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〈八車《七式中戦車》文乃〉

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〈八車《七式中戦車》文乃〉

TOPCAT「果てしなく青い、この空の下で…。」八車 文乃

解説


 仮称「オド」。制式呼称〈八車《七式中戦車》文乃〉
 日本の戦車技術が世界レベルへ伍した(部分的には優越した)戦車。第3次世界大戦の日英米枢軸の主力戦車としてドイツ戦車群との激戦を戦い抜いた。
 戦車史でいえば、第1次世界大戦期の第1世代、戦間期から第2次世界大戦の重・中・軽の三区分による第2世代、続く第3次世界大戦によって開かれた中戦車主体の「第3世代戦車の創始」にあたる。すなわちドイツの更罅劵僖鵐謄覘供咾閥Δ法崋舂論鐚屐複唯贈圈法廚梁茖雲ぢ紊箸覆辰拭
 AFVモデルの世界において日本戦車の内では最も高い人気を誇る本車であるが、実は日本戦車の発達史から見れば正当な嫡子とは言い難い存在である。

開発の経緯〜秘められた系譜〜


 日本陸軍は、その黎明期から英国戦車をライセンス生産し、またはその改造型をもって主力戦車としてきた。ヴィッカースMk.Cの改造型である〈芳野《八九式中戦車》雨音〉から、巡航戦車Mk.此劵ルセイダー〉の改造型〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉とその派生型までがそうである。
 しかし英国の本土失陥により戦車開発のモデルを失った日本は、次のモデルをソ連製戦車に求めた。それがT−34/76の日本バージョンと言うべき〈三式中戦車チハヤ(T−34/88)〉である。新たに戦車を開発すべきだ、との声が無かったわけではない。特に技術研究本部では純国産戦車を開発すべきと熱心に主張していた。
 けれども時間がなかった。北アフリカでのDAKの強まる一方の攻勢に対抗するには、2、3年先、下手をすれば5年先に開発される戦車など待っていられないからだ。斯くして、ヨシノ機関が拉致同然に連れてきたロシア人技術者を使ってT−34/76の改良が始まった。
 主砲は陸軍九九式8センチ高射砲(45口径、初速808m/s)を戦車砲に転用し、エンジンは〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉と同じく〈栄〉21型改(400hp)を搭載した。懸架装置も〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉のものを流用している。英国もソ連も、クリスティー式懸架装置を使用していたことにより簡単な改造で流用できたのである。88ミリ砲を搭載した砲塔は3人乗りの大型砲塔へと変更され、備品などのあれこれも日本人に合うように改造された。
 試作第1号車の完成まで必要とした期間はわずか3ヶ月であった。全てを放り出すような勢いで開発された試製〈三式中戦車チハヤ〉は、富士山麓でのテストで満足すべき結果を出した。直ちに制式化が図られ、相模原工場での生産が開始された。そして先行量産された車両は熱帯仕様を施されて北アフリカ戦線に投入された。リビアとエジプトの間を流動していた前線は今やエジプト領内に食い込み、リビアに移動することは無くなっていたからだ。
 北アフリカでの戦果は、急造の主力戦車としては十分以上のものであった。幅の広い履帯は砂漠でも有効であり傾斜装甲は敵弾を弾き返した。88ミリ主砲は傾罅Ν弦羸鐚屬魴擇破砕して、更罅劵僖鵐謄襦咾箸盡潦僂坊發噌腓辰拭
 難敵はドイツが少数を投入したVK4501(H)(制式化されなかったが既に差羸鐚屐劵▲襯ェイド《ティーゲル》ブリュンスタッド〉と名付けられていた)であった。その主砲は56口径で〈三式中戦車チハヤ〉よりも1メートル近く長く、砲威力はさらに強大だったのだ。
 最終的に日英軍はエジプトを放棄してメソポタミア、さらにインドまで後退したが、〈三式中戦車チハヤ〉の威力が不足していたわけではない。登場時期が遅すぎ、また補給線が長すぎて消耗に追いつかず、エル・アラメイン最終戦時には100両に遠い数しか揃わなかったのが敗因だった。せめて〈パンテル〉と同数の150両があれば、逆転も可能だったとは現代でも言われるところである。
 北アフリカ戦線では苦戦を強いられることもあった〈三式中戦車チハヤ〉だが、太平洋では無敵の存在であった。M4中戦車を鎧袖一触して「赤い猛獣使い」と恐れられ、島嶼防衛戦(テリブル・マーシャルと喧伝された)では合衆国兵士に多大の流血を強いたのだ。為に合衆国では90ミリ砲装備のM26重戦車の開発を急ぐこととなる。
 〈八車《七式中戦車》文乃〉は右記のような戦歴を持つ〈三式中戦車チハヤ〉の系譜の延長上に位置づけられるべき戦車である。機動力を重視した軽装甲の巡航戦車の延長ではなく、対戦車戦闘を第一義として攻防走の能力すべてが高い水準でまとめられた中戦車T−34/76の直系子孫というべきなのだ。
 しかし数多ある戦車関連の研究書では、〈八車《七式中戦車》文乃〉は巡航戦車に重装甲を施したものである、という論調が大部分を占めている。英国巡航戦車とT−34の共通の先祖がクリスティー戦車であるから、「血縁」という意味では間違いとは言い切れないのだが。

 そして〈八車《七式中戦車》文乃〉はもう一つの秘められた系譜にも属している。日本重戦車の系譜である。
 日本製重戦車は試作1号戦車を改良した92式重戦車(70ミリ主砲、装甲35ミリ、重量26トン)に始まる。そして95式(75ミリ主砲、37ミリ主砲、装甲35ミリ、重量32トン)、96式(105ミリ主砲、37ミリ主砲、装甲30ミリ、重量40トン)と試作され、1940年の通称「100トン戦車」、仮称「オイ」にまで至った。「オイ」は実際には使えたものではなく、方向転換すらままならない戦車であった。「オイ」は解体されたものの、「戦車研究委員会」による重戦車開発は以後も秘やかに続行された。敵戦車をうち砕く無敵の重戦車を開発することが戦車万能論者たる彼らの目的だからだ。 この「戦車研究委員会」は技術研究本部には属していない。1939年に陸軍省軍務局軍事課長岩畔大佐の発案による私的な研究会が発端である。岩畔大佐は、日本は重装甲の戦車を製作しなければならないと考えていたのである。その背景には、労農赤軍増強五カ年計画により刻々と増強されるソ連の機甲戦力への危機感があった。陸軍名物の私物命令に近い形で「オイ」車は作られたのだ。
 〈八車《七式中戦車》文乃〉は、その「オイ」に始まる重戦車製作計画の第七次計画、すなわち「オド」として1944年に試作が開始された(計画をかぎつけたドイツでは「ODW」の文字を当てはめた)。中戦車に分類されながら、重戦車を意味する「オ」系列の仮称を持つのはこれに由来するのである。

 〈八車《七式中戦車》文乃〉が日本戦車の嫡子ではない、というのはT−34/76の直系であることと、陸軍省内の秘密組織めいた「戦車研究委員会」が試作した重戦車の系譜をひくという出自の怪しさに依る。
 そして「オド」、すなわち〈八車《七式中戦車》文乃〉と、T−34/76と日本重戦車とのミッシング・リングをつなぐ人物が存在する。
 Y・G・サイガノフ。狂気の天才戦車設計技師。タタール系ロシア人。口癖は「ドイツ戦車をうち砕く戦車を開発することが私の仕事だ」。
 ハリコフ機関車工場設計局に勤めていた彼は、設計主任ミハイル・コーシュキン亡き後、T−34/76の生産と改良強化に携わっていたが、赤軍の敗勢のためにサボタージュ容疑をかけられる憂き目にあってしまう。コーシュキンが整えたバランスを崩さず、装甲防御や火力を強化した改良型T−34を送り出したサイガノフ(強制収容所に放り込まれていた)に接触し、日本への亡命を勧めたのがヨシノ機関である。
 今や、ヨシノ機関は単なる「戦車購買団」ではなく、戦車に関する海外の情報を収集分析し、時には現物を日本に持ち込む「情報機関」へと変貌していた。持ち込むものは機械だけではなく人間まで含められており、手段は合法・非合法を問わなかった。
 サイガノフが共産主義者というよりも熱狂的な愛国主義者であり、ロージナ(祖国)を蹂躙しつつあるドイツを激しく憎んでいることから説得は簡単であった。日本がドイツに対抗する戦車を開発する機会を与える、と囁けば良かったのである。戦線が国境から後退し続けているソ連は混乱していて新型戦車開発の余力は無かった。「邪神の囁き」とも「呼びつけ」ともいえる勧誘にサイガノフは一も二もなく飛びつき、設計図や工作機械、1942年型T−34/76の現物数両とともに彼は日本にやってきたのだ(この裏には日本が極東経由でおこなっていた対ソ援助が功を奏していた。日本陸軍は援助と引き替えにIS−1重戦車試作車を購入している)。
 そしてサイガノフが持ち込んだ1942年型T−34/76をベースに、〈三式中戦車チハヤ(T−34/88)〉は短時日で開発された。
 第七次重戦車製作計画「オド」計画はサイガノフの参加と、彼を日本に連れてきたヨシノ機関が試作に全面的に協力することで極めて実現性の高いものへと変化する。

 1944年当時のサイガノフは、〈三式中戦車チハヤ〉の開発がひとまず終了し、量産も開始されたことから用済みと見なされていた。特に技術研究本部はそう見なしていた。サイガノフが能力は疑えないものの、戦車開発以外のことには全く無頓着で日本的な協調の感覚など持ち合わせていない(ロシア人であるから当たり前だ)ことと、試射でドイツ戦車の装甲が砕ける音を無上の喜びとするような奇人であることから「気味が悪い」といっては嫌う者が多かったのである。
 そして当のサイガノフもまた苛立っていた。ドイツ戦車がさらに強力な火砲を積み、装甲防御も強固なものになるであろうことは自明である以上、こちらもまたドイツ戦車を圧倒できる戦車をすぐさま開発しなければならないのだ。しかるに黄色い猿どもは互角に持ち込めた程度で満足している。全く度し難い。
 技研本部では〈三式中戦車チハヤ〉に満足していたわけではないのだが、サイガノフの目にはそう見えた、ということであろう。
 彼は芸術家気質の尊大さで日本技術陣を見下していたし、技研本部では唯我独尊の御雇い外国人を嫌っていた。為に〈三式中戦車チハヤ〉の強化計画が一度は持ち上がったものの、それは流産してしまった。次に開発すべき戦車の姿は見えていなかった(後に主砲を100ミリ砲に換装したり、自走砲タイプも開発された)。
 孤立していたサイガノフに声をかけたのが「戦車研究委員会」であった。彼らは次世代の日本戦車に危惧の念を持っていた。技研本部で開発していた次期主力戦車〈五式重戦車〉が〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉をストレートに拡大強化した戦車であるからだ。
 〈五式重戦車〉は車体の幅を標準軌の貨車で運べる限界まで広げ、車体や砲塔はこれまでの英国産日本戦車と同じく装甲板を溶接で箱形に組み立てたものであった。装甲は130ミリに達し、主砲には56口径まで延長した88ミリ砲を搭載。歩兵支援用に37ミリ副砲をも車体前面に搭載し、重量は60トンにもなった。エンジンは戦前から開発を進めていた空冷ディーゼルで、V型12気筒を2基連結したもの(600hp)であった。
 一見したところではなかなか強力な戦車だったが、ドイツが早晩繰り出すであろう〈パンテル〉の改良型と比較して機動力に劣り、防御にも車体前面に孔を開けて副砲を設けるという致命的な欠陥があった。さらに操縦手用の貼視孔(防弾ガラス付き)を設ける、といった時代に逆行するような設計であった。しかも大重量をあつかうトランスミッションが不調で戦闘機動に不安があった。
 「戦車研究委員会」がサイガノフに求めた条件はただ一つ、いかなる状況においても勝利を獲得できる高性能戦車であることであった。その為に必要な資材や人材は惜しまない、と陸軍大臣に三菱重工社長まで列席した上で約束したのだ。
 最善は常に間に合わず、次善は間に合うかどうか分からない、だから三善くらいでちょうどよい、とは英国人の言である。兵器開発の現実を認識した、英国人らしい冷徹な言葉といえる。「戦車研究委員会」は〈三式中戦車チハヤ(T−34/88)〉の開発の経緯と、それが示した戦力としての有効性をもとに判断していた。
 最善は「オド」が成功を納めて「日本重戦車」が復活をとげることだが、成功するやいなやは不分明。ならば次善の手として成功作〈三式中戦車チハヤ(T−34/88)〉の強化をおこない、三善として〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉の主砲換装と装甲強化を図るべきとした。陸軍は海軍ほどに潤沢な予算を確保していない。コスト意識は海軍よりも陸軍のほうが発達している。であればこそ失敗は許されず、だからといって失敗作の改修に固執することもできないため、「オド」が失敗した場合の対策をあらかじめ練っておいたのだ。
 もっとも、最善たる「オド(日本重戦車)」が『復活』を遂げ、次善として技研本部と機甲学校が推した「オニ」こと〈六式重戦車改〉が成功し、〈三式中戦車チハヤ〉と〈穂村《一式中戦車チヘ》悠夏〉の改良型も各戦線で活躍することになる。日本機甲部隊は「調子にのりすぎ」と後代に言われるほどに成功作に恵まれることになった。
 「戦車研究委員会」という「大人の腹の中」はどうであれ、そんなことは気にもせずに、サイガノフは狂喜して「オド」の開発に邁進した。モデルとしたのは当然、T−34/76。彼はモデルがなければ設計できなかったのだ。強力な火砲、強靱な装甲板、大出力のエンジン、タフネスなトランスミッション。これらの部材を求めるにあたって、陸海軍の確執といった日本人の事情や自尊心など考慮の外であった。

 火砲は海軍で余剰となっていた10センチ高角砲を転用した。100ミリ65口径長の砲は初速1000m/sで砲弾を打ち出す能力を持つ。装甲貫徹能力は1000メートルで200ミリ。当時の如何なる戦車も正面から撃破可能であった。最大発射速度は毎分○○発で2桁になる。
 装甲板は日本製鋼が開発したばかりのニセコ4号軽量鋼板を用いる。日本の冶金技術は徹甲弾の衝撃を受け止める、柔らかい圧延鋼板を生成できるまでに成熟していた。同様に長10センチ砲の摩滅に至るまでの発射弾数は、欧米平均の数千発に達している。
 エンジンは大馬力を必要とするため冷却に問題のある空冷式ではなく液冷式を採用し、北崎エンジニアリングでライセンス生産しているロールスロイス・マーリン犬鬟妊船紂璽鵑靴禿觝棔
 トランスミッションは合衆国製をヨシノ機関が調達してきた。それもM26重戦車用に開発されたものである。大重量大馬力を扱うトランスミッションの開発では合衆国に一日の長があった。ヨシノ機関は現物だけでなく、図面や治具まで入手してきた。M26用トランス・ミッションを採用したことは、後に北米戦線において本車の有効性を増す一因となった。M26に慣熟した整備要員と補充部品とが、共に大量に揃っていたからだ。
 足周りは技術的に完成していたクリスティー式懸架装置である。車体の上下動が激しく、静止位置の微調整がしにくいという難は有ったものの、これまでの経験から十分に許容できるものだった。
 情を廃し、徹底的に合理を追求した結果が以上のものとなった。「戦車研究委員会」はその合理性に納得したものの、さすがに主砲に海軍の高角砲を転用することには難色を示した。余剰品とはいえ海軍に頭を下げて払い下げを請わねばならないのは、陸軍に属するものとして好むところではなかった。委員会の会合では、これでは日本陸軍の戦車ではなく、日本戦車のガワに何か別のものの魂が入り込んだようなものだ、という否定的な意見までが出たのだ。日本戦車が『日本戦車』ではなくなってしまう。けれども。
 「敵の装甲を撃ち抜けない戦車の存在価値なんて……この世のどこにも、かけらさえ存在しないでしょう」
 そういう意見が出ては誰しもが納得せざるを得なかった。
 火力は過剰といっても良いほど強力であり、懸架装置・エンジン共に不安はなく、合衆国製をコピーしたトランスミッション(トルクマチック式無段変速)は戦略機動・戦術機動においても高い信頼性を示した。〈三式中戦車チハヤ〉で散々問題になったギア操作の「堅さ」も解消され、より「柔らかい」操作を可能とした。
 装甲防御も第一級だった。前面では、車体、砲塔ともに130ミリに達し、完全な傾斜装甲を実現していた。強度を確保するため車体前面装甲には孔を開けず、ために前方機銃は廃止し、操縦手は車体上面のペリスコープから外界を覗くことになった。
 「オド」は65口径100ミリ主砲、装甲厚最大130ミリ、出力1000hp(出力重量比は21.28hp/t)、重量47トンの「重戦車」となった。
 長大な主砲。車体中央に鎮座する傾斜のつけられた前後に長い六角錐の大型砲塔。これは100ミリ砲を搭載するため必然的に大きくなった。そして、これもきつい傾斜を与えられた一枚板の前面装甲。いまだ有効なパンツァーファウストに対抗するためのサイドスカート。
 その鋭角的な外観は、これまでの純朴な雰囲気を残す英国系日本戦車とは一線を画すものであった。技研本部から派遣された将校はその手記に「本能的に勝てないと思った」と記している。試験にあたった陸軍富士機甲学校の教導隊ではさらに露骨な評を下している。田舎娘と東京娘くらいの差がある、と。
 それはともかく、新奇な要素は敢えて廃してシステムデザインの妙を追求したサイガノフは確かに天才であった(T−34をモデルにしたという点で限定的なものではあるが)。それをサポートした三菱技術陣もまた賞賛されて然るべきではある。
 さらに「戦車研究委員会」が賞賛したことは、「オド」の冗長性であった。国共内戦の経験により、兵器の優位性は陽炎のようなものであることを彼らは承知していた。此方が強化すれば彼方もさらに強化するシーソーゲームなのだ。その観点からみれば「オド」は発達余裕に満ちていた。20年は改良で何とかなるだろう、と「戦車研究委員会」は踏んだ。
 「オド」の試作初号車は1947年1月、三菱重工下丸子工場で完成した。試作車はその月の内に20両あまりが完成し、陸軍富士機甲学校へ送られて徹底的に試験を受けることになった。

 「オド」はその誕生時からすでに試されていたといって良い。試されることを回避すれば鋳つぶされるだけなのだ。そして「オド」は試験にことごとくパスしてのけた。
 機動力の試験では良好な出力重量比により、47トンもの車体を時速50キロ以上で突進させ、まさに「踊り子」であるかのように軽やかな戦闘機動を発揮した。長期に及ぶ連続作戦能力をためす試験においてもエンジンや変速機には全く異常はなかった(初期の〈パンテル〉では250キロの機動で変速機を交換しなければならなかった)。
 砲撃試験では、2000メートル以遠で〈パンテル供咾亮崑料位盟甲を貫通し、1600メートル以遠で厚さ120ミリの主砲防盾を砕いて見せた。
 防御試験においては2000メートルの距離で〈パンテル供咾裡牽献潺衙っ討鮹討い拭1500メートルでも同様。これまでの日本戦車ならば一方的に撃破されている距離であった。
 試験において判明した問題点はいくつもあったし、改良すべき点は無数にあった。それでも素性の優れた戦車であることはすぐ明らかになったのである。
 部隊運用試験をカナダでおこなうことが決められた時には制式採用が本決まりとなっていた。陸軍は〈五式重戦車〉を捨てて「オド」を次期主力戦車に定めたのである。ここに日本重戦車は、変則的な形態ではあるが『復活』を遂げたのだ。
 けれども、「オド」(すでに〈八車《七式中戦車》文乃〉)の改良をおこなうメンバーの中にサイガノフの姿はなかった。富士山麓での砲撃試験で、「オド」が〈パンテル供咾鮑佞姿を見て狂笑しているところを目撃されたのが最後の姿であった。「ゲルマンスキー共を見返してやるのだ」と哄笑していたという。
 サイガノフが発見されたのは、最後に目撃されてから三日後、古井戸に落ちて水死している外国人がいると裾野の住人が警察に通報したためだった。
 なぜ彼が井戸に落ちたのかは今に至るも不明である。分かっているのは、「オド」が中戦車として採用され、これにより〈八車《七式中戦車》文乃〉は日本戦車の嫡子ということになったこと、技研本部が〈八車《七式中戦車》文乃〉の改良にあたると上層部が決定したこと、そしてサイガノフの名が〈八車《七式中戦車》文乃〉の公式開発記録の大部分から削られたことである。
 Y・G・サイガノフの功績が発見され、〈八車《七式中戦車》文乃〉の出生の真実が明らかとなったきっかけは、第三次世界大戦終結の十数年後に静岡県の或る小さな模型メーカーの二代目が、ラジオコントロール・モデルの〈八車《七式中戦車》文乃〉を作るべく、資料を求めて三菱の技師に面談を申し込んだことによる。二代目は製品の組立説明書に〈八車《七式中戦車》文乃〉の開発秘話を載せた。〈八車《七式中戦車》文乃〉のラジコン・モデルは同時発売の〈パンテル供咾閥Δ縫戰好肇札蕁爾箸覆蝓〈八車《七式中戦車》文乃〉の真実は人口に膾炙したのである。

戦歴


 〈八車《七式中戦車》文乃〉とドイツ軍との接触は、カナダ・オンタリオ州のドイツ軍に包囲されたオタワを解囲する作戦で始まった。部隊運用試験に派遣された教導中隊がカールトン・プレイスを発起点として大山兵団の進撃の先頭に立ち、遭遇戦においては弦羸鐚屬簑仞鐚嵋い魴眷砲靴討い辰燭里澄オタワ解囲作戦が90%の成功を納めた後、教導中隊はオタワ西方30キロにあるガレッタの防衛に派遣された。カナダ西部への後退を続けるには、この要衝をしばらくは支えなければならなかったからだ。そして、ガレッタで〈八車《七式中戦車》文乃〉は主敵〈パンテル供咾判蕕梁亰茲魴泙─撃破することに成功した。
 この戦果を確認した英連邦軍は〈八車《七式中戦車》文乃〉の制式採用を決定し、巡航戦車系列の「C」で始まる名称を与えた。〈センチュリオン〉。ローマ軍の背骨たる百人隊長が語源である。英軍上層部は本車に文字通りの背骨たることを期待したのだ(この名称を与えられたことが巡航戦車の系列に属するとの印象を強めた)。その期待は裏切られず、試験を継続中の教導大隊はあちこちの戦線で引っ張りだことなった。
 前線のドイツ軍では恐怖以上の何か、となった。〈パンテル〉はおろか〈パンテル供咾任垢薹眷砲任ない戦車が存在するのだ。戦車戦術で日本人の同業者を上回っているため酷いことにはなっていなかったが、日本人が「ODW」の大量生産にはいったとしたら(ドイツ軍兵士の間では〈八車《七式中戦車》文乃〉は終始「ODW」と呼ばれた。その音韻が不吉で不気味な印象を与えたためらしい)。
 ドイツ北米総軍は多大な犠牲を払って撃破した「ODW」を、ドイツ本国へ戦闘詳報と共に送りつけた。本国では「ODW」の存在を信じていないため、〈パンテル供咾房,粟鐚岾発が今ひとつ低調だったのだ。
 ドイツ本国では「ODW」の試験をおこない、それが北米総軍の報告通りの存在であることを知った。この戦車はドイツ戦車を喰らうべく生み出された存在なのだ。このまま看過すれば際限なくドイツ戦車兵の魂を食らい、その家族を地獄に突き落とすことになってしまう。極秘の判を押された資料は総統執務室に提出された。
 1948年10月21日、クンメルスドルフ。大ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラーは「ODW」の視察をおこなった。同行するはゲッベルス宣伝相、ヒムラーSS長官、グデーリアン陸軍総司令官代理。
 ゲッベルスは、これこそ劣等人種の悪魔性を示す戦車ですな、と言った。ヒムラーは何も言わなかった。
 いけませんな、これは。グデーリアンがうなるように言った。T−34ショックの再現であり、ドイツ装甲部隊の苦闘が再び始まることが想像できたからだ。
 なんと無様な戦車なのだ、ヒトラーは最初にそう口にしたと記録にある。続いて戦車技術者たちを面罵し始めた。劣等人種に劣る戦車しか作れないとは何事か。直ちに対抗手段を考え出せ。〈パンテル供咾魘化しろ。いやいやそれだけでは足りない。重戦車で構わない。新型戦車を開発せよ。一年以内に実戦配備するのだ。皆殺しにするのだ。
 斯くして、ドイツは「ODW」を喰うべき「獣」を次々と送り出すこととなる。更羔鄰狎鐚屐劵筺璽ト・パンテル供咫■隠横献潺衙い劉珊羹点鐚屐劵譟璽凜А併盪辧法咫■隠娃汽潺衙い肇妊ーゼル・エンジンを搭載する次期主力戦車の執翆羸鐚孱膳拭劵譽パルト(豹)〉、170ミリ主砲をもつ醜羹点鐚屐劵疋薀奪悒鵝蔑機法咫△それである。

 日本も安穏とはしていられなかった。部隊運用試験の結果、距離1000未満では130ミリの装甲でも危険なことがはっきりしたのだ。装甲材質は見直されることになり、応急策としてはとにかく前面に増加装甲を溶接しろ、ということになった。さらに、ただ厚くするだけではいずれどうにもならなくなるので、全く新しい着想による装甲も開発しなければならない。そして射撃統制装置も改良しなければならない。何としてもドイツ戦車の射程に入る前に撃破しなければならないのだ。
 この有様を見て、技研本部のある技師は、もはや後戻りはできなくなった、と記している。ドイツが〈八車《七式中戦車》文乃〉を倒すべく、さらに強力な戦車を開発してくるのは明白な事実だからだ。日本がドイツに屈服しない限り、またはその逆が起こらない限り、戦車開発の競争は果てしなく続く。「暗い水たまり」をどこまでも歩むことになる。足が腐り果て、骨がむき出しになっても進まねばならない。倒れることは許されない。

 実戦配備された〈八車《七式中戦車》文乃〉の初陣は、1949年1月5日、マニトヴァ州の国道1号線沿いでの戦いである。〈八車《七式中戦車》文乃〉1個中隊は、接触した西方軍集団の装甲捜索中隊を殲滅し、援護に駆けつけた〈パンテル供啻備の装甲中隊を一方的に撃破した。5両を取り逃がしたものの、完勝といえる。この局地戦での小さな勝利はドイツ北米総軍を震撼させ、ヒトラーの戦略判断に大きな影響を与えるものとなった。
 日英同盟軍では大いなる喜びの日となった。同数の戦力でドイツ戦車に正面から戦いを挑んで勝てる戦車を遂に持てたのだ。大喜びする日英の参謀達を横目に見ながら、傲岸不遜で仏頂面をもってなるモントゴメリーも微笑を浮かべたという。
 日本では〈八車《七式中戦車》文乃〉の全力生産に入った。生産は三菱重工と日立重工が受け持ち、下丸子、亀有、小樽と、相模原工廠の4工場は昼夜を問わない操業を開始する。建設が終わったばかりの盛岡(技手教育用)と千歳の工場も稼働を開始した。さらに既存・新設の工場だけでは生産量が前線で必要とする台数に満たないため、国鉄の車両工場にも発注された。
 自動車産業には発注されなかった。来栖川自工、トヨタ、日産、日本フォードはトラックや装甲車両の受注をこなすので精一杯だったからだ。自動車化をすすめる日本軍だけでなく、本土の自動車産業を丸々失った英連邦軍にも供給しなければならない為である。
 〈八車《七式中戦車》文乃〉は海外でも生産された。三菱はバンクーバー郊外に工場を建設し、三菱と日立とパシフィック・カー・アンド・ファウンドリー社の合弁でカリフォルニアにも工場が作られた。関係者の努力の結果、1949年頃には年間5000から6000両が精々だった車両生産量(トラックなどを含む)は、戦争終結間際には1万両を大きく越えるものとなった。〈八車《七式中戦車》文乃〉の生産台数は派生型も含めて最終的に4万両超という空前の数となる。
 〈八車《七式中戦車》文乃〉の北米戦線への登場は、日英米枢軸軍にとってまさに「幸せ」そのものであった。敵にはその鋭い舌鋒ならぬ100ミリ砲で「炎の刻印」を刻み込んで死をまき散らす。鉄面皮の装甲は敵弾の貫通を許さずに弾き返す。引き締まった足周りは高い戦略・戦術機動力を保証して北米の大平原を縦横に走った。味方をきめ細かく世話を焼くのは、派生型の自走砲、地雷除去戦車、対空戦車、ロケットランチャー装備車の役目である。
 まさに戦車兵、歩兵、砲兵など全ての味方にとっては頼もしく、母であり妹であり恋人である(調子に乗って「娼婦でもある」といった合衆国兵もいた)存在だった。機械的にはデリケートな一面もあったものの、段列の高い整備能力が〈八車《七式中戦車》文乃〉を支え続けたのである。

反攻作戦「オーバーロード」


 1950年、夏。ロッキー山脈に面した諸州にまで追い込まれていた日英米枢軸軍は大反抗を企図した。作戦名は「オーバーロード(大君主)」。ロッキー山麓よりミシシッピ川まで打通せんとする一大突破作戦であった。4月にドイツ北米総軍中央軍集団(パウルス)のデンバーへの攻勢を撃退したばかりの枢軸軍にとって巨大な賭であった。
 主攻は第1軍集団(アイゼンハウアー)隷下、シャイアンより発するウォルトン・H・ウォーカーの第8軍。日本機甲第1師団もこれに参加する。助攻としてオマー・ブラッドレーの第1軍が北テキサスのアマリロからインター・ステート66号線沿いに進撃して南方軍集団(アルニム)を拘束し、西方軍集団(ホト)に対しては英第12軍集団(モントゴメリー)が、これは独自に攻撃する。
 6月6日、枢軸軍は攻勢を開始する。ウォーカーは突進に次ぐ突進でネブラスカの大平原を一気に進撃した。中央軍集団では司令官パウルス上級大将がワシントンD.C.の北米総軍司令部に出かけていたため初動が遅れ、48時間の時間浪費となった。パウルスは戦闘正面が長大に過ぎるため遅滞防御と機動防御で対処する方針だったのだが、枢軸軍が集中投入した航空機に、後方より鉄道とトランスポーターで輸送中の装甲部隊を撃破されてしまう。
 中央軍集団を支援すべきドイツ空軍は、この時期は南部諸州とカリブ海に主戦力を集めており、さらに日本第1機動艦隊のフロリダ強襲によって地上撃破されつつあった。つまりドイツ軍が航空優勢を奪回する見込みは当分あり得ないのだった。
 ウォーカーの機動突破により中央軍集団は済し崩しに総退却に追い込まれた。ドイツ軍のネブラスカでの退却路はユニオン・パシフィック鉄道1本しかないのに対し、枢軸軍はユニオン・パシフィックの支線を含めて3本の鉄道で戦力を集中することに成功できていた。大平原地方は東西に連絡はしやすいが南北の連絡が難しい交通体系を持っている。中央軍集団は南北に走る戦線の中央を突破され、後方に展開した枢軸軍に包囲殲滅されていく。そして8月12日にはネブラスカ東端、ミズーリ川沿いのオマハにまでSS第1装甲軍が追いつめられた。ヒトラーの反撃命令と死守命令によってSS第1装甲軍は撤退の機会を失ったのである。敵味方ともに大量の流血を見たために「ブラッディ・オマハ」と呼ばれる「オマハ包囲戦(ポケット)」は、20日までにSS第1装甲軍が重装備の大半を捨ててミズーリを渡河することで決着が付いた。死者1万、捕虜4万を数えた大敗北だった。そして投降もせず、渡河もできなかった部隊はカンザス目指して移動していく。彼らの行く先カンザスでは、史上最大級の戦車戦がおこなわれる。
 相次ぐ撤退に怒ったヒトラーの指揮系統を無視した攻撃命令によって、パウルスは反攻作戦「リュティヒ」を発動しなければならなかった。未だドイツ軍支配下にあるカンザスを拠点にネブラスカの第8軍の交通線を遮断しようという作戦である。マンシュタインは中央軍集団を救うべく、抽出できる限りの装甲部隊を送り込んだ。南下するウォーカーも機動防御の態勢で受けて立った。かくて「マウント・ホムラー大戦車戦」が戦われる。
 マウント・ホムラー。北米原住民アズーミ族が「精霊の宿るところ」と崇めた、なだらかな丘陵地帯である。彼らの伝承に曰く、「月食の夜には外を歩くな。山をおりた精霊に喰われてしまう」
 その「月食の夜」、1950年9月26日。伝承を知る由もない両軍の先鋒は接触を開始した。日米とドイツ合わせて3000両を越す鋼鉄の獣が咆吼をあげて決戦に突入する。ドイツの数的主力はM4(a)とM26で、これは〈八車《七式中戦車》文乃〉の敵ではなく瞬く間に喰われていった。17ポンド砲装備の〈松倉《三式駆逐戦車改》藍〉、127ミリ砲の〈六式重戦車改(オニ)〉、〈八車《七式中戦車》文乃〉の車体に150ミリ砲(15センチ高角砲を転用)を搭載した〈九式駆逐戦車〉は、ウォーカーの切り札として遠距離狙撃で珊罅劵譟璽凜А咾魴眷砲靴討い。
 ドイツ軍は戦線を維持できずに後退せざるを得なくなり、軍配はウォーカーにあがった。しかし凱歌を受けるべきウォーカーは、ダッジ・コマンドカーで前線を駆けめぐって指揮を執っている最中にドイツ兵の掃射を受けて戦死してしまっていたのである。ウォーカー中将は勝利と引き替えに、伝承の伝える「生け贄」となったのかも知れない。
 後任のジェイムズ・A・ヴァンフリート中将の指揮の下、枢軸軍は着実にカンザスを奪回制圧していき、年末には遂にミズーリ河畔のカンザス・シティ近郊に迫った。ヒトラーの厳命による各拠点の防御をおこないながら後退していったドイツ中央軍集団は壊滅状態に追い込まれ、損害は20万人近くに上った。マンシュタインは大胆な後退により枢軸軍の圧迫を減じる構想をもっていたが、それはヒトラーによって拒まれていた。ためにカンザスとオクラホマでは寸土を争っての激戦が続くことになったのだ。このヒトラーの判断ミスにより、北米総軍は重装備を多数失い、かつ予備兵力の少なさにひどく悩み、それを補うために東部諸州の義勇兵や志願兵に兵力供給を依存するようになっていく。それの行き着く先は、東西アメリカ間の憎悪の応酬だった。以後の北米戦線は、翌51年秋に、枢軸軍がミズーリ州を奪回してミズーリ突出部(バルジ)を形成することになり、そのバルジ南翼を舞台に冬に「バルジの戦い」が行われる。
 まさにドイツ軍にとって災厄の夏(ドイツ北米艦隊水上砲戦部隊もニューヨーク沖海戦で壊滅的打撃を受けた)となった。民話の「山から下りてきたバケモノに喰われて全滅した村落」に喩えられる大敗であった。そのバケモノの名は「ODW」という。
 南方軍集団も東方に後退せざるを得なかった。9月には「オーバーロード」と連動した、ルイジアナ強襲上陸作戦、剣号作戦が実施されたのである。剣号作戦自体は上陸地点より20キロの内陸にいたSS装甲部隊の反撃によってとん挫したが、腹背を衝かれることを怖れた北米総軍司令部は後退を命じた。航空優勢を確保した枢軸軍の勢いは強く、アルニムはオクラホマのメイドウ油田を爆破して「黒い水」の激流をつくって枢軸軍の進撃を阻み、その隙に撤退を図らねばならなかった。
 ドイツ軍は本国からの物資補給線を破壊されかかっており、さらにインチ規格からメートル規格への短時日の転換に失敗して車両生産が混乱し、前線で稼働させられる戦車の数量が戦線維持には危険なほどに減少していた。補給部隊にとってもインチ規格とメートル規格の混在は悪夢であった。規格の混乱は停戦に至るまでドイツ装甲部隊の足を引っ張り続ける。
 それにひきかえ太平洋側は簡単だった。戦車工場はたった一つしか無かったからだ。強引にメートル規格への転換がおこなわれた。戦争に負けかかっていることへの逆バネも働き、転換にはさほど時間がかからなかった。
 生産が増大する一方の西海岸に対し、東海岸の車両生産量は年間1万両にほど遠く、まったく前線の消耗に追いつかなかった。さらにメキシコ湾岸油田とカンザス・オクラホマの内陸油田の喪失により、東海岸への石油供給が激減したことも一因となった。ドイツ軍は産油量が少なくコストも高いオハイオとペンシルベニアの油田に頼らざるを得なかった。
 斯くして、1948年末にコロラド州にまで押し込まれていた戦線は、停戦時にはミシシッピ川東岸に食い込むまでに至った。〈八車《七式中戦車》文乃〉は、枢軸軍の「絶対に幸せになる」という決意、その原動力になったといって良い。

終章


 〈八車《七式中戦車》文乃〉は戦後も改良を加えられつつ第一線で長く使われた。〈《十式中戦車》ヤマノカミ〉も本車の改良型と見なして良く、「主力戦車」第3世代(将傾罍歎拭劵謄ーゲル后咾箟儿顱劵船礇譽鵐献磧治押咾覆匹寮ぢ紂砲痢匯揚式戦車〉の登場まで、数度に渡る大規模改修を受けつつ日本機甲部隊の主力であり続けた。
 砲塔は溶接から鋳造砲塔へ替わり、100ミリ砲も改修が加えられて最終的にAPDS弾を使用して初速1470m/s、1000メートルで300ミリの装甲貫徹能力を持つまでに発展している。装甲は爆発反応装甲または複合装甲(チョバム・アーマー)を後付で装着して対戦車ミサイルへ対抗した。主装甲自体は254ミリの厚さにまでなっている。エンジンはロールスロイス・マーリンから三菱10ZGスーパーチャージド・ディーゼル(1500hp)へと換装され、航続距離は500キロメートルまで延長された。〈八車《七式中戦車》文乃〉は「戦車研究委員会」の目論見以上に長い発展の歴史をたどることとなったのだ。
 輸出製品としてもベストセラーとなっている。イスラエルやトルコ、サウジアラビアなどの親日英派中東諸国、セルビア、南アフリカ、オーストラリア、英領コリア、タイ、国府軍など25ヶ国以上に輸出された。戦後の総生産台数は2万両以上に上る。
 イスラエルに至っては今でも第一線で使用中である。数次に渡る中東戦争を戦い抜き、シリア、エジプト、ヨルダン、イラクらのドイツ系戦車に対して高いキル・レシオを誇っている。〈サブラ〉と名付けられた改修型は複合装甲パッケージを取り付け、主砲はPACTO標準規格の127ミリ滑腔砲に換装し、射撃統制装置も電子化した。さらにそれら改修キットを〈八車《七式中戦車》文乃〉を主力として使っている諸国に売り込んでいる。南アフリカでも似たようなパッケージを開発し、こちらは〈オリファント〉と名付けられた。
 三菱でも改良モデル(Type7/2000)を提案している。現用の〈八車《七式中戦車》文乃〉の車体に〈蒼崎《四八式中戦車》青子〉 の砲塔を搭載して2000年代に通用する「主力戦車」に仕立て上げるという、いささか安直な提案であるが、費用は最新の〈蒼崎《四八式中戦車》青子〉 改2をを買うより遙かに安く済む筈である。これはトルコ陸軍が検討中という。
 合衆国では中古車両のいくつかが民間市場に流れた。農家(元軍人であろう)に買われた車両はトラクターに改装されて農地を耕している。
 しかし、枢軸諸国が市場に流した中古車両の大部分は再び戦場へと舞い戻っている。近年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、クロアチア軍の執罅劵譽パルト〉とセルビア軍の〈八車《七式中戦車》文乃〉が撃ち合ったのが確認されたという。
 「オド」と「獣」の戦いは、いまだ続いているのだ。

要目

  • 重量(t)  47
  • 乗員(名)   5
  • 寸法(m)
    • 全 長  10.8
    • 車体長   7.9
    • 全 幅   3.6
    • 全 高   3.1
    • 最低部地上高0.5
    • 接地長   4.73
    • 履帯幅  0.55
  • 発動機 (北崎/ロールスロイス)マーリン顕
    • 出力  1000hp
  • 装甲(mm)
    • 砲塔
      • 前面 130
      • 側面  85 50
      • 後面  85
      • 上面  30
    • 車体
      • 前面 130
      • 側面  85 50
      • 後面  50
      • 上面  30
  • 武装
    • 火砲 100mm×1(L65)
    • 銃器 12.7mm×2
  • 能力
    • 最大速度(km/h) 53
    • 航続力       300km