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〈長森《大鳳》瑞佳〉

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〈長森《大鳳》瑞佳〉 Aircraft Carrier Nagamori-TAIHOU-Mizuka,IJN

Tactics「ONE〜輝く季節へ〜」長森 瑞佳

オン・ユア・マーク〜概要


 日本初の重装空母。以後の日本空母のタイプ・シップとなった。艦のエンブレムは猫をモチーフとしている(注1)。
 攻撃に重点を置いて設計された〈芳賀《翔鶴》玲子〉級空母に対して、防御に重点が置かれて設計された。その設計の元となった構想とは、機動部隊の主力をなす軽装空母群よりも重装空母〈長森《大鳳》瑞佳〉が前面海域に進出し、敵の攻撃を吸収かつ味方機に燃料弾薬を補給する役割を担うという些か都合の良すぎるものだった。その構想の発端は海軍甲事件にまで遡る。しかしドイツ空軍を相手取った北大西洋での経験によって構想は修正を余儀なくされ、〈長森《大鳳》瑞佳〉が以後の日本空母の主力を担うことになる。

 1938年4月8日、トラック島において、海空合同演習、秘匿名称「降霊実験」が執行されたのだが、97式艦攻が投じた80番徹甲爆弾が、戦艦〈幽霊《陸奥》部長〉の副砲を貫通して弾薬庫に達し、〈幽霊《陸奥》部長〉を爆沈せしめてしまったのである。この事件と、合衆国が艦爆を中心に攻撃隊を構成していることから、にわかに空母の飛行甲板の無防備さがクローズアップされた。脆弱さを補うにはどうすれば良いか?
 それが前述の軽装空母と重装空母を組み合わせた戦術構想だった。数を揃えた軽装空母と、数は少ないが打たれ強い重装空母の組み合わせは、太平洋正面の仮想敵国合衆国に比して劣る国力と海軍力に適合した良案と思われたのだ。
 しかし、それは机上の空論に過ぎなかった。ドイツ空軍急降下爆撃隊の猛威の前に、構想は破綻を余儀なくされた。一度、飛行甲板を破壊されると数ヶ月もドック入りしてしまうような空母では戦力としての価値が少ないと判断せざるを得ない。第一、敵が常にこちらの予定通りに前衛隊に襲いかかるとは思えない。よって攻撃重視防御軽視の軽装空母では海空戦を戦い抜けない、と判断された。
 第1次バトル・オブ・ブリテンがたけなわの時、佐世保工廠での〈長森《大鳳》瑞佳〉の建造は今だ半ばにも満たなかったたが、建造順位は最上位へと繰り上げられた。その姉妹艦の建造も急ぎ準備された。〈長森《大鳳》瑞佳〉と併せて6隻の建造が計画され、正規空母の同級艦としては最大の数となった。溶接工法を全面的に採用することで、工期は大幅に短縮された。さらに佐世保工廠で全艦を建造することでマスプロ化による建造期間の短縮と建造コストの低減も期待されたのである(注2)。

 北大西洋での戦訓も、缶室への吸気を左右両舷どちらからでもできるようにしたりするなど多々盛り込まれ、特に消火装置には従来の炭酸ガスを放出する方式に替わって、2%石鹸水を放出する泡沫消火方式が採用された。その石鹸水は牛乳を原材料としていたとも言われ、〈長森《大鳳》瑞佳〉が「牛乳臭い」といわれる原因となった。排水ポンプも独立した動力をもつポンプが多数備え付けられた。艦の前部と後部、2カ所にある航空燃料タンクの周囲にはコンクリートが充填されて、日本海軍としてはできうる限りの不沈化対策が盛り込まれたのである。
 発艦促進装置(カタパルト)が2基、艦首に備え付けられた。これは英国製を国産化したもので、油圧を用いて短時間で搭載機を迅速に発進させるのに威力を発揮した。
 〈長森《大鳳》瑞佳〉の基準排水量は、純空母としてはこれまでで最大の4万5千トンに達した。飛行甲板には20ミリのDS鋼の上に75ミリのCSC鋼が張られて、急降下爆撃機の500キロ爆弾に耐えうることができた。エレベータには20ミリのDS鋼が2枚重ねられた。弾火薬庫には800キロ爆弾の水平爆撃に耐えられるほどの装甲が張られて、垂直防御では350キロの炸薬量の魚雷に耐えうるよう3層の装甲となった。缶室付近では4層にもなる。これらの装甲は太平洋戦争、第3次世界大戦においてその役割を十分に果たし、〈長森《大鳳》瑞佳〉は「打たれ強い」空母として敵味方双方に勇名を馳せている。
 そして、〈長森《大鳳》瑞佳〉は傷だらけになりながらも、その長い生涯における幾多の「試練(機動部隊決戦)」に勝ち残った。1943年の「東太平洋海戦」、1949年から翌年にかけての数度のカリブ海決戦、そして第3次世界大戦の事実上の決着をつけた「ノルウェー沖海戦」である。いずれの海戦においても、〈長森《大鳳》瑞佳〉の姿が艦隊の中心にあった。
 インド洋、カリブ海、北大西洋と、〈長森《大鳳》瑞佳〉は常に、日本のドイツに対する切っ先であり続けたわけだが、これをドイツでは「まるで尻軽な女のようだ」と評している。日本から見れば「フットワークが良い」、または「甲斐々々しい」という評価となる。
 もっともドイツ軍の立場では「どこにでもついてくる鬱陶しい女」というのも致し方ないかもしれない。それほどまでに〈長森《大鳳》瑞佳〉はドイツ軍に対して猛威を振るったのである。いうなれば〈長森《大鳳》瑞佳〉は、暑い夏、肌寒い秋、凍てつく冬、そして春、季節がうつろう中で戦い続けることで、日本海軍が世界の海を制覇した「輝く季節」を迎える原動力となったのだ。


注1:艦に住み着いた8匹の猫にちなむという。
注2:ネイバル・ホリデイ時代に工廠の建艦能力の強化がはかられたことで、建設途上の大神工廠を除けば佐世保は隆山工廠に次ぐ規模のプロダクション・センターへ変貌していた。4万トン級の艦艇を建造できるドックが六つにまで増強されたのである。

潮騒の午後〜東太平洋海戦〜


 1942年10月、竣工なった〈長森《大鳳》瑞佳〉は、直ちに第1機動艦隊(山口)に編入された(注3)。そして沖縄に移動して訓練にいそしむ予定であったが、航海途中で軽空母〈折原《吉野》浩平〉との間にトラブルが起きてしまう。着艦訓練中の戦闘機が誤って〈折原《吉野》浩平〉の甲板に着艦してしまい、他の機体と衝突炎上してしまったのである。〈折原《吉野》浩平〉艦長K大佐に怒鳴り込まれ、艦長N大佐と飛行長右近中佐とで平謝りに謝ったものの、以後〈折原《吉野》浩平〉の「報復」に悩まされることになる。遂には〈長森《大鳳》瑞佳〉〈折原《吉野》浩平〉は揃って機関故障を起こしてしまい、横須賀へ戻ることになってしまった。
 これが〈折原《吉野》浩平〉との「腐れ縁」の始まりであるが、それでも〈折原《吉野》浩平〉との友誼(?)が壊れなかったのは〈長森《大鳳》瑞佳〉艦長の人徳であろう。温厚ではあっても言うべきことは言い返す〈長森《大鳳》瑞佳〉艦長は、奇人というべき〈折原《吉野》浩平〉艦長K大佐を宥めるに打ってつけの人物だったのである。
 集団行動をぶち壊しかねない〈折原《吉野》浩平〉を艦隊の枠にとどめ、貴重な戦力の一翼を担わせ続けたのは大きな功績と言うべきである。けれども「いたずら」や「からかい」に巻き込まれる方はたまったものではなく、〈折原《吉野》浩平〉が何かをしでかす度に〈長森《大鳳》瑞佳〉艦長は溜息をつくのであった。
 そして機関の修理後、再度台湾への進出を行ったが、今度は防空軽巡〈七瀬〉と〈折原《吉野》浩平〉の衝突事故に巻き込まれてしまい、機関が停止してしまった〈七瀬〉を曳航して膨湖島の馬公(マークン)へ駆け込むことになってしまう。どこまでも〈折原《吉野》浩平〉の面倒を見る羽目になるのであった。
 馬公着後、〈長森《大鳳》瑞佳〉は第1航空艦隊第2航空戦隊及び第1機動艦隊の旗艦として山口多聞中将の将旗を、その檣頭に掲げた。

 〈長森《大鳳》瑞佳〉の初陣は、12月8日のオアフ島奇襲作戦である。太平洋戦争の決着をつけるために立案された「藤堂プラン」に基づくハワイ諸島占領作戦「は号」作戦の一環であった。陸上基地や真珠湾泊地への空襲は、〈長森《大鳳》瑞佳〉の能力からすれば「漢字の書取試験」のようなものであった。その〈長森《大鳳》瑞佳〉の隣には、防空専任の軽空母〈折原《吉野》浩平〉の姿があった。GF屈指の「ばかばか艦」として名を馳せる〈折原《吉野》浩平〉〈長森《大鳳》瑞佳〉とは、1950年代半ばまで長い付き合いとなる。
 ハワイ占領は12月22日に完了し、日本は合衆国西岸へ匕首(あいくち)を突きつけたことになった。合衆国がハワイ奪回軍を差し向けることに疑問の余地はなかった。英国政府からの電子計算機コロッサスを用いて暗号を解読した情報の提供と、合衆国内部からの情報提供、さらに電波の方位探知による艦艇の動向から、それは判明していた(注1)。来るべき攻勢は合衆国海軍の全力を挙げた未曾有の戦力になる筈である。第1機動艦隊は、決戦にそなえて艦隊運動や、防空陣形の形成、搭乗員の訓練に余念がなかった。

 合衆国ではハワイ奪回を巡って、政府首脳部と海軍首脳部との間に対立が発生していた。全戦力を挙げての早期奪回を主張するロング大統領と、通商破壊を軸とした長期作戦を主張するキング海軍作戦本部長との対立である。
 大統領としては、下がり続ける支持率を盛り返すためにも早期奪回は是が非でもおこなわなければならなかった。長期的作戦は政治的自殺につながる。一方のキング作戦本部長としては、大西洋をがら開きにしての奪回など認められなかった。カナダにいる英国の残存艦隊と南部連合艦隊にそなえる艦艇は確保し続けなければならない。それに同盟国とはいえ、ドイツにも備えなければならない。ドイツの水上艦隊兵力整備計画はペースが落ちているが続行されている。何より、ドイツの潜水艦隊への対応は急務である。この先、合衆国とドイツの関係がどうなるか、不分明なところがあるからだ。
 しかし、この対立はキングが折れねばならなかった。1月1日、日本軍がサンフランシスコを爆撃したのである(注2)。太平洋岸諸州の議員は早急な対応を連邦政府と海軍に求めた。斯くして、大西洋に〈橋本《エセックス》まさし〉級空母2隻と護衛部隊を残した以外は、合衆国海軍は全戦力を太平洋に集中させた。奪回作戦の発動は、パナマ運河を通過できない〈川上《ケンタッキー》由里己〉級戦艦のホーン岬回航に時期を合わせて、1月下旬と決まった。
 ここに史上最大規模の海空決戦となる東太平洋海戦の用意が整った。両軍ともに、この海戦の結果が、こののち100年近くもの間の世界情勢を決定づけることになるとは、誰も気づいていない。

 東太平洋海戦。1943年1月30日におこなわれた海戦。〈長森《大鳳》瑞佳〉らには、まさに「期末試験」というべき海戦。
 投入された航空機の総数は日本軍が艦載機625機、基地機300機、合衆国軍が艦載機720機、護衛空母部隊搭載機が400機である。合わせて2千機を超える、空前のものとなる。しかし、機数で上回る合衆国だが、護衛空母部隊搭載機は地上支援だけしか訓練しておらず、日本軍が約900機を艦隊攻撃に使用できるのに比べてやや戦力的に劣っていたと云えるかも知れない。 艦艇の総数もまた、史上空前の数である。支援艦艇を含めれば1000隻超。日本と合衆国、双方が建軍以来、営々と築き上げてきた総力全てを叩き込んだ海戦となった。
 その先手は合衆国が取った。06時30分。ハルゼーが放った索敵スコードロンが、山口が放った水偵よりいち早く所在を通報したのである。オアフ島の西160海里。先手を取られたことを知った山口提督の決断は早かった。全力迎撃である。

 07時25分。ハルゼーは麾下の空母9隻(〈伊藤《エンタープライズ》乃絵美〉、〈氷川《ホーネット》菜織〉、〈柴崎《ハンコック》拓也〉、〈《タイコンデロガ》祥子〉、〈《ヴェラ・ガルフ》香澄〉、軽空母〈《インディペンデンス》ナツコ〉〈《サイパン》サトミ〉、〈サンジャシャント〉、〈ライト〉:全搭載機数720機)から第1次攻撃隊を発進させた。F4F〈ワイルドキャット〉、F5F〈エビルキャット〉、SBD〈ドーントレス〉、TBF〈アヴェンジャー〉、戦爆合計270機。
「OK、ボーイズ。奴らを叩きのめせ!」
 史上最大の規模の編隊が飛び立った。ハルゼーは発艦を見送った後、直ちに第2次攻撃隊の準備に取りかかる。

 10時00分。警戒駆逐艦〈澪月〉からの二三号対空捜索レーダー(波長10センチ)を用いた、150海里沖合での敵機発見の通報を受けるや山口は、すでに甲板上に並ぶ第1次攻撃隊と、待機中の攻撃機全てを発艦させオアフ島に向かわせた。しかる後に、戦闘機200機を発艦させて合衆国機の来襲を待ち受けた。各空母の格納庫は空となり、爆弾と魚雷は弾薬庫にしまい込まれた。これでミッドウェーの二の舞は少なくとも避けられるはずだった。
 10時15分。第2次攻撃隊がハルゼー機動部隊を飛び立った。規模は第1次とほぼ変わらない250機である。
 10時53分。合衆国第1次攻撃隊が攻撃を開始するが、彼らを待っていたものは「ハワイの鴨狩り」と呼ばれる運命だった。総旗艦〈長森《大鳳》瑞佳〉の戦闘指揮所(注3)より誘導を受けた戦闘機部隊、零戦と〈綾火〉は優位高度で待ちかまえていた。
 日本軍は来襲する敵機に対して、三つの圏域を設定していた。捜索識別圏、撃滅圏、最終交戦圏である。捜索識別圏では、侵入した敵対空目標を探知し敵味方識別をおこない、脅威程度を判定する。撃滅圏では、直掩機を向かわせ、迎撃戦闘を展開、来襲した敵機を撃破する。最終交戦圏では、この圏域に侵入してくるすべての目標に対して対空砲火を集中して撃破を図る。味方機は、防空戦闘中は最終交戦圏に入らない。
 合衆国機は果敢に突撃するが、戦闘機の群を突破できず炎上して墜ちるばかり。数少ない機が最終交戦圏に侵入するものの、12.7センチ、10センチ、40ミリ、25ミリ、20ミリと接近するにつれて濃密になる弾幕に遮られていった。五月雨式に小編隊で来襲することが状況を悪化させた。日本軍は一定の時間と一定の空域において数の優位を保っているのだ。
 日本軍が精密かつ猛烈な対空砲火を実現したことには、バトル・オブ・ブリテンの影響がある。〈長森《大鳳》瑞佳〉飛行科長右近中佐(防空参謀兼任)が、英国空軍ダウディング将軍の設置した防空網を艦隊防空に応用したのである。この時、第1機動艦隊の指揮は一介の中佐が執っていた、と語っても過言ではない。
 続く12時にも第2次攻撃隊が来襲したが、第1次攻撃隊と同じ末路を辿った。第1次防空戦の戦闘機は補給に着艦させ、戦闘機の残り100機を上空に上げておいた。そして敵機来襲と同時に追加で戦闘機を上げたのである。合衆国機は日本軍機の数量に揉み潰された。
 日本軍の損害は、旗艦〈長森《大鳳》瑞佳〉の10センチ高角砲1基が体当たりによる破損、〈里村《海鳳》茜〉は至近弾による艦体破損、〈緒方《瑞鶴》理奈〉と〈森川《雲龍》由紀〉が飛行甲板を損傷したが発着艦に影響なし。〈北川〉級給油艦〈久瀬〉が撃沈されたが、これは囮部隊でもある、敵機来襲方面に配置した第4群の損害であった。つまり正規空母群に損害は無い、と言って良い。戦闘機は30機が失われたのみだった。
 午後、迎撃を終えた日本機動部隊は、オアフ島より呼び戻した攻撃機を編成し、2次に分けて攻撃隊を放った。南国とはいえ、冬であるからには日没が早い。二度の攻撃が限界である。かくて日本軍は、戦爆合計480機にのぼる攻撃隊を自らの西方海域に放った。機動部隊の直掩を基地航空隊に委ねての攻撃である。
 オアフ島からは、大攻〈深山〉(アブロ・ランカスター)をレーダー管制機に改装した〈雪見〉が発進した。レーダー管制部隊〇四二空の要員が乗り込み、攻撃隊を誘導するのである。さらに、攻撃隊として「野中一家」16機が出撃した。大攻〈深山〉に魚雷四発を搭載しての出撃である。

 合衆国機動部隊では損害の多さに頭を抱えていた。520機を放ち、帰還したものはその半数である。そして帰還機で再使用に耐えうるものは、さらにその半数でしかない。特に爆撃隊に損害が多かった。しかし、ハルゼーは闘志を失っていない。幕僚を叱咤し、残存機と使用できる機体での第3次攻撃隊の編成に取りかからせた。日本軍の攻撃前に完了させねばならない。これは賭けであった。
 そして、第3次攻撃隊180機が全機発艦したとき、日本軍機の来襲が通報された。さあ、来い、イエロー・ジャップ。貴様らを生かしては帰さん、たたき落としてくれる。そして、貴様らが帰っても下りられないように母艦も沈めてやるぞ。二度も同じ手は食わん。ハルゼーは迎撃戦闘を下令した。

 ハルゼー機動部隊に襲いかかった日本軍第1次攻撃隊250機を率いていたのは、〈緒方《瑞鶴》理奈〉艦爆隊長江草少佐である。戦闘機(零戦、〈綾火〉)130機、爆撃機(九九艦爆、〈彗星〉)120機。彼らの役割は合衆国の輪形陣に突破口を開くことと、敵空母の飛行甲板を破壊することである。戦闘機が半数以上を占めるのはファイター・スイープのためであった。
 敵直掩機は約70機ばかり。それもF4Fだけであった。ハルゼーはF5Fを攻撃隊の護衛として全て送り出していた。両軍の戦闘機が突っかけ合い、艦隊外周は乱戦に陥った。
 合衆国機は少数だが侮れなかった。〈伊藤《エンタープライズ》乃絵美〉ら母艦からの誘導に従い、効率的に対処していく。けれども機数が足りなかった。
 管制機〈雪見〉の巧みな誘導により、艦爆隊は戦闘機の手薄な空域から艦隊上空へ侵入していった。艦爆隊は江草少佐機を先頭に急降下を開始した。突撃第二法。飛行中隊が一本棒になって突入するのではなく、全機が一斉に降下をかけるのである。合衆国艦隊の対空砲火は凄まじく、甚大な被害を受けながらも、九九艦爆は25番通常爆弾を護衛駆逐艦に、〈彗星〉は80番徹甲爆弾を空母に叩きつけた。
 降爆を受けた合衆国艦隊が混乱している現場に侠客「野中一家」が殴り込んだ。四発爆撃機の海面を這うような超低空飛行は護衛駆逐艦らの度肝を抜いたが、その巨大な図体は対空砲火の的になった。外郭輪形陣を越えるまでに6機が撃墜されたが、野中少佐機を初めとする10機が雷撃に成功した。40本もの航空魚雷が内陣の空母を襲う。野中機は〈伊藤《エンタープライズ》乃絵美〉の甲板を飛び越えて見せた。「野中一家」が輪形陣の反対側を飛び越えるまでに、さらに4機が撃墜された。
 第一次攻撃隊が帰投して間もなく、第二次攻撃隊がハルゼーの上空に到達した。第二次攻撃隊230機は雷撃機(九七艦攻、〈天山〉)主体の編成である。総指揮は村田少佐。彼らの役割は介錯役であった。村田少佐操る〈天山〉は艦爆隊が開けた防空網の隙間から内陣へ突入していった。
 合衆国の直掩機は20機にまで減少していたが、彼らは尚も勇戦する。自分らと同数以上の機を撃墜し、かつ生還してのけた。

 ハルゼー機動部隊が、日本軍の苛烈な攻撃にさらされていた頃、第1機動艦隊もまた攻撃を受けていた。ハルゼーの放った第3次攻撃隊(フォンビル隊)である。彼らは前車の轍を踏まなかった。小編隊で五月雨式に突撃するのではなく持てる戦力すべてを、空母5隻(〈緒方《瑞鶴》理奈〉、〈芳賀《翔鶴》玲子〉、〈森川《雲龍》由綺〉、〈蟠龍〉、〈神岸《蒼龍》ひかり〉)からなる第2群にぶつけたのだ。
 彼らが来襲したとき、上空直掩に上がっていた戦闘機は零戦が僅かに10機だった。オアフ島基地航空隊が直掩任務に就いているはずだったのだが、進出が遅れていたのだ。肝心なところで日本軍は油断してしまい、完勝を逃すこととなった。
 F5F〈エビルキャット〉はたちまち零戦を制圧してのけた。SBD〈ドーントレス〉の群が、第2群の打ち上げる対空砲火を怖れることなく、空母群のいる内陣へ侵入を果たした。斯くして、空母5隻の上空は、ハニカム・フラップの巻き起こす轟音で満たされたのだった。

 陽が没した時、航空戦は終了した。日本と合衆国の機動部隊が全力で殴り合った結果、双方ともに戦力をすり減らしてしまっていた。
 合衆国は、正規空母〈《タイコンデロガ》祥子〉、〈《ヴェラ・ガルフ》香澄〉、軽空母〈サンジャシャント〉の3隻を撃沈された。800キロ爆弾でダメージを受けたところに雷撃を受けたためである。軽空母〈ライト〉は大破炎上し、味方に砲撃処分される。その他の空母も〈伊藤《エンタープライズ》乃絵美〉を除き、残存空母の全てが飛行甲板を破壊された。
 対して日本は、〈蟠龍〉と補助空母〈久瀬〉と〈南〉を撃沈された。〈緒方《瑞鶴》理奈〉と〈森川《雲龍》由綺〉は飛行甲板を破られ、〈芳賀《翔鶴》玲子〉と〈神岸《蒼龍》ひかり〉は敵弾回避に成功しているが至近弾による被害があった。〈長森《大鳳》瑞佳〉〈里村《海鳳》茜〉は高角砲などを破損している。
 しかし日本軍は巨大な戦果を挙げるのと引き替えに、全搭載機の75%を喪失していた。合衆国の対空砲火は熾烈であり、特に日本軍も使用しているボフォース40ミリ機関砲が猛威を振るった。新型機は以前とくらべて頑丈になっているとはいえ、合衆国機ほどではない。穴だらけになった機体を操って帰還してきた搭乗員達は、夜間着陸をも行わねばならなかった。それすら出来ないものは海面に胴体着陸せねばならなかった。このために失われた機体は80機以上に上る。そして、夜間に修理などの作業しているところを〈芳賀《翔鶴》玲子〉が潜水艦に狙われ、被雷した。
 つまるところ、日本、合衆国双方ともに、その機動部隊は攻勢能力を喪失した。宝石よりも貴重な搭乗員達は「えいえんの世界」へと去ってしまった。機動部隊が再建なるまで、1年もの時間が必要であった。
 そしてハワイ諸島を巡る戦いの最終局面は、水上夜戦へと移行する。

 ハワイ沖夜戦。それは機動部隊を喪失したハルゼーが、護衛の大巡〈七瀬《ハワイ》留美〉に移乗して、第1機動艦隊を追撃することから開始される。合衆国太平洋艦隊本隊(インガソル)もまた、ハルゼーの敗北を知るや、上陸船団をパルミラ島へと帰し、旗艦〈森本《オハイオ》奈海〉を先頭にハワイへ突撃を開始する。
 日本軍は、第1機動艦隊の対空護衛を務めた第1艦隊(近藤)が分離して、太平洋艦隊本隊へむけて進撃を開始する。
 ハルゼーの戦隊は〈篠塚《金剛》弥生〉の氷のように冷静な砲撃で撃退されたが、太平洋艦隊と第1艦隊は正面から激突した。日本軍には三二号射撃レーダーがあり、合衆国にはマーク8射撃レーダーがある。かくて2万メートル以下での砲撃戦が戦われる。
 1943年1月31日。朝日が上ったとき、戦艦部隊もまた、ともに甚大な被害を受けていた。ここに合衆国の海上戦力は潰えた。日本軍はハワイ諸島防衛に成功したのだった。


注1:合衆国ロング大統領は政治的措置として反対派の政治家らにも作戦を説明しなければならなかった。
注2:〈伊93〉から発進した零式小型水偵による紙爆弾攻撃だった。この爆撃はハースト系新聞による政府非難の格好の手段となった。
注3:〈長森《大鳳》瑞佳〉飛行科長右近中佐は日本海軍初の防空参謀として知られる。彼は英国派遣義勇航空隊としてバトル・オブ・ブリテンに参加している。彼の地で、その効率的な防空体制を学び、艦隊防空に応用したのである。その実現には多くの障害があったが、山口提督の権限委譲と、連合艦隊司令部航空参謀淵田中佐の支持により、有機的な防空システムの構築に成功した。なお、〈長森《大鳳》瑞佳〉建造中に飛行科の下士官を率いて海図室の半分を確保し、PPIレーダーを設置したことが戦闘指揮所の原型となった。海戦時、戦闘指揮所で航空機の誘導をおこなったのは大学生あがりの予備士官たちであった。日本海軍の変質は既に始まっていたのである。

八匹の猫〜パナマ侵攻〜


 〈長森《大鳳》瑞佳〉の次の戦場はインド洋だった。1948年、ドイツ・イタリアのインド洋への影響力拡大を防ぐためにGF主力が根こそぎ投入されたソコトラ島攻略作戦「ブルー・アイス」に従事している。この時、ドイツ東方艦隊には〈グラーフ・ツエッペリン〉級2隻を基幹とする空母部隊がいたが、彼らは事前にアデン湾へ退避していたため、機動部隊決戦は発生しなかった。
 インド洋戦域が落ち着いた後、1949年2月10日、「贖罪」作戦が実行された。日英米枢軸による、初の合同作戦。目標はパナマ。
 作戦参加艦艇600隻という大戦力が投入された「贖罪」作戦は、当初は順調に進むかに思われた。ドイツ空軍は早期に戦力を消耗し尽くし、ドイツ太平洋艦隊(ヴィルヘルム・フォン・ニミッツ中将)は枢軸軍の奇襲と、ドイツ艦隊主力の逃走によって戦力としての価値を失った。ここで問題になったのはドイツ陸軍の遅滞防御の巧みさと、ガツン湖に潜むモニター艦3隻の存在、そしてさらなる反応弾攻撃の有無である。
 ドイツ空軍は作戦初期に揉み潰され散発的に攻撃を加えてくるだけになったものの、陸軍はさすがに頑強であった。航空機の脅威を知るドイツ軍は、森林の下や洞窟に隠れたり、偽装網を駆使して姿をくらます等、ありとあらゆる手段を講じて〈長森《大鳳》瑞佳〉ら枢軸軍の航空攻撃をかわしたのである。そのため枢軸軍上陸部隊への反撃を防ぐ阻止爆撃は所期の成果を上げられなかった。けれども一旦航過し、ドイツ軍が出てきたところを爆撃する方法が立案され、一転して大戦果を挙げることとなる。
 モニター艦もまた巧みな回避運動と偽装により航空攻撃をさけていたが、湖上では偽装に限界があった。ガツン湖の入り江奥深くに潜んでいるところを特務陸戦隊に発見され、電波誘導がおこなわれて航空攻撃で遂に沈んだ。
 残る問題は、この時期ドイツのみが有している反応弾による攻撃である。海上で反応弾が炸裂した場合の結果がどうなるか、一度は思い知らされたのだが、二度目を喰らうわけにはいかない。
 それを解決する方法を作戦司令部に進言したのは、軽空母〈折原《吉野》浩平〉の艦長K大佐であった。パナマ沿岸に接近してしまえばよい、というのである。商店街をひやかして歩くように沿岸に思い切って接近してしまえば、自軍将兵を巻き添えにすることを恐れて、ヒトラーは反応弾を使えなくなる、というのが論拠であった。これに〈長森《大鳳》瑞佳〉艦長N大佐も連名している。
 そして作戦司令部が諾否を与える前に、当の本人達はさっさと艦を沿岸に接近させた。一日の課業が終わった後に、一目散に商店街に向かうような早業であった。これに〈里村《海鳳》茜〉〈澪月〉、〈七瀬〉、〈住井〉らが続いた。結局、作戦司令部は済し崩しにK大佐の進言を入れざるを得なくなったのである。もっとも、後にK大佐はGF司令部から叱責を受けている。
 しかし、この沿岸接近は大正解であった。ヒトラーが反応弾を洋上行動中の枢軸軍艦隊に見舞うべく、弾道弾を搭載した改装貨物船をコロン沖に派遣していたのである。
 さらなる反応弾攻撃に反対したのが、コロンに司令部を移して防衛戦の指揮を採っていたフォン・ニミッツ中将である。枢軸軍艦隊がパナマ沿岸に大胆に接近した結果、そこに反応弾を放り込んでは、原子核分裂反応に基づく爆発に味方をも巻き込む公算が大きくなったのだ。
 これにヒトラーが迷い、とどのつまり反応弾攻撃はなくなった。それに替えて、ヒトラーはパナマ運河の死守を命じた。斯くしてパナマ地峡を舞台に、寸土を争う激烈な地上戦が戦われる。
 〈折原《吉野》浩平〉艦長と〈長森《大鳳》瑞佳〉艦長は、暇を見つけては釣りに勤しんでいた。防空専任艦である〈折原《吉野》浩平〉は艦隊直掩任務が主であったが、相棒の〈長森《大鳳》瑞佳〉は航空支援のヘルパーとして大忙しだった。それでも〈長森《大鳳》瑞佳〉艦長は時間がとれたから、といってはK大佐の釣りに付き合っている。そのN大佐に、K大佐は釣り上げた「赤くて足が八本ある猫」を贈っている。
 枢軸軍がドイツ軍をパナマ地峡から追いだし、運河を完全に確保するには4ヶ月近い時間が必要であった。

海鳴り〜カリブ海決戦〜


 1949年、晩夏。〈長森《大鳳》瑞佳〉級4隻を基幹戦力とする第1機動艦隊は、南米ホーン岬を回ってカリブ海に進出した。第1機動艦隊はパナマでの消耗後、搭乗員の錬成をトラックでおこなっていたのだが、カリブ海に進出した〈森川《雲龍》由綺〉級4隻からなる第2機動艦隊が、7月のメキシコ湾海戦(注1)でドイツ機動部隊の前に一敗地にまみれたのを受けて、大西洋へと派遣されたのである。
 日本機動部隊は東太平洋沖海戦を期に重装空母群に更新されたが、ドイツ機動部隊もまた、質、量ともにかつてない程に陣容を強化していた。
 その主力を成したのは合衆国国東部で捕獲した〈アンティータム(独側呼称ペーター・ストラッサー)〉に、〈橋本《エセックス》まさし〉級空母〈ヴェルナー・フォス(旧ヴァレー・フォージ)〉、〈《インディペンデンス》ナツコ〉級空母〈君島《オズワルド・ベルケ》ナナ〉、旧南部連合空母〈冬木《ゲティスバーグ》美春〉の4隻であった。これにドイツ本国で本格空母に改装中の航空巡洋艦〈篠塚《アトランティカ》美樹子〉、〈パシフィカ〉、のちに正規空母〈高井《エーリヒ・レーヴェンハルト》さやか〉が加わるという分厚いものであった(注2)。
 艦載機は共に、ジェット機とプロペラ機との混載である。日本機動部隊は北崎〈蒼電改〉と愛知〈流星改供咾鯏觝椶垢襦K椋蝓卅鹽轍〉は局地戦闘機を艦載機へと改めたもの。〈流星改供咾枠動機をレシプロ・エンジンからターボプロップへ換装し、機体構造とハードポイントを強化、搭乗員は一人乗りへと改められた。武装搭載量は2トンになる。ドイツ機動部隊の艦載機は、皮肉なことに合衆国製が大半となった。戦闘機がグラマンF9F〈パンサー〉、攻撃機がマーチンAM1〈モーラー〉である。自国機ではフォッケウルフFw190Tが配備されて雷撃機として活躍するが、配備数は少数にとどまった。
 ドイツ側がこのような有様になったのは、母艦航空隊を手中に収めることに未だに野望を燃やしているゲーリング国家元帥が横車を押しているためであり、海軍はドイツ国内での機体の調達がほとんどできないでいる。パイロットの確保と訓練もまた、空軍の非協力と妨害をかいくぐっておこなわねばならない。この海軍と空軍の確執がカリブ海航空戦の行方を左右することになるが、それは先のことである。ドイツ海軍が艦載機を全て自国機で構成できるようになったのは、1951年に入ってからになった(注3)。しかしその時には、大西洋上の航空優勢は枢軸側に移っていたのである。

 斯くして始まったドイツ機動部隊を相手取っての航空撃滅戦で、〈長森《大鳳》瑞佳〉は傷だらけな有様となる。
 初期段階のジェット機の作戦行動半径が短かいため、海戦における互いの距離が120海里強と近接しているからだ。これは太平洋戦争時の170から200海里という交戦距離に比べて、危険なまでに接近することになる。しかし戦闘機の護衛をつけないまま攻撃機を送り出せば、相手方の直掩配置のジェット機に捕捉され壊滅しかねない。戦闘機を護衛につけるには、母艦を敵に近づけねばならない。接近の副次効果として、攻撃機の搭載量を満載状態にできた(注4)。これは相手も同様である。カリブ海における空母戦は攻撃機の攻撃力と速度の増加により、至近距離でのハードな殴り合いの応酬になった。それは被弾すなわち沈没、という事態を招いたのである。対空砲撃の能力向上も著しいため艦載機と搭乗員の消耗も激しいものとなる。〈長森《大鳳》瑞佳〉が戦った環境は、かくまでに厳しいものであった。
 1949年10月26日のケイマン諸島沖海戦。二度目の日独の空母戦において、ドイツ軍はSC500徹甲爆弾で〈長森《大鳳》瑞佳〉の装甲を破れず、逆に〈ヴェルナー・フォス〉を沈められてしまった。ボケ(爆弾)にツッコミで返さず、真に受けて(空母撃破で)返されたことで平穏な日常が崩れてしまったことが、(ドイツ軍の)憤激を招いたらしい。以来、ドイツ軍は遮二無二の猛攻をかけてくるようになった。
 ドイツ軍はSC500では装甲を破れないので、次の海戦ではSC1000徹甲爆弾で攻撃を加えた。命中した爆弾は装甲を破ったところで炸裂して甲板に破孔を開けている。しかし撃沈できなかった上に飛行甲板の破孔はすぐに塞がれてしまったので、三度目には要塞攻撃用のPC1800爆弾を持ち出している。或るドイツ海軍航空機搭乗員は「メイド服をびりびりと破る」ように今度は撃沈できる、と豪語した(注5)。もっとも、これほどの重量を持った爆弾では、搭載量2トンの〈モーラー〉といえども運動性を制限されてしまうため、〈蒼電改〉に瞬く間に撃墜されてしまったのである。
 〈長森《大鳳》瑞佳〉はドイツ軍にやられてばかりいたわけではない。反撃してはドイツ空母群を撃破していっている。また〈長森《大鳳》瑞佳〉ら空母群を中心に組まれた防空輪型陣は、ドイツ軍パイロット多数を「永遠の世界」へ、すなわち彼らのいう「ヴァルハラ」に送り込んでいる。
 カリブ海航空撃滅戦の最後は、「MAGICAL」と呼ばれるほどに奮戦を続けた〈アンティータム〉の追撃戦だった。1950年11月30日。バミューダ沖の決戦後、空母戦力の温存を図って、バミューダから遠く離れたニューヨークへ退避しようとする〈アンティータム〉を後方より追いすがってバミューダ島北方海域で捕捉し、これを撃沈に追い込んだ。このときのことを「一旦は捕捉したのだが、全速で逃げられては困るので気づかぬ振りをするのはつらかった」と、追撃戦に参加した司令部参謀は述懐している。ともあれ、ドイツ北米艦隊最後の正規空母(軽空母〈愛沢《ライン》ともみ〉が残っている)は沈み、ここに中部大西洋の制空権は日英米枢軸の手に帰した。

 枢軸側の勝因の一つは、投入された航空機の数量で優位に立ったことにある。改装と訓練の終了した空母は直ちに投入され(カリブ海での戦いが終了した時点で総数は12隻に上った)、さらに機動部隊と統合航空軍とが連携攻撃することで、ドイツ機動部隊に対して数量の優位を確保したのである。ドイツ側では、空軍機は海上飛行ができないため日本のとったような手段がとれず、次第に劣勢に追い込まれていった。〈長森《大鳳》瑞佳〉の撃沈にこだわって攻撃機を投入したことで機体とパイロットの消耗を招いたことも一因となっている。
 次に、ドイツ機動部隊首脳部の鈍重かつ消極的な指揮が上げられる。水雷戦隊出身のズューデンヴォルケ少将は航空戦に無知であったし、ヒトラーの命じた艦隊現存主義に基づいた積極攻勢の禁止に従順であった。北米艦隊カリブ海戦隊(水上砲戦部隊)を直卒するゴドフリート・ハイエ少将の積極さとは正反対である。航空戦に習熟したノルトマン少将の登用が望まれたのだが、ドイツ海軍の年功序列主義がそれを阻んだ。1951年にノルトマン少将が機動部隊を掌握した時には、カリブ海航空戦は既に終わっていたのである。
 さらに、ドイツが個艦の防御力の優秀さに頼って対空砲火戦力を分散させたことも大きい。1隻の空母につけられる駆逐艦の数は4隻程度で、空母は互いに援護射撃できない距離で陣形をつくっていた。空母同士が10海里も離れた陣形をとっていたのである。これは攻撃を分散させる意図によるものであったが、ミッドウェー海戦のように一撃で全滅することは無かったものの、敵軍が一隻に攻撃を集中させた場合には全く無意味だった(注6)。
 ドイツ空軍では、マイアミ、キューバ、バハマの三角地帯に枢軸軍が侵攻すると予想し、この地帯に多数の航空基地を設け、三角地帯での包囲殲滅を図った。準備された航空機は合計1000機に上る。だが、その思惑ははずされた。空軍と海軍の連携が悪いために、海軍が第1機動艦隊を三角地帯におびき寄せることができなかったし、枢軸軍はフロリダを空爆することでカリブ海前線と北米本土とを分断することを優先させたのである。プロイセン的思考の悪い面が出たと云える。
 1950年6月11日早朝、〈長森《大鳳》瑞佳〉らは最初にフロリダ半島の各航空基地に猛襲を加えた。これは奇襲となり、列線に並んでいた攻撃機を地上撃破する事に成功したのである。結果、ドイツ空軍はキューバとバハマから北米本土へ移動できなくなった。あとは、機動部隊の機動力と集中力を使ってドイツ軍基地を各個に殲滅していくだけであった。これらドイツ基地の中には戦闘機の到着を待たずに攻撃機を出した基地もあったが、直掩機と対空砲火によって壊滅している。

 カリブ海における〈長森《大鳳》瑞佳〉最大の危機は、姿を見せぬ敵がもたらした。1949年12月24日午後、〈長森《大鳳》瑞佳〉はマイアミ近郊のドイツ空軍基地を空襲したものの空中退避されていたため空振りに終わり、明けて1月4日の夜、再度マイアミを空襲すべく航行中にUボートによる雷撃を受け、缶室に損傷を被った。星月夜に白い蒸気が漏れる姿は痛々しいものであった。長年のコンビであり対潜防御の指揮を執っていた〈折原《吉野》浩平〉艦長は、「自分を信じてくれていたあいつの信頼を踏みにじって、敵潜の攻撃を許してしまった。どんな神経してるんだよ、オレは…!」と呻るようにこぼしている。
 その数日後の1月9日。今度はUボート狩りに出ていた〈折原《吉野》浩平〉が被雷してしまった。結局、〈長森《大鳳》瑞佳〉〈折原《吉野》浩平〉は、コロンにおいて合衆国太平洋艦隊から派遣された工作艦〈ヘパイストス〉(艦長ハインライン大佐)による修理を受けている。仲の良いことである。
 この頃の奇妙な挿話にバミューダ海域で艦攻隊が行方不明となった事件がある。〈長森《大鳳》瑞佳〉と僚艦〈里村《海鳳》茜〉が索敵機として放った〈流星改供咾、水平線の辺りでいきなり消失したのである。レーダーからも、対空監視員からも不意に消えたとしか云いようがない事件であり、捜索するも機体の痕跡を発見できなかった。
 これについては様々な説が唱えられ、未確認飛行物体との遭遇説(だよもん星人説と美少年星人説(注7)とに分かれる)、磁気異常によるエンジン停止説、気象異常による墜落説などがある。最近では海底のメタン・ハイドレードが崩壊したことにより、海面上にメタン・ガスが急激に発生したためとする説が有力である。

                             ◆

 1950年後半には、大西洋に展開している枢軸軍機動部隊が再編された。〈長森《大鳳》瑞佳〉〈折原《吉野》浩平〉と共に第2機動艦隊に属してレイキャビクに進出することになった(注8)。 〈里村《海鳳》茜〉は、地中海方面の攻勢作戦に参加するためにインド洋へと去ることになる。そして、翌年1月26日に起きた第2次クレタ島沖海戦において、〈里村《海鳳》茜〉は大破着底に追い込まれた。その戦訓調査の結果、防空体制強化のために〈折原《吉野》浩平〉が指揮通信艦への改装をうけることになった。
 2月下旬、常にコンビを組んでいた
〈折原《吉野》浩平〉はカリブ海へと去り、コロンの浮きドックに入渠した。〈折原《吉野》浩平〉がいない間、〈長森《大鳳》瑞佳〉は第2機動艦隊の旗艦として、これまでと同じように戦い続ける。
 そのなかで〈長森《大鳳》瑞佳〉の乗組員たちは、ふと寂寥感に襲われた。季節のうつろいは緩やかで、いつまでも同じ時間にいるように見える。しかし、すべてがうつろいゆくのだ。留まるのは思い出だけであった。

 そして1951年の冬、12月。レイキャビク。
 「おっ、どうしてたんだ、久しぶりだなぁ」
 「病気でもしてたのか?」
 「おい、待てって…」
 「あー…ごほんっ」
 外部スピーカから流れる、しらじらしい咳払い。
 「〈長森《大鳳》瑞佳〉!」
 航海日誌を付けていた艦長N大佐は、周りが騒がしいと思いながら顔を上げた。窓の向こうには、なつかしい姿があった。
 「あー…えっとだなぁ…。本艦に…もう一度つきあえ!」
 もの凄く恥ずかしい奴だ、まったく。だが、正直に応えよう。我々は「彼」が帰ってくるのを待っていたのだから。
 そして〈長森《大鳳》瑞佳〉の全乗組員は笑顔でもって、かの「ばかばか艦」を迎えたのだった。
 オカエリナサイ、と。


注1:1949年7月に発生。日本と合衆国の協同部隊による空母戦だったが、指揮系統が一本化されなかったため両部隊の連携が悪く、〈森川《雲龍》由綺〉級1隻撃沈、3隻中破、〈伊藤《エンタープライズ》乃絵美〉中破という結果となった。枢軸軍機動部隊は修理のためにパナマまで下がらざるを得なかった。制空権がドイツ側にあることから、枢軸軍キューバ橋頭堡は危機に瀕し、ために枢軸軍は水上砲戦部隊による積極防御を図った。その結果として至近距離での水上砲戦が頻発することになる。
注2:メキシコ湾海戦で勝利したことにより航空優勢を確保したドイツ海軍だったが、ヒトラーの判断により更なる攻勢を認められず、空軍と連携しての積極防御をとらざるを得なかった。
注3:カリブ海での敗北によりドイツ海軍は、ハインケル、フォッケウルフ、メッサーシュミットらの陸上機の艦載機化を図った。ゲーリングは相変わらず妨害をおこなったが、航空機の確保に意思統一を見た海軍の空母マフィアは妨害をはねのけることに成功した。
注4:攻撃機に魚雷三本を搭載するのが常態となっている。太平洋戦争時の三倍の攻撃力といえる。
注5:マニアックな趣味をもつ人物であるようだ。この時の海戦で、ドイツの正規空母〈高井《エーリヒ・レーヴェンハルト〉さやか〉が沈められた。
注6:陸軍で経空攻撃にそなえて部隊を分散させて配置するのに倣ったものらしい。
注7:言い出した人物の神経こそが疑われる。
注8:ドイツ機動部隊が再建されるのは第3次世界大戦末期であった。結局、再建なった機動部隊は〈北ノ暴風〉作戦で囮としてすりつぶされる末路を迎えた。それでも〈長森《大鳳》瑞佳〉、〈江藤《白鳳》 結花〉と英空母〈リアン〉にドライザック詰尭鈎動貳ずつを命中させて、一矢を報いている。なお、〈江藤《白鳳》 結花〉と〈リアン〉の退避時に、高海艦隊とのレイキャビク沖海戦が発生している。それは空母〈江藤《白鳳》 結花〉が水上砲雷撃戦で重巡〈日野森《プリンツ・オイゲン》美奈〉を撃沈するという、前代未聞の戦闘となった。

輝く季節へ〜エンディング〜


 〈長森《大鳳》瑞佳〉は1966年に大改装を受けた(注1)。船殻の延長、アングルド・デッキの増設、舷側エレベータの採用、蒸気式カタパルトの設置、主機の交換、二段式格納庫を単段式に改めて搭載機の大型化に対応し、基準排水量も6万トン強へと増大した。「太ったんじゃないか」とは或る口の悪い士官の弁ではあるが、「元からこういう(肉付きの良いということ)感じだ!」と某造船士官は反論している。4年を費やして〈小出《葛城》由美子〉級並の能力を持つに至ったのだが、新造した方が早いのではと言われるほどの改装ではあった。しかし近代化により艦の寿命は延長され、反応動力推進空母〈宮田《飛天》健太郎〉級と並ぶ主戦力の一翼を担い続けたのである(注2)。
 1998年8月から1999年3月にかけての湾岸紛争において、太平洋条約機構(PACTO)軍の一員としてペルシャ湾に派遣され、イラク軍の監視と空爆任務についている。そこで旧ドイツ帝国軍イラク派遣軍事顧問団による空対艦ミサイル飽和攻撃の標的とされた。近代化改装なった〈高瀬《大和》瑞希〉と〈大庭《白根》詠美〉、打撃巡洋艦〈朝日〉、〈スフィー〉級ミサイル・フリゲート艦ら護衛部隊が艦対空ミサイルを打ち上げて防空につとめたが、迎撃の網をかいくぐった2発が格納庫に直撃している。けれどもダメージ・コントロールに成功して撃沈は免れた。連合艦隊司令部では、〈長森《大鳳》瑞佳〉は以後の任務には堪えられないと判断し、1999年8月に退役ということになった。
 退役後は兵庫県神戸市の運動(長崎県佐世保市と激しい綱引きが演じられた)もあって、神戸沖合の人工島に記念艦として保管されている。


注1:この改装には〈里村《海鳳》茜〉が大破した際の調査報告が生かされている。
注2:〈宮田《飛天》健太郎〉級八隻と通常動力攻撃型空母八隻からなる新八八cm艦隊が機動部隊戦力の中核となった。2000年現在は〈宮田《飛天》健太郎〉級のみでの編成となっている。

要目

  • 基準排水量 45000トン
  • 常備排水量 56000トン
  • 全長 295メートル
  • 全幅 35メートル
  • 主機 艦本式オール・ギヤード・タービン4基4軸 200000hp
  • 速力 32.5ノット

武装

  • 10センチ連装高角砲8基
  • 40ミリ機関砲32基
  • 25ミリ3連装機銃40基
  • 12センチ28連装対空噴進砲8基
  • 搭載機 最大94機(格納庫内82機+露天繋止12機) 昭和17年時点
  • 飛行甲板 292メートル×38メートル
  • 装甲
    • 飛行甲板95ミリ
    • 舷側55〜165ミリ

同級艦