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〈来栖川《長門》芹香〉

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日本帝国海軍戦艦〈来栖川《長門》芹香〉 (Kurusugawa《Nagato》Serika class , IJN)

Leaf「To Heart」来栖川芹香

 八八(cm)艦隊計画の一番艦。日本戦艦の象徴的存在として、WW2及びWW3を戦い抜いた。

建造の経緯 ――八八(cm)艦隊計画の発動まで

 日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を壊滅させた日本海軍は、輸入艦と国産艦、そして鹵獲艦とをもって海軍を構成していた。その後、国内の造艦技術の発達に伴い、自力で戦艦を建造できるようになり、海軍力を向上させるべく努めていたが、ある艦の誕生により、衝撃を受けることとなる。
 英国戦艦〈ドレッドノート〉である。
 攻撃力、防御力、速力のバランスを高いレベルでまとめた、新時代の戦艦である。
 英国は同盟国である日本に対し、この艦のスペックをある程度公開していたが、それでも日本海軍が受けたショックは相当のものがあった。〈ドレッドノート〉の登場により、これまで日本海軍が保有していた戦艦が、すべて旧式化してしまったのである。
 今後列強が建造する戦艦は、この〈ドレッドノート〉と同程度、あるいはそれを優越する戦艦であることは、誰の目にも明らかであった。特に、日露戦争後に仮想敵国に定めた合衆国が、その巨大な工業力を軍拡に向けた場合、どのような艦が建造されるか、想像するだに恐ろしいことだった(*1)。
 海軍は超弩級戦艦として〈伊勢〉級、〈扶桑〉級を建造したが、これだけで安心するわけにはいかなかった。さらに多数の戦艦をそろえる必要があった。
 かくして、海軍は超弩級戦艦8隻と、巡洋戦艦4隻(*2)を新規に建造、その他補助艦艇を整備することを決定した。
 これが八八(cm)艦隊計画の原型となる、八四艦隊計画である。その後計画は八六艦隊計画を経て、現在我々のよく知るところである八八(cm)艦隊計画に落ち着いていくことになる。


建造

 〈来栖川《長門》芹香〉は1916年、呉海軍工廠で起工される予定だった。が、設計思想を巡る問題などが原因で、起工は約1年遅れた。
 その間、彼女に重要な変化をもたらす海戦が起こった。
 WW1で唯一の大規模海戦、1917年のジュットランド沖海戦である。
 この海戦で日本海軍は、満を持して派遣した超弩級戦艦〈扶桑〉を、ドイツ高海艦隊に撃沈された。
 この知らせを受けた艦政本部は直ちに調査を行った。海軍の新時代を担うべき超弩級戦艦が撃沈された理由は何であるのか。一刻も早く原因を究明し、既存艦の改装や新造艦の設計を見直さなければならない。
 調査の結果判明したのは、

1. 海戦は英独両艦隊がおおむね2万〜3万メートルの間隔をあけた状態で展開され、各艦は主砲に大きな仰角をかけて射撃を行っていた。その結果、主砲弾は大角度で落下している。
2. 主砲弾は主に砲塔、甲板に命中している。
3. 〈扶桑〉の甲板――水平防御装甲はわずか56ミリの厚さしかなく、敵弾をくい止めることができずに、砲弾は艦内で爆発、艦底からの浸水により転覆、爆沈した。

 以上が主な点である。
 〈来栖川《長門》芹香〉は幸運であった。このレポートを受けた艦政本部は、〈来栖川《長門》芹香〉の設計をさっそく改めることにした。集中防御方式を採用、舷側装甲厚を多少減じて、その分水平装甲を厚くするという方法を取った。また、魚雷に対する防御力を高めるため、喫水線付近にも装甲板を張りつけた。
 速力も、当初は24ノットを予定していたが、機関出力を上げ26.5ノットを発揮できるようになった(*3)。
 主砲は、列国に先駆けて41センチ砲を採用し、連装砲4基を前後に2基づつ、それぞれ背負い式に配置した。
 まさに、攻撃力、防御力、速力のバランスを高いレベルでまとめた超弩級戦艦として、彼女は就役したのだ。その後建造される日本戦艦も、この点に留意して設計・建造されている(〈来栖川《長門》芹香〉の性能要求を、後の「エクストリーム論」の先駆けと見る研究者もいる)。
 この点では、〈来栖川《長門》芹香〉は、八八(cm)艦隊の「先輩」であった。
 1920年に就役した〈来栖川《長門》芹香〉は、その後連合艦隊に配属され、一時旗艦をつとめている。
 その美しい艦影は国民にも親しまれ、〈高瀬《大和》瑞希〉の竣工まで、「〈来栖川《長門》芹香〉と〈幽霊部長《陸奥》〉は日本の誇り」と子供向けのカルタに紹介されるほど愛されていた。

 なお、〈来栖川《長門》芹香〉の艦内にはいつしか黒猫が棲みつき、乗員たちからかわいがられるようになった(中には、「あんなブサイクな猫のどこがかわいい」という乗員もいたが)。


無口艦

 〈来栖川《長門》芹香〉は戦隊の旗艦を務めることも多かったが、その際に問題となったのが、彼女の通信が聞き取りにくいこと、別の言葉で言えば「無口」だったことである。
 この原因については諸説あるが、初代の通信長がWW1に参戦した経験を持ち、(自分を残して)逝ってしまった戦友の多さにショックを受け、一時的な失語症に陥ったためとされている。
 なお、この意見に関しては、通信長が変わった後も状態が改善されなかったため、疑問視する向きが多い。
 彼女とまともに意思の疎通が出来るのは、同型艦の〈幽霊部長《陸奥》〉以外には、〈来栖川《紀伊》綾香〉と、軽巡〈長瀬〉(後の英国嚮導駆逐艦〈セバスチャン〉)だけであったとされている。その他の艦に対する通信は、もっぱら発光信号に頼ったものの、他艦からの通信には「こくん」「ふるふる」の2種類だけで返信をまかなっていた。


海軍甲事件と〈来栖川《長門》芹香〉

 1938年4月、トラック環礁において、米海軍空母の奇襲を想定した演習、秘匿呼称「降霊実験」が行われた。〈来栖川《長門》芹香〉もこの演習に参加、空母部隊からの攻撃を受けて判定大破の損害を受けている。
 しかしここで思わぬことが起こる。奇襲側航空機の1機が投下した爆弾が〈幽霊部長《陸奥》〉の副砲に命中、それがなぜか実弾であったために、〈幽霊部長《陸奥》〉は副砲弾薬庫の爆発、さらに主砲弾薬庫にも火が回り沈没という、大惨事となってしまった。
 この結果に誰よりも顔色を変えたのは、〈来栖川《長門》芹香〉艦長のS大佐だった。〈来栖川《長門》芹香〉と〈幽霊部長《陸奥》〉は細部に違いはあるものの、大きな違いはない。彼は〈幽霊部長《陸奥》〉爆沈の悲劇が決して他人事でないことを誰よりも理解していた。
 S大佐はすぐさま〈来栖川《紀伊》綾香〉艦長のA大佐と連署で意見書を送り、副砲の防御力強化、もしくは副砲の撤廃を意見した。副砲撤廃の場合、そこに高角砲または40ミリ機銃を増設し、防空火力の強化を図るというものだった。
 この意見書は受理されたものの、建艦計画の大幅な見直しに時間がかかり、〈来栖川《長門》芹香〉まで手が回らない、というのが現実だった。結局、意見書のような改装はなされず、副砲の数を8基に減じ、高角砲を増設するという応急処置的なものになった。

 海軍甲事件の後、〈来栖川《長門》芹香〉は改装工事に入った。主な改装内容は副砲と高角砲の部分的な置き換え、重油専燃缶の増設、前檣楼の改造、バルジの増設、魚雷発射管の撤廃などである。
 重量増による速力低下を抑えるため、船体をストレッチしたが、それでも速力は25ノットになってしまった。


太平洋戦域

 1940年になると、日米関係は、もはや修復不能の状態となっていた。
 そんな中でも、対日強硬派のヒューイ・ロングが合衆国大統領に当選したのは、日本にとって誤算となった。日本はルーズベルトの再選を確信していたからだ。大統領となったロングは、日本に対する敵意を隠そうともしなかった。
 さらに、WW2を英国側に立って参戦した日本は遣英艦隊を派遣していたが、合衆国がドイツに派遣した義勇艦隊によって散々煮え湯を飲まされている。 さらにはミッドウェー近海で、日米の巡洋艦同士が偶発的な戦闘を行っている。
 誰もが、日米開戦は時間の問題だと思っていた。
 1942年3月、合衆国が突きつけたハル・ノートを見て、日本は愕然となった。これ以上の交渉は無理だと悟らざるを得なかった。日本は出師準備に入った。

 1942年4月1日。第四水雷戦隊を率いてアンダマン海の哨戒任務を終え、シンガポールに入港していた〈来栖川《長門》芹香〉に一通の電報が届いた。

   極秘 緊急信
   発信日時 1942年4月1日 0100時
   発 軍令部総長  宛 連合艦隊司令長官  参照 連合艦隊所属全艦
   本文  ニイタカヤマノボレ0408

 日本はついに、対米戦に踏み切ったのだ。〈来栖川《長門》芹香〉に対して柱島泊地への回航が命じられたのは、この電報受信の2時間後のことだった。

 戦争が始まったとはいえ、さしあたって〈来栖川《長門》芹香〉の出番はなかった。対米戦の先鋒をつとめるのは新時代の軍艦――航空母艦だったからだ。〈蒼龍〉〈飛龍〉〈森川《雲龍》由綺〉を中心とする空母機動部隊は、中部太平洋のミッドウェー近海で合衆国海軍を誘出撃滅するべく、行動を開始している。
 誤算は、その直後にやってきた。機動部隊、惨敗――
 ミッドウェー海戦で、日本機動部隊は空母2隻を含む艦艇多数を撃沈破され(*4)、合衆国太平洋艦隊の早期撃滅、早期停戦という作戦目的を果たすことができなくなってしまう。
 日本軍としては、戦線を整理して、戦力を効率的に使いながら相手の隙をつく、いわば「火事場泥棒」的な作戦を採るしかなくなった。マーシャル・トラックを放棄して、その分の戦力をマリアナ諸島に傾注する。マリアナを取られれば、合衆国軍による本土攻撃が実施される可能性が高いのだから。


北太平洋戦域

 マーシャル・トラックをはじめとする中部太平洋方面に兵を送るその一方で、合衆国軍は北太平洋方面にも来寇している。
 B−17をはじめとする合衆国増援部隊がアリューシャンの島々を中継点として満州に送られてくる。そのため、開戦劈頭に決行した空襲により一度は壊滅的打撃を受けた在満米空軍の戦力は、徐々に回復に向かっていった。
 この事態を放置しておけば、いずれ在満州合衆国軍によって朝鮮が占領されかねない(*5)。そう判断した日本は、まず災いの根を絶とうと、アッツ・キスカ両島近辺の制海権奪取を試みた。
 6月3日、海軍は第三戦隊(旗艦〈来栖川《長門》芹香〉)および第四水雷戦隊(軽巡〈柏木〉および4個駆逐隊)、上陸用兵力としての舞鶴特別陸戦隊2個連隊相当を派遣、日本本土に近く、飛行場の規模も大きいアッツの占領と、妨害にやってくるであろう合衆国海軍の来襲に備えた。
 6月16日、アッツ・キスカに対する上陸作戦が開始された。黎明をついての奇襲上陸に、合衆国軍は効果的な反撃を行うことができず、18日に飛行場を占領されるなど、島の大半が日本軍の手に落ちた。日本側の損害は、戦死19、戦傷192名と、決して無視できる損害ではなかった。支援艦艇の方は、17日の空襲で〈佐藤《土佐》雅史〉に至近弾2があった程度で、目に見える損害は皆無だった。21日には設営部隊と増援の呉特別陸戦隊が護衛の軽巡〈青葉〉〈三隈〉、雷撃艇母艦〈神岸《昇竜》あかり〉らとともに到着した。入れ替わるように、第三戦隊は補給のため、本土に戻ることになる。

 日本軍が起こしたこのアクションに、合衆国軍は反応した。
「日本軍、アッツに上陸」の方を受けた太平洋艦隊は、日本軍上陸の2日後、模様見を兼ねて、軽巡〈ボイス〉〈ヘレナ〉をはじめとする水雷戦隊を、陸軍1個連隊とともにアッツ沖へと送り込む。北太平洋の制海権を巡って、日米両国は多数の艦艇を送り込んでいる。その結果として海戦が多数発生し、数多くの血と肉と鉄が、北太平洋の海神に捧げられている。

 北太平洋での海戦は、一進一退の展開を見せていた。当初は水雷戦隊同士の海戦だったのが、日本が重巡〈青葉〉〈相川《古鷹》慎一郎〉を派遣したのを受けて、合衆国も巡洋艦戦力を増強していった。エスカレートは続き、日本側はついに高速戦艦〈新城《穂高》沙織〉と対合衆国戦艦の切り札とも言うべき〈九品仏〉までも投入して、戦局の挽回をはかる。
 決戦の機は熟しつつあった。


(*1) 後に合衆国が大建艦計画「ダニエル・プラン」「ヴィンソン・プラン」を発動させたことで、日本海軍の危惧は現実のものとなった。
(*2) 〈篠塚《金剛》弥生〉級巡洋戦艦。ネームシップの〈篠塚《金剛》弥生〉は英国のヴィッカース社に発注され、2番艦以降は英国でひかれた設計図をもとに、国内で建造されている。
(*3) この速力は、当時就役していた各国の戦艦の中で最高のものだった。しかし、性能秘匿のために、公表された速力は23ノットと、低く抑えられた。改装後の速力も21ノットと、これまた低くされている。本来の数値が明らかにされたのは、日米開戦直前の1941年12月である。
(*4) 日本海軍がここまでの惨敗を喫したのは、有名な「HMX−12事件」――戦果誤認事件が大きく影響している。
(*5) 実際には在満州米軍にはそこまでの余力はなく、せいぜいが本土に対する嫌がらせ程度の爆撃で終わっている。


東洋の魔女

 8月1日の軍令部定例会議で、北太平洋方面で決戦を挑むことが決定された。中部太平洋方面の戦局は思わしくない。今北太平洋に張りつけてある戦力を転用して、中部太平洋に投入したい。そういう心境からの決断だった。
 合衆国側も、同じような判断から決戦を求めていた。ただし、派遣可能なのはダニエル・プランで建造された〈サウスダコタ〉を除けば、いずれもWW1勃発前に建造された旧式戦艦だけだった。残りの戦艦は全て中部太平洋へ送り込まれている。合衆国も、決して楽な戦いをしているわけではなかった。
 8月16日、〈来栖川《長門》芹香〉以下の第三戦隊は北太平洋へ増派された。その翌日、合衆国海軍第9任務部隊(指揮官:インガソル大将)を送り込んでいる。
 この2つの艦隊が8月30日に激突した第7次アッツ沖海戦――俗称・北太平洋決戦は、太平洋戦争屈指の激戦として知られている。そしてこの海戦で合衆国艦隊は撃砕された。
 このときの〈来栖川《長門》芹香〉は、普段のおっとりとした仮面をかなぐり捨てて、日本艦隊の先頭を切って合衆国艦隊に襲いかかり、〈長岡《加賀》志保〉〈佐藤《土佐》雅史〉とともに合衆国艦隊の先頭艦〈ユタ〉を脱落に追い込むなど、縦横無尽に暴れ回っている。
 〈来栖川《長門》芹香〉はこのほかにも合衆国戦艦〈ワイオミング〉、重巡〈インディアナポリス〉を撃沈しているが、〈サウスダコタ〉の16インチ砲弾を受け判定小破の傷を負っている。
 この活躍――主砲の高い命中率と被弾しても突き進む蛮勇で、〈来栖川《長門》芹香〉は合衆国海軍将兵から「あの艦には魔女の呪いがかけられている」と恐れられ、さらには「Oriental Witch」――東洋の魔女と畏怖されることになる。
 この損傷をきっかけに〈来栖川《長門》芹香〉は第三戦隊をはずれ、苫小牧の海軍工廠で修理を受けることとなった。
 苫小牧での修理が終わったころには、すでに合衆国は北太平洋から手を引き、攻勢の軸を中部太平洋一本に絞っていた。第三戦隊も本土へ戻り、〈来栖川《長門》芹香〉は再び原隊に組み込まれた。

 戦争の早期終結を目指すための作戦、「藤堂プラン」が発動されたのは1942年12月8日である。 ハワイ諸島の占領を目的としたこの賭博的な作戦は、緒戦で合衆国空母〈エセックス〉を撃沈するなど、順調に進捗した。22日にはオアフ島の主要部を占領している。
 合衆国は必ずハワイを奪回しにやってくる。そう判断した軍令部は、手持ちの戦力のほぼ全てをハワイへと送った。そのなかには〈来栖川《長門》芹香〉も含まれている。
 軍令部の予想通り、合衆国海軍はハワイ奪回のため、ほぼ全力でやってきた。
 後に「日米艦隊決戦」と言われるハワイ沖海戦で、〈来栖川《長門》芹香〉は僚艦とともに激しい砲撃戦を演じ、〈ノーザンプトン〉級重巡洋艦2隻を共同で撃沈したが、その仕返しとばかりに合衆国第3,第4戦艦戦隊からの集中砲火を浴び、第3砲塔をのぞく主砲塔を失い、大破した。第三戦隊(〈宮内《伊吹》レミィ〉級4隻で構成。北太平洋決戦時の第三戦隊とは別)の援護がなかったら、撃沈されていたかもしれない。それほどの傷を負っていた。
〈来栖川《長門》芹香〉は本土へ回航され、ドック入りすることとなった。その間に日米講和が成立、第二次二・二六事件にも参加することなく、戦後を迎えている。


WW3期

 ハワイ沖海戦後、〈来栖川《長門》芹香〉は修理を兼ねて、2度目の改装を受けた。
 艦政本部側も、この八八(cm)艦隊最古参の戦艦を1950年代でも活躍させられるよう、いくつもの計画を立てている。いくつもの案が俎上に上り、そして消えていった。最終的に決まった改装計画は、以下のようなものである。
 主砲に変更はなかった。というより、変更できなかった。積むべき砲がないのである。大口径艦載砲の設計・開発そして製造よりも、高角砲の量産の方が優先順位は高くなっている。41センチ砲に関しても、新式の50口径砲は、〈長谷部《高千穂》彩〉をはじめとするポスト隆山条約戦艦へと優先的に回される始末だった。唯一の慰めは、新型の徹甲弾が開発された暁には、〈来栖川《長門》芹香〉をはじめとする「半旧式戦艦群」に優先的に渡されるという口約束のようなものだけだった。
 海軍甲事件ですでに危険性が指摘されていたケースメイト式の副砲は全廃され、すべてが高角砲へと置き換えられた。高角砲は94年式65口径10センチ高角砲、俗に言う「長10センチ砲」である。新型の射撃管制装置も取り付けられ、機銃も増設された。海軍甲事件の影響、そして大西洋・地中海戦線で遣英艦隊がさんざんドイツ空軍に苦杯をなめさせられた経験を受けての対空装備充実だった。
 船体は再度ストレッチされ、缶の更新(*6)、主機の交換に伴い、速力は28ノットを発揮できるようになっている。
 電測兵器も充実された。通信機器もすべて取り替えられたが、なおも彼女は「無口艦」のままであった。
 弾着観測機とカタパルトも廃され、ヘリの飛行甲板と給油施設がおかれている(*7)。
 このほかの細々した改装によって、ついに排水量は40000トンを超えた。そうであっても、彼女(の乗員)に対して、「太った?」などと無礼なことを言う輩はほとんどいなかった(*8)。実際、横方向へはサイズが拡大されていないのだから、以前よりもほっそりとした艦体となっている。

 実はこのとき、彼女は海上護衛総隊への編入が予定されていた。すでに艦齢は20年を越え、一線級で活躍させるのは無理がある、という意見が多くなってきたのだ。
 速力は、第二次改装の後も28ノットにとどまり、主力兵器である空母に追随することも、〈高瀬《大和》瑞希〉を筆頭とするポスト隆山条約戦艦――高速戦艦群と共同作戦をとることも難しくなっている。八八(cm)艦隊の中でも、〈保科《天城》智子〉級との戦隊行動は難しく、行動を共にできるのは〈来栖川《紀伊》綾香〉級くらいのものだった(〈宮内《伊吹》レミィ〉級は、速力の面では〈来栖川《長門》芹香〉と同程度だが、主砲の威力が違いすぎるため部隊として統一行動をとるのが難しい)。
 攻撃力、防御力の面でも、現在ドイツが建造している戦艦(〈フリードリヒ《オタク》デア《ヨコ》グロッセ〉を筆頭とするZ計画艦)に対抗するには、よほどの幸運を期待しなくてはならなくなっていた。 それに、これからますます大型化していく船団を統率するために、大型艦艇が必要になる。 対空兵器のプラットホームとしても申し分ない。対潜ヘリを搭載しているので、太平洋戦争中、各方面に護衛艦艇を引き抜かれ続けた海上護衛総隊は戦力の回復に躍起になっていたから、これはと思った艦には幾度もアプローチをかけている。
 それでも海軍は彼女を連合艦隊籍に置き続けた。海軍はこの「先輩」を最後まで華やかな舞台に置いておきたかったのである。

 ドイツの対米侵攻で始まったWW3彼女が前線にでることは、めっきり少なくなっていた。まるで「箱入り娘」のように本土に留め置かれ、または安全が確保された海域にしか出撃することはなかった。
 しかし、対独戦が長期化するにつれて、そのような贅沢もできなくなっていく。〈来栖川《長門》芹香〉はインド洋(*9)、そしてカリブ海での戦いで、苦しみながらも奮戦し、「魔女」の健在ぶりを示している。このときが、彼女の経歴の絶頂だったのかもしれない。
 そしてニューヨーク沖海戦を迎える。この海戦において、彼女はSY3B船団の間接護衛隊「アンティーク戦隊」の一艦として、〈皆瀬《フォン・ヒンデンブルク》葵〉以下のドイツ北米艦隊と交戦し――緒戦で大破した。この護衛隊への参加は、当時の〈来栖川《長門》芹香〉艦長が、普段の様子からは予想できないほど強硬に出撃許可を迫り、ようやく船団への参加が実現したという経緯がある。
〈高瀬《大和》瑞希〉へ目標の位置情報を送り続けたおかげで、〈皆瀬《フォン・ヒンデンブルク》葵〉の46センチ弾を受け、脱落した〈来栖川《長門》芹香〉は、何かと因縁の深い〈来栖川《紀伊》綾香〉に曳航されてグアンタナモに帰投し、工作艦〈長瀬《敷島》源之助〉による応急修理を受け、日本本土で本格的な修理を受けることになる。
 その後、ドイツ本土沿岸の艦砲射撃などを行ったものの、「北の暴風」作戦には参加できず、日独休戦を迎える。
 休戦条約が発効してからもしばらくの間、〈来栖川《長門》芹香〉はブリテン島にとどまり、将兵の休養・艦体の整備をかねた警戒態勢をとり続けた。彼女が日本へと帰還したのは、休戦条約が発効してから1年後の1953年8月15日のことだった。


その後の〈来栖川《長門》芹香〉

 〈来栖川《長門》芹香〉はWW3休戦後もしばらくの間、連合艦隊籍にとどまった。
 WW3休戦後、初めての観艦式に、艦体を白く塗装した装いで参加した。このときの彼女について、「白いドレスを着たお嬢様」と呼ぶ者も多く、後々までの語りぐさになったという。
 1961年に海軍から除籍された後は解体することになっていたが、八八(cm)艦隊の1番艦を解体することに反対する者が多く(*10)、結局記念艦として保存されることになった。いまでは、横須賀でかつての僚艦〈長瀬〉とともに展示されている。


要目

(新造時)

  • 基準排水量 33000トン 
  • 全長 208.2メートル 
  • 最大幅 28.7メートル 
  • 速力 26.5ノット
  • 兵装   
    • 3年式45口径41cm砲 連装4基
    • 3年式50口径14cm砲 単装20基
    • 45口径3年式12cm高角砲 連装4基
    • 53.3cm魚雷発射管 8筒(水上4筒+水中4筒)
    • 弾着観測気球

(第一次改装時)

  • 基準排水量 38000トン 
  • 全長 216.9メートル 
  • 最大幅 28.7メートル 
  • 速力 25ノット
  • 兵装   
    • 3年式45口径41cm砲 連装4基
    • 3年式50口径14cm砲 単装8基
    • 45口径3年式12cm高角砲 連装8基
    • ボフォース40ミリ機銃 連装4基 4連装4基
    • 弾着観測機 3機

(第二次改装時)

  • 基準排水量 40800トン 
  • 全長 224.5メートル 
  • 最大幅 28.7メートル 
  • 速力 28ノット
  • 兵装   
    • 3年式45口径41cm砲 連装4基
    • 94式65口径10cm高角砲 連装12基
    • ボフォース40mm機銃 4連装8基
    • 対潜ヘリ 2機

同型艦

(*6) それまで残っていた混燃缶をすべて、〈長岡《加賀》志保〉に搭載されていた重油専燃の高温高圧缶に変え、機関出力を増大させている。
(*7) ただし、対潜ヘリの搭載はめったに行われず、本格的に運用を開始したのは、カリブ海での戦いに参加してからである。搭載された対潜ヘリには、合衆国水兵たちがつけた「Oriental Witch」のニックネームにちなみ、ほうきに乗った魔女を意匠化したエンブレムが描かれていた。
(*8) 酔った勢いで「〈来栖川《長門》芹香〉は太った」と口走った某艦の水兵が、翌日惨殺体で発見されたことで、皆一斉に口をつぐんだ。犯人は見つかっていないものの、「ヤクザのように怖い目をした若い男」と「年の割にガタイのいい老人」の二人が容疑者と目されている。
(*9) WW3初期のインド洋戦線でも、ソコトラ島攻防戦の終盤からの参加となっている。
(*10) 解体反対派のなかでも、〈藤田〉の元艦長F予備役少将と、英海軍嚮導駆逐艦〈セバスチャン〉元艦長のN退役大佐がもっとも激しく反対し、N退役大佐などは解体論を唱える士官に対し、「かぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」と一喝して、翻意を迫ったという。