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〈芳野《八九式中戦車》雨音〉

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〈芳野《八九式中戦車》雨音〉

TOPCAT「果てしなく青い、この空の下で…。」芳野 雨音


 開発時呼称「カエデ」車。1929年(昭和4年)に日本陸軍に制式採用された「初の国産」主力戦車。しかし実際には英国ヴィッカースMk.C戦車を日本国内でライセンス生産したものである。
 ヴィッカースMk.Cは英国陸軍に採用されなかったため2両だけ製作されたものの内の1両を、1927年にヨシノ機関の前身である戦車購買団が購入したのである。そして日本の要望に基づいてエンジン配置を前部から後部に移し、水冷エンジンから空冷エンジンへ載せ換え、主砲を3ポンド砲から57ミリ砲へと換装している。運用試験ではガソリン・エンジンが火を噴くこともなく好調であった。技術本部車両班でオリジナルよりも軽量化をおこなった後、陸軍では制式採用を決定した。
 その車内設備は至って簡素なもので、まさに必要最小限のものしか無く、後の主力戦車〈八車《七式中戦車》文乃〉の豪華さにくらべて陋屋も同然であった。無線は中隊長車にしかなく、それも雑音混じりで調整が難しく、スイッチがすぐにはずれてしまうような代物だった。装甲に至っては隙間だらけで敵の機銃弾が車内に飛び込んでくるため、主砲を発射する度に砲塔を旋回させて後部機銃で機銃座を制圧し、その隙に次弾装填を済ませるといった案配だったのである。
 1920年代の日本では、モータリゼーションの初期段階としてオートバイが普及しており、騎兵から転向した戦車兵の軍装には英国風の黒革のバイカー・ジャケットと銀色(または白色)の戦車帽にゴーグルが採用され、独特の変遷を辿ることとなる。作業衣として油汚れを防いだり手を拭ったりするために白い前掛けをかけることもあったのだが、富裕階層出身者の多い将校には自宅で雇用している「西洋女中」の姿そっくりになってしまうため不評であり、わざと前掛けを付けない者が多かったという。
 主砲は57ミリ短戦車砲(18.4口径)、最大装甲厚は17ミリ、重量は11.5トン。最大速度は時速25キロメートル。開発時期には活発な機動力を発揮していたのだが、30年代半ば以降には随伴する車両群の速度があがり、かえって〈芳野《八九式中戦車》雨音〉の方がスローペースになってしまっていた。
 主砲の57ミリ短戦車砲は慣熟した砲手ならば毎分○○発(〈八車《七式中戦車》文乃〉の毎分○○発を上回る数値である)を発射することができ、機銃座を破壊するのに効力を発揮した。砲塔後部機銃も用いたならば発射弾数はさらに増える(後部機銃を装備したのは本車だけで、〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉〈松倉《三式駆逐戦車》藍〉が配備される頃には後部機銃が無いのが普通であった)。しかし、徹甲弾を用いて射距離100メートルで貫徹装甲厚が10ミリ程度と対戦車戦闘を考慮していなかったため、ソ連より中国共産党軍に供与されたBT7戦車に苦杯を舐めることとなり、それは内蒙古の綏遠における戦闘での「雪原の悲劇」として現れた。

 日本陸軍の戦車との遭遇は第1次世界大戦に遡る。当時、日本は日英同盟(双務的攻守同盟に変更されていた)に従い、海軍と陸軍とを欧州大陸に派遣していた。そして日本陸軍は北フランスの野で、近代戦争の暴虐を嫌と言うほど味わった。それはまさに「邪神が魂をむさぼり喰らう」が如きの、人命の濫費であった。
 余談ながらこの派遣軍に属していた下級将校達が、第2次世界大戦及び第3次世界大戦で日本陸軍の指導層を形成することになるのは、日本にとって幸運なことであった。彼らは精神論に基づく肉弾突撃の無力さを目の当たりにしていた。そして機械化部隊がどれほどの効果を示すかも。彼らには日露戦争の戦訓は書き換えるべきものとなった(彼らは帰国後にパリで共に遊んだことを記念してという名目で「ラ・セーヌ会」を結成する)。けれども、その戦訓を墨守する者たちもいた。その者たちは留守組であり、後に第1次、第2次の2.26事件を起こすことになる。
 英国がMk.祇鐚屬鯔魅侫薀鵐垢離侫譟璽襪房太鐡蠧した後、ドイツ帝国でもA7Vを開発して戦線に送り込んだ。そして1918年4月24日、ヴィレル・ブレトニューとカシーの間においてMk.犬硲腺沓屬箸了望綵蕕寮鐚崟錣起こった。双方3両ずつで戦われ、英国2両損壊、ドイツ1両中破となったが、同地に英軍とともに布陣していた日本軍が中破したA7Vの確保に成功したのである。その戦功をあげたのが、日本初の戦車長であり、後にヨシノ機関を立ち上げることになる世忍(よしの)大尉であった。世忍大尉は、ドイツ軍ビルツ少尉車「ニクス」が英軍ミッチェル少尉車「メイル」の攻撃で損傷し、搭載した手榴弾の誘爆を恐れたビルツ少尉が全乗員を脱出させた隙をついてA7Vを奪取したのである。
 こうして日本陸軍は初めて戦車を手に入れ、機械化部隊による諸兵科連合の効果を戦訓として手に入れることとなった。第1次世界大戦終結後、軍縮により陸軍の規模が縮小を続ける中で「機甲科」が成立し、自動車化をすすめる機縁が生じたのである。

 1924年に、日本陸軍は緒方勝一中将を首班とする戦車購買団を欧米に派遣した。欧米での戦車開発の状況を視察し、Mk.AホイペットやルノーFTに次ぐ主力戦車としての購入を打診するのが目的であった。
 その戦車購買団を実質的に取り仕切ったのが世忍中佐である。彼は捕獲したA7Vを実際に使用して、戦車の可能性と将来性に気づいた。機銃弾幕による「大量殺戮から友軍を守るため」には装甲化した車両による機銃座の制圧が必要との認識に達したのだ。そうでなければ隣接するフランス軍師団のように、重砲のだらだらと続く制圧射撃、横一線に並んだ歩兵突撃、そして鉄条網、機銃の掃射、師団壊滅といった運命を辿ってしまいかねない。友軍をそんな目に合わせるわけにはいかない。
 彼は騎兵科の賛同を得て機甲科の設立に奔走し、英国駐在武官時代にはJ・F・C・フラー大佐やリデル・ハート大尉の知己も得て、日本屈指の戦車の専門家になっていたのだ。
 戦車購買団は戦車先進国の視察が目的の一つではあったが、(英国を除けば)どこの国でも最新の戦車は見ることは叶わなかった。フランスに至ってはルノーFTの大量購入ならば認めるという返答をよこす始末である(要するに在庫処分なのだ)。合法的な手段では埒があかない為、非合法な手段をも用いて情報を集めるようになった。こうして戦車購買団は情報機関化していき、その指揮をとった世忍中佐の名字からヨシノ機関と呼ばれることになる。
 ヨシノ機関は「友軍を全滅の運命から守るため」という強い使命感の下、戦車開発や戦術についての情報収集と解析、現物の入手などに尽力していった。日本の戦車開発へのヨシノ機関の影響は大きく、ヴィッカースMk.C戦車を基にした〈芳野《八九式中戦車》雨音〉は勿論のこと、第3次世界大戦時の主力戦車〈八車《七式中戦車》文乃〉はヨシノ機関の協力無くして開発できなかった。国産化を唱える技術研究本部との対立は多々あったが、戦車開発に憂えるもの同士として協力し合ったのである。
 技術研究本部の協力があって開発された〈芳野《八九式中戦車》雨音〉は、威圧感よりも「ほんわか、おっとりした感じ」を見るものに与える外観で愛されたが、エンジン起動後の暖気運転に随分と時間がかかるといった問題があった。その他にも足周りに小さな故障が多く見られた。国府軍に輸出された際、国府軍で輸入した「活発な」機動力をもつルノーNC27戦車と評価を競い、機動力では負けず、かつ故障は少なく使用実績は良好という評価を勝ち得て、日本製戦車として初の成功を納めた。
 陸軍から軍事顧問団も国府軍に派遣され、1930年代半ばまでには共産党軍や軍閥との戦闘経験から後の「電撃戦」につながる、戦車の集中投入と無線による柔軟な指揮といった戦訓を得ていた。同じ頃、「ドイツ装甲部隊の父」ハインツ・グデーリアンがベルリン南郊のツオッセンでトラクターや自動車で装甲実験部隊の編成・訓練を行っているのに比べて、日本機甲部隊は環境に恵まれていたと言える。だが、日本機甲部隊を取り巻く世界を、悪化させる動きが生じていた。

 騎兵科を取り込み、着々と勢力を増しつつある機甲科に危惧の念を覚えたのが、東條中将を領袖とする歩兵閥であった。彼らは機甲科を目の上の瘤に感じており、予算面でも戦車や自動車購入の費用が増大していることから、歩兵科の持つ利権への圧迫を感じていたのである。海軍の八八cm艦隊計画推進のあおりで陸軍予算が厳しく抑制されているところに、維持管理に金のかかる装甲車両が導入されていくのだ。予算はどこかを削らなければ工面できない。
 陸軍の主戦力は歩兵であるとの信念を持っている、彼ら歩兵閥にすれば許し難いことであった。何かと派手な(富裕階層出身者が多い)騎兵科が機甲科へ鞍替えしたことも反発を強めた。その為、歩兵閥の牙城と化している参謀本部作戦課は技研本部やヨシノ機関に圧力を加え始める。最終的に機甲科を解体し、全ての戦車を歩兵に付随させるのが目的であった。戦車などは歩兵にくっついて動けば良いのだ。勝手に後方へ走り込むなど許せることではない。目的と手段をはき違えていることに彼らは気づいていない。
 彼らの打った手の一つが、世忍大佐の更迭である。情報機関であることから生じる使途不明金を、使途不明なるをもって世忍大佐が着服したと決めつけて退役に追い込み、自宅へは捜査と称して憲兵が押し入り、家財道具をひっくり返して書類などを押収していった。さらに夫婦揃って行方不明となった。遺児の世忍少尉は手を尽くして行方を探したが全くわからず、八方塞がりになってしまった。
 次の手が、戦車がいかに役に立たないかを宣伝することであった。国内では不意の訓練出動を命じて点検もさせぬまま出動させ、途中で脱落した車両が出ると罵倒し、遠距離の行軍では補給や整備のために停車すると「歩兵は不眠不休で進むのに、戦車隊はなんというざまだ!戦車が動かないのならば歩いてでも前進しろ!」とこれまた罵倒する。さらに〈芳野《八九式中戦車》雨音〉を戦車に不利な地形状況の作戦に投入するよう、国府軍に示唆することまでおこなった。
 1937年9月から11月にかけて、国府軍は内蒙古の察哈爾(チャハル)省から山西省に侵攻して同地の共産軍の殲滅を図った。〈芳野《八九式中戦車》雨音〉で編成された鉄牛部隊は軍の先鋒として進撃したのである。峻険な山岳地帯で履帯を切ったり、懸架装置を故障して動けなくなったりと、機動と補給に苦労しながらも〈芳野《八九式中戦車》雨音〉部隊は共産軍の堅陣を抜いていき、ついには省都の太原を陥落させた。国府軍の侵攻により共産軍は黄河以西に撤退せざるを得なくなった。
 こうして侵攻作戦は成功を収めたが、日本国内の参謀本部では酷評したのである。機械化部隊は実戦の役に立たないと決めつけた。一つ、機動力が発揮できなかった。二つ、機械化兵団の攻撃力が不足していた。三つ、燃料弾薬の補給が大量に必要である。全くの言いがかりであった。 山岳地帯では車両が機動力を発揮できるはずがないし、戦車の57ミリ砲で長城や城郭の郭壁を破砕できるはずもない。機械を扱う以上、燃料と弾薬の大量消費は当たり前であろう。
 東條中将を始めとする参謀たちによる「執拗な苛め」であり、戦車部隊を自らの「玩具にしようとしている」という他はない。機甲閥の領袖として酒井縞次少将(1948年に参謀総長となる)が東條中将を「バカ」とののしるのも無理はないのだが、機甲科を守ることで精一杯であった。折しも〈芳野《八九式中戦車》雨音〉の後継主力戦車について参謀本部との軋轢が激化しており、〈瀬能《九七式中戦車チハ》英里子〉は参謀本部案の一部を入れて短57ミリ戦車砲を搭載して完成したのである。
 酒井少将を始めとする機甲閥とラ・セーヌ会の面々は、東條一派の尻尾を何とか押さえられないものかと苦闘していた。しかし、はかばかしい進展は無く、手詰まりとなっていた。そこに陸軍を震撼させる事態が到来する。

 1939年冬、〈芳野《八九式中戦車》雨音〉〈瀬能《九七式中戦車チハ》英里子〉とで編成された国府軍鉄牛部隊が、内蒙古の綏遠で共産党軍に粉砕された。陸軍は直ちに調査団を派遣した。日本は大陸に武器を輸出することで経済を保っており、その信頼性に疑問符がついては売り込みがままならなくなるからだ。
 調査団の人員は機甲科と歩兵科で半々となった。厳しい表情の機甲科の調査員達に対して、歩兵科から派遣された調査員は余裕の表情だった。これで戦車は役立たずと決まり、機甲科を解体に追い込める。
 戦場は雪と日本製戦車の残骸で覆われていた。射貫されて搭乗員の血に染まった〈芳野《八九式中戦車》雨音〉が目立った。新型の〈瀬能《九七式中戦車チハ》英里子〉は国府軍が使い、日本軍事顧問団は敢えて使い慣れた〈芳野《八九式中戦車》雨音〉で戦っていたのである。日本軍事顧問団が指揮する一群は徹甲弾による複数車両の集中射撃でBT7をしとめ、また榴弾を機関部に命中させて炎上させるなどして損害を与え、殿軍として鉄牛部隊の撤退を援護した。そして、その勇敢さのために大損害を受けた。機甲科の解体を防ぐためにも無様な戦いは見せられなかったのだ。彼らが全滅(に等しくはあったが)しなかったのは、戦場付近の涸れ河から突然の出水があり、泥土まじりの大量の「黒い水」の流入によって共産軍戦車の追撃が止んだからであった。
 この戦いが機甲科に与えた人的損害は凄まじいものとなった。機甲部隊の中核と目されていた百武少佐、西住大尉といった練達の指揮官、士官、そして下士官が大量に失われたのである。13万人体制の中での機甲科員の比率を考えるならば、再建までにどれほどの時間が必要になるのか、誰しもが暗然とした。しかもこの年の9月にはドイツとの戦争が始まっており、彼ら歴戦の機甲科員が必要となるのはこれからなのだ。
 第2次世界大戦初期から中盤にかけての日本機甲部隊の不活発さと、ドイツ装甲部隊に押しまくられた不甲斐なさは、ここに起因する。日本機甲部隊が真に再建なるのは、〈八車《七式中戦車》文乃〉の登場と共に、1940年代も後半となった。

 生き残った士官の中に、世忍退役大佐の遺児である世忍中尉もいた。世忍中尉は温厚な性格で、声を荒げた姿を見たことがないと誰しもが言い、部隊全体に細かく気を配り、「うー」と考え込む癖はあるが頑固で一度決めた方針は断固として変えない。そして戦時にあっては「キレタ」と言われるほどの勇猛果敢さを示すという、部下たちにも慕われた理想的な士官だった。
 彼は両親の行方を知るために大陸派遣軍事顧問団に志願していた。参謀本部の辻少佐に、両親の行方を知りたいなら軍事顧問団に志願するよう示唆されていたからだ。公金横領犯とされ行方不明となった父の行方を探し、かつ汚名を雪ぐためには志願せざるを得なかった。心が壊れそうになるのを耐えて、彼は国府軍に参加したのである。
 その結果が、この生き地獄であった。彼は最後まで奮戦した部隊の一人だった。乗車はBT7の徹甲弾に打ち抜かれ、死亡した部下の血を大量に浴び、自らも負傷して虫の息のところを、危険を冒して駆けつけた段列の下士官たちに救助されたのだ。そして山西省の大同まで後送されて病院で傷を癒やしていた。
 調査団が訪れたときには、ようやくベッドから起きあがり、字を書けるまでに回復していた。調査団の質問に対して世忍中尉は筆談で答えた。心労や様々な衝撃により言語失調を起こしていた為である。その字もまた、利き手の右手で書きながらも、まるで左手で書いたような字で、調査団員の涙を誘った。
 こちらの撃つ弾は初速が遅いため、炭団を投げつけたようなもので敵戦車の装甲に弾かれてしまったこと。弾丸は確かに命中していたこと。敵戦車はソ連のT26、BT5、BT7戦車であること。敵戦車の砲は長砲身で貫通力に優れ、こちらの装甲を簡単に打ち抜いたこと。ピアノ線に履帯をからめ取られて、動けなくなったところを対戦車砲で撃破された戦車が多いこと。敵戦車は優速であること。撃破した戦車からはソ連兵がでてきたこと、などなどであった。
 そして世忍中尉は、機甲科から派遣された調査団員に一つの鍵を預けた。それは世忍大佐が行方不明になった後に、彼のもとに届けられたものであった。どこの鍵かが分からないまま、これまで持っていたのだが、ここでようやく父が使っていた金庫の鍵であることを思い出したのである。それは東京都内の、或る銀行の貸金庫の鍵であった。

 陸軍省内で大臣と次官も出席して開かれた報告会は初めから紛糾した。敗北の原因について、国府軍と軍事顧問団の戦術の拙劣さを第一原因と主張する歩兵科と、戦車砲が弱威力であることが第一原因と主張する機甲科とが、真っ向から対立したのである。
 各務中佐、辻少佐、甘糟少佐といった少壮の参謀は熱弁を振るった。国府軍の戦術の拙劣さは事実であったから、彼らは自信満々であった。
 敢闘精神の不足が主因である。敢闘精神に欠ける部隊の報告など考慮に値しない。皇軍の恥をさらした役立たずの機甲科は解体すべきだ。
 彼らは新型戦車に短57ミリ戦車砲を搭載することを強要したのが自分達であることなど忘れ果てていた。さらに各務中佐が生存者への自害強要を主張し始めるに至り、とうとう酒井少将の堪忍袋の緒が切れた。彼自身は陸軍の恥を衆目にさらすことに肯んじ得なかった。しかし、ここに至っては致し方がない。「その時」を逃がすわけには行かない。今こそ「その時」なのだ。
 酒井少将はその場において、複数冊の資料を歩兵科の領袖である東條中将に示した。それは歩兵閥の資金の流れを記した帳簿であった。軍需企業や国府軍との癒着、武器輸出商の江沢商会からのバック・リベート、さらには外務省の外郭団体である興亜院との阿片を巡る金の流れ、上海の阿片王である杜月笙からの阿片取引に伴う謝礼金までが記されていた。それには東條中将の花押と印が押されていた。マスコミにリークされたならば皇軍の恥どころでは済まない事態である。
 その資料は、件の貸金庫から息子宛の遺書(というべき書簡)と共に出てきたものである。世忍大佐はヨシノ機関を使って歩兵閥の資金がどこから出て、どこに流れているかを調べ上げ、彼らの裏帳簿を奪ってもいたのだ。
「これで貴様はおしまいだな!東條上等兵!」石原莞爾次官が暴言を叩きつけた。
「……世忍!」東條中将は呻いた。
 そして石原次官はとどめを刺した。聖聞に達している、と告げたのである。天皇にまでスキャンダルの報が伝わっていては観念せざるを得なかった。
 斯くして、参謀本部作戦課の一同は更迭と相成った。東條中将の謹直な仕事ぶりを評価していた天皇が、温情的な措置を取るよう指示したとも言われる。
 しかし憲兵による捜査で、さらなる陰謀が明らかとなった。海軍出身の岡田首相を暗殺して陸軍主導の近衛政権を樹立し、日英同盟は破棄してドイツ・イタリアと同盟をむすび、中国大陸へ武力進出して王道楽土を建設しようとするもので、完全なクーデター計画であった。収賄や阿片での稼ぎはこのための資金を捻出するためだったのだ。さらにドイツ親衛隊の工作のあったことが判明し、ことは陸軍だけの問題ではなくなった。
 「間に合った」とは、親英派将校の言であった。確かに際どいところまで工作が進んでいたのだ。内務省によって親ドイツ派将校は次々と摘発・逮捕されていき、自らの安泰を図るためにかつての同志を売る例まであった。
 名誉が回復された世忍大佐夫妻の行方も判明した。奪われた帳簿を取り戻そうとして失敗した甘糟少佐が殺害して、死骸を穂村神社の裏手にある古井戸に投げ込んでいたのだ。
 東條中将は腹を切った。皇軍の恥をさらしたのだから自害すべきだ、との論法に従うならば自らが切腹しなければならない。自ら書き上げた戦陣訓(公布されなかった)に従ったものと云えなくもないであろう。

 作戦課の面々の各務中佐、辻少佐、甘糟少佐らの行方は杳として知れなかった。彼らは捲土重来を期して潜伏し、1943年の第2次2.26事件における陸軍反乱部隊を指導することになる。それにも失敗すると国外へ脱出した。各務中佐は行方知れずになり、甘糟少佐は合衆国領満州へ逃亡、辻少佐は仏印ラオスへ渡ったことが確認されたが以後の消息は不明である。
 ドイツでは日本から逃亡した将校と、日本にいられない者達をあつめて日本人義勇SS「ハウスホーファー」を結成することになる。彼らはウラル戦線、カザフの草原でロシア人相手に活躍する。中には大神工廠での戦艦〈高瀬《大和》瑞希〉破壊工作に従事する者までがいた。
 ドイツ以外では、フランス外人部隊(レジオン・エトランジェ)にも多数の日本人将校が加わった。彼らはパナマにおいて日英米枢軸の上陸部隊と激戦を展開する。
 国内で逮捕された者達には教育のやり直しが待っていた。特務の佐藤大輔少佐により徹底した再教育がおこなわれ、一兵卒として叩き直されたのである。将校だから、という甘やかしは排除され、血反吐とゲロを吐くほどの苛烈な訓練をこなさねばならなかった。彼らは中村正徳軍曹の足蹴にも耐えねばならない。つい先日まで、顎でこき使っていた者に敬礼しなければならないのだ。
 そして、彼らは精強極まりない兵士に新生なったのだが、第3次世界大戦初期のインド洋ソコトラ島上陸作戦「ブルー・アイス」において上陸第1陣として投入され、ドイツ陸軍東方集団の第115装甲連隊第2大隊(ベルンハルト大佐)の反撃により壊滅することとなる。
 以上は、全くの余談。

 綏遠での敗北は戦車砲の威力不足によるものと発表され、〈瀬能《九七式中戦車チハ》英里子〉の改良に全力が投入された。1940年、改良された戦車は共産義勇軍を粉砕する。
 参謀本部はラ・セーヌ会や親英派の将校で占められ、ここに対ドイツ戦の体制が整った。機甲科は解体を免れるどころか、ドイツがポーランド電撃戦で示した装甲部隊の威力から重要兵種として予算増大の措置を受けることになる。機甲部隊再建の途は開かれた。
 陸軍全体も人員を大幅に増大することとなった。インド方面、ヨーロッパ方面への派兵が英国より要望されたためである。
 この時、東條中将らの遺産が役だったのは皮肉といえる。彼らは将来の大陸進出のために下士官の比率を増やしておいたのである。兵を集めさえすれば瞬く間に大兵力を編成できるようにとの目論見であった。彼らの遺産は、北アフリカ派遣兵団や北米派遣兵団の建設に大いに役立つこととなる。
 その後の世忍中尉は、言語失調も直って現役に復帰し、その際に妻方の「戒田」に改姓した。「世忍」は去ったのだ。彼は富士機甲学校の教導部隊に所属して後進の指導と新型戦車開発に携わり、平凡な将校として生きた。最終階級は大佐である。
 1940年以後、〈芳野《八九式中戦車》雨音〉は日本国内でも、また国府軍においても後方警備や訓練用に回され、実戦に投入されることはなくなった。〈芳野《八九式中戦車》雨音〉の苦難の時は過ぎ去ったのだ。驚くべきことに最後の車両が退役したのは西暦2000年になってからである。それほどに〈芳野《八九式中戦車》雨音〉は愛され、守られていた。

 かの時、内蒙古の草原に雪は静かに舞い降りて、日本陸軍の罪と夢を覆い尽くしていた。草原に降る雪の下、日本陸軍は新たな生を生きることとなったのである。

要目

  • 重量(t)  11.5
  • 乗員(名)    4
  • 寸法(m)
    • 全 長      5.75
    • 車体長      5.75
    • 全 幅      2.18
    • 全 高      2.56
    • 最低部地上高 0.50
    • 接地長      2.80
    • 履帯幅      0.32
  • 発動機    ダイムラー
    • 出力    118hp
  • 装甲(mm)
    • 砲塔
      • 前面 17
      • 側面 17
      • 後面 17
      • 上面 10
    • 車体 前面 17
      • 側面 15
      • 後面 15
      • 上面 10
  • 武装
    • 火砲 57mm×1(L18.4)
    • 銃器 6.5mm×2
  • 能力
    • 最大速度(km/h)  25
    • 航続力         140km