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ジョージ・スミス・パットン

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ジョージ・スミス・パットン

(参考架空戦記 侵攻作戦パシフィックストーム)

 1885年、ヴァージニア州生まれ、軍人の家系に生まれ親子三代に渡って南部連合陸軍に入隊した。
 パットンの祖父は移民第1世代の曽祖父がスコットランドからまだ英国領土であったアメリカ南部ヴァージニア州にやってきて定着し、成功して名門となった後、第一次南北戦争において南部連合陸軍の連隊長(大佐)として出征し戦死した。そのためパットンは幼い頃から祖父の戦友であり取巻きであった南部の軍人紳士達(オールドギャングズ=古い仲間達)に囲まれて過ごし、また、ヨーロッパの名家の子弟と同じように優秀な家庭教師について勉強や行儀作法を習っており、12歳まで公共の学校教育を受けたことは無かった。さらに父親も陸軍の軍人であった為、オールド・ギャングズたちから繰り返し聞かされる名誉の戦死を遂げた祖父と、陸軍の軍人としてその祖父を継ぐ父親への思いは幼少期のパットンに非常に強い位置を占め、そしてこのような幼少期の環境は南部連合への揺るぎない忠誠とまるでヨーロッパの軍人貴族であるかのようなパットンの人格を形成するのには十分すぎる物であった。
 1904年、フォートブラッグ士官学校に入校。1909年に卒業と同時に共に騎兵少尉に任官しテキサス第13騎兵連隊に配属された。また、1916年初頭に行われたメキシコ遠征においてパットンはパンチョ・ビリャの腹心と西部劇顔負けのガンファイトを行い2名を射殺するといった「戦果」を上げ、その胆力はメキシコ遠征軍司令官であったパーシング大将に強烈な印象を残した。

  パットンにとって大きな転換点となったのは第一次世界大戦である。1917年に南部連合欧州派遣軍(CSARER)の少佐として出征した彼は、ヨーロッパの戦場で戦車の活躍を見て大きな感銘を受け、最終的には南部連合欧州派遣軍の戦車部隊長として世界最初の電撃戦を指揮するまでになった(※1)
 この経験によって彼は騎兵将校でありながら熱烈な機甲論者となり、大戦終結後には戦車部隊の創設を、そして1930年代前半には騎兵科の乗馬編成の廃止と完全装甲化を唱え、速度と衝撃力を重視する機甲論によって騎兵加の若手士官を中心に大きな影響を与えた。後に南部連合陸軍にも戦車部隊が誕生したが、騎兵科が戦車を管轄し、機甲科へと変化していくに当たって(歩兵などの他の兵科からの横槍はともかく)身内である騎兵科からの強い抵抗がほとんどなくスムーズに機甲科へと移行できたのはパットンの功績であろう。また、騎兵科の出身で「機動力による衝撃」こそが戦車の真髄であると考えたパットンが中心となったことは、後に南部連合軍戦車の戦術の基幹や設計思想までも決定することになった(※2)

  1930年代後半から1940年代にかけて中国大陸での日本戦車部隊の戦いと、それに続く第二次世界大戦前半のドイツ軍による戦車を中心とした電撃戦の様子が次々と伝えられることによって南部連合陸軍は機械化部隊の大幅な拡大を決定。パットンは少将に昇進し第2機甲師団の司令官に就任、1943年から始まった第二次南北戦争ではテネシー軍司令官として戦争前半の南部連合軍による快進撃の中心的役割を担うこととなった。
 彼は非常に優れたカリスマ性の持ち主であり、その熱血、豪胆な性格は前線の下級将校や下士官兵を中心に数多くのパットンの個人的な信奉者を獲得していった。(※3)
 1944年12月のチャタヌーガの戦いで自分の率いる部隊を包囲された彼は、参謀長であるブラッドレーの説得によって脱出するが、その後は軍籍から離脱して地下に潜伏。戦中は「アメリカ騎士団」、戦後は「見えざる南部帝国」と呼ばれる組織を結成し、第二次南北戦争後半~第三次世界大戦にかけて合衆国軍将兵や施設へのテロを指示した。
 1948年のドイツによる合衆国への反応弾攻撃とそれに伴う南部連合残党勢力の一斉蜂起事件(「春の目覚め」作戦)においては自ら先頭に立って蜂起部隊を指揮し、指揮下の部隊と共に東部連合軍に入隊した。(※4)
 第三次世界大戦終結後には東部連合陸軍総軍元帥の称号を与えられ、陸軍参謀総長に就任した。一方で熱心な南部連合復活論者として常日頃から「古きよき南部の復活」を主張して軍内部に多くの信奉者を持ち、軍内部に「見えざる南部帝国」とまで呼ばれる一大派閥を持つ彼は親独色を強めるリチャード・ニクソンを中心とした東部連合政府、軍内部の親独派にとっては非常に邪魔な存在でもあったといわれている。(※5)
 1953年12月9日、彼を乗せた自動車が交通事故を起こし脊髄を損傷、21日に病院で死亡した。


(※1) 最初に指揮した戦車部隊はイギリス軍から貸与されたMk‐言鐚屬任△辰燭、その鈍足と何よりも8人という大人数の乗員によって操作される機械は騎兵出身のパットンの理解を超えたものであり、攻勢は成功させた物の、当初は戦車に対して「塹壕突破用の特殊機材」としての認識しかなかった。しかしその後、新たに配備されたフランス製のルノーFT17戦車は速度こそMk‐犬畔僂錣蕕覆なの小型で軽便であり、パットンには「装甲、機械化され、大砲を積んだ2人乗りの軍馬」と認識され、戦車を従来の騎兵にかわる戦力とみなすようになった。
 その後、パットンの率いる戦車部隊は西部戦線を転戦したが、とある戦場では履帯を破壊された英軍戦車を援護してパットン自ら搭乗していた戦車の主砲を操作してドイツ軍の機関銃座を砲撃し、これを撃破している。

(※2) ヨーロッパから帰還する南部連合欧州派遣軍将兵を乗せた船が接岸するや否やその足で陸軍省に向かい、参謀総長に面会を強要した挙句3時間にわたって戦車部隊の必要性を説いたといわれている。また、1930年代における彼の機甲論への同調者として有名な人物としては子飼いの部下であったクレイトン・エイブラムスやウォルトン・ウォーカー、トッシュ・クレイといった人物が挙げられる。彼らは第二次南北戦争では南部連合軍の前線指揮官として戦車部隊を率いて戦い、南部連合の降伏後、ウォーカーとエイブラムスは統一されたアメリカ合衆国陸軍に入隊。第三次世界大戦から戦後にかけて合衆国軍の戦車部隊を支えることになった。
 一方、クレイは第二次南北戦争後、ドイツに脱出し義勇SS旅団〈南方〉の将兵としてウラル戦線で戦い、第三次世界大戦後に復活したアメリカ連合国(アメリカ東部連合)において第1機甲師団〈ニューディサイズ〉の師団長となったが、戦後、ウォーターゲート事件で粛清された。
 結果的に敵味方に分かれることになったものの、戦後の両アメリカ軍戦車部隊はパットンの後継者といっても過言ではないのである。
 一方で、パットンが唱えた「戦車の機動力による衝撃力」という戦術思想によって南部連合軍戦車は、何よりも機動力を優先するようになり、南部連合の後見国とも言える英国の巡航戦車をベースにするようになった。結果として常に機動力こそ十分すぎる性能を持ってはいたものの火力、装甲が不十分であり、バランスの取れた「主力戦車」として発展するのではなく、あくまで「装甲化された騎兵部隊」でしかなかったという指摘もある。

(※3) 第三次世界大戦後の合衆国陸軍将兵には第二次南北戦争で南部連合陸軍の将兵としてパットンの指揮下で戦い、第二次南北戦争終結後、統一された合衆国陸軍に入隊した将兵が多く在籍していたため、合衆国陸軍内部でもパットンの人気は非常に高いものがあった。
 一方で1944年2月の「フィラデルフィア二重包囲戦」の時に北ヴァージニア軍 司令官であったマッカーサーは大統領命令(実際はコネを持つ上院議員に大統領を突き上げるよう要請した)によって脱出し、南部連合軍将兵だけでなく、敵として戦った合衆国軍将兵からも敵前逃亡の誹りを受けた。しかしパットンの脱出に関してはそのような声が聞こえないのは彼の持つカリスマ性のためだろうか。

(※4) 実際には旧南部連合軍将兵だけでなく、彼を慕う多くの民間人までもが「見えざる南部帝国」のメンバーに参加していた。「見えざる南部帝国」の仕業といわれている。有名な事件としては1945年8月にヴァージニア州ウィリアムズバーグ空港で起こった合衆国南部地域治安維持軍司令官サイモン・バックナー将軍暗殺事件や1946年5月7日のアラバマ州モービル軍港における合衆国軍巡洋戦艦〈ユナイテッド・ステーツ〉の爆沈事件などが挙げられる。
 また、近年「春の目覚め」作戦時のものと思われる写真が発見されたが、その写真には戦後、地下組織のメンバーによって隠匿されていた〈ジャクソン・ファイアフライ〉の砲塔上から指揮を取るパットンと思わしき人物が写っている。

(※5) ドイツからの帰還者及び、東部地域に残留した元合衆国出身者が軍上層部の大多数を占める東部連合陸軍において、旧南部連合陸軍の出身でありながら名誉称号とはいえ東部連合陸軍の最上位の階級を得た彼は戦史家から「20世紀のスティリコ」の異名で呼ばれることもある。確かに熱心な南部連合復活論者であったが、その一方で「軍人は政治に関与しない」という信念を持っており、軍内部におけるニクソンを中心とした合衆国派に対する不満を抑える役割を果たしてもいた。{{br}} また、死亡に関しては公式記録では「交通事故による死亡」とされているが事故現場が事故を起こしにくい見通しの良い幹線道路であったこと、その日に限って別の兵士が運転兵を務めていたことなどから、その事故自体が仕組まれたものであるという説も多く流布している。
 パットンが最期に発した言葉は「あの時死んでいれば戦場で死ねたものを…」だったという

パットン将軍の「最後の会話テープ」について

 「……       … …」

 「たとえ祖国が俺を愛さなくなったとしても、俺が祖国を愛していることに替わりは無いんだ。どんなに変わってしまったとしてもここは俺の国なんだ」

 「…ジョージ、お前は生まれる時代を間違えた」

 「なに、ハンニバルと戦い、ヴァレンシュタインと戦い、ナポレオンの下でも戦った。この時代もそう悪いものでは無かったよ」

 「……   ……・    …  …」

 上記の会話は東部連合陸軍参謀総長であったパットン総軍元帥が交通事故に遭遇する数日前に、当時合衆国陸軍参謀総長であったブラッドレー元帥と極秘のホットラインで行ったといわれている会話の一部である。アメリカが完全に東西に分裂した後もパットン総軍元帥がブラッドレー元帥の話題が出るたびに「ブラッドは〜」と親しく、懐かしさを感じるかのようにその名を呼んでいたことを、1980年代の前半に合衆国に亡命した東部連合軍将校が証言したことから始まり、やがてブラッドレーが合衆国と東部連合の間に存在するといわれた極秘のホットラインによって親友であるパットンに脱出を勧め、パットンがどのように断ったかという内容を録音したテープが存在するという噂が1980年代の前半から半ばにかけて合衆国内で流行した。(※6)
 しかし、合衆国、東部連合両国政府はこの噂を公式に否定しており、また、当事者であったブラッドレーはこの件について死ぬまでノーコメントを通していたが、そのことがかえって噂を広げ、信憑性をもたらす結果となった。(※7)
 そして1980年代半ばの合衆国においてパットンの最後の会話テープを基にしたに小説が数多く出版された。(※8)

(※6)  「ディキシー・パージ」の結果、東部連合において旧南部連合に関する言葉は意図的に封印されているが、特に東部連合内部の反体制派や粛清を免れているであろう旧南部連合勢力にとって強いカリスマ性を持つパットンの名前は最大の禁句とされている。
 また、「ウォーターゲート事件」と呼ばれた一連の粛清事件において死亡した主な人物としては、反ニクソンクーデターの首謀者であったトッシュ・クレイ中将の他に、ドイツの政治力を背後にして東部連合を成立させたものの、基本的には南部連合復活論者であったジョゼフ・マッカーシー初代大統領、東部連合陸軍長官ダグラスマッカーサー元帥などが挙げられる

(※7)  ブラッドレーは第二次南北戦争後半にチャタヌーガで包囲陣から最後の出撃を主張するパットンを殴りつけて無理やりに脱出させた後、合衆国軍に投降している。ブラッドレーはこのままでは南部連合に未来は無いと考え、これからの南部連合にはパットンのような強いカリスマを持つ人物が必要だと考えてパットンを脱出させ、自分は降伏の責任を取ろうと考えたものである。第二次南北戦争終結に伴う南部連合の消滅とアメリカの再統一、そしてと第三次世界大戦と日独によるアメリカの新たな分断は、結果として合衆国軍、東部連合軍の両方に南部連合陸軍の精神を受け継がせることになった。
 第三次世界大戦後、ブラッドレーの従卒を務めていた元兵士はブラッドレーが「パットンを脱出させたのは彼と連合国(東部連合)にとっては正しかったはず。しかし「アメリカ」にとってはどうだったのか...」と度々漏らしているのを聞くことがあったと語っている。
1981年にブラッドレーは天寿を全うし、家族に看取られながらその生涯を終えたが、最後につぶやいた「…許してくれるか…?」という言葉はパットンに向けたものだと言われている。

 

(※8)  大ベストセラーとなった仮想戦記小説「The Gray Gohst(邦題『灰色の男たち』)」において作品中に登場する〈古き良き南部の復活を目論み、再び、合衆国、東部連合の戦争を起こそうとする秘密結社〉の指導者は「熱烈なパットンの信奉者であり、最後の会話テープを手に入れたことによってクーデターと南部復活の戦争を決意した」という設定がなされていた。また、他にも多くの小説が出版されたが、中には「実はパットンはブラッドレーの密命を受けた合衆国の工作員によって救出されていた」といった内容のパットン生存期待説とでもいうべきトンデモ本までが存在している。