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巡洋艦〈ブリュッヒャー〉撃沈

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巡洋艦〈ブリュッヒャー〉撃沈

jANIS・ivory「とらいあんぐるハート」御剣 いずみ&菟 弓華

池上 司『雷撃深度一九・五』新潮社/文春文庫


プロローグ


 艦隊旗艦より、反転の命令が発せられた。
 このままレイキャビク泊地に突入するのではなかったのか?重巡〈ブリュッヒャー〉艦長は艦橋へ反転を命じ、今まで詰めていた戦闘艦橋から防空指揮所へと駆け上がった。防空指揮所は荒れる風雨と波の飛沫のまっただ中にあった。
 旗艦〈木ノ下《フォン・ファルケンハイン》貴子〉は確かに反転運動をおこなっていた。縦列を組んでいた戦艦群もまた、変針点で旗艦に追随すべく運動している。その向こうでは、黒煙を吐いて沈没しかかっている重巡が見えた。〈日野森《プリンツ・オイゲン》美奈〉だ。さらにその向こうには日本軍と英軍の空母がいる。駆逐艦と、水雷艇らしき小艇が走り回っているのが確認できた。赤い丸を横腹に描いた攻撃機が〈ブリュッヒャー〉の上空を航過していった。蛇の目を付けた攻撃機が〈木ノ下《フォン・ファルケンハイン》貴子〉に機銃掃射をかけている。
 猛獣使いに鬼女か。なるほど、奴らが現れては司令部が怯えるのも無理はない。しかし、これでは作戦目的を果たせなかったことになる。レイキャビクまで、あと20海里。水上戦力をすりつぶしてでも戦艦を送り込もうとした結果がこれでは、第1航空艦隊と独仏合同艦隊の犠牲に対して、どう言い訳するのだろう。艦長はひとりごちた。
 防空指揮所から空を見上げる。鉛色の厚い雲と白く冷たい雨。この空は大陸にも続いている。
 故国は遙か遠く、大陸の東の果てにあった。常につけている白手袋の下で、左手の甲の龍の入れ墨が痛んだ。

 レイキャビク沖より反転した艦艇は、カテガット海峡を抜けたあと各々の母港に戻り、〈ブリュッヒャー〉はキールへ入港した。そして、海軍総司令部の命令でドックに入渠した。


第一章 出港

伊号523:レイキャビク 1952年4月2日


 艦体は凹凸のある灰色の塗料で塗られている。水中音波探信儀対策で、セメントにゴムを混ぜた吸音ゴム塗装が施されているのである。艦橋側面には、艦名を示す「イ523」と菊水紋の脱着式標識と、ひもで留められた日章旗があった。昨日の雨が艦体をぬらし、いるかの肌のように鈍く輝いている。
「よろしく頼む。少佐」
 見送りに来ていた潜水艦隊司令が、申し訳ないように御剣に声を掛けた。
「心得ております。潜水艦は忍者のようなものですし、X艇(〈潜龍〉)母艦の任務は3回目ですから」
 第3次世界大戦終盤、〈伊523〉は英軍のX艇をドイツ本土近海に運ぶ任務についていた。今や大西洋を横断する欧州連合の船舶は殆どなく、沿岸部をほそぼそと運行するだけになっていた。潜水艦による通商破壊はドイツ人の専売では無くなっていたのだ。そして沿岸航路をゆく船舶を攻撃するには、水中高速潜型の伊号潜水艦は大きすぎた。そこに海中戦闘機とも言うべき、X艇こと〈潜龍〉の出番が回ってきたのである。
 潜水艦隊司令が申し訳なさそうにしているのは、撃沈トン数が十数万トンに達している艦長と潜水艦に、X艇4隻の運搬の役目を負わせたからだ。さらに古参兵数名が異動で引き抜かれ、実戦経験の無い新兵が配属されてから日が浅い。まだ訓練途上にあるべきなのだった。ローテーションの関係で致し方なく、こうなってしまったのだが。
「燃料、糧食、魚雷、及びX艇の搭載完了。乗員90名、英海軍X艇搭乗員16名、異常なし。出航準備完了。手すき総員、後甲板に集合しております」
 出迎えた先任将校が報告した。
 乗組員の顔を一渡り見回した御剣は、戦局の優位さからゆるみがちな乗組員の気を引き締めるべく口を開いた。
「聞け」
 甲板上の一同は一斉に気ヲツケの姿勢をとった。
「この期におよんで、あえて付け加えることはない。この戦争も4年続いた。戦局は皆も知っての通り、我が軍に有利である。しかし、ひとたび出撃すれば、我々潜水艦搭乗員には生か死かのどちらかしかない。それを決するのは、貴様ら一人一人の一挙手一投足である。本職が艦長として求めるのは、いかなる事態に直面しようとも、最後まで軍人の職分に忠実であれ、ということである。では出航する」

 御剣が艦橋から見回すと、すでに艦首と艦尾には甲板員が係留索にとりついて待機していた。
「航海長。出かけよう」
 うなずいた航海長は無電地電話を取り、ブザーを鳴らした。
「出航準備。機関室、両舷機始動」
 2基のディーゼル・エンジンは一斉に始動した。排水量2140トンの大型潜水艦が身震いする。航海長は発令所に滑り降りると、電話に向かった。
「管制盤室、報告せよ」
「現在、蒸気20パーセント。発電機よし」
「機関室、報告」
「機関室、第1、第2ディーゼル・エンジンよし。第1タービンよし」
「聴音室」
「聴音室、海面および湾内にスクリュー音なし」
「電探」
「電探、湾内に行動中の艦船なし」
「航海」
「航海班、羅針盤点検終了。針路設定完了。航海配置よし」
「操舵員」
「縦舵、よし」
「潜横舵、よし」
 航海長は電話で艦橋に立つ御剣に報告した。
「出航準備よろし!艦内異常なし。各部正常」
「信号長。総員配置につけ」
 スピーカーががなり立てた。
「総員配置につけ!総員配置につけ!出港用意!総員戦闘配備!」
 桟橋に立つ潜水艦隊司令の声が凛と響いた。
「軍楽隊、吹奏!」
 軍艦マーチが鳴り始める中、御剣はメガホンをとって前甲板と後甲板に「上甲板員舷梯はずせ」「係留索放し方用意」と、矢継ぎ早に命じた。
 〈伊523〉は、曳船の助けを借りて、ゆっくりと離岸した。目指すはエルベ河口海域。そこでX艇を分離し、ドイツ沿岸の船舶を攻撃するのである。

 しかし〈伊523〉は北海へ向かわなかった。当日の定時交信で任務変更が伝えられたからだ。それによれば、指定された期日までにニューファンドランド島沖の海域に到達した後、現れるドイツ艦を必ず撃沈せよ、というのである。指定期日の4月7日に間に合わせるべく、〈伊523〉は水上高速航行でカナダへと向かった。X艇は投棄しなかった。北大西洋の制空制海権は枢軸側が握っている。敵機が現れる心配はなかった。


囁き:ベルリン、東京


 〈伊523〉が受けた命令の裏側にはドイツ国内の或る事情が絡んでいた。国土を黄色人種に焼き払われつつあるヒトラーが、事態を一挙に改善すべく新たな反応弾の使用を決意したのである。
 目標はグアンタナモ。ドイツが占領しているアメリカ東部よりA11弾道弾を打ち込み、グアンタナモに集結している枢軸軍を焼き払う。そうすれば物資の中間集結地点を失ったアイスランドは弱体化し、アイスランドを後方拠点としている英国本土奪回軍もまた立ち枯れる、という目論見であった。
 しかし北米総軍のマンシュタインは、それを望まなかった。ミシシッピ川を挟んで安定している北米戦線で、枢軸軍の大規模な報復攻撃を招きかねないからだ。ドイツ国内でも、国防軍は言うに及ばずナチス高官ですら望んでいなかった。有り体に言ってただヒトラーのみが叫んでいた。東京が反応弾攻撃には反応弾で報復すると宣言したことを、総統は忘れているのではないか、と皆が疑っていたが確認しようとするものはいなかった。夜半にゲシュタポの訪問を受けることなど、誰しもが望んでいない。
 しかし、このままではキューバで反応弾が炸裂してしまう。すでに二つの都市を焼き払われている日本が報復を躊躇するとは思えない。となれば、北米本土までのどこかで、反応弾が消えればよい。
 そして枢軸側へ情報が漏らされた。中立国スウェーデンの首都ストックホルムには様々な種類の人間が集まっていた。人種と政治的立場も入り組んでいる。日英の情報組織も確認されている上に、第三国を通じて枢軸に情報を売る可能性のある人物はゼロとはいえない。あとは、誰かが外交官主催のパーティで反応弾のことを囁けば、自動的に事は進む。
 枢軸軍でも事情は似たようなものだった。声高にドイツ本土への反応弾先制攻撃を叫ぶ日本の参謀団を押さえたのは英国の参謀団だった。
 なによりも大切なのは情報の出所を隠すことだ。英国は欧州内に張り巡らした情報網を危険にさらしたくなかった。ドイツの(ヒトラーの、ではない)過剰反応を招きかねないことは慎むべきとも判断している。ブラウ・サロンやカナリス提督など、いくつかの反ヒトラー、反ナチス組織との接触を経て、ドイツ国内で政変が起きる兆候をつかんでいたからだ。
 あくまでも偶然を装って輸送艦を撃沈すればよい。互いに反応弾を打ち合い、後に残るものは何か、と問われれば威勢の良すぎる日本の参謀とて黙らざるを得なかった。
 つまりは潜水艦で迎撃することとなった。そうであれば哨戒中の軍事行動ということで全ては説明できる。枢軸側にとってもドイツ側にとっても、まことに良い案だった。
 迎撃にあたる潜水艦と、反応弾の輸送を行う艦を除けば。


ブリュッヒャー:キール 1952年4月3日


 ドイツ海軍の重要基地であるキール軍港は閑散としていた。ここを主基地としていた高海艦隊が、新たに建設された根拠地リガに移動してしまったからだ。
 そればかりでもないな。〈白河《アドミラル・ヒッパー》さやか〉級重巡〈ブリュッヒャー〉艦長ト・ユンファ(菟弓華)大佐は思った。負けかかっているという認識が、そのように意識させているのだ。よく見れば、偽装されている駆逐艦や水雷艇、輸送船がそこかしこに停泊している。
 しかし、港内には〈ブリュッヒャー〉以上の行動可能な大型艦が存在しない。背後の海面では〈縁《デア・フリート・ランデル》早苗〉が横転して暗赤色の艦底をさらけ出している。あとは動かす燃料が無くなり防空艦となった〈エーディリヒ〉型装甲艦の〈ノエル・エーアリヒカイト〉と〈イレイン〉が、廃艦になったかのように見せかけるため、赤錆色の塗装と偽装網を施されてもやっているだけだ。
 キールの市街地は枢軸軍の無差別爆撃を受けて廃墟と化している。もはや、ドイツを守るべき海軍は弱冠の水上艦艇と潜水艦を除けば壊滅した。1月の「北の暴風」作戦で作戦艦艇の大半をすり潰してしまったのだ。戦艦部隊が生き残っているとはいえ、バルト海の奥地に逼塞して出撃もできないでいる。
 かつて「アドルフの浴槽」と呼ばれた北海の制海権は枢軸軍が握っており、大型空母11隻からなる機動部隊と高速戦艦6隻の水上砲戦部隊、そして英国本土奪回軍を援護している英米の戦艦数隻が展開している。
 哀れなまでに戦力を減らしたドイツ海軍が挑めるものではなかった。

 そんな荒廃した雰囲気が漂うキールの22番埠頭では、重巡〈ブリュッヒャー〉が出港準備を開始しようとしていた。命令を伝える号笛が鳴り響いたのは午前3時30分だった。
「艦内に達する。各科長は出港準備を始めよ。第1分隊は後甲板に集合。航海関係員および錨関係員は配置につけ」
 艦長のト・ユンファは、代用コーヒーの入ったカップを片手に、艦橋でアナウンスの流れるスピーカーを眺めていた。
 彼はドイツ人ではない。中華民国出身の海軍軍人である。ドイツの潜水艦戦技術や対潜戦術を学ぶために派遣されたのだが、留学中に大戦が勃発し帰国の機会がつぶれてしまったのだ。そしてレーダー提督やデーニッツ提督の厚遇もあり、ナチ党の白眼視にもめげずに、ドイツ海軍の数少ない対潜戦術のエキスパートとして輸送船団の護衛や日英の潜水艦狩りを着実にこなしていった。ドイツ人は潜水艦の運用に長けながら、逆に対潜水艦戦を苦手としていた。
「さて、諸君!」
 ト・ユンファ艦長は振り返り、集合した士官全員を見渡した。
「本艦は、0800時、ここキールを出港し、運河を通って北海に抜けた後、全速にてフィラデルフィアを目指す。これから搭載する或る貨物を北米に届けるのが目的である」
 士官たちは顔を見合わせた。敵制海権内を強行突破するのだ。さらに、軍艦が物資輸送に使われるという。軍艦には貨物を搭載するスペースは僅かしかない。物資輸送には輸送船を使用した方が遙かに効率的なのだ。
「残念ながら私は、任務についての詳細を明かす権限を与えられていない」
 違和感のある任務だが、納得して事に当たってもらわなければならない。ましてや親衛隊がからむ仕事なのだ。
「何か質問は?」
 ヨハネス・フリン副長が、皆を代表して尋ねた。
「一体、その貨物は…?」
「親衛隊が関係している。といえば見当がつかないかな?他には?」
 皆が顔をしかめた。同時に得心した。奴らが絡んでいるとなれば、「あれ」しかあり得ないのだ。
 ト・ユンファが見回すと水雷長で先任将校でもあるヤーコブ・スタントン中佐が口を開いた。
「今回のドック入りで、爆雷関係の追加装備や、バルコン・ゲレート、Sゲレートの最新型への入れ替えを実施しましたが、今回の任務と関係があるのでしょうか?」
「いい質問だ。今回の航海に、護衛の駆逐艦は随伴しない。物々しい護衛をつけたのでは宣伝して歩くようなものだ。単艦で強行突破した方が成功の確率が高い。本艦が全速で突っ走れば、高速戦艦といえども追いつけるものではないしね。航空機については、気象局が欧州近海では数日は天候不順が続く、と言っている。後は潜水艦だが…」
「だからバルコン・ゲレートを新しくしたのですね」
「そうだ。万一の用心に爆雷戦も可能にしたわけだ」
 副長が反問した。
「しかし、本艦は今まで爆雷設備が無かったため、対潜水艦戦は訓練すらしたことがありません。果たして対処できるでしょうか」
「私も、本艦を預かる前は水雷戦隊の指揮を取っていたし、副長と水雷長は二人とも駆逐艦艦長の経験者だ。対潜水艦戦に素人ではない。水測関係と爆雷投射班はベテランを優先して回してもらった。今回の輸送にあたって、海軍総司令部でずいぶんと前から方法を見当していたそうだ。戦艦では目立ちすぎて狙われやすい。駆逐艦では貨物を積載するスペースが無い。重巡ならば、速度も積載場所の点でも、総合防御力の点でも申し分ない、というのが作戦本部の見解なんだ。対潜水艦戦闘では十分とは云えないかも知れないが、撃沈を目的としなくていい。我々が安全な海域へ進むまで、敵を海底に釘付けにして、魚雷を発射させなければよい」
 副長と水雷長は顔を見合わせた。「不可視の力」と恐れられている、枢軸軍が投入している謎の潜水艦(反応動力潜水艦)が思い浮かんだが、それはここ数ヶ月現れていない。
「まあ、悪いことばかりでもないな。この任務のために、本艦は能う限りの整備を受けられたし、燃料弾薬も優先して支給された。新造以来、これほど良好な状態は初めてじゃないかな」
 艦長は笑みを浮かべつつ言った。枢軸軍潜水艦部隊に「凶手(マーダー)」と怖れられている人物だけが持つ、自信と迫力が士官達を安心させた。そして一同は沈黙した。
「積載する貨物は、親衛隊のトラックで0400時に到着する。航海長は第4分隊を指揮して遺漏無きよう、速やかに積載してほしい。では、解散」

 午前四時。静まり返ったキール軍港に、オペル社製トラックのエンジン音が響いた。ヘッドライトは灯火が漏れないようにしてある。夜明けが近い空は、エルベ川沿いの都市ハンブルクの炎上している様が雲に反射して、おどろおどろしい様になっている。
 航海長ヤーニー中佐と第4分隊は舷梯を降り、22号岸壁に整列して〈ブリュッヒャー〉に持ち込まれる「貨物」の到着を待ちかまえていた。ヤーニーは、爆撃で親衛隊のトラックが吹き飛ばないかな、と考えていた。埒もない考えだが、「貨物」が使われた後、ドイツ本国がどうなってしまうかなど考えたくないからだ。
 だが、ヤーニーの密かな願いを裏切ってトラックは到着した。2台が連なってヤーニーの前で停止する。大隊指揮官(少佐)と高級中隊指揮官(大尉)の一般親衛隊(アルゲマイネ)の階級章をつけた二人の男が、それぞれのトラックから降りた。
 ヤーニーは彼らに分からないように溜息を着いたあと、敬礼した。
〈ブリュッヒャー〉のハンス・ヤーニー中佐です。積載作業のため、第4分隊を率いてお待ちしていました」
 少佐は答礼したが、無愛想だった。
「親衛隊の大隊指揮官、ロベルト・ファルマンだ」
「同じくヤーコブ・ノルマン高級中隊指揮官」
 ファルマンは事務的に話し始めた。
「早速だが、積載作業を急ぐように。貨物は二種類計六つ。先頭車両のものは、木製梱包されているので、クレーンで吊り上げて適当な場所に固縛すること。後方車両の積載物は金属製シリンダーが三つ。なにか、適当な棒を通して持ち上げれば、二人がかりで運べる。これは施錠できる部屋に保管すること」
「了解。コワルスキー一等兵曹は兵2名をつれて後ろのトラックの貨物を参謀室へ運べ。あとの者は前のトラックの貨物を搬出し、後甲板への積載作業にかかれ」
 第4分隊はもっとも訓練された甲板分隊で、瞬く間にガントリー・クレーンを引き出して、荷物を吊り上げ、甲板へ固縛してしまった。最後の金属シリンダーが舷梯を渡り終える頃には、全ての作業が終了していた。
「参謀室とは、この艦のどの辺りか」
 ノルマン大尉が不安になったのか、ヤーニー中佐に尋ねた。命令口調だが。
「今、案内します。本艦右舷の01甲板にあります。緊急時には素早く搬出できるよう、内火艇のすぐ側です」
 ヤーニーは宿泊する部屋を案内するべく、先に舷梯を昇った。
「親衛隊のお二方には個室を提供できますよ」
 しかし親衛隊の二人は、先に参謀室を見たいと主張した。参謀室ではモーア少佐が、船匠兵2名と共にシリンダーを部屋の中央に置き、鋼鉄製のストラップで固定しようとしているところだった。ファルマンは部屋を見回した。
「ストラップに施錠できるか?」
「できます。部屋に鍵を掛けるだけでは安心できませんか?」
 モーアが思わず反問した。親衛隊将校への反発が口調に出ている。
「もちろんだ。我々二人も、この部屋を使わせてもらう」
 親衛隊の大隊指揮官は、強い調子で言い放った。

 午前八時。〈ブリュッヒャー〉は軍艦旗掲揚と同時に錨を上げた。曳船に引かれて離岸し、北海バルト運河を目指した。北海へ出たあと、高速航行で一息にノルウェー沿岸のハルダンゲルフィヨルドまで進んだ。
 その後、逆探知装置FuMB28〈ナウシカァD〉を駆使しつつ、大ブリテン島の北のフェロー諸島とオークニー諸島の間の海峡を通り、枢軸軍の哨戒圏をすり抜けて(枢軸軍では故意に哨戒をゆるめていた)、北米フィラデルフィアへ一息に駆け込む進路を進んだ。


第二章 会敵

伊号523:ニューファンドランド沖 1952年4月7日1015時


 この海域について二日が過ぎた。これまでのところ、目標らしき船舶は見られない。夜間に浮上して補気と充電を行っている。夜明けと共に潜航し、潜望鏡深度で遊弋していた。電力保存のため、照明は最低限に押さえられ、電気釜も使用禁止となった。食事は乾パンである。また、酸素を節約するため換気は制限されて、圧搾空気を必要とする便所は水洗が禁止された。艦内は蒸し暑く、汗の臭い、ディーゼル油の臭い、アンモニアの臭いが混じり合い、慣れぬ者は卒倒せんばかりとなっていた。
 ニューファンドランド沖の洋上。〈伊523〉は浮上していた。通常ならば捜索用潜望鏡と電探と逆探のアンテナだけを海面に突き出しているのだが、今日になって捜索電探の故障が判明したのだった。マイクロ波を送信できても受信ができないのでは意味がない。航空機の奇襲をうけるのは願い下げである。あれこれ試した結果、アンテナの腐食が原因と判明した。そしてようやく腐食していたアンテナの交換は完了した。
「交換完了!」
「ご苦労。電探、どうか!」
「はい。動作正常。…対空目標接近!方位098!距離6000!」
 ジェットらしき音は聞こえない。対空目標のいる方位へ向けて双眼鏡を向けた。
「回転翼機です!」
 哨戒員が声をあげた。
「交差翼の…ドイツ機です!」回転翼機は外側に12度ずつ傾けた回転翼を持つ形式だった。交差回転式並列双回転翼は日英米では使われていない。
「急速潜航!」
 直ちに艦橋にいた哨戒直配置の兵が艦内に滑り降りる。全員が降りたあとに御剣が降りた。
「深さ50。前進強速、下げ舵一杯。一番から三番までベント開放!」
 手すきの者たちが艦首へむけて走る。
「聴音より発令所!目標を探知!方位098。距離、針路、速力ともに不明。感5」
「戦闘配置!総員戦闘配置!」

「南へ向かう。敵に近づけるはずだ。速力を4ノットに上げて10分間移動する」
 当直の西村航海長が反駁した。
「もし敵が真西か北西に移動したら敵から離れてしまいます」
「命令はフィラデルフィアに向かう艦船を撃沈せよ、ということだった。もし真西か北西に移動する艦船ならば、それは我々の攻撃目標ではない。目標ならば西南西に針路を取るはずだ」
「は!取り舵一杯!針路180。速力4ノット」
 10分後には結果がでる筈だ。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド沖 1952年4月7日1020時


 〈ブリュッヒャー〉はニューファンドランド島沖に到達した。正確には〈ブリュッヒャー〉がフレットナーFl290〈コリブリ(ハチドリ)供啣鹽祥禝,鬚箸个靴徳以海路を索敵しているところに、浮上航行していた〈伊523〉がでくわしたのだ(〈ブリュッヒャー〉は回転翼機を搭載できるように艦尾に発着艦甲板を設けていた)。〈伊523〉〈ブリュッヒャー〉のFl290に発見された。
 Fl290には、60キロ爆雷3発と磁気探知装置が搭載されている。磁気探知装置があれば、左右200メートルの幅で潜航中の潜水艦を探知することができる。また、回転翼機はラダール・ゲレートの探知範囲外を哨戒飛行することができ、前方索敵に最適だとト・ユンファは考えていた。ために、2機の〈コリブリ供咫▲廛譽筌妊鵝娩紂砲肇劵紂璽殴襦蔑諭砲般症佞韻蕕譴寝鹽祥禝,鬘鎧間毎に昼間哨戒させていたのだ。
 そして〈コリブリ供咾論水艦の発見を〈ブリュッヒャー〉に伝え、さらにハッセルブラッド製偵察カメラによる写真撮影に成功していた。

「艦長!航海艦橋へ!」
 ト・ユンファが航海艦橋へ駆け込むと、スタントン水雷長が最悪の報告をもたらした。
「艦長。昴が浮上中の潜水艦を発見。現在追尾中です。発見の少し前にラダールの電波発振を確認しております。ごく短時間のものでした。あと、昴は潜航前に写真撮影をおこなったとのことです。どうしますか」
「戦闘配置に決まっている。対潜戦闘配備!」
「しかし、敵味方確認がまだですが…」
「こんな海域で味方のボートが潜航しているはずがない!」
 けたたましくベルが鳴り、スピーカがわめいた。
「対潜戦闘配置につけ!繰り返す。対潜戦闘配置につけ!」
 さて。どうする。どう戦う。
「まずは状況把握だ。陵を発艦させて、昴と交代させろ。それから写真を急ぎ現像するように」

 フリン副長が艦橋に現れた。
「写真の現像が終わりましたので、お持ちしました」
「ありがとう。さっき親衛隊の少佐殿が怒鳴り込んできたよ。なぜ速度を落とすのか、とね」
「仕方のない連中ですね。船酔いで寝込んでいてくれれば有り難いのですが」
「ははっ。敵性の潜水艦がいるからと説明して、お引き取りを願ったよ」
 あの連中、私が、母方の祖父が日本人のクォーターだと知ったら、どんな顔をするかな。ドイツ海軍の艦長が日本人の血を引いており、そして日本人を敵として戦っている。世界は何と皮肉に満ちていることか。ト・ユンファは苦笑いした。
「どれ、写真を見せてもらおう」
「はい。日本のエアストクラッセ・テュープ200ゼーリエ(伊号200型シリーズ)ですね。艦体と艦橋が大型化されているので、後期型の400ゼーリエでしょうか」
「うん。英軍のX艇を後甲板に載せているな。北米東岸で特殊作戦をするのか?」
「こちらが艦橋部を拡大したものです」フリンがもう一枚を手渡した。
 いきなり、ト・ユンファはうなり声をあげた。写真には潜水艦の艦橋が写っている。そこには〈伊523〉の御剣がいた。
 彼と御剣とは、ともに江田島の兵学校で学んだ仲だったのだ。

 ト・ユンファの顔から表情が消えていった。目は細められ、きついものとなる。そうか、成る程。敵味方双方が〈ブリュッヒャー〉を沈めようとしている。そう考えれば全てに合点がいく。
 全くの直感だった。しかし鍛え上げられた勘が、それが正しいと告げている。
 護衛がつかなかったのも、デーニッツ提督直々の命令と配慮も、その代わりに高海艦隊司令部が冷淡な態度を示すのもこのためだ。そして、枢軸軍は〈ブリュッヒャー〉の進路前方に潜水艦を投入してきた。
 王朝の害、虎狼より甚だし。中華の歴史上、変わらぬ事実である。代々の王朝は苛斂誅求を繰り返し、為に民は自らを守るべく徒党を組む。それが「パン(幇)」である。
 幇は秘密結社であり、誓約と血盟によって結ばれたそれは、王朝から見れば反乱の温床であった。為に代々の王朝は弾圧を加えたが、それゆえに幇の結束は一層堅くなるのである。
 ト・ユンファは、5才の頃より「龍」と名乗る幇の一員だった。後年、「龍」は国際テロ組織として悪名を馳せ、カウンター・テロ組織と激烈な戦いを繰り広げることになるのだが、この時すでに世界の暗部に棲み場を得ていたのである。彼らにすれば、『家族こそが全て』であり、国家や王朝など頼むに値するものではなかった。頼むべきは『家族』のみ。『家族』は自分に軍人となることを要求していた。だから自分は海軍軍人となった。今の自分がドイツ海軍の軍人であることなど「演じている」役柄に他ならない。
 彼は思考を「凶手」のそれへと切り替え、ドイツへの忠誠心を己の内心から完全に消し去った。ドイツ人の捧げる、ドイツ国家への無条件の忠誠心など愚の骨頂。忠誠を要求するからには、国家や政府は国民の忠誠を捧げられるだけの価値を有することを自ら証さねばならない。そして今現在のドイツが、それに値するものではないことは自明だ。
 それでも自分には〈ブリュッヒャー〉の全乗組員、そして乗り込んできた親衛隊の客人と「貨物」に対して責任がある。なんとしてもフィラデルフィアへたどり着く決心を固める。
 「貨物」がフィラデルフィアへ到着した後、どこにむけて使われるかなど知るものか。世界がどうなろうとも、それは自分の責任ではない。
 ミツルギは堂々と名乗りを上げて挑んできた。やはりサムライの子孫だからなのか?いかにも奴らしい。だが、かつての図上演習のようにはいかない。
 フリン副長は、表情が消えた艦長に問うた。底冷えするような雰囲気が漂っている。自分の前にいるのは、同じ顔をした別人なのかも知れないとまで副長は思った。
「艦長?」
「副長。海軍総司令部と北米艦隊司令部へ向けて通信だ」
 断固たる口調。援護はないことを確信している。


伊号523:ニューファンドランド沖 1952年4月7日1035時


 〈伊523〉の潜水艦長御剣少佐は北海道旭川の出身だった。実家は蔡賀御剣流という武術の家元である。かなり大きい道場と邸宅を持っているが、長兄の空也が実家を継いでいるため気楽なものだった。彼の上には兄が三人(空也、火影、鋼)、弟が一人(尚護)。次兄の火影が同じ海軍に務めており、特務に携わっている。
 免許皆伝の腕前で、真面目で一本気な性格だが粗暴というわけではなく、明朗快活で落ち着いており、そして普段はまったく好戦的ではないにも関わらず敵艦襲撃では積極果敢であり、乗組員の信頼もあつい人物だった。実家の蔡賀御剣流は「牙なき人の牙になる」を信条としており、彼は伝統が要求するままに海軍へ奉職したのだ。
 そんな彼でも現在の状況に困惑しきっていた。

 宛 伊号523潜水艦 艦長
 発 大西洋艦隊司令長官
 一、貴艦ハにゅーふぁんどらんど沖海上交通線ニ4月7日マデニ進出スベシ。
 一、貴艦ハ同交通線ニオイテ4月7日カラ4月12日マデノ期間、通過ヲ試ミル敵艦船ヲ撃沈スルベシ。
 一、大型艦船ニ注意スルベシ。確タル情報デハ、コノ期間、コノ交通線ヲふぃらでるふぃあニ向ケテ重要ナ人物、マタハ、重要物資ガ通過スル予定ナリ。

 定時通信で下された命令に釈然としないものを感じていた。交通線遮断任務にあたるのが〈伊523〉のみだというのが気に入らない。潜水艦1隻で航路封鎖というのは無茶すぎる。
 しかしドイツの回転翼機が飛んできた。ならば近くに回転翼機を運用できるだけの大型艦が存在している筈だった。やってきた艦が撃破すべき目標なのだ。御剣は困惑を振り切った。〈伊523〉は敵艦への襲撃行動に移った。
「減速!速力2ノット」
 御剣は小声で命じた。発令所のテレメータが回され、ベルが鳴るとすぐに速力が落ちるのが感じられた。
「探知!目標を探知!方位094、距離3,500」
 古参水測員の夏野兵曹長が探信儀室から告げた。すかさず電話で尋ねた。
「速力と針路は」
「まだ不明です。敵艦はジグザグ航行をしていて、しかもスクリューの回転数を読ませないように変速運転しています。ただ、軸数は二軸以上。たぶん三軸です」
「後続は?」
「ありません」
「頼むぞ」電話を置き、発令所中央に戻る。
 潜望鏡を上げたくなるが我慢する。潜水行動中の潜水艦はまさに盲目だ。敵艦の針路、速度、艦種が分からなくては魚雷を撃つためのデータが揃わない。これでは攻撃ができない。水上艦艇の速度は潜水艦のそれを上回る。加えて潜水艦が魚雷攻撃をおこなうポジションは限定されている。うかうかしていると射点を失い、置いてけぼりを喰ってしまう。艦長達が潜望鏡を早めに上げ、海上の様子を確認したくなるのは当然のことなのだ。
 しかし、御剣は潜望鏡を無闇に上げることには賛成できなかった。それで所在を掴まれ撃沈された潜水艦がどれほどいたことか。データの算出よりも攻撃最適位置に艦を持っていくことを最優先させている。
「つかめました」
 再びスピーカから夏野兵曹長の声が響いた。
「速度は16ノット。基準針路は260から265の間。ほぼ262と思われます」
「現在の位置は」
「方位092、距離2,450、基準針路262、敵速16ノット!」
「観測を続けよ」
 海図台を振り返った。
「航海!敵艦の三分後の位置に対する交差針路は?」
「122、距離550」
 デバイダーと分度器で海図に位置と進路を書き込み終えていた西村航海長が興奮気味に答えた。
「新針路122!1番から4番、魚雷発射用意!」
 命令が各科に伝達されていく。
「よし、先任、発射筒注水」
「了解、発射筒、注水開始。ツリムとります」
 艦橋直後の艦尾側甲板から海水が流れ込む音が響いた。同時に、艦首と艦尾から、タンクへ海水を出し入れする騒音が響く。
「ツリムとった」岩城先任は報告した。
「発射筒扉開放。〈影丸〉、出せ」
 威勢のよくない、どちらかといえば間抜けな音が発令所の近くから発した。〈影丸〉こと六式欺瞞音響発信機〈海猫改〉が発射筒より放出されたのである。元は全くの自衛兵器として開発された六式欺瞞音響発信機だったが、各艦艦長の創意工夫により攻撃の補助としても用いられている。海面に突き出された潜望鏡に似せた筒を、敵艦が潜水艦のものと誤認してそちらに注意を向ければ攻撃の成功率は高くなるからだ。
 さらに〈海猫改〉は潜水艦の電動機音に似た発して自走する上に、人間の耳には聞こえない特殊な波長の音波(〈笛〉と呼ばれる)を介してコントロールすることが可能だった。
 6機の〈影丸〉が海面に達した。〈伊523〉側の操作により、いかにも敵艦襲撃に入ったように動く。上げた潜望鏡をおろす動作までしてみせた。
「潜望鏡上げ!先任、発射管制盤よろしいか?」
 うなずく岩城先任に応えて下士官が潜望鏡を上げる。油圧をかける音が発令所に響いた。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド沖 1952年4月7日1035時


 先手を打ったのは〈ブリュッヒャー〉だった。
 水測室より報告が来る。
「反応が七つに分かれました。距離700!」
「右舷、潜望鏡が七つ。1時、3時、4時の方向!」こちらは防空指揮所の見張り員からの報告。
 ト・ユンファは艦長席の高声電話を取り上げ、〈コリブリ供咾北仁瓩魏爾靴拭
「パク(泊)より陵。磁気反応の最も大きいものはどれか、知らせ」
 〈ゼー・カッツェ〉をばらまいたな。こんな児戯にも等しいトラップに誰がかかるものか。自分はそこまでどじじゃあない。
「泊、右舷30度の反応です」
 陵の機長は黄色人種の艦長を嫌っていたが仕事はきっちりとこなしていた。
「陵。右舷30度の反応へ向けて爆雷を投下せよ。1回につき1発。2回投下だ。奴の頭を押さえつけろ」
「ヤー・ヴォール!」

「ちっ!けちくさい奴だ。2発きり、2回に分けて落とせとさ!」
 操縦士がぼやくと、並列に配置された席にいる航法士がなだめにかかった。
「そうぼやくな。大体、3発しか搭載していないんだ。親父が慎重になるのも無理はない」
 Fl290〈コリブリ供咾亘寨茲覆蕕丕僑娃襭臟雷を最大6発搭載できた(但し航続時間は大幅に落ちる)。しかし、今は磁気探知装置とそれを駆動させるためのバッテリーを積み込んでいる。
 口は悪いが腕の良い操縦士は〈コリブリ供咾鮑言回に入れつつ、機体を投下態勢に持っていった。操縦席背後のBMWブラモ323エンジンの音が高まる。
「安全装置、解除」
「くたばれ、ウンターメンシェ!ロースっ!」
 操縦士が投下索を引くと、深度50メートルに調定された爆雷が爆弾架からはずれ、海面へ向けて落ちていった。
 海面に真っ白な円が広がり、そこから巨大な海水の円柱が立ち上がった。


伊号523:ニューファンドランド沖 1952年4月7日1035時


 油圧音が断続的に発令所内に響きわたった。攻撃用潜望鏡がゆっくりあがってくると、御剣はハンドルを開きアイピースに取り付いた。レンズの開口角を対空視界にセットする。
 潜望鏡はすぐに海上に露頂し、白い航跡を引き始めた。御剣は潜望鏡の上部レンズから滴が流れ落ちるのを二呼吸ほど待ち、時計回りに動き始めた。戦慄が走ったのは、その4分の3を回ったときだった。
 御剣はアイピースから目を離して叫んだ。
「急速潜航!深度100!前進強速!急げ!」
「全ベント開け!」
「潜舵下げ舵、一杯!」
「前進強速!」
 いくつもの怒鳴り声が発令所で渦を巻く。潜航長の滝上等兵曹は潜望鏡観測を始める前からベント・バルブに手を掛けていた。いくつもあるバルブを素早く開放操作する。操舵員も一気に舵輪を回す。
「手すき総員、艦首へ!」
 〈伊523〉は巨体に似合わぬ早さで潜航していく。潜望鏡の頭が波を被り始めた。その合間に、御剣は黒く大きなシルエットを見つけた。そのシルエットを目に焼き付けてから、御剣はハンドルを畳んだ。
「潜望鏡下げ!各部対爆雷戦防御」
 潜望鏡の下がる甲高い油圧音と共に下士官が叫んだ。
「各部隔壁閉鎖!通風隔壁弁閉鎖!」
 潜航科員が深度の読み上げを開始する。
「深度25…30…40」

 発令所の兵員、全ての関心は、深度計とそれを読み上げる岩城先任に注がれていた。
「ベント?」
「全て開放です」
「降下角?」
「降下角7度!深度50!」
 艦内は何かに掴まっていないと足下が危なくなっていた。急速潜航の角度としてはさほどでないものの、潮流や潜航装置の無理な操作により艦は不安定に動揺している。
「速度?」
「現在5.5ノット、上昇中」
 何もできることはない。ただ待つのみだった。
「艦首海面に突発音!近い!」
 スピーカーが聴音室の水測員の声を伝えた。その言葉が終わらぬうちに御剣は下令した。
「面舵一杯!」
「面舵一杯、ようそろ」
 縦舵員が復唱応答したとき、艦首にハンマーが打ち下ろされたような衝撃が来た。艦首が下がると同時に艦尾が跳ね上がり、左に傾斜した。乗組員らは装備や機器に叩きつけられ、艦内は完全な暗黒に変わる。
 御剣は潜望鏡に抱きつくことでかろうじて衝撃をやり過ごした。酷く艦が傾いている。艦首左舷を下に30度ほど。
 さらにもう一回衝撃が来た。
 囮にはかからないか。プロだな。畜生め。ドイツ人は対潜戦術が下手くそだ、といったのはどこの何奴だ。
「非常電源急げ!各部被害確認!」
 真っ先に届いたのは電気長の報告だった。
「配電盤ショート!一次電源、二次電源ともに損傷!」
「前部兵員室、ハッチが損傷!浸水しています」
「損害修理班、前部兵員室に急げ!手動ポンプによる排水急げ!」
 御剣は怒鳴った。非常灯が付き、艦内は赤黒く照らされた。
「先任!深度報告!」
「し、深度150!……155!なおも沈降中!」
岩城大尉の声は震えていた。
「ブローしますか?」
「ブロー待て」
 〈伊523〉の安全深度は150。通常、潜水艦の安全深度は潜航可能深度の半分とされている。そしてこの海域にはグランド・バンクと呼ばれる大陸棚が広がっており、大西洋屈指の漁場である。平均深度は200。
  ――――着底まで我慢だ。
「160!」
 ぎし。金属のきしむ音が断続的に始まった。
「動力はまだか?」
 御剣は開け放たれた防水扉の向こう、艦後部へ声を掛けた。
「すこし時間をください!」
 電気長の藤澤上等兵曹が返答してきた。同時に艦が動揺し、さらに前につんのめる形で傾斜した。前部兵員室の浸水で沈降速度が増している。
「横舵、上げ舵5度!縦舵、面舵一杯!岩城、左舷艦首二番ツリムタンク、ちょいブロー!」
「横舵ようそろ」
「縦舵ようそろ」
「左舷艦首二番ツリムタンク、ちょいブロー、ようそろ!」
 100個並べられた水洗便所が一斉に水を流したような、ツリムタンクへの空気噴射の音が轟いた。
「効果ありません!」岩城が悲鳴のような声で報告した。
「左舷艦首二番ツリムタンク、ブロー!」
 再び騒音が響く。しかし〈伊523〉の行き足が止まらない。艦の姿勢も変化しない。
「効果ありません!」潜航科下士官が答えた。
「170……175」
「左右両舷一番から三番、ツリムタンク、ブロー!手動ポンプ、排水急げ!」
「一番から三番、ツリムタンク、ブロー!ようそろ!」
 前にもまして大きな空気噴射の音が轟いた。ぐらりと艦体が揺らぎ艦首が持ち上がった。しかし左への傾斜はあいかわらずだった。
「180」
 ずしんと下から突き上げるような衝撃が響いた。着底したのだ。思ったよりも海底は浅かった。幸運にも艦が横倒しにならなかったし、海底の岩に耐圧殻を破られることもなかった。
 御剣は再び潜望鏡にしがみついて衝撃をやり過ごした。次の命令を下そうとした時、大きく金属のきしむ音がした。同時に破裂音が響いて発令所に海水が勢いよく吹き出した。
「浸水!発令所で浸水!」
 水兵たちが三、四人、海水の噴き出すパイプの伸縮継ぎ手を押さえようと群がった。しかし海水の勢いは強く、押さえきれない。
「レンチ持ってこい!スパナもだ!早くしろ!」
 水兵達はそれぞれ何かを叫びながら右往左往した。やがて艦首魚雷発射管室からも艦尾機関室からも浸水の報告が届いた。艦内は叫喚で満ちたが、わずかに統制が残っていた。
「深度は?」
 御剣は防水作業を監視している岩城大尉のもとに大股で歩み寄った。
「185。……すみません」
「よし!」場違いなほどに大きな声を出した。
 俺が意気消沈してどうする!皆はよく耐えているのだ。失敗するかもしれない、と考えてぶるってしまう過ちを繰り返すのか?弱気になるな!強くなると決めたではないか!
 御剣は己を鼓舞した。潜水艦学校時代の試験の失敗を繰り返したくはない。切実に思った。
「配電盤は?」
「まだかかりそうです」
「よし。浮上しよう」
 岩城先任は驚いて言った。「しかし、敵が……待ちかまえているかも知れません」
 御剣は自信に満ちた声で答えた。
「その心配はないだろう」
「何故です?」
「敵がいるなら爆雷攻撃を続行するはずだ。あとは運だな」
「わかりました」
 御剣は発令所の全員に聞こえるように声を張り上げ下令した。
「浮上!メインタンク、ブロー!」


ブリュッヒャー:ニューファンドランド沖 1952年4月7日1100時


 すでに25分が経過した。〈ブリュッヒャー〉にとり、もっとも危険な25分。ジグザグ航行を中止して直進している。潜水艦との位置関係で言えば、側面をさらけ出している。敵潜が明らかに行動不能状態で、しかも上空で回転翼機が監視していなければできない行動だった。今でも潜水艦の存在は脅威だったが、敵はもはや射点として有効な位置を取っているとは云えない。仮に魚雷が発射されても回避は容易だ。
「艦長」
 先任のスタントンが声を掛けた。
「艦尾の爆雷準備完了。〈コリブリ供啼麋峙 昴も爆雷を搭載して発艦準備を完了しています。攻撃可能です」
 彼の言わんとしていることは明白だった。攻撃は反復すべきなのだ。スタントンが二次、三次の攻撃を進言したのは適切だった。
 しかし、この場合は違うと、ト・ユンファは確信していた。今なすべきは戦闘ではない。フィラデルフィアに辿り着くことだ。
「戦闘配備解除。第二哨戒配置に戻せ」
「しかし艦長!」異を唱えかけた先任を制する。
「陵に連絡。現地点より方位262の15海里先で回収する。一時間後に合流せよ。回収まで前路索敵に専念せよ、だ」
「ヤー」スタントンは敬礼をして、その場を去った。
 ト・ユンファは艦長席にかけ直すと、おもむろに双眼鏡を手に取った。
 このまま逃げ切れれば、私の勝ちだ。


伊号523:ニューファンドランド沖 1952年4月7日1215時


 浮上には思いの外、時間がかかった。ツリムタンクが損傷しているのかも知れなかった。
 20メートルにまで浮上したとき、深度を固定できなかったがとにかく潜望鏡を上げて対空警戒をおこない、そのまま浮上させた。
「……四。…三。…二。…一。艦体浮上します。……浮上!」

 御剣は真っ先に艦橋にあがった。続いて四名の見張り員が昇降塔を駆け上がり、そのあとを25ミリ連装機銃員が追った。機銃員は後部甲板に隠見された機銃を引き出したが、銃声は響かなかった。
「距離は?」
「距離、6,800。方位120です。遠ざかりつつあります」
 敵艦の主砲射程内ではあるが危険はなかった。浮上している潜水艦に対して、主砲射撃をおこなっても効果は得られない。潜水艦の上部構造物は小さく、命中弾を得るには相当量の射撃を繰り返さなければならないからだ。それに〈伊523〉も黙って射撃の的になるわけがない。
「まだ、機関は始動できないか」
「いま始動します。バッテリーを直結し終わったところです」
 高口機関大尉の冷静な声が帰るのとほぼ同時に、後甲板側面の排気管が黒煙を吹き上げた。
 それにしても、と思う。敵は2次攻撃をかけなかった。浮上してくるということはブロー排気で分かっていた筈だ。
 御剣は茫洋とした表情を作りながらも、思考は旋回させ続けた。煙草に火をつけ、口にくわえる。
 敵は回転翼機でこちらの動きを掴んでいた。襲撃運動に入った辺りから追尾していたのだろう。なのに、敵艦はジグザグ航行をしながらも基準コースを変えなかった。自らが攻撃するにしても、回転翼機に攻撃させるにしても、あのコースを維持するのは危険が多すぎる。艦の側面をさらけ出してしまうからだ。コースを維持するからには相応の理由があるはずだ。
 つまり、あの艦は目的地があり、急いでいる。あれが目標の輸送艦なのだ。
「艦長!」発令所から、岩城が声を掛けた。
「上がります」
「許可する」御剣の言葉に、岩城先任が上がってきた。
「報告します。配電盤ならびに前部兵員室昇降塔ハッチの修理、完了しました。一次電源、二次電源とも使用可能。左舷二番ツリムタンクの修理も完了です」
「ご苦労。ツリムタンクはどこが損傷していたのだ?」
「弁が三基損傷していました」
「道理でいくら移水しても軽くならないわけだ」
 御剣は納得した面もちで苦笑いした。
「さて。敵艦に置いていかれたな。先任、ここを頼む。俺は下に降りる」
 双眼鏡を岩城に手渡した。

 排水が終わり、艦内は日常の業務に復帰した。戦闘配置は第二哨戒配置に変更されている。兵員の半分は休息できるはずだった。
 しかし、御剣は敢えて切迫していない個別の整備を下令した。ために乗組員に休む暇はない。
 〈伊523〉は16ノットの海上全速航行を続けている。艦本式32号10型ディーゼル機関二基がうなりを上げている。この全力運転は数時間は続けられることになっている。無茶を承知の連続運転であり、高口機関長以下の機関科員たちは油まみれになりながら機関調整にかかり切りだった。
 ここが正念場だ。御剣は胸の内でつぶやく。目標は発見した。しかし初戦は敗北だった。それもトラップを仕掛けての敗北だ。乗員にとってこの恐怖は拭いがたい。次の戦闘にも影響しかねない。それを忘れさせるには忙しくさせ、考える暇を与えないようにしなければならない。
 御剣は己の経験に照らしてそう判断していた。自分もかつて昇進試験で大失敗をしでかし、その恐怖にがんじがらめとなってしまったことがあった。そして下宿先で炊事掃除洗濯など、身を粉にするように働いて、ようやく恐怖を忘れたのだ。
 御剣は手の空いている士官を士官室に召集した。士官が揃うと、主計兵に声をかけた。
「主計、何かないか?」
「鰻缶があります」
「皆に行き渡るか?」
「大丈夫です」
「飯をどんどん炊いて、全員に配ってくれ。皆それだけのことをやってくれた。あ、味噌汁もわすれずにな。俺のには、きざみ揚げはいれるな。あれは邪道だ」
 きざみ揚げを邪道と言い切る艦長の言葉に、士官達はくすくすと笑った。油揚げをきざんだものを何故これほど嫌うのか、誰もその理由がわからなかった。
 士官室の空気がなごんだところを見計らって、御剣は改めて士官達の顔を見渡した。
「さて、諸君」
 ちょっと、言葉を切る。
「本艦は先ほどの敵艦を攻撃する」
 士官室はどよめいた。御剣はそれを無視して続けた。やられたまま逃げ出すなんて、そんな格好の悪いことができるか?
「潜望鏡観測では、〈白河《アドミラル・ヒッパー》さやか〉級重巡洋艦と思われる。戦前の情報では対潜装備は無いことになっているが、先ほどの戦闘で受けた感触では対潜攻撃が可能になっているようだ」
「しかし、攻撃してきたのは回転翼機でした」
 士官の中で一番若い音乃少尉が反問した。
「そうだ。あの回転翼機はおそらく磁気探知機を積んでいるんだろう。だから囮を見破り、本艦めがけて攻撃できた。そして艦載機が持っているなら、母艦が持っていないと考える方が無理だ。ソナーにアスディックくらいは積んでいるだろうな」
「この海域は北米大陸に近く、必ずしも我が軍が制空権、制海権を握っているとは云えません。そこで攻撃して、我々が勝てるでしょうか」
 御剣はうん、と頷き、X艇隊指揮官のクリステラ大尉に向き直り、質問を発した。
「クリステラ大尉。X艇は自走させられますか?」
 御剣の英語の発音は、堂の入ったキングズ・イングリッシュだった。特務や諜報に携わっている次兄御剣火影の薫陶によるものである。
「YES。操縦員が乗らずに、という意味でですね?ならば、可能です。ただし、ちょっとした工作が必要ですが」
「Thanks。ならば勝てる。確実に勝てる」
 御剣の言葉には自信があふれていた。
「さあ、飯にしよう!鰻はまだか、主計。腹一杯喰って、敵の土手っ腹にも鰻を喰わしてやろう」快活に言う。
「ウナギでスか?」
 クリステラ大尉が不思議そうに尋ねた。面には出さないが、内心では気味悪く思っている。ロンドンでは庶民の味として鰻料理(パイやゼリー寄せ)は親しまれているが、上流階級出身のクリステラ大尉にとっては、イーストエンドのスラムで食されている得体の知れない代物なのだ。
「ええ。我ら帝国海軍潜水艦艦隊では、勝利を祝して鰻を食べるのですよ。大尉もいかがです?」
 〈伊523〉の昼食は鰻缶と味噌汁だった。味噌汁には、艦内の水耕栽培キットから収穫したカイワレ大根が各人に数本ずつと、油揚げをきざんだものが浮かんでいた(艦長は油揚げ1枚)。水兵達、特にこの航海が初の実戦となる一等水兵ら数名は、うまいうまい、海軍に入って良かったと喜んでいる。しかし、古参の下士官達は水兵らのように喜べなかった。
 彼らは艦長の意図に気づいていた。祝勝会で出るはずの鰻がなぜ、今出されるのか。戦果は挙がっていないのに。それは死んでは食えなくなるからだ。つまり親父(艦長)は、このドン亀をぶつけてでも敵艦を沈める気になっている。この鰻は心して食わねばなるまい。
 下士官達はそう言って水兵をからかいつつ、各自で覚悟を定めた。この先のいくさはきついものになるだろう。帝国海軍の意地を賭けて、全力を尽くさねばならない。

 風は順風。艦の速力との合成で、風速は10メートルを超えている。御剣は風にとばされないように戦闘帽の顎ひもを掛け、艦橋最先頭に立って前方を凝視していた。
 4月の北大西洋はまだ冬が残っていて、吹き付ける風は相当に冷たい。それでも天候は良い。空には切れ切れに雲が浮かび、航空機が隠れるに程良い様である。
「対空見張りを厳にせよ!」
 御剣は声を張り上げた。雲間から急降下されれば、銃撃または爆撃でも、潜航は無論のこと転舵でかわすことも難しい。現在位置が露見することを恐れて、電探は使用していない。この艦橋直任務は艦の安全に関わるのだ。
 水平線の向こうを見つめながら、御剣は思っていた。第1ラウンドは取られたが次はこちらが取る。
 敵艦は大西洋側からの襲撃を気にしているはずだった。カナダ寄りでは北米に展開しているドイツ空軍の警戒圏に入ってしまうし、浅海で潜水艦の運動に制限があるからだ。ならばこそ逆をつくのだ。敵艦が対潜行動を取ったまま従来のコースを進むとなれば、接触は夕刻になるだろう。この時期、日が沈むのは随分と遅い。しかし気象予報では夕刻あたりから天候が崩れ出す。勝機はそこにある。
 御剣の目は未だ見えぬ敵を捉えていた。

 〈伊523〉は南下している〈ブリュッヒャー〉の西側、カナダ寄りに進路を取った。そして相手に発見される前に接敵に成功した。
「聴音より報告。方位289。距離9,500。速力16ノット。敵艦は転舵中。敵艦は針路を変更中。感三」
 御剣は敵艦を見据える。敵手と1対1で相対した忍者のように鋭い表情になっている。
 俺は強くなれただろうか。たとえ勝てなくても負けるわけにはいかない、事情というものがある。自分を信じてくれている者たちのためにも。
 ふ、と息を抜く。声に出さず、相手にも届かない、しかし心中で強く宣言する。
 蔡賀御剣流、御剣一角、参る。


第三章 血戦

ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1757時


 敵潜水艦が捕捉できない。
 苛立ちが戦闘艦橋を占拠しつつあった。その源は、艦長ではない。艦長席の後ろにしつらえられた席に座っている、招かれざる客人ことファルマン親衛隊少佐の靴が床を叩く音である。彼は艦の減速に抗議しようと艦橋まで押しかけ、艦長ト・ユンファの殺気を帯びた視線を浴びせられたのだった。相手は歴戦の艦長である。一介の親衛隊少佐では敵うはずが無く、すくみあがった。それでも〈ブリュッヒャー〉側としては客人を邪険に扱うわけにもいかないため、オブザーバーとしての席を設けたのだ。
 コツコツと床を叩く音が響く中、ト・ユンファは表情を消したまま戦闘艦橋に立ち、客人を完全に黙殺していた。
 〈ブリュッヒャー〉では〈コリブリ供咾謀┸塀侏汁朿ぬ未鯀楮させた。敵はおそらく大西洋側の、艦から見て東側か南側から攻撃してくるはず。戦闘海域に潜航してくる敵を回転翼機で奇襲し、トドメに〈ブリュッヒャー〉の爆雷で叩く。それがト・ユンファの立てた作戦だった。
「目標捕捉!方位104。距離4,400」
 突然、襲撃管制盤についていた若い士官が叫んだ。
 ト・ユンファは顔をしかめた。不覚だった。
 報告した士官が聴音室との連絡指揮官で、索敵に就いている回転翼機の飛行長でなかったということは、ミツルギが索敵機の目をかすめて戦闘海域に到達したことを示している。そして方位104とは、取り舵で転舵したばかりの〈ブリュッヒャー〉の側面に敵がいることを示している。三つ目に、ミツルギが予想していた南からではなく北西から、つまり〈ブリュッヒャー〉の針路の北側に現れたことだった。
 ト・ユンファの顔に、諦めともとれるような苦いものが現れた。と同時に心の奥底で、心ゆくまで戦える相手が現れた事への歓喜を覚えている。
 やってくれる。それでいい。生きるために他人を傷付け、殺し、そうすることでしか、人間という生物は生きられない。
「航海。命令後ただちに応じられるよう全速および転舵に備えよ。聴音。魚雷攻撃に対し警戒を厳にせよ。飛行長。昴を本艦の方位104、距離4,400に誘導し速やかに敵潜水艦を迎撃せよ。火器管制。爆雷戦用意。〈ヴァイン・フラッシェン(葡萄酒瓶)〉と爆雷の準備急げ。調停深度75メートル」
「聴音より艦長。敵艦の針路165。速力4ノット。深度、浅深度。方位104。距離4,400変わらず」
 第二報はト・ユンファをさらに歓喜させた。但し表情には出さない。敵はジグザグ航行するこちらの針路と速力を見極め、慎重に接敵しつつある。攻撃針路としては最適ではないがかなり有効な針路だった。しかも浅深度となればまさに攻撃準備態勢に入っていると言って良い。ト・ユンファは高声電話を取り上げた。
「聴音。艦長だ。感度は?」
「不良です」
 聴音担当の古参下士官はすまなそうに答えた。ニューファンドランド沖は南から来るメキシコ湾流と、ラブラドル海から南下してくるラブラドル海流がぶつかる海域である。さらに五大湖から流れ出るセント・ローレンス川の河口域でもあるために広大な汽水域が広がり、水温の変温層が作られて聴音だけでなく探信音を通さなくなっている。
 この様子では、発射管の注水音も魚雷射出音も聞き取ることは危うい。潮流が北へ流れているため、向こうの音はこちらに届きにくく、反対にこちらの音は向こうへ届き易いはずだった。
「高速推進音を聞き逃すな。頼むぞ」
 静かに電話を置いた。腕を組む。
 もうフィラデルフィアへの基準針路262に固執するのは危険だった。ジグザグ航行のパターンも読まれているだろう。
 しかし、いま艦を大回頭させたり、速度変更したりするわけにはいかない。回頭するにはかなりの時間を要する。敵からすればその間は止まっているも同然であり、投げ刀子の的のように無防備なのだ。
「タイミングだ」
 まずは第一撃をかわすこと。そして大回頭。反撃はその後だ。
「曳航音響体の投入を準備!」
 撃ってくるであろう音響追尾魚雷に備えさせた。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1757時


 上昇し始めた攻撃潜望鏡を見つめながら、御剣は戦闘帽を脱いだ。
 生きるために他人を傷付け、殺し、そうすることでしか、軍人いや人間という生物は生きられない。そう自嘲するようにいっていた友人がいた。
 だがそうやって自分を慰めているだけ、そして人生こんなもの、と諦めをつけるのは格好が悪い。俺は、諦めない。
 アイピースが膝の辺りまで上がった。御剣は屈みながらアイピースに取り付いた。
 まずは対空警戒。素早く全周囲上空を観察する。
「対空異常なし。先任、仰角水平!」
 ほっとした空気が発令所に漂った。先刻は回転翼機にしてやられた。今度も待ちかまえている恐れはあるのだ。
「敵艦発見!倍率上げろ!」
 岩城が応じて倍率ノブを回す。
「八倍」
「よし!」
 御剣は食い入るように潜望鏡をのぞき込んだ。
「特徴を言う。航海長、書き留めてくれ。……排水量1万5千トン前後、20センチ連装艦首に2基、艦尾に2基、10センチ高角砲片舷4基。煙突は1本、整流器付き。前檣の直後に煙突、それから少し離れて後檣がある。艦尾に回転翼機の発着艦甲板」
 素早く書き留めた西村が艦型図識別早見表を繰る。
「わかりました。〈白河《アドミラル・ヒッパー》さやか〉級重巡洋艦。基準排水量1万4千トン、蒸気タービン、3軸推進。最大速力32.5ノット。20センチ砲連装4基。10センチ高角砲8基。搭載回転翼機数2機」
 うなずいた後、御剣は各部署への下令を開始した。
「魚雷、用意いいか?」
 打ち出す魚雷は聴音魚雷XPである。1945年に制式化されたもので、正式名称は5式改聴音魚雷。いささか旧式となっており、52年中に後継となる10式聴音魚雷VISTAの配備が予定されている。しかし動作の確実性が高いため、今でも艦艇攻撃用電池魚雷の主力となっているのだ。本来ならば打ちっ放しでも構わないのだが必中を期すために諸元を入力するのである。
「用意よろし」
 古ぼけた普通科水雷術章を左腕につけ、丸椅子に座った岩田上等兵曹が応える。
「岩城、諸元を読み上げろ」
「了解」
「方位!」
「331」
 岩城先任が潜望鏡の反対側から測敵数値を読み上げる。それに応じて岩田上等兵曹が管制盤に数値を入れる。
「距離!」
「4,400」
「敵速!」
「16ノット」
「敵針!」
「215」
 指で潜望鏡を下げるように水兵に伝えると、御剣は一際声を張り上げて下令した。
「一番から四番まで発射雷数4。開口角1度」
「ようそろ!」
 発射管制盤へ数値を入れ終えた岩田上等兵曹が顔を上げて叫んだ。
「発射管注水!外扉開け!」
 間髪を入れず岩城が命令する。発射管への注水で〈伊523〉は僅かに前方へ傾いた。高口機関長が補正のために、後部ツリムタンクへの移水を命じる。
「発射管ようそろ!外扉ようそろ!」
 御剣は命令を下した。
「一番、てぇ!」
 勇ましい命令とは裏腹に、〈伊523〉は艦首で「ごとん」という不景気な音を立てて身震いした。
「聴音より報告。一番正常に走行中!」
「二番、てぇ!」
 再度、艦がふるえる。
「三番、てぇ!」
 三つ目の振動。
「四番、てぇ!」
 続けて命令を下す。〈伊523〉は護衛を持たない輸送船を襲ったのではない。敵は第一戦級の重巡だ。爆雷装備の有無は未だ不明だが、回転翼機が爆雷を搭載していることは確認済みだった。こちらの攻撃に気づいたならば襲ってくることは確実なのだ。のんびりと構えてなどいられない。
「機関全速一杯!面舵15度!深度100!急げ!」
 電動機の音が高まり、艦は右舷艦首を下に傾け始めた。
「22、25……30」
 深度を読む岩城の声が発令所に響いた。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1759時


 敵発見の第一報から既に75秒が過ぎた。聴音からの報告を告げるスピーカーは「変わらず」としか伝えない。時計の秒針だけが時を刻んでいる。
 副長のフリンは後部指揮所におり、水雷長のスタントンは対潜指揮所で投射爆雷と艦尾爆雷投射の指揮をとっている。砲術長のリプスキーは砲戦指揮所に詰めていて、航海長のヤーニーは航海艦橋にあった。いま、戦闘艦橋に詰めているのは戦闘日誌をつけているモーア少佐だけである。つまり〈ブリュッヒャー〉の幹部は艦全体に分散しており、艦長の参謀役を勤められるのはモーアだけだった。しかし、彼は対潜水艦戦に長じているとは云えなかった。おまけに艦橋の空気を、蒼い顔をしながらも虚勢を保つ親衛隊少佐が乱している。騒ぎ出していないことだけが救いではあった。
 ト・ユンファは、ひりつくような焦燥感と孤独感を一人愉しんでいた。かつての「仕事」を思い出している。「凶手」は決定的な瞬間まで待機し続けなければならない。この程度の時間は何ほどのこともなかった。
「高速推進音!」
 スピーカーが叫んだ。高声電話の受話器を取ったト・ユンファは素早く反問した。
「方位を知らせ!」
「方位105。距離2,300。針路158。速力40ノット。雷数四」
 予想通り、と思った。
「機関全速!取り舵、一杯!」
 思ったよりも早く魚雷を探知できた。この距離ならかわせる。
「〈ヴォルフ・シュヴァンツ(狼の尾)〉を投入せよ!」
「ヤー!」
「機関、前進全速」
「取り舵、一杯」
 それぞれの部署からキビキビと応えが返ってくる。艦全体に震えが走った。増速し始めた。回頭のために艦がゆっくりと左に傾く。
 同じ頃、〈コリブリ供咾鱗紊敵艦の予想位置に全速で向かっている。

 〈ブリュッヒャー〉が左回頭に入って90秒が過ぎた。速力を上げた途端に、聴音から「敵艦失探」と報告があった。不幸中の幸いで魚雷の推進音だけは確認できた。艦橋のスピーカーでも、スクリューと転舵による水中雑音に混じり、かすかに魚雷の甲高いキャビテーション・ノイズが聞こえる。 魚雷さえ把握していれば第一撃はかわすことができるし、第二撃の可能性は無くはないが、艦の速力が上がっていれば、その照準を狂わすことは容易だった。
「艦長!聴音室です」
 襲撃管制盤の少尉が報告を伝えた。
「魚雷が円運動に入りました。半径12キロの円を描いています」
「よし。機関停止。音響体より最大出力で発振させろ」
「ヤー、機関、停止します」
「〈狼の尾〉より最大出力で発振」
 〈ブリュッヒャー〉は惰性で進んだ。
 やはり艦船攻撃用の音響魚雷を打ってきたか。確かエアスト・クラッセ(伊号)は53センチ魚雷発射管を6門備えていた。計算上、敵の発射管には未発射の魚雷が2本ある。
「魚雷3、艦尾音響体へ向かう!」
 そして艦尾方向から爆発音が聞こえた。
「後部指揮所。魚雷が〈狼の尾〉に食いつきました」副長のフリンが報告してきた。
「残り1本は視認できたか?」
「駄目です。海面が暗くなってきています」
 うむ。なんとか第一撃はかわすことができた。さあ、反撃だ。
「機関始動!」
 〈ブリュッヒャー〉は再び身震いした。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1805時


 〈伊523〉の魚雷発射管室では、魚雷の再装填作業に兵達が汗を流していた。二本の魚雷が魚雷架から引き出され、装填軌道につり下げられている。
「一番と二番に装填する。慎重にやれ」
 班長の睦月上等兵曹は水雷科兵員に声を掛けた。すでに発射管の分厚い尾栓が開けられている。
 彼らが装填しようとしている魚雷は、二式聴音魚雷である。外径533ミリ。全長7.15メートル。重量は1,665キログラム。炸薬量400キログラム。戦艦〈高瀬《大和》瑞希〉の徹甲弾の炸薬量の、ゆうに三倍もの炸薬が弾頭部に充填されている。
 二式は第二空気と称される、純粋酸素を酸化剤につかう内燃機関式魚雷だった。酸素は383リットルが収められ、著しく衝撃に弱い。まかり間違って誘爆すれば、潜水艦など一発で轟沈してしまう。強大な打撃力と引き換えに、二式はひどく取り扱いの厄介な魚雷だった。
 ために表向き、二式音響追尾魚雷は既に使用されないことになっている。艦船攻撃には五式XPで十分であり、事実戦果も上がっている。しかし二式聴音魚雷の速度49ノットで9千メートル、45ノットで1万2千メートルという、高速度大駛走距離は潜水艦長達にとっては極めて魅力的だった。五式XPは最大40ノットで、5千メートルしか走らないからだ。
 魚雷は槍である。槍は遠くまで届く方が良い。つまり目端の利いた下士官を抱える潜水艦では、在庫となっている二式聴音魚雷を密かに搭載していた。そして〈伊523〉の睦月上等兵曹は「帝国海軍は下士官でもつ」を地で行く下士官だったのだ。
 一番管と二番管への装填は終了した。しかしまだ二本を装填しなければならない。それも出来るだけ早く。彼らの苦行はまだ半ばである。

「方位357」
 発令所では縦舵操舵員からの報告が静かに響いた。
「縦舵、戻せ」
 御剣が命じる。
「縦舵戻しました。方位359……000(マルマルマル)」
「深度は?」
「37メートル。潜入角12度」
 先ほど潜望鏡で見た敵艦がどれであるかを艦型図識別早見表で探している。ドイツの主力艦は皆似たような外観を持っており、ひどく判別しづらい。
 艦型図識別早見表には、1ページ毎に大きな艦のシルエットと特徴、武装、速力、その他のデータ、艦長名とその略歴が記入されている。これは艦の備品で、帰港する度に、新たに入手した情報に差し替え可能なように綴じられている。同じ〈白河《アドミラル・ヒッパー》さやか〉級のページにも、〈白河《アドミラル・ヒッパー》さやか〉〈ブリュッヒャー〉がそれぞれ1ページずつ当てられている。第2次世界大戦以来、ドイツ海軍の重巡洋艦として海洋を疾駆していた〈白河《アドミラル・ヒッパー》さやか〉級の3隻だが、現時点では2隻に減少していた。〈日野森《プリンツ・オイゲン》美奈〉がレイキャビク沖で沈んでいる。
 〈ブリュッヒャー〉〈白河《アドミラル・ヒッパー》さやか〉では、電探の取り付け位置が違う。〈ブリュッヒャー〉は後檣上、〈白河《アドミラル・ヒッパー》さやか〉が前檣上だ。
 敵艦の特徴は〈ブリュッヒャー〉と一致した。最新の情報では、艦長はト・ユンファ大佐。「凶手」と恐れられ、味方の潜水艦を幾隻も沈めている艦長。弓華。江田島で共に学んだ士官候補生。
 御剣は眉を寄せた。想いは過去に遡り掛けたが、潜航長の滝上等兵曹の報告で中断された。
「深度42」
「ん」
「敵艦回頭しています!左に転舵!増速中!」
 突然、伝令が聴音の報告を伝えた。
「畜生め!」
 発令所のそこかしこで落胆の溜息が漏れた。
「まだ、行きますか?」
 50を越えると再攻撃時に潜望鏡深度へ戻すのに時間がかかるのだ。
 先任に応える前に魚雷の爆発音が聞こえた。三回。
「駄目だな」
 どうやら敵は曳航式音響体を使ったらしい。
 先ほどの爆発音はそれに命中したものだった。船体にあたった場合は、炸裂音ではなくコーンという金属音が帰ってくるはずなのだ。魚雷命中の瞬間に船体自体が反響体となって、より大きく鮮明な音を発する。
「深度150!潜入角そのまま!」
 御剣は決然として言った。江田島の当時を思い出す。あの時の図上演習では辛くも自分が勝ったが今度はどうだろう。あれはあくまでも図上演習であり、今度は実戦である。ましてや、「凶手」と呼ばれている相手なのだ。
 今度は勝てるか……。
 御剣は目に見えぬ敵に目を据えた。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1806時


 天候は下り坂だった。明らかに雲量が増えている。海上の波も離艦時に比べて高い。雲間に除く太陽は鈍く、そのまま翳りそうだった。この時期は白夜に近くなるため日没は深夜となるものの、雨が降り出しては〈コリブリ供咾鬚箸个垢海箸牢躙韻任△襦精々30分が良いところだった。
「中尉。前方に微弱な反応。一時の方向」
「間違いないか?」
 昴の機長兼操縦士は確認を求めた。
「この近辺は水深200メートルと浅いですが、沈没船にしては反応が大きすぎます。とにかく浅い深度に何かいます」
「一時だな。行ってみよう。〈ブリュッヒャー〉に知らせろ」

 ト・ユンファは彼我の対勢表示盤を見つめた。〈コリブリ供咾旅堝粟限時間内に敵艦を再捕捉できたのは幸運だった。しかも敵艦は南下している。即ち交戦の継続を企図している。そうでなくてはサムライではない。

 磁気探知機の針が大きく振れた。
「標識を落とせ!攻撃する!」
 航法士が投下索を引いて標識弾を落とした。50メートルの高度から落ちた標識弾は赤い煙を上げて波間を漂い始めた。
 〈コリブリ供咾鷲玄叡討間近に見える高度20メートルまで降りた。
「微弱反応あり!方位000!」
 航法士の声が緊張の度を強めた。報告は敵艦の予想針路と一致する。
「反応強くなる!……ちょい左。……よし。そのまま」
 機長は言われたとおりに操作した。直後、磁気探知の針が再び大きく振れた。
「発見!敵艦は同航。艦首に攻撃する!投下!」
 がくんと衝撃があり、〈コリブリ供咾竜‖里跳ね上がった。機体に吊下していた60キロ爆雷が転げ落ちるように落下していった。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1808時


 爆発の轟音は遅れてやってきた。その前に衝撃が艦首に、そして艦全体を包み込んだ。敵の爆雷は前部兵員室の4メートルほど直上、左舷よりで爆発した。一瞬にして停電し、随所で錆と塗装が降り注いだ。前部兵員室昇降口から海水がなだれ込んだ。
 艦内は乗員の殆どが投げ出されて隔壁や機材に叩きつけられた。発令所で無事だったのは潜望鏡にしがみついていた御剣だけだった。その御剣も額を潜望鏡にぶつけて皮膚を切ってしまい、額を血が流れていた。
「静かにしろ!損害報告!倒れているものがいたら、おこして配置につけろ!」
 御剣は自分の流血に構わずに叱咤した。操舵手を抱えおこした。意識がないようで、頭部をさわるとなま暖かいぬるりとした感触がした。
「交代の操舵手を呼べ!非常用電源はまだか!軍医長!」
「兵員室損傷!浸水」
 水兵が士官室を駆け抜けて報告に来た
「第一配電盤、第二配電盤、ともに損傷!管制盤室、火災発生!」
 またか。御剣は舌打ちした。電力の回復には時間がかかる。その間、操艦はおろか、兵員室の排水も不可能なのだ。
「応急修理班。兵員室へ!管制盤室、消火急げ!」
 立ち上がった兵員達が御剣の声に弾かれたように立ち上がった。潜航長の滝上等兵曹をはじめ6名が持ち場を交代し、応急修理班として艦首に向かった。

 兵員室の浸水はハッチからだった。滝上等兵曹は応急修理班長として損傷したハッチをみるため、懐中電灯を片手に海水が流れ落ちるラッタルを駆け上がった。1分と経たぬ内に飛び降りると、海水の流入音に負けじとばかりに声を張り上げた。
「ぼろ切れと五寸角、鎖とジャッキ持ってこい!」
「なんとかなりそうですか?」
「大丈夫だ。パッキングがいかれただけだ。内殻の内側に五寸角の角材をかまし、鎖をそれとハッチのハンドルに掛けてジャッキで引っ張れば止まるだろう。艦長にそう報告しろ!」
 滝は闇の中で不敵に笑った。

 管制盤室は修羅の中にあった。火災の原因は前と同じで、爆雷の衝撃で配線の一部がショートし可燃物に引火したのだった。しかし火勢は前回より強く配電盤全体に広がっていた。電気長の藤澤上等兵曹は消火器を抱えて消火に当たったが、炎の勢いは強く、一向に消える気配がない。逆に藤澤の顔を炎がなでた。髪や眉に火が移り、周囲のものがあわてて手ぬぐいではたいて消した。
「通風隔壁弁を閉じろ!」
 うずくまった藤澤は呻くように言った。
「それには艦長の許可が」
 電気員の一人が反駁した。〈伊523〉の内部を、艦首から艦尾まで給排気用の2本の大口径通風管が貫通している。これを閉じなければ、新しい酸素が供給され続け火勢は収まらない。しかしこれを閉じると、管制盤室とその下の電動機室、後部兵員室に空気が供給されなくなってしまう。艦長の許可が必要なのはそのためだった。
「報告は後でいい!早く閉じろ。さもないと黒焦げだぞ!」
 藤澤は火傷をものともせずに消火器を取り、天井にまで吹き上げる炎に再度立ち向かった。

 突然、艦が右舷艦首方向に大きく傾斜した。左舷から右舷へいきなり変わったため、発令所で配置に付いた兵員がもんどり打ってひっくり返った。
「機関長!上げ舵一杯!」
 御剣はたまらず叫んだ
「駄目です。縦舵横舵ともにうごきません!動力が止まり油圧がかからない模様!」
 前部兵員室への浸水が原因だった。これを排出しなければならないが、深度50mでは水圧が高すぎ、手動で排水できない。応急修理班の修理はいつ終わるのか。
 全ては待つしかなかった。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1810時


「本艦から攻撃を続行せよと言っています、中尉」
「わかっている。言われなくてもそうするさ。それより磁気探知に注意しろ。敵潜は今の攻撃で針路や深度を変えるだろう」
 〈コリブリ供噐紊料狃鳥里聾世そえると海面に目を移し、戦果を評価しようとした。しかし波立つ海面には戦果を示すものは何ら浮いていなかった。

 ト・ユンファは艦長席で、次の展開に想いを馳せていた。
「敵艦までの距離と方位は?」
「3,200。357」
 対勢表示盤担当士官が素早く答えた。〈コリブリ供咾蝋況發虜能的な手段ではない。攻撃の主体は〈ブリュッヒャー〉である。哨戒回転翼機の爆雷攻撃は〈ブリュッヒャー〉が現場に到着するまでの牽制に他ならない。そして作戦はここまでのところ着実に成功している。次は攻撃のための減速である。減速すれば敵潜から狙われやすくなる。それをどう回避するか。
「昴は、まだ敵艦を捕捉しているか?」
「捕捉しています。これより二次攻撃に入ります」
「よし。ならばこちらも攻撃に合わせて針路と速度を変更しよう。針路357。20ノット」
 復唱が各所に響いた。ト・ユンファは続けて命令を下した。
「Sゲレート探知始め。聴音、音を艦橋に流せ」
 途端にスピーカーからSゲレートの発する規則的な金属音が流れ始めた。反射音は無い。敵潜が下にいないことの証明だった。
 捕まえるのに時間はかからない。昴が捕捉しているし、捜す手間が省けるな。
 ト・ユンファは軍帽の庇に手を掛け、深くかぶり直した。

 同じ頃、昴では爆雷の安全装置を解除して攻撃準備を急いでいた。磁気探知機の針は微細な反応を示している。
「攻撃準備完了。目標前方零時、進路そのまま」
「よし。行くぞ!」
 操縦士は操縦桿を固定し、スロットルを絞った。ホバリング態勢に入る。
「目標捕捉!用意!投下!」
 ガクンという衝撃と共に機体が再びふわりと浮かび上がった。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1815時


「前部兵員室、浸水止まりました」
 濡れそぼった髪の毛を払いながら応急修理を終えた滝上等兵曹が報告した。単純だがきつい作業だったため、息が荒い。
 しかし動力は回復していない。深度も維持できずに少しずつ沈降して90メートルを越えている。
「ようし。動力が回復すれば攻撃に転じるぞ。滝上等兵曹、苦労だった。休んでいいぞ」
「はっ、ありがたくあります。ですが、上の奴を仕留めてから休みたくあります」
「違いない」
 御剣は明るい声で語りかけ、からからと笑った。発令所の中で笑いが漏れた。笑わなければやってられん、と御剣は思った。

 管制盤室の火災はようやく鎮火した。配電盤の復旧作業が始まろうとしている。だが電気員たちの疲労はピークに達しようとしていた。電線を包むゴムや絶縁体が燃えて発生した塩素ガスや消火剤が立ちこめ、呼吸が苦しく誰しもが咳き込んでいた。防毒マスクはあったが、消火活動に不便なため電気長の藤澤は敢えて装着を許可しなかったのだ。障害は他にもあった。火は消えたものの、電力が回復していないため復旧作業は暗闇の中で行わなければならない。しかし懐中電灯は二本しか残っていない。
「とにかく、まず焼けた配線を引っ剥がせ。急ぐんだ」
 藤澤上等兵曹は顔を手ぬぐいで押さえながら、部下を叱咤した。
「まず一次電源から掛かれ。二次電源と非常用は後でいい」
 藤澤はそう言うと自らも作業に取りかかった。

 発射管室では水雷科分隊士の睦月上等兵曹以下の兵士達が悪戦苦闘していた。なにしろ約1.7トンもの魚雷の再装填中に爆雷の衝撃で振り回されたのだ。装填軌道上から2式聴音魚雷がはずれないよう押さえ込むだけでとんでもない苦労が必要だった。何しろ純粋酸素を詰め込んだ魚雷なのだ。まかり間違って爆発しようものなら、〈伊523〉は爆沈してしまう。
「よし続けるぞ」
 彼らは睦月の指示のもと、慎重に装填作業を再開した。

 電動機がうなりを上げ、照明が瞬いた。ようやく白色灯がともり、そのまぶしさに発令所にいる者全てが瞼を押さえた。
「速力4ノット。赤色灯に切り替えろ。排水急げ」
 御剣が命じた。
「速力4ノット、ようそろ。現在、深度105メートル。針路000」
 潜航長の職に復帰した滝が答えた。
 自分の部下達は優秀だな。御剣はにやりと頬を崩した。衝撃が再び艦を突き動かしたのはその時だった。
「爆雷!」
「爆雷戦防御!機関長、傾斜復旧急げ!」
 御剣はすかさず指示を出した。
「右舷三番、四番タンク、左舷三番、四番タンクに、500リットル移水」
 下令後、機関長が御剣に問うた。
「艦長。管制盤室に酸素の供給をしてよろしいですか?」
「構わん。閉鎖も解除し負傷者の収容と手当をおこなえ」
 電気長が顔面に大火傷を負った、という。火傷がどれほど辛いものかは、これまで乗り組んでいたフネで何度も経験した御剣は知っていた。藤澤は印象こそごついが廉直で男惚れのする快男児だ。しかし起こってしまったことは仕方がない。後悔はしない。
「聴音に伝達。速やかに彼我の位置関係を知らせ!」
 動力の回復は艦の運命を受動から能動へと変えた。これからは選択の一つ一つが死命を分ける。御剣は〈ブリュッヒャー〉を睨み上げるように視線を上に向けた。

 探信儀室は発令所の後方左舷側にある。電力の回復は4名の水測員たちを忙しくさせた。しかし電子機器の心臓部にあたる真空管が暖まりきっていない。10年以上前のようにとんでもなく時間がかかるようなことは無くなったが、それでも今しばらくの時間が必要なのは変わりがない。理化学研究所で開発された、半導体素子を用いた機器はまだ〈伊523〉に搭載されていなかった。
 水測長の織田上等兵曹は戦闘配置が下令されるときには必ず兵まかせにせず、自ら聴音機に取り付いた。彼の耳が〈伊523〉を危機から救った事は数多い。
 織田は聴音機の機能が回復するのをじりじりと待っていた。異状に気づいたのはその間だった。最初は遠くからくぐもった鐘のような音がした。聴音機を通じてではない。まだヘッドホンを耳に当てていない。
 ピッチが速い。音は隔壁を通して聞こえている。織田は急いで手近にあったコップを隔壁に付けた。底に耳を当てるとより明瞭に音が聞こえてくる。くぐもった鐘のような音。蒸気の噴射音のような音。明るい鐘のような音。間違いなくそれは敵艦の機関音、スクリュー音、そして探信儀音だった。
「海面に連続音響!距離約400!」

「深度変更、深度20!」
 水測員からの報告を受けた御剣は間髪を入れずに下令した。艦を受け身ではなく戦闘可能な状態にしておきたい。
「横舵。艦首上げ七、艦尾下げ五。メイン1,000排水。海面に飛び出さないよう注意しろ」
 高圧空気の噴射音が轟いた。それと同時に艦が持ち上がっていった。
「聴音機、回復!敵艦まで200切りました!」
 伝令の声が響いた。敵艦の探知不能領域に入りつつあった。
「電池群直列、両舷電動機全速!懐に潜り込め!」
 〈伊523〉は水中高速潜水艦の名にふさわしい速度を発揮した。2基のスクリューが海水を攪拌し16ノットの速度で艦を突進させた。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1815時


 我が方に死角はない。ト・ユンファはほくそ笑んだ。
 ブリュッヒャーのSゲレートは60秒前から敵潜水艦を完全に捕捉している。しかもバルコンには敵の航走音が捉えられていない。そこから得られる回答は、敵が単発の航空機爆雷で損傷したと言うことである。万一、偽装であっても敵はこちらを攻撃できない。深度100mで雷撃できる潜水艦はいまだ出現していないからだ。しかも、こちらは敵の射線に対してほぼ平行、すなわち最も雷撃を受けにくい方位で接近を図っている。
「艦長より爆雷投射班。スタントンか?調停深度は110だ」
「ヤー」
「聴音より艦長!聴音より艦長!目標より航走音!繰り返す。目標より航走音。目標移動開始」
 この報告にト・ユンファは一瞬うろたえた。自分を叱りつける。偽装は予測していたではないか。何をとまどう。
「方位、距離、針路、速力を知らせ!」
 ト・ユンファは送受話器をとると語気荒く言った。
「本艦よりの方位000。距離400メートル。針路000。速力16ノット超!」
 畜生め。探知不能領域に潜り込むつもりか。
「敵艦、失探!」
「〈ヴァイン・フラッシェン(葡萄酒瓶)〉!発射(ロース)!」
「発射!」
 英軍の〈ヘッジホッグ〉をコピーした前方投射爆雷が24発発射された。どれか1発でも接触して爆発すれば全弾が誘爆するはずだ。しかし爆発は起きない。懐に潜り込まれた。
「爆雷投射用意!面舵!投下(ロース)!」
 これで『サヨナラ』だ。
 4発ずつ10回に分けて、40発の爆雷が投射された。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1816時


「敵艦直上!爆雷!」
 伝令の声が艦内に響いたのと、艦が猛烈な衝撃に突き上げられたのはほぼ同時だった。地獄の始まりだった。
 艦首を持ち上げていたその真下で4発の爆雷が爆発したのである。〈伊523〉は弾き飛ばされ、ゴロゴロと転がるように横倒しになって制御を失った。回復したばかりの電灯は消え、艦内はまたしても闇に閉ざされた。計器にはめ込まれたガラスのほとんどが弾け飛んだ。乗員と、固縛されていない物すべてが上下左右、前後に振り回され投げ出された。平衡感覚に優れた御剣ですらも、潜望鏡の昇降索につかまりきれずに投げ出された。
 振動が収まる暇もなく次の4発が炸裂した。今度は艦中央部の発令所付近である。天井を走る送水管の一本の継ぎ目がはずれて海水が闇の中で噴出した。内殻の継ぎ目にも何箇所かの亀裂が入り、そこから海水が噴流となって発令所になだれ込んだ。
 人間と機材が、人間と人間が、階級の差別もなくぶつかり合い、転げまわる。御剣の耳には乗員たちが上げているはずのうめき声すらも入らない。転げまわりながらも頭部を守るだけで精一杯だった。
 〈伊523〉が圧壊をかろうじて避けえたのは、第三波の4発が海流の影響でわずかに左舷寄りに流されたせいだった。御剣たちには知る由もない。そして、以後の7回もの爆発は〈伊523〉を逸れて爆発したのである。

 艦首の魚雷発射管室は、最初の衝撃で水雷科員全員がなぎ倒され床に投げ飛ばされた。室内のペンキが剥がれ、割れた電球のガラスと一緒に降り注いだ。補修したばかりのハッチから再び海水が噴き出し、予備魚雷を固定する鋼鉄のバンドがいくつか弾け飛んだ。
 睦月上等兵曹は四つんばいになりながらも配管の一本にしがみついて身体を支えていた。眼前では日向一等水兵が弾け飛んだバンドに打たれて昏倒していた。うめき声を上げているのだが、爆発の残響音や備品の転がる音、水雷科員たちの阿鼻叫喚に掻き消された。
 最初の振動が収まりかけると、睦月は薄暗くなった通路を這って日向に近づいた。息をしていることを確認する。うめき声があがった。肋骨を痛めたらしい。自分がしがみついていた配管へ日向を結わえ付けるために抱き起こした。
 第二波の爆雷群が艦中央部を襲ったのはその時である。睦月は日向を抱えたままもんどり打って倒れた。その二人の上に魚雷架を外れた魚雷の一本が落下した。魚雷は睦月の頭蓋と頚椎を同時に破砕し、日向の肋骨をもへし折った。肉片と血が発射管室に飛び散った。
 敏感な酸素魚雷が爆発しなかったのは、奇跡という以外にない。

 御剣は闇の中で体中がバラバラになったような痛みに耐えながらも、恐ろしく醒めている自分に気づいていた。
 発令所内の統制は保たれていた。速やかに防水処置と操艦に復帰し、対処を始めていた。
「強速!面舵一杯!各部、速やかに損害を報告せよ!」
 伝令が各部の報告を集約する間、御剣は今回の攻撃についての考えをまとめようと試みていた。ト・ユンファの奇襲は確かに成功した。が、その原因の全てがこちらにあったのかどうか。わが水測員は内殻を通して敵の機関音を一旦は捕捉していた。だのに直前まで攻撃に気づかなかったのはなぜなのか。ト・ユンファは攻撃直前に回転数を絞り、こちらの聴音を混乱させようと図ったに違いない。
「発射管室応答ありません!」
 伝令が悲痛な声を上げ、御剣は思わず振り返った。
「先任。私が見てくる。操艦を頼む。敵艦は恐らくこの後、左回頭を図る。本艦はこのまま右回頭しながら襲撃深度まで浮上しろ」
 岩城先任は蒼白に顔にチラリと血の気を上らせると、無言のままうなづいた。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1821時


 風の吹き込まない戦闘艦橋は、むせ返るような暑さだった。
 救命胴衣と鉄兜の着用が義務付けられ、逃げ場を失った体温の上昇が容赦なく体力を奪っていく。体力の衰えは集中力の減退を生む。それが些細なミスを生み、全艦の命取りになることをト・ユンファは凶手時代から知っていた。第二哨戒配備も加えると、一部の者の配備は八時間を越えている。〈ブリュッヒャー〉には新兵が多い。艦長は乗組員の忍耐の限界をも考慮に入れなくてはならない。自分一人ならば幾らでも耐えられるのだが。ト・ユンファは艦長という多数を率いねばならない己の身分を呪った。
 ト・ユンファが溜め息を吐いたとき、事態は新たな局面を迎えていた。
「全弾投下完了」
 伝令の声とほぼ同時に、艦尾から最後の斉射を終えた爆雷の爆発振動が伝わってきた。
「取り舵一杯。左舷後進一杯」
 ト・ユンファは直ちに下令した。素人は1万4千トンの巨体すら震わせる爆雷攻撃の下で潜水艦が生き残っているとは、普通考えない。ファルマン親衛隊少佐などはあけすけに喜んでいる。
 しかし潜水艦の撃沈がいかに困難かは、Uボートと日英艦隊の闘いが明らかにしている。よほどの事がない限り、ミツルギは生きている。そして奴は〈ブリュッヒャー〉がフィラデルフィアに向かっていることを知っている。いかに水中高速型とはいえ速度の遅い潜水艦とすれば、わが艦の行く手を阻むように機動しなくては二度と追いつけない。ミツルギならば面舵で爆雷を回避したはずだと、ト・ユンファは思考した。
「聴音。状況を報告せよ」
 艦底の聴音室から答えが返るまでには、やや間があった。
「現在、目標の動静不明。爆雷による探知不能領域が時間とともに拡がっています。本艦の左舷に長さ7ヘクトから10ヘクトメートル(700〜1000メートル)の可聴不能領域があります。その南東側は扇形に探知不能です。この扇形の方位は本艦の移動によって徐々に東よりに変化しています」
 おかしい…。ト・ユンファは唇を噛んだ。
「方位180を中心に左右30度の範囲内に何か聴こえないか」
「ヤー。聴こえません」
「よし」
  ――――沈んだのだろうか……?
 ありえると、ト・ユンファは思った。しかしそれはあくまでも憶測でしかない。
「攻撃中および攻撃後に何か異常音源はなかったか?」
「ありません。聴音不能でした」
 聴音員は通常、爆雷の炸裂音から耳を守るために、攻撃中はヘッドホンを外す。
「ふむ……」
 ト・ユンファは受話器を置くとさりげなく退屈げな態度を装った。指揮官はたとえ戦闘中でも乗組員を過度に刺激する態度を取ってはならない。悩んだり迷ったりしていることを気取られれば、乗組員は指揮官への信頼を失い浮き足立つ。その点はアーリア人種も東洋人種も変わらない。棟梁たる者は山の如く静まっていなければならないのだ。
「航海。本艦の状況は?」
「針路205……、200。旋回中。20ノット」
 モーア少佐が作図台を覗き込みながら答えた。手には定規とチョークが握られている。反対側に立つ航海士官はプロットする目標報告が無いためか、手持ち無沙汰げに、撃沈したのではないかと問いかける目差しをト・ユンファに送った。
「新針路180。減速8ノット」
 ト・ユンファは努めて静かに命令した。重油か敵艦の装具が浮かんでこない限り撃沈したと考えるのは危険だった。
  ――――ここは慎重に行こう。
 それが棟梁たる艦長の執るべき態度だ、と思った。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1824時


 御剣の前を歩んでいた従兵が重い水密扉を開けた。照明は回復していなかった。懐中電灯に照らし出された発射管室は紅く鈍く目に映った。
 従兵が、
「あっ……」
 という声にならない声を上げ、いったん開いた水密扉を閉めかけた。
「そのまま」
 御剣の声は鋭いが冷静さを保っていた。御剣は目をそむける従兵の肩に手をかけて背後に押しやった。水密隔壁をくぐり、鈍く光っている血溜まりに足を踏み出す。足を滑らすような不恰好はしない。水雷科員達は例外なく物陰に身を寄せて凍り付いていた。
 御剣は隔壁にへばりついている水雷科員の襟首をつかむと、二、三回拳で張り倒した。
「先任は誰か!」
「自分であります。児玉二等兵曹です」
 筋骨こそ隆々としているが小柄な男が、魚雷をまたいで御剣の前におずおずとやってきた。顔面は蒼白で血の気が無い。
「現状を報告せよ」
「魚雷一本破損。二名戦死です。発射管の機能は正常。六番を除き装填完了。発射管内も含め魚雷残数十二」
「よし。面倒だが五番発射管の魚雷を出して、死んだ二名の遺体と遺品、それに装具や塵芥を装填せよ」
「遺体や遺品をですか」
 児玉は驚いた様子で反問した。元来、潜水艦では潜行中の戦闘で個別の戦死者を出すことはほとんどない。負け戦は即沈没であり、戦死者はすなわち黒い鉄棺の中で一蓮托生である。ましてや英霊を魚雷なみに射出しようなど、潜水艦乗りの発想ではない。敬愛している艦長だけに、児玉には承知できないことであった。
「睦月上等兵曹は自分の先輩であります。できません。せめて水葬にしてやってください」
 言葉こそ丁寧だが、児玉の語気は鋭く顔面は紅潮していた。
「命令だ。速やかに履行せよ」
 御剣はにべもなく言った。水雷科員達の気持ちは分かる。しかし、この勝負は何としても勝たねばならない。生き残らねばならない。先祖の忍者が、片腕をわざと斬られるのと引き換えに生還を果たした伝承を思い出していた。
 御剣は睦月と日向の遺体に手を合わせると、表情も変えずに踵を返した。その背中を水雷科員達の恨みに燃えた眼が追いかけた。

「感なし」
 〈伊523〉の聴音は攻撃後の敵艦のスクリュー音と機械音を失探したままであった。
 これでは攻撃も防御もできない。せめて19メートル付近まで上がれば潜望鏡観測も可能なのだが……。
 岩城先任は深度計に目を走らせた。
 65メートル。
「先任。報告せよ」
 前部隔壁を潜って発令所へ戻ってきた御剣が声をかけた。その声には、いつもの張りがなく、顔色も青白く見えた。
「聴音、依然感なし。本艦の深度58、依然上昇中。針路220。速度2ノット。聴音の報告では本艦の西側に、南北に伸びる1000メートルの細長い可聴不能領域があり、聴音を妨げています」
「よし。面舵一杯。針路270になり次第両舷停止。深度19.5。静かに持って行け」
 伝令の復唱を聞きながら、御剣は潜望鏡に寄りかかり戦闘帽を脱いだ。蒼白い顔に冷たい汗が流れる。
「大丈夫ですか?」
「ああ。発射管室では二名戦死。魚雷一本破損だ。二人の遺体は五番六番に装填するように言った」
 瞬間、発令所の中に戦慄が走った。当惑と非難の目が集中する。御剣は構わずに戦闘帽を勢い良く被りなおすと、言った。
「このまま無音潜行を維持し、五番六番が準備でき次第射出する。同時に重油も流せ。燃料タンクの残量を確認し、一部を放出する。航海と相談して放出タンクを決めろ。潜行士官は深度に注意せよ」
 御剣は自らに気合いを入れた。この勝負、何としても勝たなくては………。
「それと、クリステラ大尉をお呼びしろ。頼みたいことがあると」
 最終決戦の舞台を整えるために。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1826時


 対勢表示板には相変わらず、〈ブリュッヒャー〉の航跡と可聴不能領域の拡がりしかプロットされていない。〈ブリュッヒャー〉は減速8ノットの航行を続けている。ト・ユンファは現在の戦況を検討していた。
 撃沈という可能性は、この際考えないことにした。Sゲレートはラダール・ゲレートと異なり、有効範囲内でも水中の音波伝達特性によって反射波を得られない領域を持っている。この領域は海水の温度差や海流の状態などさまざまな要因に影響を受け、どこに発生するかは予測できない。御剣が、そこに身を隠していることは十分考えられた。屋上の貯水タンクから飛びかかるような、死角からの奇襲は有効な手段である。しかし、その領域の幅が不明である以上、御剣はこちらを発見しても方位や深度を無闇に変えることができない。安易に飛び出しては、こちらに察知される怖れがあるからだ。こちらが敵の射線を横切らない限り、無害と言ってよかった。
 〈ブリュッヒャー〉は現在、Sゲレートもバルコン・ゲレートも性能を有効に発揮できる速度まで減速している。可能性としては、御剣は爆雷の水中爆発による無数の気泡が作った可聴不能領域内に隠れていると見るほうが考えやすい。しかし、その面積は時間の経過とともに拡がって、今は1500から1800メートルの長さに及んでいた。水中の気泡が消えるのは、意外に時間がかかる。
 攻撃後、なんら接触の報告がなかったことを考えると、御剣が〈ブリュッヒャー〉と同方向に退避行動を取ったとは考えにくい。
「作戦士官。可聴不能領域までの距離は?」
「近点で2000」
 敵潜は可聴不能領域に潜みながら、少なくともこちらの動きを予測し、深度と針路の変更をおこなっておくことができる。となると、こちらが動くのは敵の思う壺だ。
「航海。針路変更090。針路変更後完全停止。急げ」
 航海長は、再度の大変針に驚いて振り返りながらも復唱した。
「ヤー・ヴォール。新針路090、完全停止」
「聴音。前方に注意。敵潜が浅深度に潜む恐れあり。Sゲレートの発振を中止し、バルコンの音を戦闘艦橋に流せ」
「ヤー・ヴォール」
「機関。全速即時待機。全艦に伝達。音を立てるな」
 ト・ユンファの矢継ぎ早の命令に全乗員がどよめいた。
 御剣め。甘いな。罠にかかる私だと思うか。貴様の浅知恵など簡単に読めるわ。

「航海艦橋より戦闘艦橋!」
 突如、静寂を破って伝声管が震えた。聞きなれた伝令員の声ではなく、ヤーニー航海長のうわずった声だった。ト・ユンファは伝令員を押しのけると、自ら伝声管に取り付いた。
「戦闘艦橋より航海艦橋」
「艦長ですか?ヤーニーです。正艦首、距離2,500に油膜です」
 ト・ユンファは息を呑んだ。撃沈したのか。
「量はどうだ?油膜の面積は?」
「海面が暗く不明です。ちょっとお待ちください……。正艦首で見張り員が何か漂流物を発見したようです」
 次に聞こえたヤーニーの声は興奮の度を高めていた。
「遺体のようです!」
「いくつだ?」
「一つです。探照燈を点燈して捜索しますか?」
 ヤーニーは、もはや完全に撃沈を信じているようだった。潜水艦は欺瞞のために重油を放出して沈没に見せかけることがあるが、遺体を使うとは聞いたことが無い。
 いや、しかし。
 ト・ユンファは思案した。あの爆雷攻撃の後だ。私ならばどうする、私がミツルギならば……そうだ、仕事を完遂するためならば父母の遺体でも使う。
「駄目だ!絶対に駄目だ。そのまま監視を続けろ」
 ト・ユンファは伝声管を離れると、戦闘艦橋の中央に置かれた作図台に向かった。潜水艦との戦いの難しさは、相手の損害や撃沈を視認できないことにある。こうした場合、ト・ユンファが最後に信じるのは己の勘しかなかった。こちらの放った砲弾が命中したか否かは、感覚的に分かる。先の爆雷攻撃にはそれが無かった。手応えを感じなかった以上、何があっても撃沈を信じるべきではない。
「Sゲレートで探ってはどうでしょう?」
 作戦士官が耳元で具申した。
「……止めておこう」
 ト・ユンファは一呼吸おいて答えた。Sゲレートは探知距離の二倍まで音波が届く。しかし、それは暗闇で懐中電灯を使って人を探すようなもので、敵を見つける前にこちらの位置を敵に知らせてしまう可能性が高い。使えるのは、沈めたという確信があるか、敵艦のおおよその位置が分かっている時だけだった。
 それにしても遺体を使うとは……。
 口中で小さく呟く。だから、こんな罠にかかるほど私はどじじゃあない。甘いな、本当に。だが、少なくともこれだけは言える。ミツルギは兵を死なせるほどの損害をこうむっている。いずれにしても切羽詰っているということだ。
 逃げ場の無い、こちらにとっても勝手知ったる校舎に逃げ込んだようなものだ。きっちりと料理してくれるぞ。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1911時


「依然目標移動無し。波の影響による雑音多く、感五」
 伝令が小声で伝えた。探知不能領域が消滅して30分。聴音からの報告は「目標移動無し」と、ほとんど感度が無いことを意味する「感五」を繰り返している。把握できるのは〈ブリュッヒャー〉のかすかな蒸気タービンと発電機の音だけで、スクリュー音は聴き取れない。「感五」というのでは正確な諸元が得られない。こちらが動けば三角測量の要領で諸元を割り出せるが、敵にもこちらの位置と針路と速力を教える結果になってしまう。動くことはできなかった。
 御剣は腕を組んだ。
「引っかかりませんね」
 岩城先任が、肩で息をしながら残念そうに話しかけた。放出した遺体や重油やごみはすでに会場に浮いているはずだった。
「待とう」
 狭い海図台に寄りかかると、御剣は腕組みをしたまま瞑目した。
 ト・ユンファが引っかからなければ持久戦になるだけである。だが、問題は艦内の炭酸ガスの増加だった。気温は上昇し、目は痛み頭痛が間断なく襲ってくる。しかもパイプの継ぎ目から漏れる重油と便所から漂うアンモニア、そして汗の臭いが混ざり合い、艦内艦橋は急速に悪化しつつあった。
 〈伊523〉は深度19メートルまで浮上し、海中に静止していた。艦体は海上の波の影響で大きく揺れ動き、乗組員は何かに掴まって身体を支えていなければ立っていられない。物音を一切立てられないのも苦痛だった。このままでは乗組員の体力は消耗する一方である。
「気蓄器から少し空気をもらおうか。通風隔壁弁を開けろ。静かにやれ」
 御剣は岩城に声をかけた。
 高圧空気の吹き出す音が発令所に響いた。
 音は立てたくないが、酸素が無ければ持久戦は戦えない。ギリギリの選択だった。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日1947時


 〈ブリュッヒャー〉は、海上の波浪の影響を受け、ピッチングとローリングを繰り返していた。外洋の波は排水量1万4千トンを誇る重巡洋艦を物ともしない。空には雲が広がり、月や星を隠している。気圧計の水銀柱はじりじりと下降し始め、明らかに天候は下り坂であることを示していた。
 ト・ユンファは戦闘艦橋の中央部に立ち、眉間に皺を寄せていた。敵潜の存在を示す接触は、その後全く無い。敵影を見失ってから一時間半。午前直の配置についていた者は、実に10時間と37分間持ち場から一歩も動いていない計算になる。その間満足な食事も取れていない。艦を正常に航行させるために必要な作業は50種類以上あるが、これも全て後回しになっている。戦闘配備の時間的限界はとうに過ぎていた。
 どこだ、どこに潜んでいる。
 この睨み合いは先に動いたほうが負けとなる。千日手となった状況はミツルギも承知の上だろう。だが、奴は酸素の供給音さえ控えている。海が荒れ始めたことは、ミツルギが盤上の駒を取られて不利な局面になったことを意味している。こちらはそのような制約はほとんど無い。むしろ明朝には再び〈コリブリ供咾鮖箸Δ海箸できる。敵は波が高くなれば、その分潜望鏡を高く上げなければならず、こちらのラダールはそれを発見しやすくなる。
 ならば、ミツルギは何を待っているのか。息を殺してただ身を潜めていようというのか。そんな筈は無い。ミツルギは傷つきながらも果敢な攻撃を仕掛けてきたではないか。いまさら尻に帆かけるわけがない。
 何を狙っている……。何に賭けようというのだ。
 ト・ユンファの思考は堂々巡りを始めていた。
 どう考えても奴が本艦を攻撃する機会は、こちらの聴音員の注意力が最も低下する午前四時から五時頃になるだろう。しかし、それにはミツルギは傷つきすぎている。それまで酸素補給もなしで、どう持ちこたえようというのか。
「航海艦橋!」
 ト・ユンファは伝声管に重々しく声をかけた。
「ヤー。航海艦橋です」
「航海長を出してくれ」
 伝令員が、慌ててヤーニー中佐を呼んでいるのが分かった。やや間があってヤーニーが出た。
「戦闘配備を解除する。艦内第二哨戒配備とする。当番明けの者に何か温かいものを食べさせるよう手配してくれ」
 第二哨戒配備に戻したなら、艦内生活は多少の不便を伴うものの、何とか食事を含む日常生活をおこない、しかも乗組員に適度の緊張感を与えることができる。
 今はこれしかない。「凶手」としての訓練を積んだ自分ならばともかく、普通の人間には極度の緊張状態を――いつ解除されるのか、わからないままで――長い時間、維持し続けるのは無理だ。
 ト・ユンファは帽子を脱ぐと、白いものの混じった、茶色に近い黒髪を右手でかきあげ、さらに言葉を継いだ。
「明朝0330時、戦闘配備を命じる。そのつもりでいてくれ」
 戦闘艦橋にほっとした空気が流れた。オブザーバーの親衛隊少佐などはあからさまに安堵の息を吐いている。
 取りあえずはこれでいい。これで〈ブリュッヒャー〉は明日も戦える。
 ト・ユンファは、漆黒の海に遠く目を遣った。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日2245時


 〈伊523〉の後部兵員室はわずか四畳半程度の広さしかない。ここにX艇の搭乗口がある。御剣はひどい頭痛を覚えながら、この狭い部屋に足を運んだ。
 先に放出した酸素は既に薄れかけており、軍医の進言もあって、空気清浄剤の「アルカリセルローズ」を撒くよう命じていた。これは昭和19年に開発されたもので、吸収反応の高い炭酸カリウムを繊維にからめており、缶から取り出し、手で床にそっと撒けば無音潜航に対応できる。さらに、使用後に熱を加えれば再利用が可能という優れものである。伊号潜水艦はこの「アルカリセルローズ」を120個(20時間使用分)搭載している。そのおかげで随分良くなっているとはいえ、睨み合いが続いている以上濫用はできなかった。
 艦内灯は電池の消耗を避けるために抑えさせ、弱々しい橙色の光しか放っていない。見上げると、X艇搭乗口に改造されたダイバーズ・ロックのハッチが開放されている。その先は闇であった。
「クリステラ大尉」
 御剣は中にいるはずの英海軍大尉に声をかけた。だが聞こえるのは話し声だけで、アルバート・クリステラが降りてくるまでには三分ほどかかった。クリステラは御剣から作戦の構想を示され、部下のローウェル少尉にライソン准尉、クロフォード軍曹らを率いて、X艇を10ノットで自走できるよう調整に当たっていたのである。
「状況は?」
 御剣は垂直ラッタルに手をかけると、単刀直入に用件を切り出した。
「問題ありです。外殻の損傷は浮上しないと確認できませんが少なくとも一艇は使用不能です。一号艇です」
 クリステラは肩で息をしながら言った。汗が額から滝のように流れ落ちている。
「一号か……」
 御剣は呟いた。後甲板に載せられたX艇の四隻は、一号艇が発進方向でいえば先頭に位置している。その一号艇が故障となれば、残る二号、三号、四号艇の発進の邪魔になる。
「切り離せるか?」
 御剣の問いにクリステラは、元は白かったであろうハンカチで顔を拭って答えた。
「X艇にはマイナス浮力があります。切り離せば沈降しながら海流に流されるでしょう。本艦が停止していると、外部構造や残るX艇に接触するかもしれません」
「二号、三号、四号の調整は?」
「今、最後の四号艇の調整をおこなっています。舵機とスロットルを固定しています。ただ正確に10ノットで走行できるかどうかは発進させて見なければわかりません」
「あとどのぐらいかかる?」
「一時間は必要です」
「ありがとう」
 最善の努力を尽くしている大尉と敬礼を交わし、御剣はゆっくりと発令所に歩を運びながら反芻した。
 ユンファは〈伊523〉がフィラデルフィアへの針路上に現れると踏んでいるに違いない。だが、現れるものか。こちらは奴を真後ろの東へ引きずりこんでやる。そこが最終決戦の舞台だ。X艇はそのための秘密兵器だ。X艇を低速で北に撃ち出す。〈伊523〉が襲撃をあきらめて北に向かうように見せかける。これは囮だから搭乗員は必要ない。二基のX艇のスクリュー音は〈伊523〉と同じ二軸に聞こえるはずだ。ユンファは必ずそれを追うだろう。そして〈伊523〉は潜んだまま、〈ブリュッヒャー〉がわが方に無警戒の横腹をさらして走行してくるのを待つ。〈ブリュッヒャー〉にとって最善の方法は〈伊523〉を放り出して南進することだが、何、奴に限ってそんなことがあるものか。奴は必ず食いつく。罠を食い破って見せるという旺盛な闘争心が、貴様の弱点だ。
 待っていろよ、貴様の横腹に存分に酸素魚雷をたたき込んでやる。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日2317時


 ト・ユンファは、暗闇に包まれた航海艦橋の艦長席に着こうとしていた。当直要員も第二哨戒配備への変更で三分の一に減り、ここにも夜気が漂うようになった。艦内の至る所で乗組員の三分の一がベッドに、三分の一が食事と艦内作業のために配備を離れている。
 椅子に腰を下ろすと、さすがに疲労していることを自覚した。
「当番」
 ト・ユンファは若い当番兵に声をかけた。
 戦闘配備解除後も、そのまま艦橋の当直についている哀れな当番兵が転がるようにやって来た。少年と言っても良い年齢の、この男はキールで乗艦してきた転属兵で、臨時でこの任務に就いている。
「何か簡単に食べられるものを、そうだな、サンドイッチを持ってきてくれ。士官食堂のコックに言って、私用のを作ってもらってくれ。それからコーヒーを」
「かしこまりました!」
 まずは腹ごしらえだ。食べられるときに食べておかねば体力が持たない。12時間近く飲まず食わずであった。
 右舷の艦橋ウィングを見やると、見覚えのある水兵が見張り番に就いている。ト・ユンファは右舷ウィングへ足を運んだ。
「ホルバッハだな?」
 ト・ユンファは、彼がキール出港時の見張り員だったことを思い出していた。
「疲れたろう?」
「はい、いいえ。大丈夫です」
 艦長に気軽な声をかけられたホルバッハは双眼鏡を下ろすと、にこりと笑った。あどけない笑顔には一点の曇りも無い。
「その意気だ。がんばってくれ」
 ト・ユンファはホルバッハの肩を軽く叩くと再び艦橋に戻った。彼に全幅の信頼を寄せる水兵の笑顔が、少し眩しすぎた。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日2343時


 薄暗い照明の下で、沈黙が発令所を包んでいる。艦内の気温は摂氏30度を越え湿度も高い。発令所要員の誰もが汗と油にまみれ、疲労に顔を黒ずませていた。しかし何より問題なのは、空気の汚れだった。矢沢軍医長の測定で炭酸ガス濃度はすでに3パーセントを越えている。潜水艦では珍しくないが、普通の大気中に比べて100倍近い濃度である。空気清浄剤を撒いて対応しているものの追いつくものではなく、酸素量は18パーセントを大きく割り込んでいた。潜水艦は潜航していても通常ならば48時間は空気に問題は無い。だが、〈伊523〉は酸素の節約と無音状態を保つため、新たな空気の放出を禁止されたままだった。
 ――富士山の山頂に立っているようなものだな。
 御剣は苦笑した。
 乗組員はピッチングとローリングを繰り返す艦内で、足を踏ん張り、物に掴まって、音を立てないように辛くもバランスを取っている。
 御剣は彼らの体力の消耗を計っていた。ただ潜んでいるだけならば、まだかなりの時間頑張れるかもしれないが、今後の戦闘行動を計算に入れれば一時間か二時間が限度だろう。それ以上の酸欠は動作を緩慢にし、ミスを続出させる。
 しかし、クリステラ大尉らの作業が終わるのを待たねばならない。岩城先任が意見を具申したいようなそぶりを見せていた。
「艦長」
 岩城が声をかけてきた。
「わかっている」
 クリステラ大尉が道具箱を手にした部下達を引き連れて、後部防水隔壁の丸扉をくぐって発令所に入ってきたのはそのときだった。
「艦長。報告します。X艇二号艇、三号艇、四号艇準備完了いたしました」
 疲れきっているはずの英海軍大尉は、表には疲労の色を出さずにピシリと敬礼して報告した。
「よし!ご苦労だった。急いで配置に戻れ」
 御剣はにこりと笑い、クリステラ達を慰労した。彼らが発令所を出ると、御剣はキッと顔を上げて命令を下した。
「電力を正常に戻せ。艦内に空気放出」
 満を持した御剣の下令で、艦内は一気に活気づいた。
「通風隔壁弁、開放」
 岩城の命令で重い隔壁弁のハンドルが回される。空気は全乗組員が今か今かと待ち望んでいたプレゼントだった。と同時に通風弁の開放は、長い待機の終わりを告げていた。岩城が各部署にきびきびと指示を出す。赤色灯が明るさを増し、空気を放出する気蓄器の音が艦内に響き渡る。
「魚雷戦用意」
「魚雷戦用意よし」
 呼吸が急速に楽になり、伝令の声にも張りが戻った。発令所要員には来たる決戦に緊張が走っているが、御剣は穏やかな表情に戻って命令を下した。
「X艇一号艇、切り離せ」
 岩城先任と西村航海長が同時に口を開きかけた。
 一号艇が使用不能ということは、御剣が発令所に戻ってきた時点で聞いていた。だがまさか静止状態で切り離すとは。岩城と西村の思いは同じだった。静止状態で切り離せば、落下したX艇が艦体に接触し、損傷を負う危険がある。が、二人はともに声を呑んだ。御剣の気迫に圧倒されたのである。
 重苦しい金属音が三回続き、艦が大きく揺れた。一号艇は接合装置から解き放され、ゆっくりと右舷艦側を滑り降り、海底目指して落下した。
「縦舵および推進機」
「異常なし」
 伝令が機関室と無電池電話で言葉を交わす。
「X艇発進用意」
 続いて御剣が命令を下した。
「用意よし」
 岩城の応答に御剣はグッと顎を引き締めた。
「二号艇、三号艇、発進!」
 一基三度ずつの金属音と共に〈伊523〉がひときわ大きく揺れた。
「二号艇、走行しません」
 聴音から、悲鳴のような叫び声が直接御剣の耳に届いた。しかし御剣の姿勢は崩れなかった。
「四号艇、発進」
 命令と同時に、〈伊523〉搭載の最後のX艇が、搭乗員を乗せないまま艦体を離れた。


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月7日2356時


 当直の交代時間が迫っていた。艦橋要員は計13名。今は引き継ぎのために26名がひしめいている。つかの間の休息と暖かい食事が、交代要員の顔に生気を取り戻させていた。
「当直を交代します。次の当直はモーア少佐です。現在、艦首方位090で停止しています。艦内哨戒第二配備、実行未遂の命令はありません」
 ヤーニー中佐が、ト・ユンファが料理長の心づくしで本物の豆を挽いて淹れたコーヒーを飲み干すのを待って報告した。艦は警戒のために灯りを落としている。その脇にモーア少佐が立っているのが、夜目のきくト・ユンファに見て取れた。
「よろしい、航海長。できるだけ眠っておくように。モーア少佐と私が、操艦している」
「ヤー・ヴォール」
 当番を呼んで空になったカップを手渡すと、ト・ユンファはすぐに手が寂しくなった。煙草でも吸おうかと胸ポケットのゴロワースを探ったが、つぶれかかった箱には一本も残っていない。当番に艦長室まで取りに行かせようかと思案したとき、伝令員の前の電話が鳴った。
「艦長、聴音室です」
 伝令が声を上げるか上げないかのうちに、ト・ユンファは駆け寄っていた。
「私だ」
「艦長、敵艦、動きました!移動を始めましたっ」
 若い聴音室電話員の声だった。興奮が直截に伝わってくる。ト・ユンファは苛立った。それだけでは何も分からない。
「きちんと報告したまえ。もう一度!」
「失礼しました!断続的な金属音の後、スクリュー音を探知。二軸推進。速力8ノットから10ノット。距離3,300。方位急速に変わります。現在082、080、079」
 ト・ユンファは面食らいながら質問を重ねた。
「どういうことだ?北に向かって移動を始めたのか?」
 若い電話員に代わって、聴音員のエルハルトが直接電話に出た。
「そのようです。海面波で感度はやや不良ですが、目標が大きく反時計回りに旋回を始めたようです。Sゲレートで探ってみましょうか?」
 ト・ユンファはためらった。意図が読めない。動き出した時間帯も方位も、予測とは大きく異なっていたからだ。
 ――北へ……。旋回……。
 北ということは本艦から遠ざかっている。しかもその方向は本艦の針路とは逆だ。艦の速度の違いからしても、これで追いつくのは絶対に不可能である。ト・ユンファの予測は、ミツルギは必ず真西に向かい、〈ブリュッヒャー〉の針路を断つというものだった。いずれにせよ、相手の意図が読めない以上慎重に対処するしかないが、この期に及んでミツルギを逃すことは、ト・ユンファにとって不快だった。海軍軍人の演技を続けているうちに、軍人魂に染まったのかもしれない。暗殺者としてのト・ユンファは、捨て置け、ここは下がるべきだ、と心中で警告していたのだから。
「いや、止めておこう。方位と距離を逐一報告してくれ。敵針路に変化があればそれも報告するのだ」
 心中の警告を黙殺して、ト・ユンファは追撃を決心した。受話器を伝令に返すと、待ち構えるモーアに短く声をかけた。
「両舷前進。速力12ノット。針路060」
 進路はフィラデルフィアとは逆方向だった。
「前進12ノット。針路060、ヤー・ヴォール。……配置はどうしますか?」
 モーアが尋ねた。〈ブリュッヒャー〉は第二哨戒配備によって、各部の当直から最優秀要員を外している。敵の意図が戦闘再開にあるのならば、直ちに戦闘配置に戻さなければならない。だが敵はこちらに左舷側背をさらし、あたかも逃走を計っているかのように見える。ト・ユンファの脳裡に兵士達の疲れた表情がよぎった。
「方位075。距離3,300」
 伝令の報告が闇に響いた。
「このままでいい」
 〈ブリュッヒャー〉は際限のない縦揺れと横揺れから解き放たれ、頼もしい機関部の唸りを再び奏で始めた。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月8日0001時


「目標を探知!」
 織田水測長が声を押し殺して報告した。発令所に緊張と歓喜の波が走る。待ちに待った報告だった。御剣は微動だにせず、前方に目を据えている。
「方位273ないし274。距離3,000。感二」
 報告する水測長は、狭い聴音室の小さな机に肘をつき、レシーバーに軽く右手の指を当て、左手のストップ・ウォッチを見据えたまま海中の音に神経を集中している。大粒の汗は顎を伝い、汗と手垢で黒く変色した木製の机に小さな水溜りを作っているが、その背はピクリとも動かなかった。
「敵速12ノット」
 水測長がスクリュー音から弾き出した敵艦の速度を告げる。
 ――まだだ。……まだまだ。
 御剣は自らに言い聞かせた。〈円架(まどか)〉こと二式聴音(酸素)魚雷は最後の切札だ。航跡を引かない『悪魔の使者』に気づいた時が〈ブリュッヒャー〉の最後の時。そいつをいつ発射するか。次の報告を聞かなくては判断がつかない。あと30秒はかかるだろう。
「方位278。距離2,600から2,700。感二」
「敵針060」
 伝令の伝達を受けた航海長の西村が報告する。
「よし。両舷前進微速。速力2ノット。面舵一杯。艦首方位を逐一報告せよ」
「両舷前進微速、2ノット。ようそろ」
「面舵一杯。ようそろ」
 御剣の命令に全艦が一本の糸につながったように反応した。士官から兵に至るまで、潜水艦を海中で操るために必要な作業が一点の滞りも無く流れるようにこなされていく。これこそが帝国海軍の真の実力だった。何百回もの訓練の末に完成された技術である。兵達に最前までの疲労の影は、どこを探しても見当たらなかった。モーターさえもが快調な音を響かせている。
「水雷長。報告!」
 御剣が岩城に命じた。
「全連管よし。速力2ノットで安定。本艦艦首方位急速に変わります。280、……290」
「聴音」
 御剣は冷静に問いを発した。最後の詰めである。ミスはしたくない。
「方位283、距離2,400。速力変わらず、12ノット」
 敵艦はひたすら囮のX艇を追って直進している。御剣は、海図台の西村の作図を覗き込んでうなずいた。
「艦首方位300。……310」
「舵戻せ!新針路330」
「新針路330、ようそろ。現在320通過。……325」
「方位290、距離2,100から2,200。12ノット」
「発射雷数四、一番から四番まで用意!」
「針路330」
「両舷停止!」
 御剣の下令に、電気機器を操作する金属音がきしみ音を上げて答えた。
「両舷停止、ようそろ」
「方位298、距離2,000から1,900。12ノット」
「よし」
「一番から四番まで用意よし」
 御剣は海図台を離れ、夜間用第二潜望鏡に取り付いた。
「第二潜望鏡上げ!19メートルで止めろ。慎重に!」
 御剣は手真似で下令した。油圧の作動音とともに、二本並ぶ潜望鏡の後方の一本が足元からゆっくりと上がってくる。
 接眼レンズが膝上まで上昇すると、御剣はしゃがみこんで旋回ハンドルを左右に開いた。程なく接眼レンズがしゃがんだままの御剣の目の高さに達した。略帽を後ろ向きにした御剣がアイピースに目を押し当て、接眼レンズの動きに合わせて立ち上がる。レンズはまだ海中にあった。
「潜望鏡、30センチ上げ!」
 係員が汗みずくで操作する。
「30センチ、ようそろ」
 発令所中が見守る中、御剣は無駄を承知で対空警戒のために全周囲をすばやく一望した。
「対空異常なし」
 ほっとした空気が流れる。御剣は続いてレンズを水平位に戻し、再び一周した。
「目標捕捉!」
 暗い円筒形の闇の中に、ひときわくっきりと暗い影がある。
 〈ブリュッヒャー〉だった。
「発射管制盤?」
 呻くように御剣が言った。
「用意よろし」
 管制盤の上等兵曹が答える。
「先任!諸元を」
「了解」
「方位!」
 御剣の声に岩城は潜望鏡の計器を見上げた。
「308」
「距離!」
「1,750」
「敵速!」
「12ノット」
「敵針!」
「060」
 御剣が潜望鏡を離れた。合図と同時に潜望鏡が下がる。
「一番から四番まで発射雷数四。雷速49ノット。開口角ゼロ」
「射角零度。雷走時間1分04秒6」
 西村航海長が計算盤から目を離して応じた。
「ようそろ!」
 上等兵曹が振り返りざま応答した。
「発射管注水!外扉ひらけ!」
 岩城先任が電話で発射管室に命じる。一呼吸おいて〈伊523〉は前傾斜し、高口機関長がそれを補正する指示を出した。
「発射管ようそろ!外扉ようそろ!」
 岩城が最終報告を告げた。
「一番、てぇ!」
 御剣は間髪を入れず下令した。鈍い金属音と共に〈伊523〉が振動する。
「二番、てぇ!」
「三番、てぇ!」
「四番、てぇ!」


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月8日0005時


 バルコン・ゲレートのデータは、敵潜水艦の方位が急速に右舷前方から左舷前方に移動しつつあることを示していた。ト・ユンファは疑問を感じ始めていた。
 〈ブリュッヒャー〉の速力は12ノット。高速ではないがスクリュー音はかなり大きい。敵は当然、〈ブリュッヒャー〉を捕捉しているはずである。であれば、敵潜は攻撃に転じるにしろ、逃亡を図るにしろ、その旋回運動を変化させて然るべきである。
 だが、敵潜は一向にその気配を見せない。相変わらず均一な半径と速度で旋回を続けているだけだった。
 ト・ユンファは迷っていた。その時だった。
「聴音より航海艦橋!」
 スピーカーが困惑しきったエルハルトの声を伝えた。モーアが速やかに受話器に取り付いた。
「どうした、聴音?」
「微細なスクリュー音らしきものを探知。艦首の目標をA(アー)、新たな目標をB(ベー)と類別します。方位038。距離2,000」
 ト.ユンファはモーアの持つ受話器をひったくるように奪い取ると怒鳴った。
「どうなっているんだ?二つに分かれたのか」
「わかりません。音源は小さく、海面波による雑音で感度が悪く、はっきりしたことは不明です」
「高速推進音ではないのだな?」
「はい。高速ではありません。回転数が低いようです」
「針路と速度は?」
「現状では何ともいえません。もう少し時間をいただければ……」
 聴音の当直のエルハルトは自信無げに言った。ト・ユンファは受話器をモーアに返すと、自分の椅子に向かって歩き始めた。
 バルコンは敵潜のスクリュー音に酷似した音を探知することがある。それらは海流の悪戯だったりするのだが、もしや我々は幻の敵潜を追いかけていたのではないか。いずれにせよ、この海域に敵潜が二隻いる可能性は無い。
「追尾目標A、方位343、距離3,200。探知目標B、方位041、距離1,800……発射管への注水音です!」
 ト・ユンファはモーアを振り返った。頬が強張っている。
「聴音、何事だ。詳細を知らせろ!」
 モーアの声が悲鳴のように聞こえた。
「方位041、距離1,800で、突発音を探知!繰り返す!突発音!」
 突発音とは潜水艦が魚雷発射管の外扉を開くときに生じる金属音である。
「高速推進音!向かってきます!」
「左舷前進一杯!中央、右舷、後進一杯!面舵一杯!」
 ト・ユンファは反射的に叫んだ。見ると、モーアが驚愕のために立ちすくんでいた。ト・ユンファはモーアに一瞬で駆け寄ると突き飛ばし、怒鳴りつけた。
「復唱しろ、少佐!」
「左舷前進一杯!中央、右舷、後進一杯!面舵一杯!」
 度を失ったモーアが上ずった声で復唱した。
「ヤー!左舷前進一杯!中央、右舷後一杯!面舵一杯!」
 操舵手は事態がわからぬまま舵輪を廻した。
「聴音。艦長だ。方位041で間違いないか?」
 その方位が本当ならば、敵の魚雷は〈ブリュッヒャー〉のさらけだした横腹に向かって疾走していることになる。
「間違いありません!雷数四!急速に接近中!」
 ト・ユンファは力尽きたように椅子に座った。
「衝突警報。全艦水密隔壁閉鎖。各部雷撃防御。急げ」
 声は力なく響いた。


伊号523:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月8日0007時


「四本とも正常に走行中」
 聴音の報告を伝令員が伝えた。御剣の脳裡に戦死した睦月と日向の笑顔が浮かんで消えた。だが喜ぶには早い。御剣は次の局面に向かって指示を下した。
「前進速力4ノット。針路変更、315。次発装填、急げ!」
 御剣は海図台の対勢図を覗き込んだ。彼我の位置はちょうど丁字を描き、〈伊523〉は下の棒の外れにいる。それは確かに理想的な襲撃状況に他ならなかった。一撃をかけたならば離脱するべきだったが、今回は何が何でも敵を沈めなければならない。
「目標、増速!繰り返します。目標、増速中。転舵しているようです。雑音多い。方位320。距離1,700」
「畜生。気づかれたか」
 西村が毒づいた。発令所内に小さく落胆の色が漂った。
「敵艦、右に旋回を始めました」
 聴音の報告が続く。
「なに、悪あがきさ」
 御剣は誰に言うとも無く言うと、笑みを見せた。
「命中まで、あと15秒」
 岩城がストップ・ウォッチを見つめたまま報告した。
「あと10秒」
 岩城の声が半円筒形の発令所に木霊する。
「五、四、三、二、一……」


ブリュッヒャー:ニューファンドランド島東南83海里 1952年4月8日0007時


 〈伊523〉からの『悪魔の使者』を最初に発見したのは、右舷ウィング見張り員のホルバッハ二等水兵だった。
「右舷80度に雷跡!雷跡急速に接近中!」
 重巡の舵の利きは悪くない。とはいえ、フォルクスワーゲンのハンドルのようにすぐに急角度の変針はできない。〈ブリュッヒャー〉は徐々に艦首を右に向け始めていた。強力な音源であるスクリューを艦体で、魚雷のマイクロフォンから隠すためである。
「左舷、前進一杯!中央と右舷、後進一杯!」
 ト・ユンファは双眼鏡に両目を押し当て、艦橋の舷窓越しに忙しく右舷海面を見回した。
 ――見えた!
 黒い波頭の盛り上がりの中に、鋭い刃物のように光る魚雷が見えた。疾走する魚雷の速さに比して、艦の回頭は絶望するほどに遅かった。しかし、〈ブリュッヒャー〉は急激に傾き始めている。中央と右舷の二軸の後進一杯という命令に艦は懸命に反応していた。
 何本かわせるか……。
 傾斜をこらえるために羅針盤につかまったト・ユンファは考えた。ミツルギが何本、魚雷を発射したかにもよる。聴音魚雷が使われるようになってからは開口角の重要性は少なくなったとは言え、日本帝国海軍は未だ開口角を重要視しているという。であれば、開口角にもよるだろう。艦首の方位は速度を増して変わりつつある。
 うまくいけば……。
 その瞬間。〈ブリュッヒャー〉の艦首は真っ赤な光に包まれた。その光の中で、揚錨機から先の部位がちぎれて跳ね上がった。爆発の衝撃は航海艦橋の舷窓を吹き飛ばし、艦橋要員を薙ぎ倒した。
 間髪をいれずA砲塔(アントン)下側面で、第二の爆発が起こった。炎と水柱が立ち上り、激しい振動が〈ブリュッヒャー〉を包んだ。起き上がろうとしていた艦橋の要員達は、左舷方向に再度弾き飛ばされた。
 続いて第三の爆発が艦橋直前のB砲塔(ブルーノ)下側面で起こった。それはもはや衝撃とか振動といった表現を超えていた。羅針盤にしがみついていたト・ユンファは、目の前が真っ白になり、何かにわき腹と背中を強打した。大量の海水が舷窓を越えて奔入する。艦橋内の何もかもが海水に洗われ、左舷ウィングへ流されていった。

 ト・ユンファが目を覚ましたとき、既に全ては終わりを告げていた。
 身を起こそうとすると胸に激痛が走った。右わき腹がひどく痛む。艦長を介抱していたモーアが抱き起こし、艦長席に座らせた。艦橋内は電灯の一つも点いていなかった。
「副長?」
「はい、艦長」
 副長のフリンが艦橋に来ていた。その姿は、ひどいものだった。ト・ユンファが気絶している間に各所を飛び回っていたのである。
「現状を報告してくれ」
「速度指示器(テレメータ)を含む艦内通信装置は全て故障です。機関室から応答がありません。伝令は出しましたが戻っておりません」
 艦は走行を続けている、ということだった。フリン副長の報告は続いた。
「浸水はどこもかしこもです。電力がなく、排水ポンプが使用不能です。特に12番フレームから前は手が付けられません。応急修理班が12番の防水隔壁を塞いでいますが、もちそうにありません」
 伝令が飛び込んできて叫んだ。
「12番フレームの防水隔壁が破れました!止めようがありません!」
 フリンは嘆息した。
「……進言いたします。損傷はひどく、浸水を食い止められません。遭難信号は打たせました。総員退去させるのが最善と思います」
 ト・ユンファは艦首の方向を凝視した。炎と煙に包まれて損害の状況は確認できなかったが、すくなくともB砲塔は台座から外れてしまったようだった。
「よし。『総員退艦』の命令を出してくれ。負傷者の救出に全力を尽くせ」
「積み荷はどうしますか?」
 積み荷。反応弾頭のことだった。
「乗組員を優先する。捨てて行こう」
 制服のあちこちに裂きを作り、汚れながらも艦橋にやってきていた親衛隊少佐が、蒼白な顔でうなずいた。
 ト・ユンファの頬に一筋、何かが流れ落ちていった。


エピローグ


 〈伊523〉は浮上した。すぐ近くに〈ブリュッヒャー〉の救命ボートの群れが見えた。御剣はボートを曳航するためにロープを投げさせた。戦闘の時間は過ぎ去ったのだ。メキシコ湾流によってボートが大西洋の只中に流される懼れがあったからでもある。これ以上の殺戮はするべきではなかった。
 救命ボート群を指揮していたト・ユンファと、御剣は、生身でついに相まみえた。江田島以来、幾星霜が経ったであろうか。かつての友は敵となり、今再び出会った。
 御剣はト・ユンファに煙草を差し出しつつ、亡命しないかと問いかけた。黄色人種の軍人はドイツでは生きづらいだろう、と思っているからだ。ましてや任務に失敗したとあっては。
「多謝(とーしゃお)。だガ、ワたしは艦長なのダ」
 謝しつつ、煙草を受け取らずに、ト・ユンファは返答した。
 確かに部下に責任を取らせてしまうわけにはいかない。自分でもそうするだろう。莫迦なことを言ってしまった。
「もう『家族』には帰れなイな」
 自嘲するように、ト・ユンファがつぶやいた。
「顔を変えテ、一人流れて暮ラすか」
 どういう『家族』なのだろうと思ったが、口に出さなかった。口を挟むべき事柄ではないと感じたからだった。
 〈伊523〉はニューファンドランドの海岸が見えるところまで救命ボートを曳航した。このまま海岸へ漕いでいけば、セント・ジョンの北側にたどり着けるはずである。
「サヨナラ」
「さよなら、また会おう」
 ト・ユンファと御剣は敬礼を交わして別れた。

 ト・ユンファは北米にたどり着いた後、すぐさま軍法会議にかけられて収監された。罪状は「戦時にも関わらず対潜航行をおこなわず潜水艦の襲撃を許した」からである。釈明の機会はなかった。総統の怒りから彼を守るための、ドイツ海軍が示した、せめてもの温情だった。ヒトラーは怒り狂ったが、反応弾が海に沈んでしまってはどうする術もなかった。
 その後、ト・ユンファが牢獄の中にいる間に時代が変わった。最終的に日本本土への全面反応弾攻撃を命じたヒトラーは7月20日に暗殺され、代わってエルヴィン・ロンメルが大ドイツ帝国2代目総統に就任した。そして1952年8月15日、枢軸諸国との間で休戦条約が成立している。
 翌年、ト・ユンファは釈放されて中華民国へ帰国した。以後の消息は不明である。

 御剣は自分が何を成したのかに気づくことは無かった。乗組員達は〈伊523〉の撃沈スコアに1万4千トンが追加され、20万トンの大台にあと少しと迫ったことを素直に喜んでいる。
 最終的に〈伊523〉のスコアは20万トンを越え、地中海で輸送任務に徴発された超大型客船〈レックス〉を撃沈して名声を博した〈伊373〉の岡本艦長に並ぶ賞賛を受けることになった。
 戦後、御剣と重巡〈ブリュッヒャー〉艦長ト・ユンファが再び相見える機会は遂に訪れなかったという。

(了)