軍縮で予備役・退役となった強健な 陸兵達を集めた対暴徒鎮圧部隊「機動隊」を組織し、必要とあれば方陣での暴徒制圧すら敢行する強力な力を手にした。この功績によって内務省は昭和一八年以 来のコンプレックスから解放され、誇りと威厳を必要十分な程度に取り戻し、また軍退役後の将兵の受け皿―――内務省は海軍出身者を中心に組織された「海上 保安隊」も管轄している―――となった事で軍との協調関係も回復したと言われている。
 そして国民も、一時の熱狂と暴走から覚醒し、妥当な折り合い―――自由と節度の認識を取り戻し、自己責任と協調の境界を見出して行った。これ には、戦争終結に伴う一時的な目的意識喪失が、冷戦と言う明白な目的―――正しくは「敵」を見出した事で意識を回復した側面も否定出来ない。そう、和を乞 うて来た欧州連合が、国土復興に伴って次第に敵意を剥き出しつつあったのだ。


状況:17**

 かくて、明日の出張に先立って必要な準備と、明日の不在に備えた申し送り事 項を同じ島の兵曹に伝える頃、終業の鐘が庁内に響く。兵曹はその鐘と同時に帰り支度にかかった―――彼は始業定時よりも前に早く出勤していたのだから当然 だ。彼が帰ってしばし後、「手空キ総員掲揚台集合」の号令がかかった―――そう、海軍旗降下の時間が来た様だ。
 私は手空きではないと言い張れるのだが、朝の引け目もあるので素直に外の掲揚台前に顔を出しておいた。
 号令喇叭が百年前と全く変わらない喇叭譜を夕暮れの空に響かせる中、海軍旗が静かに引き降ろされて行く。勿論、停泊中の各艦艦尾の掲揚棹からも―――距離の差で、鎮守府まで響く喇叭の調べは随分と時間差を感じさせはするが。
 勿論、海軍旗を降ろしても全員の仕事が終わりとはいかない。大半の部署は二十四時間体制が殆どだから、本庁舎、第二・第三庁舎とも殆ど照明は消えていない。遠く見渡せる港務部、工廠、飛行場、研究所等もむしろ不夜城と言って良い位に照らし出されている。
 いかに隆鎮は後方拠点だと言っても、帝国海軍は七洋に艦を展開する世界最大の海軍となっている。そのバックアップの為には絶え間ない後方支援体制は当然の事なのだろう。我々隆山鎮守府周辺の民間業者相手の仕事の方が、むしろ圧倒的少数と言って良い。
 私とて、時には深夜に緊急の呼び出しを受ける事もある―――もっともその場合の大半は、今の机での仕事ではない任務を受ける場合の事だが。


 第一次・第二次と世界大戦に参戦し、欧州を戦場とする戦いを繰り広げる中、日本はその地理的特性から大きな問題を抱えていた。
 それは、欧州と日本の時差―――半日に近い昼夜の差は、作戦遂行上様々な支障を齎す。
 しかし、戦場が欧州だけである頃、または部隊の規模が小さい時期はまだ対処可能であった―――欧州に派遣する部隊に大幅な権限の委譲、若しくは現地同盟国(即ち英軍)指揮下での行動を認めれば事足りたからである。
 それ故に第二次大戦の初期など、海軍省や軍令部では―――作戦を実施する場合を除けば―――欧州の戦況を殆ど省みる事無く主要部員の殆どが定時 退庁していた。その後は大抵接待や行き付けの待合にしけ込み、緊急時の連絡は従兵や同期・同僚の心当たりを探し回らねばならないと言うケースがあまりにも 多かった。
 しかも、軍令部作戦部第一課の場合、定員は課長と課員計七名。「秘密主義」と言う方が正しい程の機密保持が災いして増員や事務員の採用を行っ ていなかった。その机の上には整理が追い付かず山積みにされた書類―――情報に対する認識の甘さと相俟って、必要な情報のファイリング作業さえ蔑ろにされ ると言う致命的な悪影響が顕在化していた。
 これには、海軍省とそこに同居する軍令部が、「赤煉瓦」の建設された明治年間には予想出来ない程の業務を抱え狭隘化してしまったと言う問題があった。当然そこには長期間籠る為の環境など存在しなかった。
 その様な状況などお構い無しに戦場は徐々に拡大し、大西洋、地中海、北阿弗利加、中東―――そして最後には太平洋全域と、全世界規模の戦争へと 拡大する。こうなっては個々の派遣部隊への権限委譲にも限界が生じ、また統括的な戦争指導が常に必要になる。其処では日本の標準時や勤務時間など何の意味 も持ちはしなかった。布哇奇襲作戦「葉」号に於ける聨合艦隊司令長官による陸海全軍の直接指揮権の掌握は、その限界を破った稀有な例であったが、そこまで の思い切りはそう簡単に実施出来るものではない。
 太平洋戦線が休戦を目前に控え、欧州戦線が撤退と言う名の収斂を始めた頃、海軍省及び軍令部の人口密度、衛生状態、そして文書管理能力その他 職場環境は最悪の段階を迎え、崩壊直前に達していたと言う。その様相は後世、「第二次二・二六事件は職場環境の極端な悪化と精神的重圧により精神的均衡を 失った海軍指導部中堅層の『発狂』が原因で発生した」と奇説を唱えた隆山総研研究員が居るほどのものだった。

 これらの問題を一気に解消するべく第二次二・二六事件以降対策が検討され、第二次大戦休戦を機に日本は一気にその為の体制作りに着手する。
 昭和二〇年五月、霞ヶ関の「赤煉瓦」から築地に移転し―――これを事実上の島流しと見る向きもあるが―――、海軍省と軍令部で分離・隣接して新 築された地上一〇階・地下四階の新庁舎二棟には、全世界レヴェルの作戦にも支障なき様充分以上に広大な面積と各種通信情報施設が備えられ、人間と機器双方 の環境維持を目的とした全館空調が完備され、「日本最高級のビル建造物」とまで賞されたのである。また、工期圧縮の為に土木建設用機械が大量投入され、当 時としては驚異的な短期間で完成した大型建造物ともなった。
 だが、変わったのは建物だけではない。新しい皮袋に容れられたのは、「新しい」と断言は出来なくとも「古いままではない」くらいにはなった海 軍省と軍令部の諸機関であった―――両省部とも秘密主義・少数精鋭主義故のエリート意識と訣別し、各部署の大増員と事務補助員の大量採用を決定したのであ る。
 一例として軍令部作戦部第一課を挙げると、第二次大戦当時の課員総数六名が班長となる班と、太平洋・インド洋・地中海・大西洋を専門とする四 班の計一〇班を構成し、班長は中佐(場合によっては少佐)、班次席を少佐(場合によっては大尉)、班員として兵科に限らない大尉を各班に二〜三名配置。
 また、必要に応じて配置出来る「参謀補佐」に相当する中少尉を「課付員」として配置した。この配置は兵学校での成績や計画人事とは全く無関係で、見込みがある・または有用ならば予備・短現・特務士官をも抜擢した。
 文書分類等の事務を行う雑用には、海軍士官の子女または海軍省文官を専任として―――勿論機密厳守の宣誓と身元調査を完璧に実施した上で配置した。
 更に、大西洋・北米・印度洋〜地中海の各戦域を担当する複数班を掌握する為、係長を筆頭とする三〜四名の「統括係」が設置された。
 この結果、軍令部第一課は課長一、先任課員(次長格)一、係長三、班長一〇、班員三八、課付約一〇(定員外)、事務官一五(課長、先任、係長、各班一名ずつ)と言う、約八三名もの大所帯となった。
 そしてこの一二倍にも巨大化した課の事務管理の為、主計士官二名と事務官四名からなる管理班も設けられた。

 両新庁舎はこの大増員に充分耐えるだけの広さを誇っていたが、更に当時の建築技術の粋を結集して広大なフロアを設け、これが部の単位で割り当て られた。旧来同様の課の単位での部屋割りを極力排し、部内での互いの顔と声を認識しそれを通じた情報共有と意思疎通が促進されるよう配慮されていたのであ る。この措置は海軍省と軍令部の間にも反映され、海軍省棟と軍令部棟の各階には渡廊下と共有のロビーが設けられ、その両棟中央に置かれた低層棟には正面玄 関や酒保等を集約し、省部間の風通しも改善されていた。
 無論、情報整理、管理能力についても重視され、文書保管室は当然として、計算機室・写真室・通信室等も要求仕様を大幅に上回る―――冗長性の 高い規模と機能を備えたものが設けられた。また、当時としては十分以上の耐震構造を持ち、頑丈さと機能性が高度に融合した設計は海軍建設部技術陣の面目躍 如たるものであった。
 更に、統一された作戦部には部専用の大会議室、休憩室、仮眠室等が設けられ、戦時の増員、長期間の作戦での泊り込みにも充分対応可能な体制が 整えられていた。この休憩室を始めとする生活施設は作戦部に限らず部局・階等適切な単位で完備され、この完全な二四時間体制の勤務に対応する「世界大戦戦 時対応型」庁舎へ、海軍省・軍令部揃って昭和二一年度中に移転を完了した。
 この新庁舎建設は仮設・急造を問わず全国の陸海軍諸機関でも急ピッチで進められ、日本は昭和一九年から二三年の間で急速に世界大戦での正面激突に備えられる足腰を構築して行ったのである。
 ちなみに、この化物じみた新庁舎の設計図を呆然と見ていた首脳部に対して、設計を担当した海軍建設部の技術士官は「建物と思うからいかんので す。全世界での作戦を指揮する不沈の“海軍旗艦”を一隻建造したと思えば良いではないですか」と高言して押し切ったと言われている。

 この自己改造プログラムを構築したのも、やはり「政治的配慮を顧みない」隆山軍事総研出身者の「変人集団」―――当時の海軍省・軍令部の主流派だった。
 彼等が海軍に対して行った「手術」は、ある意味国場以上であった。その一方で良き伝統は可能な限り存続させ、新たな海軍の下地を築き上げて行く。その一つがこの新庁舎建設である。
 「頭はいいが思考回路が特殊」「伝統よりも実質」「性格が悪いが有能」「和よりも理を尊ぶ」「海大にいける頭脳を持っていながら受験を拒否した 硬骨漢」―――彼等を評した様々な証言である。だが共通なのは、「海軍の欠点を知りながら海軍が、そして海や軍艦が好きな連中」と言う評価だった。彼等は ただの変人集団ではなかった。
 この企みは部内の横の繋がりを促進し、海兵出以外の視点からの「モノの見方」を作戦に取り込み、更に女子職員の存在は部内の空気に明るさを与えた(中には女子事務員を口説き落とし、自分より若い父親に土下座して、遂に遅い春を迎えた古参中佐の班長が居るとか)。
 単なる増員にとどまらない海軍省・軍令部の改革は、様々な副産物を生み出しつつも成功と評して良い結果を得た―――そして、それはそのまま第三次世界大戦以降の全世界への兵力展開にも活かされて行くのである。

 そして第三次世界大戦後。
 戦後と同時に定まっていた「日独冷戦」の構造―――その火花が北米大陸とドーバー海峡から全世界にまで拡散した昭和三〇年代以降、「明らかな事 故」ではない「明確な対抗意思」による偶発衝突が多発する様になると、万全の防衛体制を整えた本土もまた「即応体制」の徹底が必要となった―――全面反応 兵器戦争を行えないが故の巨大な常備軍を全世界に展開する帝国三軍(後四軍)を常に完全制御し、一刻の遅滞も無く後方支援を果たし得るべく備える必要性が 高まった時、日本は比較的迅速に体制構築を達成した。
 その背景には、この昭和一九年以来の積み重ねがあったのは間違いない。


状況:1903

 そして、夕方と言われる時間が過ぎた頃、私は駐輪場の自転車を引っ張り出し、家路に着いた。
 自転車はゆっくり漕ぎつつ、しかも寄り道までするので家に帰り着くのは二、三時間後と見込んでいる。
 鎮守府の敷地内は不夜城に近い。屋外照明も多く道も広いから夜道の自転車だろうと何の不安も無い。
 それは、鎮守府の検問所を出てもあまり変わらない。橋も含めて隆山湾西岸のこのあたりは海軍専用道路に近い様相を呈しているからだ。
 検問を抜けて橋を渡る途上で、上空に轟音が響き渡った。朝方は気にも留めていなかったが、遥来入江の西にある飛行場―――ノースロップ・ホルテン・エンタープライズ・ジャパン(NHEJ)の社有飛行場に向かう飛行機がこの上空を良く航過するのだ。
 全長四五〇〇メートルに達する長大な滑走路二本を備えた日本最大の航空機工場。鎮守府・来栖川の造船・そしてNHEJの航空機―――人口四九万 人の大都市・隆山を支える主要産業の一つにして世界最先端の―――そして異端ですらある全翼機を全世界に「布教」している巨大航空機産業の「要塞」がそこ にはある。


 ノースロップ・ホルテン。
 その名は或る者には聖書の一節の如く、そしてまた或る者には恐怖の代名詞の如く響く。
 航空機産業に於いて、「全翼機」と言う異形を一つの宗派として信奉し―――そして「▲」をホーリーシンボルの如く世界に布教した会社である。
 そして、中立国の雄・西班牙の国営企業と言う殻を脱して今や押しも押されぬ多国籍企業として実績と信頼―――そして「▲」に対する信仰を積み重ね、今や航空機事業に留まらない多角的経営を成功させている一大企業体となっている。
 彼らが日本に巨大工場を置くに当たって、この地を選ぶまでには様々な経緯があったと言うが、それを全て語るには一書を以てなお余りある。
 この地との関わりに限れば、第三次世界大戦前夜、萱場製作所航空機部に、当時は過大と言う他無い広大な敷地を売却した隆山の素封家がいた事を挙 げれば良いだろうか。時の当主が霞ヶ関の大改革―――人によっては大改悪とも言われるが、これによって風通しが良くなった事は確かであった―――に疲れた 企画院官僚で、民間転向を志した事が全ての始まりであった。なお、この動きの背景に柏木家は一切関与していない―――と、言われてはいる。しかし、この素 封家の家が遥来入江に本宮を置く隆山水師神社の氏子であり、例祭には本宮参拝を許される家であった事は述べておこう。
 彼の民間転向は大成功し、日本に進出したNHと萱場の後身・NHEJの合併に貢献し、NHEJ最重要の幹部の一人にまでなった―――官民人材交流に大きな風穴を開けたのは彼だ、と一部の政経学者は主張しているほどの成功であった。
 そして平成の御世、広大に過ぎた筈の隆山工場には世界の殆どの航空機を受け入れる事の出来る巨大飛行場と製造のみならず整備にも余裕を持って対応可能な巨大工場施設群が並び―――数万人の技術者を擁する世界でも屈指の航空機工場としてそこに存在している。


状況:1929

 そうこう考えている間に橋を渡り終え、坂を降り切ると、今度は真正面に能登 線を走る通勤電車から漏れる車内灯を見ながら自転車を漕ぐ事になる。日頃通勤のお世話になっているあの鉄道も、海軍と言うお得意さんが存在するからこそ終 点の輪島まで電化され、特急すら一日に何本か走っているが、もし隆山に鎮守府が無かったらどうなっていただろう。
 そうなったら、完全軍用線の能登支線が甲砲台址より先―――能登半島の先っぽまで延びたとしても、不採算路線となって売却されるか、廃線になっていたかもしれない。
 そんな憂鬱な想像をかき消してくれるかの様に鉄道の汽笛が鳴り響いた。前方では客車併結の長い貨物列車が鎮守府に向かって驀進していた。アレだけ喧しく汽笛を響かせると言う事は、臨時運行の軍用列車なんだろう。
 その列車が視界の右端から消える頃、自転車は造船所を左手に見る所まで辿り着いており、左折するべき丁字交差点の信号が丁度青に変わった。


 能登半島の鉄道路線は、基本的に海軍を中心に存在していると言って過言ではない。そして海軍をこの地に導いた一つの要因もその鉄道である。明治 三〇年、柏木家が出資して隆山〜津幡を繋ぎ、北陸線と接続される私設鉄道を敷設。この後も急ピッチで路線が建設され、明治三二年には隆山港支線及び和倉温 泉、更に明治三四年に遥来入江を迂回して中島へ進み、明治三七年早々に鹿島崎の中央部―――後の隆山鎮守府・隆山海軍工廠付近にまで到達していた。これ が、海軍の鎮守府候補地変更の大きな要因となったのである。
 しかし、その後は鎮守府の存在故に鉄道敷設は難航した。
 鉄道に適した隆山湾沿岸の平地は軒並み海軍に譲渡された為山間部に敷設せざるを得ず、また中島から先の鉄道路線は軍用地を走っている事から海軍 に引き渡され、中島駅の手前から新たに新線として敷設しなければならなくなってしまった。結局、鹿島崎・穴水湾の西方を通り中島〜輪島の鉄道路線が開通し たのは、鹿島崎到達から実に一五年後、大正八年の事になる。
 また、奥能登と言われる能登半島東北部・能登半島東岸側の鉄道敷設は海軍鎮守府と言う「障害物」の出現により完全に頓挫し、海軍の軍用鉄道が 隆山湾北東部の甲地区に延長されたのみで、民間に対するこれの開放も制限の厳しいものであった。結局、奥能登の住民たちは数少ない道路を利用する他無く、 早くから自動車の普及率は日本でも有数の高さを示すようになった―――公共交通僻地としての認定を受け、自動車取得にかかる規制緩和もこれを後押しした。
 なお、柏木家が敷設した津幡〜鹿島崎間の鉄道は、「大正の大改軌」に於ける日本標準軌一〇六七ミリから国際標準軌一四三五ミリへの改修工事 と、その後の複線化工事に十分に耐え得る路床を備えていた事から、大正年間に国際標準軌での複線化を完了した。逆に国有化後の敷設である鹿島崎〜輪島間や 北陸線の改軌完了を待つ為に、日本標準軌用の補助レールを設け三本レールでの営業を暫く続けたほどである。
 そして現在、能登線は津幡〜輪島を結ぶ能登半島の基幹交通として全体的には黒字収支を維持している。とは言え稼ぎ手は隆山湾南岸に設けられた 四大産業―――隆山鎮守府と来栖川重工隆山造船所、ノースロップ・ホルテン隆山工場等への資材運搬や周辺住民の通勤の足として、そして和倉温泉への観光ア クセスとしての利用であり、穴水〜輪島については収支は微妙と言われ続けて来た。しかし近年、「能登空港」誕生に併せて能登線は空港までの新線を開設、同 空港利用者増大との相乗効果により、遂に不採算路線からの脱却を果たしている。
 ちなみに、周辺自治体では「これを機に、昭和三九年電化完了以来の宿願たる穴水〜輪島複線化を」と意気込んでいるが、公共事業の主体が航空宇 宙・電子産業関係に移行し、鉄道や道路の新設と言った土木事業が縮小の一途を辿る平成の御世では「流石にそれは無理」と言うのが運輸交通省他行政側の見解 となっている。


状況:1945

 造船所沿いの道を、やはり鉄道と併走しながら東へと向かう。造船所はところ どころで昼夜兼行の工事が行われているが、半分以上は照明も乏しく、明日の操業開始まで静まり返っている。広大な工場が闇に包まれている光景は、霊的な恐 怖をあまり信じていない身としても気持ちの良いものではないのは事実だ。まるで何か事件の舞台にでもなりそうではないか。
 幅広の歩道上で、ゆっくりと自転車を漕いでいる私を追い越して行く車の中から、崩した敬礼や軽く手を上げて会釈して行く人達を何人か見る―――大抵は知り合いの海軍関係者だ。
 そんな追い越しに幾度か答礼―――相手の方が階級が高い場合もあるのだが仕方ない―――を返し、全長五キロ、片道四車線の造船所通りを抜けた所で、自転車を朝とは逆の方向に向ける。
 行き先は和倉温泉―――鶴来屋だ。


 鶴来屋。
 隆山和倉温泉郷で最大の旅館にして、隆山市を中心に旅館・観光業のグループを形成している柏木家にとっての、最後の「領土」でもある。
 海岸沿いの広い敷地に十数階建の本館と二つの別館、そして数棟の分館を置き様々な要望に応え得る多様な設備を備えるこの巨大な複合宿泊施設群 は、昭和三十年代に鶴来屋グループ総裁・柏木耕平が進めた事業拡大によってその基盤を築き、今や二十年にわたり「日本随一」の旅館としてその名を知らしめ ている。
 しかし、鶴来屋は単なる巨大旅館ではない。明治以来連綿と続く日本海軍との強い絆が、この地域観光業者を特異な存在に変貌させていた。
 一つ。鶴来屋は海軍旅館であり、海軍将兵の宿泊・滞留に便宜を供する―――だが、海軍旅館ならば(規模こそ違え)日本全国、そして世界各地にすら存在している。
 一つ。鶴来屋は海軍に協力し機密保持と保安措置に協力し、必要な情報を供する―――しかし、その程度の事であれば日本の殆どの組織・個人が協力を惜しまないだろう。
 そして最後の一つ。鶴来屋には政府・軍が極秘裏に認める武装戦闘組織を置き、隆山和倉温泉郷の警備・治安維持にその戦力を供する―――この様な組織を供える旅館が、日本に二つとあるだろうか。
 銃刀法により軍・警以外の武器所持を厳しく制限される日本国内では、民間の武装組織が存在する事自体が不可能に等しい―――官公署を除けば数件の例外的存在が在るのみで、それとて極秘裏に認められているに過ぎない。
 その例外的存在の一つが鶴来屋に陣を構える「鶴来屋海軍メイド教導分隊」であり、それを指揮下に置く「鶴来屋海軍メイド総隊」なのである。
 戦闘要員四十名以上、予備・支援要員含む二百四十名以上と言う規模にも、装甲車・重火器・航空機と言う装備にも驚愕するが、何よりも驚くべきはその構成員が悉く女性のみであると言う点だろう。
 特殊部隊「海軍特務陸戦隊」と同等若しくはそれ以上の装備を手にする彼女達が纏うは濃紺のメイド服―――それさえも高い防御力を備える戦闘服で あり、世界で最も美しい戦闘部隊と「恐れられる」彼女達が鶴来屋で組織され、「普通の海軍旅館」ではなくなったのは昭和二〇年代の事であった。
 だが、強固な統制系統と徹底した訓練により鍛えられた彼女達は優秀な旅館従業員でもあり、その実績が鶴来屋の旅館としての品格・質実の向上に貢献した事もまた確かなのである。それが鶴来屋の事業拡大の原動力となり、日本有数の規模を誇る複合宿泊施設群へと発展させた。
 以来五十有余年、鶴来屋は「隆山最大」にして「日本随一」、そして「日本最強」の旅館として今ここに存在しているのである。


状況:2006

 自転車で三キロも進むと、鶴来屋の旅館群が事細かに見えてくる。
 遠目にも場所が判る十五階建の上に、更に和洋折衷の特別室を設けた「本館」
 比較的低層だが、和風の趣を前面に押し立てた第一別館「月夜花」
 そして、やはり本館よりは低く、その代わり敷地面積を多く取りヴィクトリア朝英国期の建築に通じる雰囲気を醸し出す第二別館「萌の風」
 そして本館周辺は正面の迎賓ホール棟、別館群との間に設けられた物販・飲食棟「錦大路」、敷地端で目立たぬ様に質素な外観を見せる管理棟(それでも並みの旅館よりは大きい)、海岸沿いに設けられた離れ等の分館群が囲んでいる。
 正門の前までたどり着いた頃には、それらの建物や、本館と別館を繋ぐ敷地内の空中回廊、別館周辺の建物にも煌々と灯りが点され、鶴来屋の繁盛振りが見て取れる。
 だが、私は別に泊まるつもりでここに来た訳は無い―――鶴来屋はその広さ同様に部屋の等級も幅広く、一泊百万円近い部屋もある代わりにそれなり の値で泊まれる部屋もあり、無理な値段になる事は無い。が、隆山市内に自分の部屋があるのにわざわざそんな勿体無い事をする必要は一切感じない
 では、何故か―――。
 それは、ここで開かれる「会合」に参加する為だ。
 自転車を預け、フロントで幾ばくかの金を支払うと、入浴用の手拭等一揃いを受け取り大浴場に向かう―――鶴来屋では宿泊客以外の利用者にも浴場を有料で開放しており、その恩恵に言葉通り浴そうと言う魂胆だ。
 自宅の落ち着くが狭い風呂と比べ様の無い、壮大無比な大浴場で小一時間ほど温泉を堪能し、更に三十分ほど時間をかけて体を冷ます。
 それから向かう先は、錦大路の一角―――海に面する「四季亭」。それ単体が一軒の料亭に匹敵する面積を持ち、また稀有の特徴を有する割烹だ。

「いらっしゃいませ」
「お邪魔しますよ」
 いつもどおりの挨拶で出迎える店員に、いつもどおりの挨拶で応える―――殆ど毎日来ていると言うにも拘らず律儀なものだ、と感心しつつ。
「おや、先任がこちらの配置とはお珍しい。式の準備とかは整ったので?」
 ―――まあ、殆ど毎日通っていればここで勤めている店員の顔や名前は大体見当がつくもので、諸々の情報系統を通じて彼女達の素性等も知れて来るようになる。
 で、こんな事を言えば如何反応するかも大体見当はつき―――手を胸の前に組んで顔は真っ赤。うん、予想通り。
 ―――一瞬、垂れた犬の耳の様なものが見えた気もするが、敢えて私はそれを無視し、話を続けた。
「ま、何にせよ目出度い事は良い事です。お祝いの一つも出させて頂きますよ―――ま、大した物は贈れませんけど」
「まあ。ありがとうございます」
 幸せの絶頂にある―――幼馴染同然の若者との挙式間近の「先任班員」は、素直に祝いを受けてくれた。うん、やはり根がまっすぐなこの人らしい反応だ。
 ―――一瞬、犬の尻尾の様なものが振られていた気がしたが、敢えて私はそれを無視し、話を切り替えた。
「で、今日は誰が来てます?」
「今日は、幹事様がお見えになってます」
 む。時間の割に集まりは遅めか? そんな事を考えていたが
「それから先程お二人お見えになられて、お風呂に行かれるとかでお出かけになったようです。あの足音は確か―――」
 すると三名、まあ妥当なところか―――と勝手に結論付ける。
 ―――一瞬、何故足音で人物が特定出来るのか疑問を感じたが、敢えて私はそれを無視し、注文を頼んだ。
「諒〜解。それじゃいつものヤツを三本ほど。あと今日の分隊長のお勧めを一つ宜しく」
「はい、かしこまりました。ごゆっくり」
「…ありがと」
 …「ごゆっくり」―――ね。毎度毎度の惨状を思えば皮肉とも取れる「海軍メイド先任班員」の挨拶を背に、若干苦笑しつつ障子を開けた。


 割烹「四季亭」の有する「稀有の特徴」―――それは、ここが「海軍メイド割烹」と呼ばれ、メイドによる給仕が行われる割烹と言う事である。
 元々、この「四季亭」は錦大路開業以前から離れを使った料亭として存在していたものである。
 しかし、前述の通り海軍が完全な二十四時間体制に移行して後―――特に戦時には―――海軍に連なる諸機関もその二十四時間操業に付き合う必要性を求められ、鶴来屋も可能な限りそれに随伴するべく宿泊受付や食事の供給について終夜営業の体制を構築した。
 とはいえ、通い勤務が大半の民間企業で完全なそれに随伴するのは不可能―――として、また、当時宿泊施設から最も遠隔の場所に存在していた「四季亭」がその終夜営業施設として選定されたのである。
 当時は超高級料亭であったが、終夜営業の唯一の施設としては高級に過ぎ、また要員も足りなかった。
 そこで、当時から完全寄宿制であった鶴来屋海軍メイド総隊がその業務の支援要員として、夜間の比較的簡素かつ低廉な価格での利用者に応対するべく当直制をとって「四季亭」の営業に協力する事になったのだが―――

 ―――これが、異常なほどにウケてしまったのである。

 料亭と言う高級感と和風の空気に、完全洋装のメイド―――そこに出入りするのは和洋折衷に抵抗を感じない日本人。ましてや海軍メイドと言う制度に親しんだ海軍軍人である。
 そして、それなりに年数を重ねた下士官でも利用出来るような価格設定となっていた夜間営業時間帯には、海軍奉職当時から海軍メイド達が居た―――と言う事で全く抵抗の無い若手の海軍軍人が大挙押し寄せる。
 これらの現象が一過性で無い事を確信した鶴来屋は、錦大路の建設に当たって「四季亭」も錦大路から入る形にしつつ、高級感をそのままに規模を拡大した離れに置く事とした。
 更に当初から二四時間営業を前提に諸設備を整え―――海軍メイドによる給仕・接遇に最適化された。勿論、ごく一般の料亭の如く完全和風の接遇も可能だが、現在ではそれには事前の連絡が必要と言う、なんとも本末転倒な状態が一般化している。
 だが、今やその本末転倒も、いや違和感そのものさえも伝統と風格を纏っているのである。