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〈牧村〉

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砲塔運搬艦〈牧村〉

(元ネタ こみっくパーティー(Leaf)より牧村 南)

 1937年、隆山海軍軍縮条約が期限切れになると、各国海軍は新型戦艦の建造に着手した。日本海軍も50口径46センチ砲3連装2基、連装2基を有し、速力33ノットを発揮する〈高瀬《大和》瑞希〉級の建造に着手したが、ここで50口径46センチ砲の輸送が問題となった。八八()艦隊時代の砲塔運搬艦では45口径46センチ砲までが限界で、その上老朽化が進んでいたので、早急に代替艦のの必要が生じたためである。そこで計画されたのが、〈牧村〉級砲塔運搬艦であった。
 当初は排水量約1万トンの艦として計画されたが、将来の艦載砲の巨大化を見越して、55口径56センチ砲を搭載可能とするまでに変更され、排水量は3万トンを突破する大型艦として計画されていった。この基本性能の決定までは順調だったのだが、決定直後から軍令部の要求が艦政本部へと殺到することとなった。「砲身の交換能力も添付せよ」空始まり、「砲身交換だけでなく簡単な修理機能も持たせよ」「容積に余裕があるなら補給艦にもならないか」と続き、最期には「作業中の艦の乗組員の休憩施設も欲しい」という要求までもたらされた。艦政本部もこの要求をことごとく受け入れた。(艦政本部もこの変更に乗り気だった)ため、〈牧村〉はさらに大型化し、排水量が約4万トンと、当時の戦艦に匹敵するまでに至った。
 重量物を運搬するため、艦体構造はとにかく頑丈に造られ、当時としては珍しい3重底を採用している。艦体形状も搭載能力と安定性・復元性を重視し、全幅は36メートルと幅広いものとなった。艦体以外の点では夜間作業用に多数の探照燈、500トンクレーン2基、200トンクレーン4基を装備する、本格的な工作艦としての能力を持つに至った(それでも専門の工作艦〈長瀬〉には及ばなかったが)。航行中の艦船に洋上で物資、燃料などを補給するための設備も追加され、休養施設も充実し、居住性も良好、さらには通信機器も充実しているという贅沢な艦となった(これを可能としたのは、戦争の可能性が高まりつつある中、海軍予算が増加したこと。その遠因としては1930年代に来栖川蔵相(当時)主導による所得倍増計画が成功し、日本の国力そのものが増大したことによる)。結果として、追加されたこれらの性能が〈牧村〉に平凡な生涯を送らせない原因となった。

■戦歴

 〈牧村〉は公試中の1939年8月21日にディーゼル機関が故障するなどの問題も発生したが、1940年1月1日に就役した後はさしたる問題も起きず、八八()艦隊計画艦など戦艦の砲身運搬・交換という地味だが戦艦戦力を影から支える重要な任務をこなしていた。しかし第2次世界大戦開戦後、〈牧村〉を第2次世界大戦史に残る有名艦にした任務につくことになった。ドイツと戦う同盟国の大英帝国を支援するため大西洋に派遣された遣欧艦隊へ、新品の砲身を補充するため、対潜護衛戦隊〈ハリセーン。の護衛する船団に加わり、英国のスカパフロー軍港を目指すこととなったのであった。1941年3月のことである。
 この〈牧村〉欧州派遣が可能になったのも、「海軍甲事件」などにより戦艦建造計画が大幅に縮小されたのが原因である。この縮小によって、建造される戦艦は〈高瀬《大和》瑞希〉と〈澤田《信濃。真紀子》の2隻だけとなり、〈牧村〉は欧州派遣の時点で〈高瀬《大和》瑞希〉への砲塔運搬の役目を終わらせていた。〈澤田《信濃》真紀子〉の砲塔はまだ艦体には付いていなかったが、この任務は2番艦〈樫野〉だけで事足りると判断された。そこで砲の交換作業や艦の修理ができる〈牧村〉が遣欧艦隊の後方支援に選ばれたのであった。
 大神工廠出港直後、砲身の一部積み忘れが判明して急遽引き返すという事件も起きたが(この後しばらく〈牧村〉は大神工廠の関係者から「うっかり牧兵衛」と呼ばれるはめになった)、〈ハリセーン〉に護衛されながら目指す〈牧村〉と船団。途中、セイロン島のコロンボ港で〈牧村〉は高級紅茶を大量に積みこんだ。その後喜望峰を経て、船団はついにドイツの恐るべき灰色狼の跳梁跋扈する大西洋へ踏み込んだ。ここで〈牧村〉は船団の運命を左右する活躍をすることとなる。
 船団所属の商船は大きさも速力もバラバラである。そして海軍のように集団航行を訓練されているわけでもなかった。ともすれば隊列はすぐに崩れてしまう。そこで〈牧村〉は各船に的確な指示を出して隊列を維持した。敵潜水艦に襲撃されたときにも、敵潜迎撃に奔走する護衛艦に代わり船団を良く統率し、これの秩序を保ち続けた。(指示を与える際、夜間作業用の探照燈と充実した通信設備がものをいった)。結果、船団の損害は最小限にとどまった。この活躍により〈牧村〉はいつしか「護衛船団天使」の異名を持つようになり、多いに頼りにされるようになったという。このことは〈ハリセーン〉所属の対潜軽巡〈猪名〉艦長の「牧やんやるなぁ」の一言がすべてを物語っている。
 困難な航海を終え、無事スカパフローへとたどり着いた〈牧村〉はすぐに遣欧艦隊各艦の砲身交換作業を開始し、艦隊の戦闘能力を維持した。なおセイロン島で積みこんだ紅茶も直ちに陸揚げされ、英国兵たちの喉を潤し、彼らの士気を高めたという(この紅茶は後にチャーチル首相や、国王ジョージ6世も口にしたという伝説が残っている)。
 1942年4月、マルタ沖海戦で大破した〈高瀬《大和》瑞希〉の応急修理を完了させたのち、太平洋戦争勃発に伴い日本に帰還してからも砲運搬・交換、艦船修理、補給、果ては護送船団の旗艦と、〈牧村〉は第2次、第3次世界大戦を通じて地味ながらも縦横無尽の活躍を見せた。
 なお、〈牧村〉で使われた作業着は、青と白を基調とした斬新なデザインで、トランシーバーも作業中、手を使わず通話できるよう頭にとりつける形式のものであり、作業効率を高めたという。
 〈牧村〉は第3次世界大戦終結後もしばらく海軍の後方支援の任に当たっていたが、八八()艦隊計画艦が次々と退役していく中で、彼女も本来の役割――砲塔運搬――を失い、退役、予備艦を経て、1975年に軍籍を剥奪、解体されようとしていた。しかしここで、〈牧村〉は溶鉱炉の火となる運命から逃れることとなった。民間船舶会社の有明海運が彼女の払い下げを求めてきたのである。有明海運の会長はかつて〈ハリセーン〉に護衛されて大西洋を押し渡った船団の中の一隻の船長で、あの時自分を救ってくれた〈牧村〉を今度は自分が救う番だとばかりに払い下げを執拗に求めたという。
 海軍の上層部も、これまで海軍の為に尽くし、「護衛船団天使」と将兵たちからも愛された〈牧村〉を解体してしまうのは忍びないと思ったのか、彼女は無料同然の価格で有明海運に払い下げられた。有明海運の船籍を得た〈牧村〉は民間船としての改装を受けたのち〈南丸〉と名を変え、民間航路で活躍した。ちなみに〈南丸〉が輸送した荷物の中には、日本航宙軍の対軌道輸送機や、初の宇宙戦艦〈高倉《武蔵》みどり〉の艦体の一部も含まれていた。かつて海上に浮かぶ戦艦の活動を支援するために造られた彼女が、宇宙に浮かぶ戦艦をも運び、次世代の軍への掛け橋となったのはなんという運命のめぐりあわせであろうか。
 〈南丸〉は1990年代末まで現役にあった。この頃になると、船齢は60歳近くに達し、解体も検討された。しかし彼女の解体を惜しむ関係各位の努力により、東京国際展示場脇に固定保存され、展示場として必要な改装を受けた。そして現在は「東京ビッグサイト 南展示場」として様々なイベントに活用されている。
 なおこれは余談だが、1980年代に建造された海軍の高速戦闘支援艦のネームシップは〈牧村〉であり、2000年代初頭に建造された有明海運の新型重量物運搬船は〈南丸〉と命名されている

〈牧村〉級砲塔運搬艦[要目]

満載排水量 43600トン
全長    221.7メートル
全幅    36メートル
機関    艦本式ディーゼル 86000馬力
最大速力  23ノット
[兵装] 65口径10センチ連装高角砲2基
[その他の儀装]
 500トンクレーン 2基
 200トンクレーン 4基
 150センチ探照燈 4基
 80センチ探照燈  10基
 洋上補給装置    各種

同型艦

〈牧村〉
〈樫野〉