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アメリカ連合海兵隊史

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アメリカ連合海兵隊(Confederate States Marine Corps)

合衆国海兵隊が長年仮想敵と定めてきた、アメリカ南部連合の海兵隊。モットーは「AHEAD AHEAD GO AHEAD(進撃せよ 進撃せよ 進撃せよ!)」。南北統一によって一時消滅したが、第三次大戦と共に復活、現在もカリブ海で合衆国海兵隊と対峙する最大のライバルである。

1861―誕生

南部連合海兵隊は、南北分裂時に合衆国海兵隊から分かれて成立した組織である。第一次南北戦争時には艦船に乗り組み、海戦や封鎖線突破における斬り込み部隊として、また合衆国の戦線後方や根拠地への奇襲など、後の言葉でいうコマンド部隊として活躍した。

19C後半〜20C初頭―南の防人

第一次南北戦争後、海兵隊は主にメキシコ湾からカリブ海にかけて活動した。中南米に足がかりを得ようとする合衆国はこの海域に軍艦を派遣しており、南部連合、同海域に植民地を持つ英西との間で度々軍艦とそれに乗り組む海兵隊同士の衝突が起きていた。
 またこの時期、海兵隊が中心となってメキシコ湾の内海化・安定化を目標とする対メキシコ戦の計画が立案されている。これは実行される事は無かったが、これが切欠で以降の南部連合の戦争計画では国境線―陸軍、南方―海兵隊という構図が定着していく。
 そして、20世紀に入り、海兵隊が創設以来初の「近代戦」を戦う機会がやって来た。

第一次世界大戦―初陣

第一次世界大戦が勃発すると、南部連合は英仏と共にドイツ第二帝国に宣戦布告した。これに従い陸軍はジョン・パーシング大将を司令官とする欧州派遣陸軍(CSARER)を編成、ヨーロッパへ送り込む。この際、当時の海兵隊司令官ジョージ・バーネットは海兵隊の地位向上を狙い海兵隊部隊の参加を求め、陸軍の反対を押し切りこれを認めさせる。これに従い、海兵隊初の海外派遣部隊が編成され、欧州へと派遣された。
 フランスに到着したCSARERは急遽西部戦線に投入されたが、パーシングが海兵隊を陸軍の予備戦力と見ていた為参戦していない。この処置への海兵隊員の憤りは激しく、CSARER内部でも陸軍と海兵隊の軋轢は絶える事が無かった。

ガリポリ―覇者の戦陣1915

状況が変わったのは1915年に入ってからである。海軍大臣ウィンストン・チャーチルの発案で計画され、15年2月に発動されたトルコ領ガリポリ上陸作戦。陸上兵力の不足から急遽南部連合海兵隊も投入される事となったこの大作戦は、史上初の強襲上陸という事でミスを連発した協商側の作戦指導の不手際と、ドイツ軍事顧問団や、後にトルコ共和国初代大統領となるケマル・アタチュルクらトルコ軍の奮戦により16年1月失敗に終わった。
 ガリポリ戦は近代戦史における初の敵地上陸であり、海兵隊にとっても戦後多大な戦訓と多くの課題を残す事になる。これらは戦後の海兵隊がカリブ海での強襲上陸作戦を計画するにあたって貴重な研究材料となった。まさに海兵隊は自らの血肉と引き換えに知恵を学んだのである。この後、海兵隊は戦闘で受けた損害の回復に努めるが、初の大規模戦闘、それもこれまでに経験した事のない大損害からの回復は容易ではなく、フランスで部隊の再編に努める事になる。

ベローウッド―魔犬の森1918

海兵隊が再び戦闘に加入するのは1918年6月、ベローウッド(ベローの森)の戦闘においてである。ドイツ軍の攻勢によりパリに危機が迫っていた中、海兵隊はベローウッドでドイツ軍と激戦を展開、ついに同地を奪回する。この時の海兵隊員の奮戦はドイツ軍が彼らを「魔犬(Teufelhunde)」と呼ぶほどだった。この時海兵隊が出した犠牲は創設以来―13植民地の独立以来―最大のものであり、この記録は後の第二次南北戦争に至るまで破られる事は無かった。

戦間期

第一次大戦後、戦中から続く好景気に影響されて南北間には雪解け・融和の空気が漂っており、「平和への回帰」政策が主流となった。
この時期は軍同士でも盛んに交流が行われ、両軍の若手幹部などが互いの国へと出張し、親睦を深めるという光景も見られた。例えば軍内部で書かれた論文なども割合簡単に読む事が出来た。この情報交換から、合衆国はガリポリ戦の貴重な戦訓を、南部連合は太平洋における水陸両用作戦の研究を知ることが出来た。もっともこうした関係も29年の世界恐慌からくる南北関係の再びの悪化によって終りを迎えたが。

30年代―強襲上陸部隊への道

第一次世界大戦の最中、合衆国が度重なる南英の妨害を排して、遂に悲願のパナマ運河を開通させた。これにより合衆国は太平洋からカリブ海へと繋がる交通路と南部連合の裏庭への進出拠点を得、南部連合のカリブ戦略は大きな変更を迫られる事になる。
これを受けて新たに立案された計画の骨子は海兵隊が主軸となってパナマ運河占領である。これに従い、海兵隊は当時進行していたニカラグア内戦からの引き揚げ後、ヴァージニア州クオンティコの海兵隊学校で本格的な水陸両用作戦の研究に着手する。ここでガリポリ戦の戦訓の研究や図上・実働演習を繰り返し、揚陸機材等のハードウェア、実際の作戦で使用されるマニュアルなどのソフトウェアの開発に邁進する。
こうして南部連合海兵隊は着々とカリブ海での戦闘を念頭においた訓練を進めていったが、その眼前には陥穽が存在していた。
36年に勃発したスペイン内戦―そこから派生した、キューバ問題である。

キューバ―カリブの蓋

スペイン領キューバ、フロリダ半島の南部、メキシコ湾に蓋をする形で位置する東西に長い島である。スペイン内戦において、ナショナリスト側の総司令官となったフランシスコ・フランコ指揮下のキューバ駐留スペイン軍がはるばるイベリア半島へ向かった。
内戦は39年、フランコ軍の勝利に終わったが、問題は戦争終結後に起こった。人民戦線を打倒しスペインの指導者となったフランコが、戦後合衆国に対し、キューバを貸与したのである。これにより、それまで比較的安全な地域と思われていたフロリダ半島の目と鼻の先に合衆国の拠点が出現した。南部連合軍が企図していたカリブ海での戦争計画は再び覆され、第二次南北戦争でも南方作戦は大きな制約を課せられる羽目になる。

43年―パナマ侵攻

1943年2月1日、南部連合は合衆国軍を奇襲、第二次南北戦争が勃発した。海兵隊は長躯カリブ海を南下、海軍の支援の下、パナマ運河への強襲上陸を開始した。ガリポリ以来の上陸戦というハンデから多くの混乱も見られたが、パナマ守備隊は奇襲で混乱しており、勢いは南部連合にあった。数ヶ月にわたる戦闘の末、漸く合衆国守備隊の残骸を蹴散らし太平洋に到達した―まさにその時、再編された合衆国太平洋艦隊がパナマ沖に到着。〈伊藤《エンタープライズ》乃絵美〉を主力とする空母部隊から発艦した攻撃隊が襲いかかり、さらに大西洋側で支援に当たっていた南部連合海軍護衛空母の全艦を撃沈する。空襲で装備の大半を失った海兵隊は上陸してきた宿敵、合衆国海兵隊との度重なる戦闘の末に撤退を決意、捲土重来を期してパナマから脱出した。

44年―死闘ジャマイカ

43年8月、合衆国軍はパナマ運河を突破、遂にディキシーのバスタブに突入した。周辺海域の安全を確保した後、ハワイと西海岸からの増援を待ってカリブ海への進出を開始、各島の守備隊を一掃し、翌44年1月にはジャマイカ島に合衆国海兵隊が上陸する。キューバの南方に存在するこの島は元々英国領だったが、大戦勃発後は宙に浮いた形となり、開戦初頭に空挺部隊によって保護占領されて以降は陸海空軍が進駐し、キューバの監視やパナマ侵攻部隊への兵站集積地など、南部連合のカリブ海の活動拠点となっていた。
同地に上陸した合衆国海兵隊を待っていたのは、要塞と化したジャマイカの地と、パナマの復讐に燃える南部連合海兵隊だった。南部連合本土で合衆国軍の反撃が開始される中、ジャマイカ攻防戦は7月、戦線縮小の為南部連合軍が撤退する事で終結、海兵隊も再度の部隊再編のため本土に後退した。

45年―フロリダ半島決戦

ジャマイカ撤退後、海兵隊は半壊した部隊の再編を行なっていたが、既にカリブ海はおろか南部の裏庭たるメキシコ湾の制海権も彼らの手からこぼれ落ちていた。陸上においてもミシシッピ州が制圧され、首都アトランタも包囲された状況下、海兵隊に残された最後の戦闘部隊はフロリダに移動、同地を守備するフロリダ方面軍の指揮下に入った。
1945年4月、第二次南北戦争最後の作戦―フロリダ半島侵攻作戦〈アイスバーグ〉発動。グアンタナモに集結していた合衆国の大艦隊が侵攻を開始した。半島南部に上陸した合衆国軍に対し、フロリダ方面軍は全域に張り巡らされた要塞陣地に立て篭もってこれを迎撃する。
このフロリダ決戦において、マイアミに篭城した海兵隊は臨時編成された海軍陸戦隊と共に孤軍奮闘し、栄光ある南部連合海兵隊がその最後を迎えるにあたっても未だ海兵隊魂は健在であることを証明してみせた。
その後もフロリダ方面軍は湿地帯での慣れぬ戦闘に苦しむ合衆国軍を苦しめ続けたが、マイアミの陥落によって内陸に撤退、4月末には首都アトランタが陥落する。そして5月7日、南部連合政府はワシントン宣言を受諾、南部連合は合衆国に対して無条件降伏し、海兵隊をはじめとする南部連合五軍(陸・海・空・海兵隊・州軍)も武装解除された。
アポマトックス講和会議において南部連合は合衆国に併合され、大西洋から太平洋に至る広大な国土と人口、そして大戦によって膨れ上がった巨大な軍事力を併せ持つ、巨大な統一国家が誕生したのである。

戦後―吸収と再編

南北統一後、旧南部連合軍は武装解除された後、新生合衆国軍への編入が進められた。これにはワシントン宣言における南北アメリカの統一の理念が背景にあるが、同時に戦後を見据えた合衆国首脳部の冷徹な考えもある。
太平洋においては日本帝国とは休戦が続いていたが、いつの日か再び戦火が開かれると考えられていたし、国境の北には着々と兵力を増強しつつあるドイツ北米軍集団が存在した。軍事力の再編を急務とする政府方針に従い、旧南部連合軍の連邦軍への編入は比較的早いペースで進められていった。連邦軍への編入が比較的順調に進んだ理由は、旧南部連合軍首脳部の主だった指揮官が自らこれに従い、かつての部下達に連邦軍への参加を呼びかけた事が大きい。その中にはブラッドレーやウォーカー、マッケーンなど、後の戦争でにおいて合衆国軍を支える事になる軍人達もいた。
だがその一方で、ヤンキーの傘下に入る事をよしとせず、軍を脱走する者も少なくなかった。彼らは南部降伏後も地下に潜伏していたジョージ・パットン大将の下に集結し、「いつかあの南部の旗を」の誓いと共に、来るべき日に備えていた。

悪夢―蜂起と再生

1948年5月13日、第三次世界大戦が始まった。史上初の反応弾攻撃と旧南部連合残党による一斉蜂起により合衆国の防衛線は崩壊、そして6月6日ボストンにおいて、ドイツから帰還したジョセフ・マッカーシーによりアメリカ連合の復活が宣言される。
新生アメリカ連合―東部連合の成立と共にアメリカ連合海兵隊も復活したが、主に人員不足から、第三次大戦中は目立った戦果を挙げていない。海兵隊は戦争の全期間を通して旧南部連合海兵隊の人員を中核とするスケルトン化を推し進め、戦後の再建の時まで雌伏する事になる。もっとも海兵隊が大戦中何もしていなかったという訳ではなく、キューバやマルティニーク攻防戦に一部部隊を派遣し、既にお家芸となりつつある少数のコマンド部隊による奇襲・後方攪乱などで戦果を挙げている。

戦後、そして現代へ

第三次大戦後、ニクソンによる旧南部連合勢力の粛清劇を切り抜けた海兵隊は、国土の復興と戦争による混乱の終結を待って組織の再編に乗り出す。陸軍が北米大陸を主戦場に定め、戦力の大部分を東西分割線に集中している状況下、海兵隊はカリブ戦線での任務を担う事になる。主任務を合衆国の生命線であるテキサス油田への海上侵攻とし、ニクソン政権による軍事予算の拡大によりドイツ軍のお下がりだった装備を改変、70年代には一応の満足のいく強襲揚陸部隊の再建を完了した。
また、第二次南北戦争での最終決戦地となったフロリダについては、キューバを睨む意味からも陸軍と共同で防衛計画が練られた。後年「大戦の決着を左右する」と言われたケープ・カナベラル宇宙基地も建設され、旧南部連合軍防御陣地を復活させるなどPACTO軍の侵攻に備えて全土の要塞化が進められた。
また、上陸作戦と並んで重視されたのが、発足当時からの伝統であるコマンド作戦である。第一次・第二次南北戦争、第三次大戦でも海兵隊精鋭部隊が敵基地や後方地帯に侵入し数々の戦果を上げた事もあり、東部連合海兵隊では特に選抜した将兵による特殊部隊を編成し、有事の際敵地に潜入させる事を計画している。この部隊はコロンビア紛争などの中南米の紛争に投入され、西側のマスコミからは「プレジデント・コマンド」なるニックネームを頂戴している(これは当の隊員らからも不評だったが)。

以上のように、1861年から続くアメリカ連合海兵隊の歴史は、栄光と敗北、雌伏と再起という苦難の連続だった。その数々の試練に対し自らのモットー「AHEAD AHEAD GO AHEAD!」の通りに立ち向かい、それを乗り越えてきたアメリカ連合海兵隊の歴史は、各国の同組織、合衆国海兵隊や日本海軍陸戦隊に決して劣るものではない、そう確信する。
 かつて二つの家に別れ、現在も北米で対峙する二つの「アメリカ」が、同じ「アメリカ人」として握手を交わす日が来るのか―それは不明である。だが、たとえどのような時代になっても、彼らは常に誠実に、進撃する事をやめない。それは確かである。