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〈来栖川《紀伊》綾香〉

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〈来栖川《紀伊》綾香〉Battleship Kurusugawa KII Ayaka IJN

(元ネタ To Heart(Leaf)より 来栖川綾香)

 88()艦隊計画による戦艦第2期シリーズ。別名、「エクストリームの申し子」。
 日露戦争後、合衆国海軍からの恐怖を払拭するために(そういっても間違いではなかろう)計画された88()艦隊計画。その計画は第578号艦〈天城〉級の最終設計が終了した直後、突然暗礁に乗り上げた。〈天城〉級の後続である第9712号艦〈来栖川《紀伊》綾香〉級設計の途中で巻き起こった論争、「エクストリーム論」の影響である。
 エクストリーム論とは当時絶対主流だった大艦巨砲主義に真っ向から対立する新たなる主義だった。その内容は大きな技術的躍進をしながらも今だ補助兵器の域を出ていない航空機(と空母)、潜水艦、護衛艦、そして戦艦を代表とする砲撃戦力をバランスよく建造、配備した海軍を目指すと言うものだった。いうならば無差別艦隊建造計画と呼べるものである。(この論は中島知久平などが唱えた《戦艦無用論》と同一視されやすいが、エクストリーム論は戦艦戦力に価値を見出している点で大きく異なる)。
 このエクストリーム論の出現には第一次世界大戦がもたらした数々の衝撃が影響している。なかでも、大戦中ドイツの潜水艦によって大損害を受けた現実とジェットランと沖海戦で露呈した艦隊決戦主義への疑問、そして大戦末期に行われたキール奇襲攻撃が大きく関係している。特にキール奇襲攻撃の影響は飛びぬけて大きい。この作戦は空母〈アーガス〉を利用し、ソッピース・クック艦上雷撃機を装備した世界初の雷撃隊を用いてキール軍港のドイツ戦艦群に奇襲をかけた攻撃である(発案者はデビット・ビーティー提督)。この作戦は結果的にドイツ駆逐艦数隻を沈めただけであったが、航空機の可能性を見出した点で後に与えた影響は大きかった。
 海軍内の反大艦巨砲主義者達はこぞってこの論に賛同した。第一次世界大戦で軍部に対し徹底的に不信感を抱いた国民、そしてマスコミもその列に加わった。また大戦中輸送船を大量に沈められたことで海軍に半端ではない恨みを持っていた陸軍までもがエクストリーム論を支持した(陸軍にとっては日露戦争後予算の大半を分捕り続ける海軍への《いやがらせ》の面もあった。また彼らは戦艦建造数が少なくなれば浮いた予算は自分達にまわせるとも期待していた。)
 海軍部内だけでなく外部にまで賛同者を得たエクストリーム論は一大勢力となった。88()艦隊建造を進めていた艦政本部でもそれは無視できないほどに膨れ上がっていた。海軍のあらゆるところで論争が巻き起こり、事実上〈来栖川《紀伊》綾香〉級の設計は停止してしまう。
 結局、エクストリーム論は新たなる主義として日本海軍の内部で認められた。だが、大艦巨砲主義者はいまだ根強く残っており、この認識が日本海軍から剥がれ落ちるのは「(初代)千鶴の悲劇」を始めとする幾多の苦闘と犠牲の後である。
 一方、〈来栖川《紀伊》綾香〉の設計は激しい論争の結果――というより、大艦巨砲主義派がエクストリーム論派を一時的になだめるために、エクストリーム論派の意見を大々的に取り入れたものとなった。また、海軍内部の論争に加え、予算上の問題から昭和8年に竣工したため、多くの最新技術の導入に成功していた。このため、第一期シリーズである〈天城〉級とは似ても似つかぬ姿に変貌していた(この点は原案でも同じなのだが)。
 基本設計はさすがに原案のまま――誘導煙突、パゴダマスト。クリッパー方式の艦首採用など――だったが、その他の装備は数々の変更が為されていた。日本海軍では前代未聞の事に副砲が原案の半分――8門に減らされ、また魚雷水上発射管も撤去された。代わりに高角砲を原案の2倍――24門搭載し、航空兵装は原案でも十分広い作業スペースをさらに拡張した。
 だが、そのようなこまごました(実際はそうでもないが)よりも、もっと目を引く変更点が彼女には存在している。この変更をエクストリーム論派が唱えたのか大艦巨砲主義派が唱えたのかは88()艦隊の謎の一つとされている。
 〈来栖川《紀伊》綾香〉級は主砲を原案の45口径40センチ連装五基から、第一、第五砲塔を三連装に変更することによって連装三基、三連装二基の計12門を装備することになったのである。
 この大きな変更は、合衆国海軍が計画、建造していた〈サウスダコタ〉級の影響だった。〈サウスダコタ〉級は50口径40センチ砲を12門搭載しており、本級はこれに対抗するために砲数を変更した。この変更は原案発案当初から語られた案であったが、当時は新砲塔の設計に時間がかかるために却下された。だが、論争の結果空費された時間が三連装砲塔設計の時間をひねり出し、結果的に採用されたのである。エクストリーム論派との論争が本級(砲戦力に限って言えば)大艦巨砲主義者が望んだ姿にしてしまったことを考えると、大いなる皮肉といえるかもしれない。
 ただ、砲門数の増加と装甲の強化により〈天城〉級より1ノット低下したが、事実上の性能はほとんど変わらなかった。加えて、原案では小型化された艦橋も最終設計では従来の大きさに変更され、巨大なパゴダマストと合わせて「ナイスバディ(死語)な艦」と竣工時に話題となった。
 本級は、エクストリーム論の正しさを証明するようにその(後世から見れば)バランスのよい(ナイスバディな)戦力で持って大戦において活躍した。その活躍は攻守速のバランスが取れた設計思想に裏打ちされたものであった。
 なお、本級の設計に大きな影響を与えたエクストリーム論は以後も海軍に存在し続け、日本海軍の改変に大きく寄与した。
 余談ではあるが、最近流行の無差別格闘技、「エクストリーム」の名称はこの先見的な論名から取られたのではないかと言われている。

〈来栖川《紀伊》綾香〉級の戦歴

 本級の戦歴を語る上で無視できないのが、一番艦〈来栖川《紀伊》綾香〉と二番艦〈坂下《尾張》好恵〉との確執である。
 一番間〈来栖川《紀伊》綾香〉には、当然のごとくエクストリーム論派が多数乗り込むことになった。もちろん艦長も激烈なエクストリーム論派だった。彼はもともと大艦巨砲主義者だったが、自らエクストリーム論に乗り換え、現在その先頭を突っ切り続けるエクストリーム論派の星そのものだった。
 ここまでは問題がない。海軍省が論争に気を使ったのが分かる。下手に両派を混同させて乗り込ませればどんな面倒が起きるか知れたものではない。
 だが二番艦は違った。ここで大艦巨砲主義派は反撃に移った。遅れて完成した〈坂下《尾張》好恵〉には、海軍省の同派をたきつけ、大艦巨砲主義派を大量に送り込んだのである。もちろん艦長も例外ではない。しかもその艦長は根っからの大艦巨砲主義で、さらには〈来栖川《紀伊》綾香〉の同期にして彼の《裏切り》を苦々しく思っている男なのであった。この艦長同士の対立はすぐさま乗組員を巻き込み、両艦の対立にまで発展した。
 対立はいかなる所にでもあらわにされた。演習では必ず殴り合い、さまざまな会議でもぶつかった。だが、〈坂下《尾張》好恵〉の人々は絶対に彼らがライバルと定めた者達に勝てなかった。演習の戦術、論の正誤に関わらず、何をしても勝てなかった。この打ち続く敗北がさらなる対立を生んだ。悪循環であった。
 もっとも、〈来栖川《紀伊》綾香〉艦長はべつに彼らにライバル心などもってはいなかった。ただ、自らが進む道を邪魔されたくないだけであった。この点、〈来栖川《紀伊》綾香〉は乗組員と共にまさに最強であり完璧だった。
 結局、この対立により、〈来栖川《紀伊》綾香〉級四隻で戦隊を組ませるのはかなりの無理が生じた。実際、〈来栖川《紀伊》綾香〉は二番艦とコンビを組むことはあまり無く、むしろ三番館〈駿河〉とコンビを組んでいた。無論、〈坂下《尾張》好恵〉は四番艦〈近江〉とである。また、なぜか〈来栖川《紀伊。綾香》は88()艦隊計画一番艦〈来栖川《長門》芹香〉とコンビを組むことが多かった。これは海軍二大無口艦の片割れであった〈来栖川《長門》芹香〉〈来栖川《紀伊》綾香〉が妙に意思(連絡)の疎通がしやすかったのが原因と見られている。
 大戦勃発後、彼女らは競い合うように戦果を上げた。が、実戦でも〈坂下《尾張》好恵〉は戦果の面でライバルに勝てなかった。いつまでも勝てなかった。
 あるいは彼女を惨劇へと歩ませた原因はそこにあるのかもしれない。
 対米戦末期、〈坂下《尾張》好恵〉は第二次2.26事件において「艦隊派」の反乱軍側に付き(この決断では、〈坂下《尾張》好恵〉内で唯一人の反対者もなかった)、米特使乗艦船団への襲撃に参加した。これはライバル〈来栖川《紀伊》綾香〉が船団近海の泊地に投錨していることが影響している。
 この襲撃に参加すれば、実戦でこの恨みを――
 乗組員にそのような考えが浮んだのは想像に難しくない。彼女は〈柳川〉(孤独の狩猟者として有名)を含む反乱艦隊に加わり、船団を目指した。積年の屈辱を果たすべく。
 だが、運命の女神は彼女の望みを果たさなかった。
 反乱艦隊の出撃に気づいたGFは当然〈来栖川《紀伊》綾香〉を含む艦隊を派遣したが、皮肉にも反乱軍に加勢した潜水艦の一本の魚雷により〈来栖川《紀伊》綾香〉は被雷、浸水し速力低下を起こし、迎撃艦隊について行くことができなくなった。それでも〈来栖川《紀伊》綾香〉はあきらめず、応急処置をしながら反乱艦隊の迎撃に向かった。
 一方、〈坂下《尾張》好恵〉はライバルが出現しないことに落胆(そして内心の安堵)を感じつつ迎撃艦隊と激突した。質的に優勢な反乱艦隊は迎撃艦隊に痛打を与え続けた。だが、〈坂下《尾張》好恵〉乗組員は満足していなかった。畜生、俺達はこんなことのために来たんじゃない―――。
 そのとき、突如として彼女にねらいを定めた駆逐艦がいた。〈松原《島風》葵〉。護衛戦隊〈ハリセーン〉で活躍した駆逐艦だ。そして乗組員は、すべて〈来栖川《紀伊》綾香〉と同じくエクストリーム論派。艦長は〈来栖川《紀伊》綾香〉艦長を尊敬しているというエクストリーム論派の若い先鋭。
 親の敵は子の敵。そんなものにも似た感情を抱いて、彼女は〈松原《島風》葵〉に砲身を向けた。この駆逐艦とは演習中に何度も手合わせしている。
 激闘は長時間にわたった。実戦に不安のあるはずの〈松原《島風》葵〉は何故かその真価を発揮していた。ありとあらゆる兵装を用いてその小さな船体で攻撃を継続した。
 結果、〈松原《島風》葵。を押していたはずの〈坂下《尾張》好恵〉は一瞬の隙を衝かれて《必殺の》93式酸素魚雷を右舷に四発叩き込まれた。
 急速に傾く〈坂下《尾張》好恵〉。だが、乗組員達は諦めていなかった。しかし反乱艦隊旗艦が沈没したこと、他の艦も戦闘能力を実質的に失っていたことにより艦長たちは戦意を喪失、ここに皇軍相打つという悲劇の「公称の無い戦い」は終了した。
 隊は、航行不能状態に追い込まれた〈坂下《尾張》好恵〉は、結局迎撃艦隊に投降した。その状態は控えめに見ても日本にたどり着けるか怪しいものだった。迎撃艦隊司令部では自沈の論議さえでた。
 〈来栖川《紀伊》綾香〉が浸水に苦しみつつ戦場に到着したのはその時だった。
 一瞬、〈坂下《尾張》好恵〉の艦内はののしりに包まれる。
 だが、〈来栖川《紀伊》綾香〉は無線から垂れ流されるその種の言葉を無視し、〈坂下《尾張》好恵〉に対し危険極まりない曳航作業を開始した。艦隊司令部の命令も無しにである。唖然とする〈坂下《尾張》好恵〉乗組員。だが彼女のライバルは過去の確執など無かったかのごとく作業に全力を投入した。浸水した船体で。
 苦しい作業の末、見事〈坂下《尾張》好恵〉の曳航に〈来栖川《紀伊》綾香。は成功した。途中、何度か危険な状態になりつつも無事に日本にたどり着いた。〈坂下《尾張》好恵〉の無線からは、曳航開始から終了まで何も言葉は無かった。
 〈松原《島風》葵〉は曳航される彼女を哀れむように寄り添いつつ航行した。
 日本の軍港――呉にたどり着いた途端、再び〈来栖川《紀伊》綾香〉に浸水が始まった。さすがに曳航という無理が祟ったのだ。だが、〈来栖川《紀伊》綾香〉はそのことを誰にも報じず、命じられた場所へと向かっていった。
 結局、〈坂下《尾張》好恵〉はこの後大改装の末復活し、新たなる戦いに身を投じてゆくのだが、乗組員達のライバル心は晴れることは無かった。ただ、必要以上に〈来栖川《紀伊》綾香〉に食いつくことはなくなっていた。戦隊も文句を言わずに組んだ。
 それは、いうならば無言の契約。互いを認め合った証だった。
 このほかにも、〈来栖川《紀伊》綾香〉級――特に一番艦の戦歴は無数に存在している。〈松原《島風》葵〉との関係、軽巡〈長瀬〉(後の英国教導駆逐艦〈セバスチャン〉)との演習での死闘、海外遠征――。
 だが、それらはここで語るべきものではないので、割愛させていただく。
 ただ、戦後の話ならば可能だろう。〈来栖川《紀伊》綾香〉級の一番艦と二番艦は、戦後記念館として残される。一番艦は三重の尾鷲湾に、二番艦は愛知の名古屋港に。お互いが反り合うような姿で。
 しかしその艦首は、常に両者とも東を向いていた。
 あの、「公称の無い戦い」が行われた海域、その一点だけを見つめるように。

■要目(新造時)

全長 250メートル
機関出力 95000馬力
全幅 35メートル
最大速力 29ノット
基準排水量 51000トン
主兵装
 主砲 45口径40センチ連装砲3基6門及び45口径40センチ3連装砲2基6門
   副砲 50口径14センチ連装砲4基8門
 高角砲 40口径12.7センチ連装砲12基24門

同級艦
〈来栖川《紀伊》綾香〉
〈坂下《尾張》好恵〉
〈駿河〉
〈近江〉