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〈長岡《加賀》志保〉

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日本帝国海軍戦艦〈長岡《加賀》志保〉

元ネタ:Leaf「To Heart」長岡志保/横山信義「八八艦隊物語」/佐藤大輔「レッドサンブラッククロス」「侵攻作戦パシフィックストーム」/三木原慧一「クリムゾンバーニング エトロフ強襲」他多数

前書

「八八(cm)艦隊」と聞いて、思い浮かべるものは何であろうか?
栄光ある八八(cm)艦隊計画艦の記念すべき第一号艦である戦艦<来栖川《長門》芹香>、巡洋戦艦の完成形として第二次・第三次世界大戦を戦い抜いた<保科《天城》智子>、格闘家にとっての心技体の如く攻撃力・防御力・機動力の調和によって「エクストリームの申し子」とも呼ばれた<来栖川《紀伊》綾香>、帝国海軍初の46センチ砲戦艦となった<宮内《伊吹》レミィ>……何れも日本と言う海洋国家が、その総力を挙げて、高き高き坂の上を目指して生み出した鋼鉄の艨艟(ヒロイン)達である。
狭義の意味においては戦艦8隻、巡洋戦艦8隻で構成される「八八(cm)艦隊」であるが、所謂戦前(第二次世界大戦以前)においてその名は帝国海軍と同義であった。そこにおいては戦艦だけでなく航空母艦もまた、かつては戦艦の補助戦力(サブヒロイン)として、航空機の発達に伴う航空主兵主義者らの勢力拡大と偶然、或いは必然的な歴史の流れに従い、戦艦に匹敵時には凌駕する主戦力として拡充発展していった。
帝国海軍初の航空母艦として就役した<鳳翔>、航空巡洋艦として建造され、改装を経て後に続く日本空母の雛型となった<神岸《蒼龍》ひかり>、空母として、そして世界的にも稀有な航空/雷撃艇母艦として「猛獣使い」の異名をとった<神岸《昇龍》あかり>、日本機動部隊の主力(アイドル)として二つの大戦を戦い抜いた<森川《雲龍》由綺><緒方《瑞鶴》理奈>、明治以前の帆走軍艦から受け継がれてきた誉れある名を冠する空母<千鶴>……極寒の北太平洋から灼熱のカリブ海、南大西洋を経て北大西洋へと至る大海原を縦横無尽に駆け巡り、時に勝利を、時に敗北を刻んだその航跡は、そのまま帝国海軍の歴史と言ってよい。
これより語る<長岡《加賀》志保>もまた、八八(cm)艦隊の一隻として建造され、前世紀半ば、世界史における一大転換点であった第二次・第三次世界大戦、対米・対独戦において戦い続け、その名を歴史に残したフネの一つである。

その日まで

八八(cm)艦隊計画と呼ばれる一大建艦計画、その中において主力となる戦艦8隻、巡洋戦艦8隻――その実態は戦場と技術の発展によって「戦艦」「巡洋戦艦」の区分を無意味なものとした高速戦艦16隻であるが――のうち、<来栖川《長門》芹香>型戦艦に続く三、四号艦、それが後の<長岡《加賀》志保>型戦艦<長岡《加賀》志保><佐藤《土佐》雅史>である。
<長岡《加賀》志保>が起工されたのは神戸川崎造船所、時に大正9年(西暦1920年)7月19日、翌年11月17日に進水。「グレートウォー」と呼ばれ、後に第一次世界大戦と呼ばれる事になる空前の大戦の戦禍もまだ癒えぬ頃であった。
この大戦において、欧州に派兵された戦力はともかく、本土を戦火に焼かれる事なく切り抜けた日本、そしてアメリカ合衆国は、四年に渡る史上初の総力戦によってのたうち回る欧州を尻目に、互いの海軍を仮想敵とした海軍拡張計画を推し進めていた。それに引き摺られる形で建艦競争に付き合わされては堪らない。欧州大戦の一方の雄であった英国の音頭取りによって開催された隆山海軍軍縮条約は、歴史が語るように英国の思惑とは正反対の、「軍縮条約と言う名の軍拡条約」として成立。補助艦艇への大幅な制限と引き換えに「主力艦」建造へのお墨付きを得た帝国海軍は(隆山条約成立に伴い、建造中の艦の保有既成事実化を目指した無理な建造ペースこそ収まったものの(※1))嬉々として進水済み、そして建造中・計画中の八八(cm)艦隊計画艦の建造を、より一層の熱意でもって推し進めた。

全ての艦船がそうであるように、<長岡《加賀》志保>もまた紆余曲折、数多の計画変更を経て完成した艦である。最も大きな影響はこの艦が建造されるか否かの瀬戸際であった隆山条約であるが、二番目に大きなものを上げるとすれば第一次大戦最大の海戦であるジュトランド海戦であろう。
より正確に述べるなら第一次ジュトランド海戦、大正5年(1916年)5月、欧州大戦勃発から凡そ二年の歳月が経った頃、ドイツ第二帝国海軍大海艦隊(ホッホゼア・フロッテ)と大英帝国海軍本国艦隊(グランドフリート)、そして日本本土から遥々欧州へ参戦した日本帝国海軍遣欧艦隊が壮絶な戦いを繰り広げたこの戦いにおいて、よく知られているように日英艦隊は大損害を被った。英国は旗艦<ライオン>の大破、フィッシャー提督自慢の巡洋戦艦群も爆沈する艦が続出し、日本も遣欧艦隊の中核であった戦艦<扶桑>が轟沈――膨大な国家予算を注ぎ長い年月をかけて建造し、そして宝石にも勝る貴重な人材を育て上げ、そして投入した虎の子が、ただの一戦で失われるという衝撃は、何物にも勝る衝撃として帝国海軍を打ちのめした(※2)。

ジュトランド海戦の直後から海軍は動き出した。極端から極端へ走り過ぎた、暴走とも後年言われるその迅速な対応は、少なくとも当事者達にとっては必要であり、そして的確な対応であった。海戦に参加した兵員の日本本土への召還と逆に調査団の派遣、英国海軍との共同調査。未だ大戦は継続中ではあったが、日本本土では八八(cm)艦隊計画は実働中で、その一番艦<来栖川《長門》芹香>は建造が開始されたばかり。海戦以前の、言わば「古い」建造思想で設計されていた彼女の建造は中断され、設計も改定された。そしてそれは、彼女に続く者達、つまり<長岡《加賀》志保>型においてより大きく、そして斬新(それでも満足足りえないという辺りに戦争技術の発達もしくは暴走の恐ろしさがある)であった(※3)。

大正5年(1916年)10月、<来栖川《長門》芹香>改正案の製造訓令。翌年8月起工。<幽霊部長《陸奥》>、大正6年(1917年)7月製造訓令、翌年6月起工。八八(cm)艦隊の胎動が始まり、次いで<長岡《加賀》志保>型が産声を上げる事になる。

(※1)<長岡《加賀》志保>型の次のクラスである<保科《天城》智子>の建造においては、造船所工員らによる労働争議が発生している
(※2)海戦の当事者として一部始終を見届けた日本には冷静さ、客観的な視点と言うのが欠けていた。仮に兵力を送らず、観戦武官等を送り込むのみの第三者的立場であればまた違ったかもしれない。
(※3)全ての列強海軍衝撃を与えた「ジュトランド・ショック」だが、確かに主砲の巨大化と測距装置の発達による砲戦距離の拡大、その結果による水平甲板の被弾確率の増大は正しい。しかし本海戦における双方の動きを見れば、主に日英艦隊における連携の不備――各部隊における連絡ミスやその結果不利な艦隊運動を行ってしまった事など、ソフトウェア面における失敗も読み取れる。
また、本海戦は英独双方が勝利を主張したが、詳報を目にした東郷平八郎元帥(当時)は「独逸は逃げた、独逸の負けだ」と一言で切り捨てたという。

彼女の生まれた日

<長岡《加賀》志保>型と後に呼ばれる事になる戦艦の設計は、<来栖川《長門》芹香>型戦艦の改正案が纏まった直後から開始されている。この頃に発表されたポスト<来栖川《長門》芹香>型の青写真は、大きなものでは兵装は同等ながらも排水量4万トンオーヴァー、全長300メートル近い船体を最大35ノットで爆走させる極大プランから、若干の船体拡大や傾斜装甲の採用で<来栖川《長門》芹香>型と同じ武装を持った30ノットの高速戦艦案、主砲塔を一基追加して41センチ砲10門を装備した堅実な発展案等である。
こうした様々な形態が提案された背景には、当時の日本の造船技術の限界を見極める目的や、仮想的である合衆国海軍の三年計画戦艦を見越したものがあったが、最終的に纏められたのはジュトランドの戦訓を元にした砲塔、弾薬庫、甲板等の防御、重要部分の集中防御の徹底化、傾斜装甲を取り入れる事で<来栖川《長門》芹香>型より装甲が薄くなった分の防御力をカバー。日本戦艦としては初めて船体にバルジを装着する事で、水中防御力の強化と共に、巨大な船体の安定性を向上。同じく日本戦艦としては初めて煙路防御を採用。延長した船体の後部に主砲を一基追加した41センチ砲10門、<来栖川《長門》芹香>型のストレートな拡大型案だった。
僅か数年の間に大きく発達した機関関連の技術により、<来栖川《長門》芹香>型から缶数が半減したにも関わらず<来栖川《長門》芹香>型を凌駕する91000馬力の大出力により、大型化した船体を26.5ノットの高速力で機動させる事が出来た。
大正7年(1918年)3月、後の<長岡《加賀》志保>型戦艦の設計案が正式に承認。翌年1月、海軍から川崎造船所に建造発注が成され、上述のように大正9年(西暦1920年)7月19日起工、翌年11月17日、大正天皇の名代として伏見宮博恭王、そして多くの観衆が見守る中で進水式を迎える。
大正12年(1923年)9月1日夜半に発生した関東大震災、その被災復興による財政問題等から八八(cm)艦隊計画の歩みにはブレーキがかかったが、計画自体が止まる事は無く、<長岡《加賀》志保>もまた、当初の予定より凡そ一年遅延しつつも完成し、聯合艦隊に引き渡されている。

日常のはざまで

海軍の、国家の威信を賭けて推進されている八八(cm)艦隊計画の新鋭艦として迎え入れられた<長岡《加賀》志保>であったが、就役後の評価は、一言で言うなら「期待外れ」、より詳しく当時の高級参謀等の発言から引用するなら「眉を顰める」「遊んでる」等と言う芳しくないものであった。それが当時としては世界最強クラスの、帝国海軍においては間違いなく最新最大最強の戦艦であるという誇り、慢心によるものなのか、聯合艦隊における<長岡《加賀》志保>の素行は極めて不真面目、一般に流布しているイメージ、日清日露そして欧州海戦においても無敗を誇った(とされる)聯合艦隊の最強戦艦と、それを操るスマートネイビーとは真逆の振る舞いだった。
遅刻・遅延は当たり前、演習中にも僚艦と(器用にも)通信や手旗信号による雑談をこなし、肝心要の主砲の射撃技量も聯合艦隊中最低クラスで、対抗演習では巡洋艦である<千堂《鳥海》瞳>に全く歯が立たず、「補習」と呼ばれた演習後の追加訓練の常連でもあった。
後に就役した<佐藤《土佐》雅史>が品行方正な「優等生」であった事も、<長岡《加賀》志保>への低評価に拍車をかけた。以降<長岡《加賀》志保>にはその生涯を通じて、「軽い」「騒がしい」「今時ノ女学生ノ如シ」「小娘(※4)」という評価が定着する事になる。

謹厳実直とはかけ離れた雰囲気を持ち、時として度を外れて風紀が荒れていた時もある<長岡《加賀》志保>であったが、基本的には明るい、賑やかな雰囲気の、他の八八(cm)艦隊計画戦艦とは異なる気風を持つ艦であり、上層部はともかく、艦隊内においては人気者であった。大戦後混乱が続き、やがてナチスドイツの勃興を招く欧州情勢、ロマノフ王朝の(一時的な)滅亡によって赤化していくソヴィエト・ロシア。合衆国によるシベリア出兵とその後に続く満州占領、中華大陸の混迷――激動の時代、不安定な周辺諸国に囲まれ、巨大化していく合衆国海軍と対峙し続ける将兵達にとって、良くも悪くも日々賑やかで明るく、そして周囲を楽しませる<長岡《加賀》志保>の存在は、いつしか見慣れた日常となり、そして後年振り返る時は懐かしさすら覚える、日々の欠かせない光景となっていった(※5)。

<長岡《加賀》志保>の生涯を語る上で欠かせないものとして「歌」がある。彼女の乗組員らは歌自慢、のど自慢の将兵が多く、停泊中に街に繰り出した<長岡《加賀》志保>の兵員らが料亭や、時には街中で朗々と歌い上げる光景は一種の名物となり、その美声は誰しも認めるものであったという。歌のレパートリーも非常に多く、当時の最新のヒット曲や海外の歌謡、演歌にいたるまで幅広く押さえ、またどんなに歌い続けても喉が枯れずにケロリとしていたという(※6)。第二次世界大戦中に軍令部総長を務めた山本五十六も、昭和初期に海軍大佐として<長岡《加賀》志保>の艦長を務めていた頃、自らの艦の乗組員達の歌のファンであった事を回顧録の中で語っている。

<長岡《加賀》志保>艦内で発行された新聞は彼女のみならず艦隊の僚艦にも配布され、それらが語る日々のニュースは刺激に餓えた乗組員達にとって格好の娯楽であった。最も、センセーショナルな見出しそして記事の中身は、やれどこそこの司令官が若い女性と共に旅館に入った、どこそこの司令部参謀が左遷されるだのといったゴシップ記事が多く、その「報道」の真偽も、当時の乗組員の言葉を借りるなら「信用度など精々50%」「半分もあるだけマシ」。実際のところはイエロージャーナリズムに近く、記事の内容云々よりもその軽妙な語り口が固定客を掴んでいるという方が正しかった(※7)。

市井の人間が抱くであろう戦艦とはかけ離れた、けれどそうであるがゆえに身近な雰囲気を持つ<長岡《加賀》志保>であったが、昭和初期、1930年代の頃は艦内の風紀が酷く悪化していたと記録にある。当時の<長岡《加賀》志保>は混迷が続く中国大陸沿岸に派遣され活動していたが、この頃彼女に甲板士官として配属された板倉光馬中尉(当時)は、後年出版した自伝の中で、風紀の乱れや私的制裁の横行、公然と行われる銀バエ行為や、横須賀在泊中に士官が芸者を呼び寄せて宴会を開いていた事もあったと記している。
板倉氏は今迄がそうであったように<長岡《加賀》志保>においても体当たりで綱紀粛正に努め、曰く「彼らは、ちゃんと叱れば素直に従ってくれた」と語るように、配属期間中に<長岡《加賀》志保>艦内の風紀改善に成功。転属の際には「鬼の下士官」と呼ばれた板倉氏を涙を流し、帽子を引き千切れんばかりに振って見送ったと述懐している。

また板倉氏は、<長岡《加賀》志保>における回想として、彼女の士官室には何冊もの科学雑誌や学術誌が置かれていたと述懐している――もっとも、医学的な知識欲や向上心と言うより、単純な好奇心、センセーショナルな話題や新説に飛びつき大騒ぎする事の方が多かったとか。
他にも英国帰りの<宮内《伊吹》レミィ>の乗組員と共に英語の勉強会を開いた事もあるという――ネイティブ仕込みの英会話は日本式の英文法との相性は最悪だったが。

上記の逸話の他にも、僚艦<佐藤《土佐》雅史>の乗員を巻き込んで「白兵戦演習」という名目で、艦上での水鉄砲大会(わざわざ寄港地で買い揃えていた)を開いたり、食事を賭けて他艦の乗組員と勝負をするのも日常茶飯事、負けず嫌いな乗組員が多かったようだ。
無論万人に好かれるという事もなく、仲の良い艦(<佐藤《土佐》雅史>や<神岸《昇龍》あかり>等)もいれば相性の悪い艦もいて、演習後に隣り合って停泊した<保科《天城》智子>が、あまりの騒がしさに耐えかね、わざわざ錨を上げて移動してしまったというエピソードが残されている。

<長岡《加賀》志保>は、第二次世界大戦の前に二度の大改装を受けている。昭和3年(1927年)と昭和10年(1935年)に実施されたそれによって、<長岡《加賀》志保>は就役当初の櫓型前鐘楼から後世の人間には見慣れた形状であるパゴダマストに変更、艦首形状も改め、煙突形状を大改装、航空機運用設備も装備された。
<長岡《加賀》志保>型戦艦は、41センチ連装砲塔を艦の前部に二基、後部に三基搭載している。前級より一基増えた主砲塔のうち、三番砲塔を後方射界確保の為に砲身を艦尾に向けた状態で配置した為、主砲射撃時の散布界がばらけ、「<来栖川《長門》芹香>より悪い」という評価を受けている。これが上述のような「補習の常連」の理由であると当時の乗組員は主張している(最も同型艦である<佐藤《土佐》雅史>の成績は優秀であった為、単に<長岡《加賀》志保>の怠慢であるという評価が一般的であった)(※8)。
また、三番砲塔と四、五番砲塔の弾薬庫が離れて配置された為、防御上やや不利となっている部分もあり、太平洋戦争における損害もこれを裏付けている。加えて、この主砲配置によって艦橋構造物、煙突、後部艦橋が極めて狭い箇所に圧迫されており、後年この艦中央部に航空機運用スペースが増設されたものの、主砲射撃の爆風によって機の運用が事実上不可能になっていたと記録に残されている。
<来栖川《長門》芹香>型でも発生したのと同様に、<長岡《加賀》志保>でも、就役当初より煙突からの排煙の逆流と排熱の問題が発生した。この問題は煙突の形状そのものを改正するまで続き、「<長岡《加賀》志保>の焼き鳥製造機」と呼ばれた。加えて<来栖川《長門》芹香>型より船体規模は大型化したものの、乗員数も増えた為に居住性が悪化し、乗員からは不評であったとされる(※9)。

この時期の帝国海軍は、八八(cm)艦隊とそれに続く後継艦群の建造を推し進めつつ、建造を終えた艦の何割かを保管艦状態としていた。補助艦艇に制限がかけられた事によって辛うじて目途が立った八八(cm)艦隊計画だが、就役した全艦を常時実働状態における程の予算はなかったのだ。よって<保科《天城》智子>型や<来栖川《紀伊》綾香>型等は、当時海軍内部(だけでなく外部にも大きく拡大しつつあった)のエクストリーム論者の期待を一身に背負った高速戦艦として誕生しながらも、その多くが保管艦として、自らの出番が来る時まで燻り続ける事になる。
そうしたある種世知辛い世の中においても、<長岡《加賀》志保>の日々は変わらなかった。上層部からの低評価に相反するようにこの時期の彼女が保管艦指定される事もなく、海軍の主力艦として活動し続けていたのは、良くも悪くも親しみやすい<長岡《加賀》志保>(そして彼女に合わせられる優等生の<佐藤《土佐》雅史>)が一般受けしやすいからだとも言われている(※10)。

(※4)筆者による意訳。引用元から原文をそのまま記せば「コギャル」。
(※5)付き合いの長い艦等から見ると、誰とでも親しくしているように見えて、実は人見知りする性質と見られていたようであるが。
(※6)艦隊内における歌合戦で「裏技」を使って<長岡《加賀》志保>との勝負に勝った将兵がいたという記録もある。
(※7)艦内新聞はその性質上一貫して執筆者や発行者が秘匿され、文筆にはイニシャルを繋ぎ合わせたと思われる「SHC」というアルファベットのみが記されていた。
(※8)ただし重巡洋艦橋<橋本>が標的艦を務めた時は凄まじい成績を叩き出したという記録があり、彼の艦が後に辿った運命を考えると、意味深なものを感じさせる。
(※9)<長岡《加賀》志保>の乗組員の姿を撮影した写真では、その住みにくさを反映してか、靴下をだらしなくだぶだぶにさせたものが多い。
(※10)八八(cm)艦隊計画の初期に建造され活動していた彼女は八八(cm)艦隊を紹介する軍事雑誌等でもよく表紙を飾り、国民の目に触れる機会も多く、知名度が高かった。

16→15

<長岡《加賀》志保>にとって一度目の衝撃は、彼女が生まれる以前のジュトランド海戦であった。そして二度目の衝撃は昭和13年(1938年)4月に発生する。秘匿名称「降霊実験」、所謂「海軍甲事件」――トラック環礁における戦艦<幽霊部長《陸奥》>爆沈事件である。
未だに真相は明らかとなっていない、合衆国空母による奇襲を想定した演習の最中に発生した、「友軍機の誤爆」による八八(cm)艦隊計画戦艦の轟沈。充分ではないにしろ、設計段階での見直しと第一次改装を経てポストジュトランド型戦艦の傑作として君臨し続けてきた筈の戦艦が、たった一発の爆弾でこの世から消え去ったという衝撃は、再び帝国海軍を震撼させた。演習に参加した<来栖川《長門》芹香>を始め、一線級の艦艇は防空能力の向上や防御力の強化を目的とした改装に入り、進行中であった建艦計画も、大きなものでポスト八八(cm)艦隊戦艦である<高瀬《大和》瑞樹>型二番艦の建造中止、<森川《雲龍》由綺>型空母を始めとする空母戦力の増強。<長岡《加賀》志保>も今事件から得られた教訓を元に改装計画が建てられたが、その改装は結局行われる事はなかった。
この時期の帝国海軍を語る資料においてよく言われているように、海軍甲事件、「盟約派」や航空主兵主義者にエクストリーム論者等の諸勢力による勢力争い、そして時の近衛文麿政権の不定見等、今後の海軍ひいては日本と言う国家それ自体の方針を巡る混乱で、組織そのものが混乱していたのだ。空母戦力の拡張と<来栖川《長門》芹香>の改装を始めとする当面の課題に手をつけられた事だけでも奇蹟的と言われ(その<来栖川《長門》芹香>ですら、当初の改装プランには程遠い応急処置)、それまでの活動から控えめに言っても二線級と見做されていた<長岡《加賀》志保>の改装は後回しとされ――翌昭和14年(1939年)9月、独逸軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると、改装計画そのものが無期限延期となった(※11)

そして、帝国海軍が戦艦を喪失するのはこれが最初ではなく、そして最後でもなかった。

(※11)純粋に予算と資材そしてドッグが足りないという問題もあった。日露戦争以後の経済発展によって国力を増大させていったこの時期の日本帝国ではあるが、補助艦の制限と引き換えに揃えた八八(cm)艦隊戦艦とその後継艦達は膨大な予算を食い潰し、折角建造したそれらの戦艦もうち何隻かは予算確保の為に保管艦状態に置かざるを得ず、そして欧州情勢の緊迫化に伴う復帰措置その他で、金と資材は幾らあっても足りないという状態であった。加えて<長岡《加賀》志保>は1935年に第二次近代化改装を受けたばかりと言う点も見逃せない。

北太平洋の嵐

第二次世界大戦勃発後、しかし暫くの間、<長岡《加賀》志保>は無聊を囲っていた。大西洋で独逸海軍と対峙する英国への遣欧艦隊は<保科《天城》智子>型、<宮内《伊吹》レミィ>型等で構成され、<長岡《加賀》志保>型ら八八(cm)艦隊の戦艦組は本土に留め置かれていたからだ。大西洋や地中海で続く戦乱を遠くに眺めつつ、新しく聯合艦隊に編入された<森川《雲龍》由綺>型空母の<神岸《昇龍》あかり>の慣熟訓練に付き合うなど、相も変わらぬ日々を過ごしている。かといって戦争と全く無縁だった訳ではなく、昭和10年(1935年)に満州国(米領満州)を巡って起きた武力衝突(オホーツク海戦)、それ以前の隆山条約会議に遡って、長年対立を続けていた合衆国太平洋艦隊への即応戦力として警戒レベルを上昇させている(※12)。

火蓋を切ったのは日本側だった。昭和17年(1942年)3月8日、南シナ海を航行中の合衆国巡洋艦による探照灯照射、それに過剰反応した日本巡洋艦の攻撃を契機に合衆国は「ハル・ノート」の通称で知られる最後通告を発表。これを受けた日本も対米開戦を決断、各地に展開する陸海軍は出師準備に入り、そして4月8日。遂に日米両国は交戦状態に突入する。
帝国海軍や国民一般層においては、長年の「米国の横暴」への憤懣から、日米開戦を喝采を以て迎える人々が多かったと記録されているが、日本としては拍手喝采でも英国としては極東の同盟国の暴発に気が狂う思いだっただろう。日米開戦と共に遣欧艦隊も引き上げに入り、大西洋の彼方からはかつて自分達を見限った植民地から膨大な物量が押し寄せ、それらは巡り巡って大英帝国の崩壊、本土失陥へと繋がるからだ。

遂に始まった太平洋戦争であるが、まだ<長岡《加賀》志保>らにとっては戦争とは他人事だった。当座のところは「新世代の戦争」である航空屋、機動部隊の戦争と思われていたからだ。形は違えど「艦隊決戦」、今のところは<神岸《昇龍》あかり>のような空母が主役――<長岡《加賀》志保>はそんな風に暢気に構えていた。そんな怠惰が許されたのはほんの一ヶ月にも満たなかった。

<波号無人試製第一二潜水艦>、またの名を「HMX-12マルチ艦」。太平洋戦争のみならず第二次・第三次世界大戦最大のミステリーとも呼ばれる、未だ謎に包まれた「海軍某重大事件」。帝国海軍が実戦投入したとされる「世界初の無人潜水艦」によって引き起こされた「太平洋艦隊潰滅」。それを信じて出撃した日本第二航空艦隊は、ミッドウェイ近海において「潰滅」した。<波号無人試製第一二潜水艦>によって沈められた筈の合衆国海軍の攻撃によって。
空母<飛龍>(<神岸《蒼龍》ひかり>型二番艦)、<剛龍>(<森川《雲龍》由綺>型三番艦)沈没。<森川《雲龍》由綺>そして<宮内《伊吹》レミィ>型大破――。
紛う事なき大敗北であった。日本側も反撃で空母一隻を撃沈したものの、戦略的にも戦術的にも目的を達せられず、後退するしかなかった以上は日本側の負けであった。
悲願であった合衆国との「艦隊決戦」での敗北、そして機動部隊の潰滅は日本の戦争計画を揺るがした。戦線縮小と戦力の立て直しを余儀なくされたその後の数ヶ月、日本軍が放棄したマーシャル、トラック諸島には星条旗が翻り、遂に合衆国軍はパラオにも上陸。内南洋の失陥は日本のシーレーン崩壊に直結する。現在大西洋で猛威を振るう合衆国潜水艦、鋼鉄のサメが日本の生命線を食い散らすのも時間の問題であった。海洋国家としての日本存亡の危機は、戦争計画を根底から転換した聯合艦隊による乾坤一擲の反撃を呼び起こす事になる。

中部〜南西太平洋が戦火に見舞われる中、<長岡《加賀》志保>の姿は北方にあった。ミッドウェイ海戦後、北太平洋においても合衆国軍は攻勢をかけていたのだ。戦場の名はアリューシャン諸島。遥々米本土から西の果てまで、島伝いに送り込まれる航空戦力によって、日米開戦劈頭の舞鶴空襲の戦果と引き換えに一度壊滅していた在満米軍は息を吹き返しつつあった(※13)。
彼の地の戦力による日本海側からの空襲や通商破壊戦、英国領コリアへの南進といった「裏日本侵攻」とも呼ぶべき事態の予感に、後顧の憂いを断つべく日本はアリューシャン諸島への逆侵攻を計画。「AK」作戦の秘匿名称の元、海軍陸戦隊を中核とする上陸船団を第三戦隊、第四水雷戦隊の護衛の下米領アッツ、キスカ両島へと送り込む。四水戦は軽巡<柏木>と四個駆逐隊、第三戦隊は旗艦<来栖川《長門》芹香><佐藤《土佐》雅史>そして<長岡《加賀》志保>――。

(※12)日本は日英同盟に従って対独宣戦布告し正式に参戦していたし、ルーズベルトを破って第32代合衆国大統領に就任したヒューイ・ロングは日英との対決姿勢、独伊への接近と南部連合との「平和的統合」等、「世界新秩序」を掲げ、昭和16年(1941年)7月の米独伊三国同盟締結以前より対独軍事支援(レンドリース法)や「義勇艦隊」の派遣によって事実上の独逸の同盟国として参戦していた。
(※13)ロング政権は日米戦勃発前から戦意高揚策として在満米軍を「アジアの自由と民主主義の為の番人」「帝国主義者から人民を守る平和の楯」等と宣伝していた為、太平洋戦争勃発と共に在満米軍救援の世論が勢力を増していた。

悪鬼の島

昭和17年(1942年)6月。日本によるアッツ、キスカ占領を切っ掛けに、北太平洋は一気にホットスポットと化した。中部太平洋の日本軍が自発的な撤退と戦線整理、山口多聞少将指揮下の第一航空艦隊によるマーシャル諸島向け輸送船団へのゲリラ的な襲撃等に終始する一方で、紛れもない自国領土へ侵攻してきた事実は合衆国を刺激した。急遽太平洋艦隊から戦力が引き抜かれ、軽巡洋艦と水雷戦隊、陸軍部隊をアッツ島奪回に送り出す。北太平洋ルートを遮断したい日本と在満米軍救援と自国領奪回を目指す合衆国。双方の戦略が噛み合った結果は、濃霧の中で繰り広げられる水上艦同士の衝突と島々を巡る陸上戦。それを支える鉄量と流血、際限なき戦力投入と消耗戦だった(※14)

当初は水雷戦隊同士の小競り合いであったが、合衆国巡洋艦戦隊の電探射撃が猛威を振るうのを受けて日本側も戦力を増派。巡洋艦部隊でテコ入れを図ったものの、第二次アッツ島沖海戦で<相川《古鷹》真一郎(I)>が空襲で撃沈されるなどして損害が積み重なった事から、ポスト隆山条約型戦艦<新城《穂高》沙織>、ゲルリッヒ砲装備の「戦艦殺し」<千堂>型装甲巡洋艦<九品仏>らの投入を決断する。

この時期の日本側の、本来であれば艦隊決戦の時まで温存すべき戦艦や装甲巡洋艦までも北太平洋に派遣するという思い切った決定の裏側には、北太平洋での戦いに早期にケリをつけ、現状で展開している戦力を中部太平洋戦線に回したいという戦略上の必要性の他に、長年帝国海軍を悩ませてきたとある問題がある。
隆山条約以来八八(cm)艦隊保有を目指してきた帝国海軍は、その代償として巡洋艦以下の補助艦艇に保有制限を課せられてきた。条約の枠内でもって将来の戦争に勝利すべく研究を続ける中、いつしか日本の建造する巡洋艦は「限られた枠組の中にあれもこれもと欲張った設計に走る」「建造・設計側や用兵側の意見をゴリ押しされて特定の用途・性能に偏る」等、艦としてのバランスが崩れた艦が続出したのである。これには日露戦争も長く生き続ける、日本海海戦の<三笠>の栄光を忘れられない大艦巨砲主義者と海軍内部の非主流派・反動勢力が結合した「盟約派」、第一次大戦末期の英海軍によるキール軍港奇襲を契機として勃興してきた航空主兵主義者、バランスのとれた戦力を整備する事で将来起こり得る大戦、ありとあらゆる戦場に対応出来る海軍を目指す「エクストリーム派」らが自身の信じる海軍像、それに相応しい艦を求めた事による。各勢力が独自の理念や思想に基づく設計案や性能要求を行なった結果、日本の補助艦即ち巡洋艦はてんでバラバラな性能のクラスが多数乱立する有様だったのである(※15)。
海外のとある軍事評論家は、この時期の帝国海軍の迷走ぶりを恋愛に例え、辛辣に分析している。曰く、あれもこれもと欲張り、皆に好かれようと八方美人に振舞った結果、修羅場を迎え、誰も選べず誰とも結ばれず、全員からそっぽを向かれてBAD ENDと。
後々の話となるが、日本の巡洋艦計画の迷走は長く尾を引き、第二次世界大戦における戦訓と第二次2.26事件での「盟約派」の消滅、そして大戦後に制定された新たな建艦計画の中で、従来の「巡洋艦」という枠組みを超えた新世代の海軍の「主力艦」、<相川《古鷹(II)》真一郎>型や「全ての任務をこなせる高い汎用性を備えた『万能の平凡艦』」と謳われた<藤田《鈴谷》浩之>型巡洋艦の就役によって漸く終息を迎える事となる。

しかしながら、以上に語られた事柄は未だ未来に属する話。当時の北太平洋で合衆国と対峙する帝国海軍は、上述のような巡洋艦戦力の整備計画の迷走により、この時期前線で運用出来る戦力に限りがあった。無駄に個性的かつ「濃い」性能の巡洋艦を建造する事に数少ないリソースを注いだ結果、極端な話が、適時使い潰せるような便利な艦の数が足りないのだ。足りないのであれば、どれ程贅沢で過剰な戦力だろうと、足りているところからあるものを回して使うしかない。例えそれが「艦隊決戦」の為の戦艦や装甲巡洋艦だろうと、戦力を出し惜しみして戦争を失うよりはマシだ、と。この時の日本側にはある意味開き直りとも取れる、しかし健全な判断があった(もっともその彼らにしても、主戦場である中部太平洋から遠く離れた北方の僻地で、待ち望んでいた『艦隊決戦』が起きるなどとは予想していなかったが)。

閑話休題――。

アッツ、キスカ上陸戦における損害の修理と補給を終えて本土から再び最前線に舞い戻った<長岡《加賀》志保>ら第三戦隊であったが、彼女達が戻るまでの間にアリューシャンで繰り広げられた戦闘の記録は、決して経験が浅い訳ではない八八(cm)艦隊戦艦らをして戦慄させる程に激しいものであった。例えるなら未だ若い学生が社会の「修羅場」や「戦争」を見せられたようなものである――中には、戦果よりもそれを成し遂げた艦のエキセントリックな言動にドン引きした場合もあったが(※16)。
<長岡《加賀》志保>は、この頃までに数度の水上戦闘や艦砲射撃に従事しているが、その全てをそつなくこなしている。<神岸《昇龍》あかり>のダッチハーバー奇襲に際しては、無事に任務を終えた<神岸《昇龍》あかり>帰還支援の為に単身囮となって突出、<神岸《昇龍》あかり>の意見具申を受けた護衛部隊によって連れ戻されるという一幕もあった(※17)

(※14)一部の戦史書ではアッツ島、キスカ島を合わせて「アッキ(悪鬼)の島」と呼んでいる。
(※15)同型艦でも兵装やスペックが大きく異なるなどざらで、設計途中で計画が変更された結果就役した時には別のクラスになっていた、艦種が違っていたという事も珍しくなかった。限られた枠組の中で無理に要求性能を発揮しようとした歪みが建造後に露呈し、大事故を起こし沈没したケースもあった。
(※16)8月8日、第一次キスカ島沖海戦と後に呼ばれる海戦において、<九品仏>が、濃霧の中でレーダーの誤作動で表示された「敵影」を攻撃していた合衆国海軍の重巡洋艦6隻を襲撃、僅か5分程の交戦の間に5隻撃沈、1隻を大破、一隻で一個戦隊を事実上全滅させていた。
(※17)アリューシャン海域を長駆敵地まで侵入し、艦載雷撃艇で襲撃して帰還するという投機的作戦が成功した裏には、合衆国が<神岸《昇龍》あかり>を正規空母と誤認した事、開戦から数週間が経った頃に仮装巡洋艦<神鏡丸>が実施したダッチハーバー空襲の影響もあった。航空機による攻撃のみを想定していたところ、雷撃艇での夜襲で思わぬ大損害を受けたのである。

凍裂戦線

帝国海軍の「決戦兵力」投入によって北太平洋戦線の戦力バランスは一気に傾いた。第一次キスカ島沖海戦、第三次アッツ島沖海戦と、続けざまの敗戦で大型艦を撃沈破された合衆国海軍。建造途中の戦艦を転用した超大型工作艦<広場《へパイストス》まひる>を始めとするサービス部隊を展開させ、損傷艦の修理と後方支援に当たらせていたものの、彼らもこの時期、決して余裕がある訳ではなかった。急遽送り込まれた増援部隊は、<サウスダコタ><ワイオミング><アーカンソー><ユタ>。旗艦こそ長年の八八(cm)艦隊の宿敵である<サウスダコタ>型戦艦だが、残りの戦艦は本来であれば三年計画艦隊と世代交代する形で廃艦となる予定だったものを、大戦勃発を受けて急遽現役復帰させた<ワイオミング>型と<フロリダ>型。独逸海軍に供与された<ニューヨーク>型、<ネヴァダ>型よりもさらに古い型の戦艦だった。
戦力に不安を抱える合衆国だが、早期に決着をつけて中部太平洋戦線に集中したいというのは日本側と同様だった。ダッチハーバー襲撃によって後方兵站線に打撃を受けた事もあり、最早猶予はないと判断。日本艦隊との「決戦」に乗り出す。彼らにとっては<新城《穂高》沙織>によって大型巡洋艦<七瀬《ハワイ》留美>を撃破され、そしてダニエル・キャラガン少将諸共<オアフ>を沈められた第三次アッツ島沖海戦以来の大型艦同士の決戦だった(キャラガン少将本人はロング大統領の取り巻きとして太平洋艦隊内部では嫌われていたが)。作戦名は「ロスト・エンジェル」。この一戦でアッツ島近海の制海権を奪取し、日本軍を駆逐する構えだった。

日米双方の艦隊が接触したのは8月30日。第七次アッツ島沖海戦、またの名を「北太平洋決戦」と後の歴史に記される艦隊決戦は、太平洋戦争における水上艦同士の戦いとしては東太平洋海戦に次ぐ激戦として知られる。
日本艦隊の前衛として英国から供与された新型電探を装備し、エクストリーム理論の期待を背負った<松原《島風》葵>がその俊足を生かして合衆国艦隊を引っ掻き回し、軽巡<木曽><神通>率いる水雷戦隊が突撃する。数ヶ月に及ぶアッツ島沖での戦闘により各艦は北太平洋に習熟し、その練度は最高潮に達していた。ことに第十四駆逐隊は、北方戦線の形成に伴い急遽編成された型もばらばらな寄せ集めで、編成された当初はあまりの成績の低さ、連携の悪さから他の艦から落ちこぼれ部隊扱いされていたものが、激しい訓練と本来の個々の艦の練度の高さでもって前評判を覆す高い戦果を挙げ、後の第二次・第三次大戦でも栄光の駆逐隊として活躍する事になる。
第三戦隊も思わぬ巡り合わせで発生した「艦隊決戦」において存分に活躍を見せる。深窓の令嬢にも例えられる<来栖川《長門》芹香>が、日頃の物静かな態度をかなぐり捨てて41センチ砲の猛火を放つ。合衆国戦艦部隊にその身を叩かれながらも、それをものともせずに突撃を繰り返す。<佐藤《土佐》雅史>が巧みな身のこなしで合衆国戦艦の砲撃を躱し、至近距離から命中を決める。そして<長岡《加賀》志保>も二隻と連携して合衆国艦隊を振り回し、食らいつく。日頃の成績不振が嘘のようなその姿は、<長岡《加賀》志保>の乗組員らが酷く負けず嫌いで、こと勝負事に関しては手を抜かない事を僚艦に思い起こさせた。
対する合衆国艦隊は戦う前から劣勢だった。戦艦の中ではもっとも新しい<サウスダコタ>ですら最大速力が23ノットという状態では、<来栖川《長門》芹香>型、<長岡《加賀》志保>型の「高速」戦艦に翻弄されるばかり。改装によって得られた新型の射撃レーダーを駆使して砲撃を繰り返すものの、水雷戦隊の雷撃で陣形が乱れて先頭に突出してしまった<ユタ>が<来栖川《長門》芹香>の一撃で脱落、<ワイオミング><アーカンソー>も<長岡《加賀》志保><佐藤《土佐》雅史>によって打ち据えられ、勝機無しとみて離脱しようとした<サウスダコタ>も船腹に水柱が立つと航行不能に陥る(後に沈没)。<神岸《昇龍》あかり>の放った雷撃艇の戦果だった。

「ロスト・エンジェル」作戦の失敗により、合衆国はこの方面での攻勢を断念する。虎の子の三年計画艦隊艦まで含めた投入戦艦の全てを撃沈破され、沈没、損傷艦における未帰還者も数千に及んだ。極寒の北太平洋という事を考えれば行方不明者の生存は絶望的で、これ以上の損害には耐えられない。そもそもの発端である在満米軍は、日本が大陸方面での積極的攻勢を控えた為、現地で持久する命令が下される。元々日本の侵攻に引き摺られる形で形成された戦線であり、本来の主目標である中部太平洋方面での攻勢に集中する為、アッツ島とキスカ島に展開する兵力は濃霧の間を縫って撤退。悪鬼の島には膨大な死者の葬列と、静寂が残された。
合衆国の攻勢停止を察知した日本側も、来たるべき反攻作戦の為に第三戦隊を始めとする戦力の大半を本土へ引き上げて損傷の修復と再編成に入り、北太平洋の戦いは事実上終結した。
北の海で稼いだ貴重な時間を糧として帝国陸海軍、そして<長岡《加賀》志保>は次なる戦場へと向かう。作戦名「葉号」、帝国陸海軍の総力を挙げた東征が始まろうとしていた。

BIG GUN EPIC / Parting Time

昭和17年(1942年)12月8日、「トラトラトラ」――我レ奇襲ニ成功セリ。聯合艦隊司令長官藤堂勝大将直卒の元発動された「藤堂プラン」、布哇侵攻作戦が開始される。Z旗翻る中敢行された史上最大の作戦は、合衆国陸海軍の主要戦力が中部太平洋に移動していた事も手伝い完全な奇襲となった。イニシアチブを握った帝国陸海軍は攻撃開始から二週間ばかりの間に布哇諸島の本丸、オアフ島主要部を制圧する。対する合衆国海軍は大西洋方面での戦力バランスの不安から、当初は通商破壊を主体とした長期戦を想定していたが、アリューシャンでの敗北、在満米軍の「見殺し」等、対日戦における支持率低迷、<伊93>潜水艦から発進した艦載機によるサンフランシスコ空襲に業を煮やしたロング大統領の命令により、早期の奪回作戦が強行される。
中部太平洋方面から転進してきたロイヤル・インガソル大将指揮下の合衆国太平洋艦隊は、大西洋方面からの増援を待ってクリスマス諸島に全戦力を集中。<羽根井《コロラド》優希>型戦艦、<サウスダコタ>型戦艦、<レキシントン>型巡洋戦艦らの三年計画艦隊、そして第二次ヴィンソン・トランメル法によって整備された<夕凪《ミネソタ》美奈萌>型戦艦、<桜庭《ミズーリ》香澄>型戦艦、<川上《ケンタッキー》由里己>型戦艦。歴戦の<伊藤《エンタープライズ》乃絵美>や<橋本《エセックス》まさし>型空母が結集したその光景は、まさに「20世紀の無敵艦隊(アルマダ)」だった。
対峙する帝国海軍もこの一戦の為に、本土と南方資源地帯とを結ぶシーレーン防衛まで放り出して全戦力を布哇諸島に進出させる。合衆国潜水艦隊の凱歌と引き換えに展開したのは、八八(cm)艦隊の全艦と<高瀬《大和》瑞樹>を始めとするポスト隆山条約、ポスト八八(cm)艦隊戦艦、そして<千鶴(II)>を始めとする帝国海軍空母機動部隊。真珠湾に集結した艨艟達の姿は、日本という極東の島国が、幕末の開国から、或いはそれ以前から遥かなる坂の上を目指して歩んできた道のり、その一つの頂点であった。

かくて戦機は熟し、日米両海軍は太平洋戦争最大にして最後の大規模水上戦闘「東太平洋海戦」へと雪崩れ込む。互いが互いの存在理由、戦前から夢見てきた、そして日本にとっては一度は夢敗れた「決戦」。あまりにも有名なこの戦い、その詳細は多くの戦史書に語られている為、本稿では割愛する。
結論のみを記せば、<長岡《加賀》志保>はこの艦隊決戦において、長年のライバルであった合衆国海軍太平洋艦隊――<羽根井《コロラド》優希>型を始めとする三年計画艦隊と砲火を交わし、少なからぬ活躍を見せ、そして生き残り――けれど、海戦が終わった時、長く戦隊を組んできた<佐藤《土佐》雅史>はそこにはいなかった。ずっと続いてくれと、しかしそれが夢だと分かっていても、どうか終わらないでくれと願っていた関係は、彼女自らが動くまでもなく、終わりを迎えた。

アメリカンフロント

東太平洋海戦での大敗を経てもなお合衆国(より正確にはロング政権)の継戦意思は強固だった。その牙城を崩したのは、昭和18年(1943年)2月1日の「セカンドインパクト」作戦――アメリカ南部連合軍による奇襲攻撃、合衆国侵攻作戦だった。
1863年以来英仏(後にスペインや日本)との同盟関係を結び、合衆国と対峙してきた南部連合。独立以来強大な北部と渡り合う為に豊富な石油資源を活用して国力を拡充し、陸海軍を整備してきた南部。しかし、第一次世界大戦でも日英仏に立って参戦し、隆山条約にも名を連ね強大な海軍戦力を築いてきた彼らは今、恐怖に支配されていた。昭和11年(1936年)に勃発したスペイン内戦によって誕生したフランコ新政権は合衆国と秘密条約を結び、フロリダ半島の目と鼻の先のキューバは今や友邦ではない。続く第二次大戦では独逸の攻撃によって英仏が崩壊し、その独逸と合衆国は同盟を結んでいる。太平洋では長年の友好国だった日本が敗退の観測しきりだった。
次々と同盟国・友好国が陥落する中、合衆国(というよりヒューイ・ロング大統領)は長年の遺恨を捨て去り、南部との「友好的な統一」を呼びかけている。しかしその一方、「世界新秩序」と称して強大な軍備を創設しようとしている。分かりやすく言えば、散々周りを荒らし回った強盗が、拳銃を片手に「君だけは味方だよ」と笑いかけているようなものであった。信頼しろという方が難しい。日本が敗れれば、次は自分達だ――そうした現実に基づく悲観的な観測、そして恐怖は、南部連合による「一撃講和論」となって具現化する。合衆国の巨大な戦力が完成してしまう前に、そして強大な艦隊が太平洋にある今のうちに徹底的に叩いて優位を確保してしまえという身勝手な、しかし切実な戦争計画だった。
それまでスペイン、英国、フランス、長年対立してきた列強を降し、独逸とも結んで日本を打倒しつつあった、史上最も偉大な大統領と呼ばれたヒューイ・ロングの栄光は地に墜ちた。南部を信用しすぎ、軍部に介入して東海岸の戦力を引き抜いて弱体化させ、戦争指導を混乱させた大統領への弾劾決議と辞任劇。新大統領として就任したウェンデル・ウィルキーによる可及的速やかな日米停戦、そして南部連合の北進からの祖国防衛。日米休戦協定を経て、アメリカ人にとっての戦争は、同胞との戦いへとシフトしていった。

えいえんのおわり、新しい場所、新しい予感

日米戦(太平洋戦争)終結後、<長岡《加賀》志保>は日本本土で予備艦となっていた。東太平洋海戦では<遠場《ニュージャージー》透>、<羽根井《コロラド》優希>の逆撃を受けて後部砲塔を爆砕された。辛うじてダメージコントロールに成功したものの、粉砕された三番から五番の砲塔は応急修理を受けたのみで放置されている。最低限の措置で済まされていたのは、未だ続く対独戦継続の為に、戦艦をドックに入れて修理している余裕がなかった為だ。この頃日英軍はスエズから撤退しつつあり、紅海では双方の水雷戦隊と輸送船団が流血の戦いを繰り広げていた。

長く僚艦を務めてきた同型艦を失い、後部主砲も失った<長岡《加賀》志保>。帝国海軍が「戦後」漸く彼女に下した命令、それは大改装と、それに伴う海上護衛総隊への移籍だった。
対米戦を勝利に導いた栄光の八八(cm)艦隊、その戦艦を事もあろうに海上護衛総隊などと言う「格下」に引き渡すなど認められぬ――そのような感情的な反論は、起こらなかった。なんとなればこの当時、帝国海軍の威信というものは地に落ちていたからだ。

第二次2.26事件、「盟約派」と呼ばれる海軍内部の反動勢力による継戦クーデター。戦艦<三笠>と日本海海戦の栄光以来帝国海軍に連綿と受け継がれてきた「大艦巨砲の夢」、「強い海軍」の復活。現状の主流派に支配された海軍を生まれ変わらせ、そして聖戦を完遂する。その暁には「永遠」がある。
東太平洋海戦とそれに続く日米休戦。聯合艦隊主力が出払っている空隙を狙って決起した反乱勢力により帝都は制圧された。布哇侵攻以来の一連の作戦で損傷し、先行して内地に帰還していた艦の中からも少なからず反乱軍への同調者が現れ、合衆国からの特使を乗せた艦隊を攻撃するべく出撃する。建軍以来史上最悪の内戦は、「盟約派」から離脱した一部将校らによる情報提供によって早期に事態を把握した聯合艦隊の布哇からの大返しと、隆山鎮守府を始めとする内地残存部隊、<折原《吉野》浩平>の孤軍奮闘や<松原《島風》葵>による反乱軍艦隊の<坂下《尾張》好恵>撃破、軽巡洋艦<柳川>と<柏木>の一騎打ち、第一機動艦隊と「護身道」部隊の挺身等「公称のない海戦」を経て鎮圧されたものの、国民の目の前で起きた皇軍相撃の影響は大きかった。対米戦「勝利」の立役者である無敵帝国海軍の栄光は消し飛び、国民からの冷ややかな視線の中、海軍は未だ継続中の対独戦、いつ再発するかも知れない対米戦に備え戦力の維持と拡充に苦悶する事となる(※18)。

海上護衛総隊は第一次大戦の古豪である鳥羽大佐の元、発足当初の旧式艦主体の戦力に<千堂《鳥海》瞳>や<鷹城《摩耶》唯子>を始めとする有力艦らを束ねて「護身道」戦隊を編成するなど、戦力の拡充に努めていた。だが、対独・対米戦における実戦を経て規模が拡大するに従い、それらが守護する海域も同様に拡大していた。英本土陥落とそれに伴う世界的な英国軍の戦力移動や再編成の影響で、従来彼らが担当していた海洋交通網も日本が担当していく事になったからだ。
こうした現状を鑑み、将来出現するだろう大規模戦力への通信・指揮能力を兼ね備え、必要とあらば自らも最前線で活動出来る大型護衛艦が必要となってきた。あちこちの艦にアプローチをかけていた海上護衛総隊が、聯合艦隊との喧々諤々の「交渉」の末に獲得したのが<長岡《加賀》志保>だったのだ(※19)

旧式艦とはいえ、当時の帝国海軍が41センチ砲戦艦を手放した理由は、八八(cm)艦隊計画艦や<篠塚《金剛》弥生>型等、設計・建造から20年を経過し老朽化が進みつつある艦の代替を計画していたが故だった。<高瀬《大和》瑞樹>型の<澤田《信濃》真紀子>以降、帝国海軍は将来の艦隊戦力中核として、大型航空母艦とそれを護衛する高速護衛艦群の整備を目指していた。<千堂>型に続く(真っ当な)装甲巡洋艦、実質的には巡洋戦艦や高速戦艦に近い性格の<石鎚>型、<赤石>型、<槙原《愛鷹》愛>型等の建造に伴い、旧式化が進みつつあった八八(cm)艦隊の初期艦、つまり<長岡《加賀》志保>はそれに該当したのだ(※20)

<長岡《加賀》志保>の改装完了は昭和20年(1945年)。酷く物騒で広大になってしまった日本の通商航路へ対応するためにも、一刻も早い戦力化が求められていたため早速実施された再就役後の慣熟航海中、遥々南部連合から脱出してきた亡命艦隊を出迎えるといった出来事もあった(※21)。
船体後部は大改装により主砲塔三基(の残骸)が撤去され、代わって大規模な通信設備、司令部機能が据えつけられた。長らく有名無実の装備だった航空設備も再設計された上で、「戦艦」にはあるまじき規模の多数の水上機を運用出来るカタパルト甲板が装備された。第三次大戦前には更なる改装を受け、オートジャイロ、後の対潜ヘリ部隊の運用も開始されている。
「護衛艦」としての対潜装備も、英国海軍からもたらされたヘッジホッグを始めとする最先端の装備が大量に搭載された。先のオートジャイロなどと合わせ、海上護衛総隊時代の<長岡《加賀》志保>はその余裕ある船体規模を存分に用いて新開発の技術等の試験運用も行なっている(『流行に敏感』ともいう)。もっとも、戦艦を対潜護衛戦力として運用する事例は日本としても経験が少なく(英国海軍は戦艦をあくまで『独逸海軍の通商破壊艦対策』として用いており、『対潜護衛艦』として使っていた訳ではない)、運用機材に不慣れな事もあり、乗組員らのやる気はともかく、演習や実戦に於ける成果も「(潜水艦に)当たるのは精々半分半分」というものであった(これでも従来に比べれば遥かに高いのだが)。
気がつけば、海上護衛戦を指揮する為に改装された筈の<長岡《加賀》志保>のありよう――高度な指揮能力と高い機動性、そして容易に沈むことのない船体――は、皮肉な事に、新時代の海軍を目指す聯合艦隊の求める旗艦(ヒロイン像)に相応しい存在となっていた。

(※18)海軍の威信低下の影響は各所に及び、目に見える大きな変化として長年帝国海軍の聖地であった――そして反乱軍の根拠地となった――横須賀鎮守府の解体論とそれへの解答としての英国軍との共同管理がある。
(※19)当初海上護衛総隊は<来栖川《長門》芹香>を希望していたが、聯合艦隊は彼女を箱入り娘の如く扱い手放さなかった。
(※20)合衆国海軍、そして独逸をはじめとする欧州海軍が未だ強大な戦艦戦力を保有している事から、爆砕された後部砲塔を修理して戦艦として復活させるという至極真っ当な意見も当然あった。主砲の代替品も、「機密巡洋戦艦」<宮内《伊吹》レミィ>型が就役当初搭載し、英国での46センチ主砲への改装時に取り外された41センチ砲が残っていた為、これを再利用するという案だったが、<長岡《加賀》志保>が今のような状況に置かれるそもそもの原因、後部砲塔、弾薬庫の装甲配置にまで手を入れるとなると半分新造するのと変わらない手間がかかる。そこまで労力と時間をかけても手に入るのは、今後出現するだろう他国の新型戦艦には一歩劣る性能の旧式戦艦。結局のところ、同じ手間をかけるなら大型護衛艦として再生した方がベストではなくともベターであるという判断が下され、代替砲として挙がった<宮内《伊吹》レミィ>型の旧主砲は別用途に転用された。
(※21)この年の5月7日、アメリカ南部連合はワシントン宣言を受託し、アメリカ合衆国に無条件降伏していた。南部連合の崩壊に際して降伏を潔しとしない少なくない部隊が国外に脱出し、ある者は欧州へ、そしてある者は日英勢力圏へと亡命していた。この時<長岡《加賀》志保>が邂逅したのは旧<比叡>と<榛名>、隆山条約によって日本から南部連合へと売却された彼女の大先輩と、南部連合海軍が最後に建造した戦艦<一条《ジェファーソン・デイヴィス》隼人>型戦艦の二番艦<ウッドロウ・ウィルソン>である。

超大型護衛艦<長岡《加賀》志保>

晴れて海上護衛総隊に編入された<長岡《加賀》志保>には、新たに「超大型護衛艦」という艦種が与えられた(聯合艦隊や諸外国からは『海防戦艦』と呼ばれていた)。主砲塔三基を降ろした事による重量軽減は、司令部機能や対空、航空設備の増設を差し引いても大きく、この時期の〈長岡《加賀》志保〉の速力と運動性は、さながら「大型のスポーツカーを乗り回しているかのような」ものだったという。また、聯合艦隊時代からは装備を一新したその艦容は、彼女を知るものですら一瞬誰か分からないような印象を与えた(※22)
「戦艦を原型とした大型護衛艦」という共通点から英国海軍の<スフィー>と比較される事もあるが、あちらが戦艦砲を搭載したのが第三次大戦後期なのに対して、<長岡《加賀》志保>は41センチ砲4門が健在であった。<スフィー>以前から帝国海軍の主力艦(ヒロイン)として活躍していたのは伊達ではないのである(※23)

(※22)乗組員らと話してみれば「間違いなく<長岡《加賀》志保>だ」という感想を抱かせたとも。
(※23)大改装の際、所謂航空主兵派からはいっそのこと残りの主砲も全部降ろしてしまえ、どうせ水上艦による襲撃など電探の発達した今日の海戦では起こり得ないのだから――という過激な意見も出たが、「如何なる場合にも備えは必要である」という常識的な反論により却下された。後年の視点から述べるならば、第三次大戦においても欧州連合軍は大型水上艦による輸送船団や基地施設への襲撃を度々行っており、この措置は正しかった。

いつか来る砲火

日英と独逸軍の交戦は昭和19年(1944年)末、ヒトラーの一方的な休戦宣言により事実上終結。翌年の独仏(ヴィシー政権)連合軍によるカナダ侵攻と南部連合の無条件降伏と共に、第二次世界大戦と呼ばれる戦争は終わりを迎えた。
この時期、日本と独逸との間の戦火は収まりつつあったが、世界が平和になった訳ではなかった。英国はカナダに侵攻した独仏軍と対峙を続けていたし、休戦協定こそ結んだものの合衆国は依然日本の仮想敵国だった。彼らが休戦に同意した理由は唯一つ、南部連合との「内戦」にケリをつける事を優先したからに過ぎない。国内を戦禍に焼かれながらも圧倒的な戦力で南部を押し潰した合衆国は、炎の中から不死鳥が舞い上がるように巨大な統一国家として再生しようとしていた。戦災復興と、第二次世界大戦を経て鍛え上げられた精鋭による巨大な常備軍の建設――「アメリカ」という巨人以外には不可能なその所業に、日本は恐怖した。今はまだいい、カナダで欧州枢軸と対峙している今は。しかし彼らが背中の敵を片付けた後は、次は間違いなく日本への報復を狙う。否、南部を併呑した統一合衆国であれば、東西両方面で日独を同時に相手にして戦えるかも知れない、戦後の合衆国の躍進にはそれ程のものがあった(※24)

太平洋が緊張を孕んだ、しかし一見する限りは平穏な状態を維持していたこの時期、<長岡《加賀》志保>は新しい職場での仕事であちこちを飛び回っていた。栄えある聯合艦隊から「格下げ(海上護衛総隊をこう見做す海軍軍人は未だに多かった)」に腐った――かといえばさにあらず。超大型護衛艦と言う肩書を得た彼女とその乗組員らは、実に優秀な態度でシーレーン防衛と言う新たな任務に邁進した。まるで聯合艦隊にいた頃は楽しんでいるように見えてどこか無理をしていたかのように、のびのびと日々を楽しみ、そしてここにおいても艦内新聞や歌唱大会、遊戯対決等で周囲の部隊や護送する輸送船、民間船舶らに日々のニュースや刺激を届け続けた。海上護衛総隊には<天龍>型、<球磨>型、<川内>型、<夕張>型といった、かつて<長岡《加賀》志保>と轡を並べた懐かしき顔もあった。旧式化に伴い聯合艦隊が手放したこれらの艦達は、シーレーン防衛と言う第二の人生を歩んでいたのだ。つい昨日の事のようなあの1930年代、日本近海、精々がマーシャル諸島まで出向いての懐かしき漸減邀撃作戦。あれから世界は大きく変わり、そして彼女達と<長岡《加賀》志保>の進む海も、大きく広がっていく事となる。
日本本土を飛び出して印度洋からコロンボ、マレーシア、オーストラリアと言った東南アジアの英連邦各地、変わらぬ厳寒の北太平洋を越えてカナダ西岸、世界中を巡り歩き、人を、情報を守り届けた(※25)。遠洋航海中の赤道祭では、出し物に必要な分の大量の紙の花を作るのに、同行していた<神岸《昇龍》あかり>にも手伝ってもらったという。

(※24)合衆国がここまで「殺意の波動」に目覚めていなければ――例えば第二次大戦に参戦する事なく――多少は違っていたかもしれないが、生憎と彼らは不完全燃焼だった先の戦争のリターンマッチに燃えていた。太平洋を挟んだ両国の間の対立が終結するには、日米英枢軸同盟が結ばれるのを待たなければならない。
(※25)<長岡《加賀》志保>はその優れた通信施設と世界中のシーレーンを移動するという任務の性質から、各地における無線・電波情報の傍受といった電子諜報、こんにちでいうELINTを行なっていた。表沙汰には出来ない任務を基本的には真面目にこなしていたのだが、それと同じくらいに「任務」という名目で無断で現地のラジオや通信を傍受してニュースとして「S.CHAN」の偽名で報道するというジャーナリストの取材じみた行為も記録されている。

Escort Fleet Collection

太平洋の、そして世界の平穏は、数年しか続かなかった。昭和23年(1948年)5月13日、アドルフ・ヒトラーと大独逸帝国は彼等の望む「世界新秩序」建設の為に日英米への攻撃を開始。鮮やかな奇襲と世界初の反応弾による攻撃を受けた合衆国は、政府首脳部と国家の中枢部をいちどきに失い、あれ程強大であった筈の統一合衆国は見る間に崩壊していった。旧南部連合残党も各地で決起し、独逸軍の侵攻から数ヶ月を置かず、アメリカ連合の復活(所謂アメリカ東部連合)を宣言するに到る。
第三次世界大戦の勃発により、日英はまず印度洋での反攻、次いで太平洋の安定化を目指す事になる。<フリードリヒ《オタク》デア《ヨコ》グロッセ>追撃戦を経てのソコトラ島侵攻作戦、死戦の北太平洋―カナダ護衛戦、灼熱のパナマ運河侵攻作戦、カリブ海進出とキューバ上陸、マルティニーク諸島攻防戦、北大西洋護衛戦。いずれの戦場、そこに到る輸送船団でも、かつての八八(cm)艦隊計画戦艦の姿があった。超大型護衛艦<長岡《加賀》志保>は、海上護衛総隊の僚艦を指揮して欧州連合軍、そして東部連合海軍の通商破壊戦と渡り合い、多くの物資や人員を送り届けている(※26)。

元来戦艦として産声を上げた<長岡《加賀》志保>は、安定した航洋性と高い艦橋に据え付けられた電測装置、船体後部に設けられた通信指揮司令部施設を駆使し、対潜護衛戦に従事していった。味方だけでなく敵の通信も傍受、素早く分析した上で僚艦や船団に即座に指示を飛ばし、時には自艦搭載の航空機でもって制圧する。ただし情報入手と伝達の速度こそ目を見張るものがあったが、分析には難があったようで、精度の低い情報で結果的に「ガセネタ」で味方を振り回してしまう事例も多かった。しかし大戦後半になって戦場がカリブ海を経て北大西洋に移っていく頃には人員の練度も向上し、独逸海軍潜水艦隊の大規模襲撃を非常に高い精度の情報と分析で迎え撃ち、船団には指一本触れさせる事無くUボートを血祭りにあげていった。彼女との交戦を辛くも生き延びたとある潜水艦長は「まるで『殺意の波動』に目覚めたかのようだった」と語っている(※27)

昭和27年(1952年)初頭、第三次世界大戦の天王山となる英本土奪還作戦「大天使(アークエンジェル)」、その真の主力である上陸作戦部隊を護衛する統合護衛任務群に<長岡《加賀》志保>はいた。アイスランドに集結した日英米枢軸軍の海上戦力を総動員した艦隊には、懐かしの<神岸《昇龍》あかり>や<保科《天城》智子>、<宮内《伊吹》レミィ>らが揃い、その他にも<千鶴(II)>や<森川《雲龍》由綺><緒方《瑞鶴》理奈>、<来栖川《紀伊》綾香><高瀬《大和》瑞樹><スフィー>……<長岡《加賀》志保>と共に過ごしたもの、<長岡《加賀》志保>以前より活躍していたもの、彼女以降に生まれたもの、数多の艦、人が集結していた。
英本土奪還、ひいては第三次世界大戦を終わらせる為のこの「大祭」。歴史が「北の暴風」またの名を「ノルウェー沖海戦」と総称する事になる欧州連合軍との決戦。<長岡《加賀》志保>は、そこにおいても戦い――そして、生還した。
英本土上陸作戦、国防軍によるクーデター、初代総統アドルフ・ヒトラー暗殺、二代総統エルヴィン・ロンメルによるポツダム宣言、休戦を巡る各国の暗闘、8月15日の空、そして昭和27年(1952年)9月2日、スカパ・フロー休戦条約――。

第三次大戦の大半を海外で過ごした<長岡《加賀》志保>にとっては、数年ぶりの帰国であった。かつて彼女も過ごした隆山鎮守府、そこには<長岡《加賀》志保>の「後輩達」も多くが集い、「先輩」の来訪を待っていた。僚艦達と共に懐かしの場所を眺める乗組員達。いつしか彼らは、まだ日本で過ごしていた頃に流行っていた歌を口ずさんでいた。一人、二人、四人、十人、二十人――いつしか艦全体から響き渡る歌声。そこに集う全ての人とフネとが、かつての日々と、それぞれの未来を見つめていた。

(※26)日英、後に合衆国の輸送船や民間船団も護衛するようになり、この時代の<長岡《加賀》志保>を写した記録写真は各国の様々な大型船舶と一緒のものが多い。特に有名なのが日本郵船の大型客船<出雲丸>と並んで撮影されたもので、船尾、艦尾に記された「いずも」「かが」の名と共に、「まるで姉妹のようだった」と語られている
(※27)こうした経緯から、独逸国内における<長岡《加賀》志保>は、「恋人を殺めた艦」として、かつてUボート乗りと過ごしていた女性達から忌み嫌われていた。

Remember my Memories/Forever,our day-to-day

第三次世界大戦後、多くの艦が退役、解体される中、<長岡《加賀》志保>は海上護衛総隊総旗艦としての存続を許された。以来、同じ海上護衛総隊の<綺堂《グラフ・シュペー》さくら>と交代で総旗艦を務めている。相も変わらず世界中の情報を集めては面白おかしく報道し、海上護衛総隊やかつての古巣である聯合艦隊所属艦との勝負を仕掛け、そして変わらぬ歌声を響かせる。
あの日々から長い時が流れた今日においても、<長岡《加賀》志保>はあの頃と変わらぬ姿を海原に浮かべ、共に進んでゆくのだ(※28)。

(※28)戦艦<長岡《加賀》志保>が超大型護衛艦<長岡《加賀》志保>へと改装される際に撤去された後部砲塔は、残骸を集め、予備砲身と組み合わせる形で復元されている。その砲塔はかつて彼女を指揮した山本五十六元帥にちなんで、彼の人の生地である新潟県長岡市に寄贈されている。

戦艦<長岡《加賀》志保>要目(太平洋戦争開戦時)

  • 排水量 48500トン
  • 全長  231メートル
  • 全幅  34.2メートル
  • 出力  92000馬力
  • 兵装
    • 主砲  45口径41センチ連装砲塔5基10門
    • 副砲  50口径14センチ単装砲塔12門
    • 高角砲 40口径12.7センチ連装砲塔4基8門

超大型護衛艦<長岡《加賀》志保>要目(第三次世界大戦開戦時)

  • 排水量 45000トン
  • 全長  231メートル
  • 全幅  34.2メートル
  • 出力  92000馬力
  • 兵装
    • 主砲  45口径41センチ連装砲塔2基4門
    • 高角砲 65口径10センチ連装砲塔10基20門
    • 機銃  60口径40ミリ4連装砲塔10基40門
    • 対潜弾投射機 4基
    • 対潜迫撃砲  4基
    • 15センチ単装対潜噴進砲 2基
    • 搭載機 オートジャイロ 6機