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〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉

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〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉

TOPCAT「果てしなく青い、この空の下で…。」穂村 悠夏


 英国巡航戦車Mk.此劵ルセイダー〉の車体に、日本で設計した砲塔を載せた戦車。制式採用は1941年。第二次世界大戦中盤の日本の主力戦車である。車体と砲塔に電気溶接を取り入れ、オリジナルのMk.此劵ルセイダー〉よりも高い防御力を誇った。
 当時の日本では47ミリ口径以上の高初速戦車砲開発に遅れをとっていたため、比較的高初速(683m/s)の九○式75ミリ野砲(38口径)を戦車砲に転用して搭載した。為に砲塔は〈瀬能《九七式中戦車改(新砲塔チハ)》英里子〉よりも大型化した。なお、開発時間を短縮するため駐退復座器は外装のままとしている(四式75ミリ戦車砲を搭載した改型では、駐退器は砲塔内に納められている)。装甲は表面浸炭鋼を用いており、砲塔前面、車体前面ともに最大50ミリになる。重量は25トン。エンジンは中島〈栄〉21型のデチューン・モデル(400hp)を積み、クリスティー式の懸架装置と相まって高い機動力を発揮した。
 〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉の開発にあたってはT−34/76Aに対抗し得る戦車であることが必須条件であった。その為に電気溶接で車体防御力を強化し、角度が不十分ではあるが砲塔に傾斜装甲を取り入れている。主砲については榴弾砲の転用ながらも、専用の徹甲弾を用いれば1000メートルで70ミリの装甲を打ち抜けた(900メートルでは85ミリ)。かくして輸出先の中国大陸では獣のごとく暴れるT−34/76Aを押さえ込み、日本製戦車が国府軍から「馘首(くび)」にされることを防いでいる。
 しかし〈瀬能《九七式中戦車改(新砲塔チハ)》英里子〉に続いて投入された北アフリカ戦においては傾罎筬弦羸鐚崛蠎蠅砲聾潦儖幣紊冒雲錣靴燭、更罅劵僖鵐謄襦咾砲倭瓦歯が立たなかった。1943年、キレナイカのドウディマにおける初の交戦後、生き残った車両には鞭で打たれたような傷跡が多数見受けられたという。さらに88ミリ高射砲の直撃一発で炎上するところから、ドイツ兵に「炎(ほむら)の戦車」と名付けられた。
 日本機甲部隊は(英国式戦術の)戦車単独での強引な正面突撃では損害を増すばかりであることを流血の末に学んでいた。つまりドイツ軍にならって諸兵科連合で「力を合わせて」戦うようになってDAK相手にも大いに戦果をあげており、当時の後方に多くいた「戦車万能論者」の「他人の力に頼ってばかりだ」という非難は的外れなものといえる。もっとも〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉が〈パンテル〉に対抗するには非力で、高射砲や地雷、直協機に頼らなければならなかったのは事実であるが。
 〈三式中戦車チハヤ(T−34/88)〉の登場以後は主力の座を譲ったものの、〈松倉《三式駆逐戦車》藍〉〈松倉《三式戦車回収車》明日菜〉、自走砲、架橋戦車、対空戦車、ロケット弾搭載車、弾薬運搬車など各種の派生型のベースとなり、また増加装甲を取り付け、主砲をボフォース75ミリ高射砲の改造型である四式75ミリ戦車砲(56.4口径、初速860m/s)に換装するなどして補助戦車として戦線を支え続けた。第2次世界大戦から第3次世界大戦終盤まで長く使われ、その意味で〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉こそ陸軍機甲部隊に「もっとも親しい存在」であった。

 〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉が光彩を放った最後の戦場はマルティニーク島だった。この南北60キロ、東西30キロのカリブ海に浮かぶ島へ、久留米に本拠を置く戦車第一連隊が派遣されたのである。
 戦車第一連隊は当初キューバ島に派遣される予定だった。しかし急遽実行されることになったマルティニーク攻略作戦「ジョゼフィーヌ(皇后)」に、戦車を派遣できるだけの余裕を持つのは日本だけということで機甲第一師団戦車第一連隊に白羽の矢が立てられたのである(オーストラリア軍の戦車は根こそぎカナダへ投入されていた)。
 戦車第一連隊は5個の戦車中隊と1個整備中隊からなり、戦車中隊にはそれぞれ「か」「う」「良」「乃」「み」の部隊名が振られ、整備中隊には「や」とつけられていた。それらは久留米の高良宮神社にちなんでいる。部隊編成は第1中隊が捜索中隊として〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉を装備し、第2から第4中隊までが打撃戦力として〈三式中戦車チハヤ〉を持ち、第5中隊が突破支援として自走砲を装備していた。しかし、マルティニーク島へは第1中隊(福田定一大尉)の17両と第5中隊12両に整備中隊だけが派遣された。
 このことの裏には、枢軸軍連絡会議に割り込んでマルティニーク島攻略を強硬に主張した英連邦首相チャーチルへの日本の不快感があった。統合軍令本部はキューバ島制圧に続いての北大西洋進出を戦略として立てており、そこに(日本の戦略を知り、かつ理解を示していながら)横道にずれる作戦を提案してきた英国人に不愉快さを感じていた(国場首相は提案のなされた背景と意味を理解し、チャーチルの提案を後押しした)。チャーチルは英国伝統の戦略、相手の弱い箇所を徹底的に衝く、を実行しようとしただけなのだが。
 チャーチルにしてみれば、ドイツ軍が固めるキューバの陣地に日本人好みの正面突撃をするのではなく、欧州連合の弱体な箇所つまりフランス領植民地の制圧を進めるべきなのだ。仮にキューバ制圧が不首尾に終わっても、ウィンドワード諸島を制圧していればそこを起点に大西洋への進出が可能となる。
 この二正面作戦は、結果としてドイツにキューバとマルティニークどちらが主攻勢軸なのかと迷わせ、ドイツ陸軍が後手に回り続ける要因をなした。そしてマルティニーク島は誰も予想し得ない内に日英米枢軸と欧州連合の決戦場となり、とてつもない量の鉄血を吸い上げることになる。
 枝作戦と知りつつも、日本軍は表だって手を抜くわけには行かず、ために閑院宮春仁王少将(実際の指揮は戦車連隊長の島田豊作大佐がとった)と日本最古の伝統を持つ戦車部隊を送り込んだ。皇族の将軍を前線に出すことで、日本が本気であることを同盟国にアピールしたのである。
 もっとも前線部隊にとっての認識は、ドイツ軍が強力な戦車を投入しかねない場所に旧式戦車ごと放り込まれた、というものだった。事実、〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉で更罅劵僖鵐謄襦咾望〕することは難しく、そのことは北アフリカで知らしめられていた。ために第1中隊は整備中隊と共に〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉に装甲強化を施した。砲塔周囲にぐるりと補助装甲板をステーを介してくくりつけ、車体側面にはサイド・スカート状の装甲板を付けたのである。
 現場の勝手な改造は未だに頑固な軍上層部の怒りを招きかねなかったが、第1中隊の面々にすれば「この夏」を生き延びるために必要な事であった。結局、閑院宮少将の黙認を取り付けている。
 この時期、〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉の戦車砲はより大威力の四式75ミリ戦車砲に換装しており、ために砲塔後部にカウンターウェイトとして無線機が付けられていた。車体前部の機関銃塔は排除されている。それと装甲強化を合わせれば、〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉は相当の戦闘力をもつものと考えて良い。
 8月上旬の上陸以後、第1中隊は打ち続くドイツ・フランス連合軍の襲撃への反撃部隊主力として活躍した。シェルシェールの戦いではフランス軽機甲部隊を粉砕して砂浜を突進し、アインバウム支隊の後方を遮断した。血染めの丘の戦いでは第1中隊に2個歩兵小隊と重迫撃砲小隊を組み込んだ増強中隊としてドイツ軍を撃退してのけた(注1)。
 そして10月24日の闇夜、ドイツ第17軍団(フィールハイト中将)が総攻撃を掛けてきた。ラマンタン基地をとりまく北陣地へは弦罍之神鐚屬鮗臑里僕枡姐況發鬚靴け、東陣地へは歩兵部隊を主力に浸透攻撃を図ったのである。ドイツ軍は東陣地へロケット砲ネーヴェル・ヴェルファーを主力に急迫砲撃をおこない、枢軸軍が混乱を脱する前に迅速に浸透突破をおこなった。けれども合衆国海兵隊のアレクサンダー・ヴァンデグリフト中将は友軍部隊を叱咤激励してドイツ軍の浸透を阻むことに成功した。ヴァンデグリフトには現在の戦況をひっくり返す手駒があったのだ。
 戦闘の最中、遂にドイツ軍のある中隊がヴァンデグリフトの司令部壕の手前にまで達した。しかし激烈な阻止砲撃を浴び、一旦後退したところに軍団司令本部から後退命令が発せられた。福田大尉率いる〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉の増強中隊が基地南部より出撃してドイツ第17軍団の後方を迂回・突破、遮断したのである。
 福田中隊は赤外線哨信儀を用いて闇夜を進撃し、パンツァー・シュレッケによって車体に多数の擦過傷を作り、直撃されて臓物を吐き出すように撃破された車両を出しながらも第17軍団の後方を蹂躙してのけた(注2)。その結果、あと一歩の処まで来ていたドイツ軍は後退していったのだ。
 10月24日の戦い以後、マルティニークにおける地上戦は完全に枢軸軍優位となった。枢軸軍は連合軍の攻勢を跳ね返し、ドイツ・フランス連合軍は北部ペレー山に陣を構えて持久戦の体制を示した。しかし補給の不足と枢軸軍の圧力に絶えかね、翌年2月に駆逐艦に分乗して撤退していくことになる。
 ここに、枢軸軍はカリブ海制圧の端緒についた。そしてそれは北大西洋反攻へとつながっていく。
 カリブ海戦線の転回点において、〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉は枢軸軍勝利の主因の一つとなったのだ。

注1:血染めの丘の戦いで、福田中隊につけられた1個歩兵小隊は自由フランス軍だった。戦いの最後では彼らフランス歩兵小隊が「ラ・マルセイエーズ」を歌い、それによってヴィシー政府軍部隊が降伏する契機をつくっている。
注2:福田中隊の先導として、〈瀬能《九七式中戦車》英里子〉の車体に連装20ミリ機関砲塔をつけた〈二式対空戦車〉が道を切り開いていった。北陣地への弦罍之神鐚屬砲茲觜況發砲和茖誼翅發痢匸樵辧垰絢斡鄰狎鐚峅》藍〉部隊が対抗し、その17ポンド砲によってドイツ戦車を引き裂いて血の海を作り出している。

要目

  • 重量(t)  25
  • 乗員(名)   5
  • 寸法(m)
    • 全 長    6.4
    • 車体長    6.35
    • 全 幅    2.88
    • 全 高    2.43
    • 最低部地上高 0.4
    • 履帯幅    0.5
  • 発動機 中島〈栄〉21改
    • 出力 400hp
  • 装甲(mm)
    • 砲塔
      • 前面 50
      • 側面 35
      • 後面 35
      • 上面 10
    • 車体
      • 前面 50
      • 側面 25
      • 後面 35
      • 上面 15
  • 武装
    • 火砲 75mm×1(L38)
    • 銃器 12.7mm×2
  • 能力
    • 最大速度(km/h)45
    • 航続力      240km