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〈折原《吉野》浩平〉

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日本帝国海軍 軽空母〈折原《吉野》浩平〉

Tactics「ONE〜輝く季節へ〜」折原浩平

 日本海軍が建造した軽空母。本来は改〈高瀬〉級重巡として完成する予定を戦局の変化、海軍の内部事情によって2番艦以外は航空母艦として設計を変更して完成した。1番艦は「ばかばか艦」として誉高い。


日本重巡建造計画

 隆山条約失効以降、日本の重巡建造計画は混沌の中にあった。
 理由は簡単。どのような姿の重巡洋艦が日本の国家戦略に適応しているのか誰にもわからなくなってしまっていたからだ。
 当時――1930年代後半、日本は急速に軍備を整えつつある(欧州という遠距離の)ドイツに目を向けながらも、太平洋をはさんで対立をしている合衆国との戦争に備えていた。このような状態では、選択すべき軍備のオプションの幅は広がりすぎてしまう。例えば、対米戦を念頭に置くなら、海軍の艦艇はすべからく艦隊決戦に勝利すべきものとして存在していなければならない(これが当時の一般的な考え方であった)。だが、ドイツの脅威を重く認識すべきならば、海上護衛、植民地防衛を目的とした艦艇を建造すべきであった。まともな戦艦を保持していないドイツに艦隊決戦は行いようがないから、当然であった。そして日本海軍は、第1時世界大戦でのドイツ艦艇による通商破壊作戦を忘れてはいない(ただし、海上護衛という《思想》は忘却のかなたであったが)。
 結果、この時代の日本海軍は対独戦備、対米戦備のどっちつかずの状態となってしまっていた。艦艇の数がそろっていても、有事の際の計画がお粗末ならば意味はない。日本の国益を重視するならば、英国を支援する対独戦備をととのえるのが最良と言えたが、それでは強大な戦力を持つ88(cm)艦隊計画艦の存在価値がなくなってしまう。日本海軍は、自身が持つ過剰な軍備、そして組織自体の存在意味を証明するために、合衆国を無視するわけにはいかなかった。
 日本の首脳部が仮想敵国を明確にすることが出来たのならこのような問題はなかったはずだが、残念ながらそうはいかなかった。優柔不断の極みともいえる近衛が首相であったし、どちらの国家も(いまいましいことに)仮想敵国としては申し分ない存在だったからだ。
 兵器の存在の背景にはその国家意思が明確に現れる。日本海軍の重巡建造計画もその例外ではなかった。彼らは2つの仮想敵国に対抗すべき重巡を作り上げる必要があったのだ。混乱も当然といえる。無計画に艦艇を建造する海軍など存在してはいけない。
 隆山条約失効直後、日本は2種の重巡を計画していた。〈利根〉級と〈高瀬〉級である。
 この2種については詳しい説明は不要であろう。双方とも異なった意味での「究極の重巡」として設計された(〈高瀬〉は結果的にそうなった、というだけなのだが)ことで有名であるからだ。優秀な索敵能力と合理化された兵装をもつ艦隊決戦主義の極致〈利根〉級(起工直前に対独戦準備計画発動となり、予算不足を原因に建造中止。幻の重巡と呼ばれている)。重装甲、重兵装、長大な後続距離を持つ遠洋警備重巡としての傑作〈高瀬〉級。2種の重巡計画は、日本の建艦技術の高さとゆがんだ国家戦略を体現しているといってよかった。ゆがんだ国家戦略は、両設計陣の時間の浪費と対立をもたらすという悪影響をあたえている。事実、「〈利根〉級2隻の建造計画を破棄し、〈高瀬〉級1隻を建造する」という決定の前段階では、両設計陣が自身の設計した重巡を計画破棄から守るべく、暗闘を繰り返していた。そしてこれは結果的に〈利根〉級〈高瀬〉級のみならず、他の巡洋艦設計を阻害してしまった。
 結局、この論争は〈ウィチタ〉級という米最新重巡への恐怖感が勝った結果〈高瀬〉級の建造が決定した(この〈高瀬〉級にしても開戦後の戦闘激化により1番艦のみしか予算が下りず、さらには1番艦も開戦後大幅な改装を受けている)。
 が、問題は《この後》にどのような重巡を建造するかだった。前例として全く異なった運用思想の〈利根〉級(計画のみだが)、〈高瀬〉級が存在しているが、はたして次に建造すべき重巡はどちらを発展させたものか? それとも全く別の運用を目的とする重巡か?
 艦政本部と用兵側で激しい議論が繰り返された。そして議論の結論が〈利根〉級計画の発展型――のちに建造された〈江藤〉級――に集約されつつあったとき、第2次世界大戦が勃発。これにより計画は一度御破算となり、一刻も英国救援のための戦備を整えるために、すでに建造を開始している巡洋艦設計を改良した艦艇を建造することとなった。
 まず選ばれたのは〈最上〉級であった。建造中の事故により完成が遅れに遅れていた〈最上〉級3、4番艦は、改設計後〈鈴鹿〉級1,2番艦として改名され、費用効果、量産効率の点から期待された存在だった。戦時急造重巡として〈鈴鹿〉級3、4番艦の建造も計画されつつあった。〈利根〉級、そして〈利根〉級発展型設計の崩壊によって面子をつぶされた艦隊決戦主義者達――〈三笠〉と永遠の盟約を交わした者達――もこの計画には満足した。だが、この〈鈴鹿〉級も重巡として完成することなく終わる。建造中の1番艦〈鈴鹿〉は急遽、特殊輸送船(実質的な強襲揚陸艦)として再設計されたのだ。援英船団の大損害による船舶の不足が〈鈴鹿〉級にこのような変化をもたらした。
 ここで収まらないのが再び面子をつぶされた艦隊決戦主義者達である。いったい、海軍は艦隊決戦に勝利する気があるのか!? 対米戦備を整える必要性を感じていないのか!? 優秀な次世代重巡――もしくは戦時急造重巡――を建造する意味で彼らの気概は間違っていなかったが、いかんせん思想が間違っていては彼らの意見は通るはずもなかった。その証拠に〈鈴鹿〉級は特殊輸送船として竣工する1番艦〈鈴鹿〉以外計画は破棄、新たに〈高瀬〉級の改設計型の重巡が建造されることとなった。これが〈折原《吉野》浩平〉級である。


偽りのテンペスト 

 改〈高瀬〉級として設計された〈折原《吉野》浩平〉級は、ほぼ〈高瀬〉級と同様の設計であったが、細部に変更点が見られた。その最大の変更は主砲が3連装2基、連装2基の10門から、3連装4基の12門に変更されたことだ。また魚雷発射管も〈高瀬〉級の倍――4連装4基16門という、さらなる重武装となった。
 なぜ遠洋警備を主眼とした〈高瀬〉級がその改良型である〈折原《吉野》浩平〉級で過剰なまでの重武装に変化したかというと、ここには艦隊決戦主義派の要望が盛り込まれたためだった。次世代重巡の設計、〈鈴鹿〉級の変更、と意図をくじかれ続けた彼らはかわりに改〈高瀬〉級を自らの理想の重巡に改良しようとしたのだ。
 1番艦〈折原《吉野》浩平〉――仮名称第300号艦――が起工されたのは1939年10月であった。以後、4番艦までが次々に起工されていく。その4隻は、戦時急造の名を借りた日本最強の重巡となるはずだった。
 だが、彼らの望みは果たされなかった。〈折原《吉野》浩平〉級の建造は進水後停止されることとなり、その後空母への改装が艦政本部で決定されたからだ。
 原因は欧州での空母群の被害増大だった。海軍甲事件で認められた航空機の威力、その真価が地中海、北大西洋で如何なく発揮されていた。しかそもれは自身ではなく敵手によって。なかでも大きなものが合衆国義勇艦隊(空母部隊)活躍、そしてドイツ急降下爆撃が猛威を振ったギリシャ撤退作戦などの地中海での戦闘結果だった。戦艦はいまだに(洋上航行中)航空機によって沈められてはいなかったが、戦局は日本海軍に建艦方針の大修整を迫っていることは確かだった。そしてそれは〈折原《吉野》浩平〉級にも無関係ではなかった。
 改シ艦計画――欧州での戦訓の影響を受け、空母量産を全面的に押し出したこの計画は、海軍すべてに波紋を与えた。その中でももっとも論争となったものの1つが〈折原《吉野》浩平〉級の設計変更に関してだった。もちろん、論争となった原因は反対意見を持つ者が多かったからに他ならない。空母量産はわかる。防空駆逐艦建造もわかる。給油艦に航空兵装を取りつけるもわかる(価値は疑問であるが)。しかし、対米戦において重要な役割を果たすであろう重巡――それも最強の――を空母に改装するとはどういうことだ。艦隊決戦主義派、そして〈折原《吉野》浩平〉艤壮委員長K大佐が艦政本部に噛みついた。だが、計画に変更はなく、建造中であった1番艦〈折原《吉野》浩平〉、2番艦〈折原《筑波》みさお〉、3番艦〈氷室《八雲》シュン〉、4番艦〈蔵王〉は改シ艦計画通りに空母への改装設計変更が開始された。が…。
 ここで(関係者には)信じられないところから横槍が入った。軍令部総長から身を引いた伏見宮博泰王が空母改装案に圧力をかけてきたのだ。
 あきらかな越権行為。だれもがそう思った。だが、艦隊決戦派はこれに乗じて2番艦〈折原《筑波》みさお〉を重巡として建造させることを艦政本部に認めさせてしまう。この事実は海軍内では出来るだけ伏せられ、また以後伏見宮博泰王が建艦計画に関わることはなかったが、艦隊決戦派と伏見宮博泰王の結託を阻止できなかったことは後の惨劇の温床となってしまう。
 こうして、2番艦が改〈高瀬〉級重巡〈折原《筑波》みさお〉として、他の3艦が改シ艦計画通りの軽空母として建造される事となった。
 もちろん、改装設計段階でこのような混乱ぶりでは、完成までの道のりも険しいものだった。


永遠の盟約

 結局、〈折原《吉野》浩平〉級の建造方針が固まったのは地中海での損害続出によってさらなる空母戦力の増強が叫ばれるようになった1941年夏だった。1番艦〈折原《吉野》浩平〉の進水3ヶ月後のことである。すでに対米戦が始まっており、2番艦〈折原《筑波》みさお〉も有力な重巡として周囲から期待される存在となった。
 〈折原《吉野》浩平〉級空母(以後、2番艦を除く意味で使用)の設計は基準排水量約14500トン、速力約33ノット、搭載機数55機となった。規模からは軽空母に分類され、合衆国が軽巡〈クリーブランド〉級の船体を利用して軽空母とした〈インディペンデンス〉級(もしくは重巡〈バルチモア〉級改造の〈アッツ〉級)に極めてよく似た艦である。
 設計において苦心した場所は復元性の確保である。空母化による重心点の上昇を防いで復元性を確保するため格納庫は1層に止められた。だが、これでもまだ安定性能が不足したため、船体舷側に幅820ミリのバルジを装着して改善した。また、機関部は空母化に際して機関を半減させ、2軸で29ノットとし、撤去による空きスペースは燃料庫及び軽油庫にすることを当初は計画していたが、戦訓から航続距離の低下には目をつむり速力の確保を優先したため機動部隊に追随できる速力の確保に成功した。また、軽油タンクは英護衛空母がガス漏れによって爆沈したことの戦訓により、周囲にコンクリートで強化したほか、泡沫式消化装置が設けられるなど、浮沈化対策には(日本海軍なりに)気を配られたものとなった。
 1番艦〈折原《吉野》浩平〉、2番艦〈折原《筑波》みさお〉は呉工廠で進水、その後舞鶴工廠に曳航され、同所で完成にむけての建造が再開された。なお、両艦の艤壮委員長は偶然ながらも兄弟のK大佐(1番艦)、M大佐(2番艦)が担当することとなり、完成したあかつきには兄弟で姉妹艦を操るという珍しい人事が行なわれた。これは2番艦の重巡化に一枚噛んでしまったK大佐とのいざこざを懸念して行なわれた人事と言われているも定かではない。が、両者が仲の良い兄弟であったことからもその説の否定はできない。
 両艦は順調に建造を進めた。中でも〈折原《筑波》みさお〉の建造は通常では不可能なペースで工期が速められた。これにはK大佐その他が関係部署に対して2番艦に優先的に資材を回すよう根回しを行ったためだ。彼は1番艦、2番艦がそろって竣工することを願っていた。
 だが、彼の望みは果たされることはなかった。
 1942年4月、行程が両艦ともに80%程度に進捗したとき、舞鶴に空襲警報が響き渡った。在満米軍による開戦と同時を狙った奇襲だった。
 開戦を覚悟していたとはいえ、いきなりの空襲に日本軍は舞鶴軍港への空襲を許してしまう。もちろん、攻撃は軍港施設にとどまるはずもない。
 空襲直後、消化が続けられる軍港には無残な姿をさらす重巡が存在していた。直撃弾数発を受けた〈折原《筑波》みさお〉である。工期は延長された。
 〈折原《筑波》みさお〉の悲劇はまだ続く。第2次舞鶴空襲でも爆撃を受け、50口径20cm砲がすべて破損、〈鈴鹿〉級で装備予定だった15.5cm砲を装備することとなった。また機関部にも損傷を受け、代わりに陽炎型駆逐艦の主基2機を搭載する。もはや最強の重巡とは程遠い姿である。建造の意味を疑う声も出てきた。
 だが、K大佐を含む艦隊派は諦めなかった。もしここで諦めれば、彼らの行った努力は全て無駄になる。伏見宮博泰王に予想外とは言え援護射撃をもらった以上、後戻りはできない。そしてK大佐は竣工式が無理でも、同じ戦場に2艦が並ぶことは不可能ではない、そう考えていた。彼らは、神社の神主までも呼んで完成を祈った(*1)。
 工員たちの必死の努力が実り、〈折原《筑波》みさお〉は装備を大幅に変更し、さらに工期を短縮して進水した。1942年9月。7月にはすでに〈折原《吉野》浩平〉が竣工し、訓練期間も終了した後だった。そして〈折原《筑波》みさお〉に残工事のための呉への移動が命じられる。移動には、K大佐の強い希望により〈折原《吉野》浩平〉が訓練をかねて護衛につくこととなった。約束は不完全ながらも果たされようとしていた。K大佐(すでに艦長)もそれを確信していた。舞鶴沖で〈折原《筑波》みさお〉の右舷に6本の雷跡を認めるまでは。
 合衆国潜水艦〈アーチャーフィッシュ〉の放った雷撃だった。日本海は満州沿岸から出撃する潜水艦の脅威の中にあった。
 悪天候のため艦載機の発艦が不可能だったことが悲劇の総仕上げにつながった。6本中3本の雷撃を受けた〈折原《筑波》みさお〉は急速に右舷へ傾き、横転。その後沈没した。曳航作業を行う時間もなかった。M大佐は「ありがとう、お兄ちゃん」という伝言をのこし、〈折原《筑波》みさお〉と共に海底へと沈んだ。進水までの苦難を考えるのならば、まったくあっけない最期だった。悲劇の重巡〈折原《筑波》みさお〉は悲劇にふさわしいかたちで失われた。
 K大佐は失意のまま呉に到着した。彼の胸には絶望があった。絶望のみがあった。
 努力して完成までこぎつけた重巡〈折原《筑波》みさお〉は、弟と共に失われた。希望も――最強の重巡を艦隊決戦に参加させるという希望もなくなった。弟とともに戦場を駆ける希望もなくなった。そして時代は艦隊決戦思想など時代遅れとしてしまった。こんな悲しい出来事など、開戦前には想像できなかった。日本海軍が戦艦同士の艦隊決戦によって戦争の勝敗を決するという「楽しい日々」は、存在しない。〈三笠〉が作り出した栄光は、存在しない。最強の重巡〈折原《筑波》みさお〉とともに、失われたのだから。
 永遠などなかったのだ。
 
 その後、編成をあらためた第1航空艦隊に編入されることとなり、共同訓練のために横須賀へ向かう予定の〈折原《吉野》浩平〉は、呉での出撃準備にいそしんでいた。胸に深い苦しみを抱いたまま指揮をとるK大佐に、かつて〈折原《筑波》みさお〉の空母改装に共に反対した艦隊決戦派の1人からある手紙が届いたのはそんな時だった。
「えいえんはあるよ」
 手紙はその言葉で始まっていた。内容は、彼に深く関わっていることだった。
「えいえん」を目指す者達からの「組織」への誘い。永野修身、伏見宮殿下に代表される「艦隊派」――海軍内部の不満分子が、その名誉復権、「強い海軍」を実現すべく立てられた計画。建造を遅延された挙句に沈んだ重巡〈折原《筑波》みさお〉の悲劇は、現在の海軍に元凶がある。ならば、俺達は―――。
 何が正しいか。この時の彼に判断は出来なかった。ただ、衝動的に救いを求めていただけかもしれない。
 数日後、呉から出港しつつある〈折原《吉野》浩平〉の艦橋で、K大佐はつぶやいた。
「永遠の盟約」
 彼の視線の先には、軽巡〈柳川〉が静かに投錨していた。自らが持つ牙を研ぐように。
「永遠の盟約、だ」
 
 
 注1 この措置は乗組員達には不評だった。


かけらの日々

 第1航空艦隊。第1機動艦隊に所属する空母群の1つである。中部太平洋・欧州方面で消耗した空母群を再編成、太平洋で可能な限り稼動する空母を集中配備した艦隊である。この頃、すでに連合艦隊は否応なしに洋上航空兵力を主力とする編成となっていた。ミッドウェー、欧州での苦い戦訓が戦艦重視の日本海軍を変貌させたのだ。
〈折原《吉野》浩平〉はこの第1航空艦隊の主力空母の1艦として配備された。搭載機は艦上戦闘機のみ。司令部は、〈折原《吉野》浩平〉を艦隊防空専門の空母に選定したのだ。
 1942年10月上旬、第2航空艦隊は新鋭空母〈長森《大鳳》瑞佳〉――なんの因果か、大戦中ほとんどの時期を〈折原《吉野》浩平〉と行動する――を加え、沖縄へ進出することとなった。北太平洋での敗北の後、マリアナ・西カロリンに攻勢をする気配を見せる合衆国軍に備えるためだ。両艦の最初の任務は、制空権が互角を保つ台湾海峡、そこを航行する南方向け船団の間接護衛だった。当時東京では博打的反撃計画「藤堂プラン」の発動が決定していたが、だからといって日本本土へのシーレーンを遮断させるわけにはいかなかった。
 が、ここで〈折原《吉野》浩平〉最初の横着ぶりが発揮された。出撃当日、謎の要因(*2)によって〈折原《吉野》浩平〉の出港は遅れに遅れ、結局出撃は半日遅れ。さらには〈長森《大鳳》瑞佳〉の艦載機が航海途上での訓練中、着艦を誤って〈折原《吉野》浩平〉甲板上の艦載機に突っ込み、小火災発生。「悪質ないたずらだっ」としてK大佐が即座に抗議、2航艦がてんやわんやの状態のときに〈長森《大鳳》瑞佳〉の機関部に故障が発生、2艦はそろって横須賀へ帰還となってしまう。これ以後、〈長森《大鳳》瑞佳〉乗組員は事故を恨んだ〈折原《吉野》浩平〉のK大佐並びに乗組員一同による無意味ないたずら(*3)に悩まされることとなる(間接護衛は他の航空戦隊が実施)。
〈折原《吉野》浩平〉の破天乱な戦歴(?)はここで開花されたといって良い。11月、2艦は修理後全速で沖縄に向かったはいいが、途中で合流予定の防空軽巡〈七瀬〉に〈折原《吉野》浩平〉は繰鑑ミスにより激突。が、損傷が軽微だった〈折原《吉野》浩平〉は航行不能の〈七瀬〉の曳航を〈長森《大鳳》瑞佳〉に頼むと即座に台湾へ向け航行再開。確かに損傷を受けた軽空母では防空軽巡の曳航は難しいが、あまりにも無責任と〈長森《大鳳》瑞佳〉艦長にK大佐は叱責を食らっている(ついでに〈七瀬〉艦長の飛び蹴りも食らう)。もちろんこの恨みを忘れる〈折原《吉野》浩平〉のK大佐以下乗組員ではない。かくして〈七瀬〉と〈折原《吉野》浩平〉という、空前のボケ&ツッコミ(軍艦)コンビが誕生した。
 この後も、〈折原《吉野》浩平〉はのちの別称(蔑称)「ばかばか艦」の名にふさわしい行動をとる。「藤堂プラン」発動のために日本に帰還後は、給油艦〈住井〉の「第2航空艦隊人気投票大会」に参加する、タンカー船団護衛中に、日本潜水艦の雷撃で航行不能となって漂流していた米駆逐艦を勝手に鹵獲、〈繭〉と名付けて第1航空艦隊に編入する、〈繭〉装備品確保のために「軽巡〈七瀬〉装備品オークション大会」を提案する、さらには訓練日には必ず出港が遅れる、給油艦〈南〉を〈沢口〉と(意味もなく)間違い続ける、艦内の食事はいつも麺類(ときどき焼き飯)、無意味な行為に全力投球する、などなど、様々な伝説を作り上げた。
 そんなわけのわからない行動を「藤堂プラン」――ハワイ強襲上陸作戦の準備期間にも関わらず取り続ける〈折原《吉野》浩平〉だったが、戦いはそんな軽空母1隻の事情に関わらず進んでいく。ついに発動されたのハワイ作戦でのハワイ沖航空戦では防空専用空母として参戦(*4)、海戦2日目には2航艦所属空母の被弾により半減した航空戦力をうめるために臨時に2航戦に編入され、その後〈住井〉の行ったくじ引きにより、オワフ島沖夜戦――在ラハイナ泊地の合衆国艦隊が行った上陸船団への夜間斬り込みを迎撃した海戦――に参加すべく突撃した2航艦水上砲戦部隊(臨時編成)に何故か組みこまれ突撃の先頭に立っている(*5)。夜間空襲を警戒して、というのが司令部が突撃参加を許可した理由らしいが、どうやら他の理由もあるようである。
 結局、砲戦のとばっちりを受けて損害を被った〈折原《吉野》浩平〉は日本サービス部隊の突貫修理を受け、1943年1月の修理完了後は再び第1機動艦隊に編入された。ハワイ奪取後、3個航空艦隊を編成した連合艦隊の次なる作戦は、ハワイ諸島防衛作戦である。
 第1機動艦隊での〈折原《吉野》浩平〉は、さすがに前回の戦いでのトラブルに懲りていた――かに見えたが(大方の予想通り)全く懲りていなかった。
 相変わらず〈長森《大鳳》瑞佳〉をからかい、〈七瀬〉と漫才の毎日。航空官制機〈雪見〉(*6)と電子実験艦〈川名〉の連絡を阻害する、対空回避運動訓練では無意味に空母〈里村《海鳳》茜〉を追尾する、〈柚月〉〈澪月〉〈里村《海鳳》茜〉の乗組員を集めて飛行甲板で宴会をする、etc…。
 もはや無茶苦茶である。無茶苦茶振りは「あ」号作戦中ももちろん変わらず、空母戦では回避運動中に〈澪月〉と一緒に艦隊からはぐれ一晩中さまよう、〈川名〉の電探と〈折原《吉野》浩平〉の電探、どちらが先に敵機発見するか勝負する、など「ばかばか艦」の面目躍如な活躍振りである。
 ただし、〈折原《吉野》浩平〉の名誉のために述べておくが、K大佐以下の乗組員は決してこれらのような「ばかばか艦」な行動ばかりをとっていたわけではない。例えば,亡命軍人によって運営されることとなった〈繭〉戦力化の成功や〈七瀬〉に関するトラブルを解決したのは彼らの功績であるし、他にも〈澪月〉と〈雪見〉を使用したピケット戦術による艦隊防空(CPS)強化の発案、ハワイ沖海戦で〈里村《海鳳》茜〉が中破した際の的確な防空指揮など、評価すべき点も多々ある。彼らもやるときはやるのだ。ただ、それがあまりにも目立たないことが〈折原《吉野》浩平〉の不幸であるが。
 そして〈折原《吉野》浩平〉艦長、K大佐の心の傷も戦いの中で徐々に癒されていった。もはや彼にとって、〈折原《筑波》みさお〉と弟を失ったことを悲しむより、いかにこの戦争を(真面目か不真面目かは別にして)戦い抜くかが重要だった。もちろん、彼は「永遠の盟約」――海軍の不満分子、「艦隊派」との接触を絶ったわけではない。そして盟約を忘れてはいない。だからこそ彼は疑問を抱いていた。はたして、彼らの目指す「えいえん」における海軍――「強い海軍」とは、日本にとって正しいことなのか? 彼らの「組織」は「強い海軍」具現化として、対米戦における完全な勝利をしようとしている。この激戦の中で、そんなことは可能なのか? もし可能だとしても、その結果は彼らの望むものとなるのか? そして、〈折原《筑波》みさお〉の損失によって自分が「えいえん」を望んだことは、間違ってはいないのか?
 間違っているのは、彼ら「艦隊派」なのではないか? 「えいえん」という思想そのものではないのか?
 答えはでなかった。そして彼が彼なりの答えを見つけ出すのは、2つの海戦を体験した後だった。
 マーシャルでの海戦と、ハワイ沖海戦である。

 

夕日のむこう側に

 マーシャル諸島を巡る水上戦闘は数多く行われた。マーシャルへ物資を輸送する合衆国軍、それを阻止せんとする日本海軍の間で戦闘が多発したからだ。そのなかでも第1航空艦隊が猛威を振るった戦いは、マーシャル沖海戦の名称でよばれる海戦である。
 船団護衛中、偶然にもマーシャルへの合衆国船団を発見した彼らは、チャンスとばかりに攻撃を行った。エアカヴァーなしでの船団護衛を行っていた合衆国艦隊にとり、空襲は充分に破滅的だった。戦いは一方的なものとなり、合衆国船団は重巡数隻の艦艇を失い、一時反転。第1航空艦隊はこれを本格的な撤退と誤認し、攻撃を打ち切った。
 K大佐が衝撃を受けたのはこの戦いの結果だった。彼は、水上砲戦部隊というものがいかに航空攻撃にもろいかというのを実地で学んだのだ。もはや戦艦や重巡は時代遅れの遺物。キャラメルのおまけなどいらない。彼は沈没寸前の重巡〈ウィチタ〉の写真を見て確信した。〈折原《吉野》浩平〉級の空母化は正しかったのだ。間違っていたのは自分、そして艦隊決戦派だ。そして彼らはいまだ三笠がつくりだした「永遠」にすがっている。
 そして1月のハワイ沖海戦。K大佐にとって2度目の衝撃。この日、第1機動艦隊は開設以来最大の損害を被った。お互い、可能な限りの母艦兵力を叩き付けたこの海戦で日本軍は実質的に壊滅した。母艦自体の損害は最小限に抑えられたが、母艦航空兵力は半年以上の再編成が必要だった。後退中、夕日に染まる被害艦艇郡を見ながら、K大佐の疑問は完全に確信に変わっていた。海軍には――いや、日本には、合衆国の完全な打倒など不可能なのだ。いや、だからこそ「藤堂プラン」が発動されたのだが、それが意味のないものなれば戦争終結など不可能となるだろう。今後、戦争を終わらすことがなされなかったら―――畜生。「永遠」なんていらない。「艦隊派」の望む「永遠」などが実現したら、日本自体が終わりの見えない戦争に引き釣りこまれ、そして《破滅》という終わりをむかえる。最初から終わっている戦争。なんてことだ。〈三笠〉に端を発する「永遠」は、日本を滅びにむかわしている。
 海戦後に真珠湾に戻り、休養および修理を行う第1機動艦隊に〈折原《吉野》浩平〉〈氷上《八雲》シュン〉〈城島《蔵王》司〉の横須賀への回航が伝えられた。横須賀到着後、日米休戦が伝えられ、講和交渉中の休戦破りにそなえるために日本近海の有力部隊が次々とハワイ等の拠点に移動を開始して行く(*7)。
 横須賀に残されたのは、「艦隊派」――継戦派に属する、もしくは継戦派になびくと目された者達が操る艦艇群であった。K大佐はその事実に気付いていたが、第1機動艦隊からはずされ、さらには横須賀沖で護衛艦艇と共に洋上訓練(臨時旗艦〈城島《蔵王》司〉)を命令されたとあってはどうにもできない。
 そして、1943年2月26日の朝日が昇った――――。

注2 真相はK大佐の寝坊らしい。
注3 いつのまにか搭載機が増殖していたり、艦尾のペンキが丸ごとはがされていたりetc…
注4 翼を折りたたむことが可能な〈綾火〉を搭載することにより、搭載機数は増大した。
注5 この夜戦では上陸支援にあたっていた重巡〈大庭〉等も参戦、混乱のなかの戦いのため日米ともにおおきな損害を被っている。
注6 〈ランカスター〉改造の航空官制機。その電探、無線を駆使した航空官制は「演劇のようだ」といわれるほど見事なもので、さしずめ〈雪見〉は「演劇部部長」とも呼ぶべきであろう。
注7 「ブラザー2」戦隊が西海岸近海で警戒に当たったことが、この戦隊に「壁際」戦隊という別名がつく遠因となったらしい。

慟哭

 
 1943年2月27日早朝、大島沖にひとつの叫びが響き渡った。
「馬鹿野郎! 奴ら、何を考えていやがる。同じ日本海軍なんだぞ!!」
 だが、叫び声を上げた本人は「奴ら」が何を考えているかは最初から知っていた。何故なら、彼もいちどは「奴ら」の考えに迎合したからだ。
 次の瞬間、視界にある全ての艦艇が砲火をはじけさせた。彼の指揮する空母に激しい衝撃が走る。彼は決断した。もはや、終わりは始まってしまっているのだから。
「射撃準備開始。目標、右舷《敵》駆逐艦〈蔦〉!!(*8)」
 永遠の扉が音を立てて開き始めた。空母〈折原《吉野》浩平〉艦長、K大佐は射撃準備に続いて避退を指示したがら、それを悲しみと共に実感していた。しかし、絶望はしていない。
「遠慮などするな! 『ばかばか艦』の意地を見せてやれっ!」
 公称の無い戦い、その第1ラウンドが開始された。

 

破綻

 
 異変は、複数の艦から一切の通信が無くなったことで始まった。
 〈折原《吉野》浩平〉級3隻を主力とする、臨時の訓練用空母群として編成された艦隊(司令官、加来少将)は、27日早朝、大島沖を航行していた。
 あまりにも奇妙に思える訓練命令。K大佐は何らかの裏があることを感じていた。だが、それが自分にとっての厄災として降りかかることまでは想像できなかった。
 応答の無い艦艇は空母〈城島《蔵王》司〉、重巡1、護衛駆逐艦5隻。連絡のとれる他の艦艇(約半数)の乗組員達は事情をつかめない。そして彼らが事情を知ったのは、ほぼ同じに受信した、〈城島《蔵王》司〉からの通信と、横須賀鎮守府からの悲鳴のような電文だった。
「東京にてクーデター勃発、各海軍施設占拠される」
「発、〈城島《蔵王》司〉艦長。宛、全艦艇。我ら艦隊は連合艦隊司令部の指揮下よりはなれ、臨時救国内閣の指揮下に入る」
 この2つの電文で、K大佐は全てを理解した。無線封鎖を行った艦艇は、最初からこのことを知っていた(同調していた)艦長(もしくは戦隊司令)が乗艦、もしくは抱束された艦艇(その証拠に旗艦〈城島《蔵王》司〉の艦隊司令部から一切の連絡が無い)。そしてその他の艦艇は、この電文で彼らに同調する可能性がある艦長その他の乗組員がいる艦艇。
 事実はK大佐の想像とおおきく違ってはいなかった。艦隊司令部は〈城島《蔵王》司〉の艦長以下によって抱束され、人質とされた。他の艦艇の事情も似たようなものだった。彼らは「永遠」を実現させるため、この瞬間を待ったのだ。
 ようするに加来少将を人質に脅迫をかけているのか…。
 K大佐はそう理解した。すでに現実をしっている彼は怒りを押さえることが出来なかった。馬鹿野郎。こんな手段を使ってまで、「永遠」が欲しいのか。そこまでして「消えて」いなくなりたいのか。畜生。
 彼は言った。
「発、〈折原《吉野》浩平〉艦長。宛、全艦艇。
 我らは大日本帝国海軍連合艦隊所属部隊なり。それ以外のなにものでもあらず。クーデターに同調するは逆賊の立場となり、陛下への反逆となると知っての行動なりや? いずれなりとも、クーデターは祖国を破滅に導く行為なり。『永遠』は望むべきものにあらず。各員、翻意されたし」
 頼む、1人でもいいから目をさましてくれ―――K大佐はそう思いながら各艦の返信を待った。だが、彼のこの後先を考えずに放った電文は、事態を悪化させた。 
 あらかじめ取り決めが為されていたのだろう。〈城島《蔵王》司〉はすぐさま返信した。
「全艦、〈折原《吉野》浩平〉を撃沈せよ」
 畜生、はめられた――K大佐はそう思いつつ、叫んだ。 
「馬鹿野郎! 奴ら、何を考えていやがる。同じ日本海軍なんだぞ!!」
 
 

血戦

 
 戦後、戦史家によって「大島沖海戦」と命名される(*9)日本軍艦同士の戦いは、〈折原《吉野》浩平〉の説得に応じた空母〈氷室《八雲》シュン〉その他の軽巡1、駆逐艦4隻の参戦で壮絶なものとなった。2空母の艦載機を発艦させるべく必死に防戦を繰り広げる連合艦隊側護衛艦艇。なんとか2空母の距離を稼ぐことに成功するが、反乱軍側の突撃に、2空母への接近を3隻に許してしまう。最後の盾として立ちふさがる軽巡〈猪名〉(*10)。しかし――
「なによ、どこなさいよそこのパンダ!」
「なんやと? なにアホぬかしとるんやこのボケ!」
と、急接近する1隻、重巡〈大庭〉(*11)との殴り合い(に夢中)となり、戦力外となる。残る2隻の駆逐艦は2空母に砲撃を始めた。立ち上る水柱。飛行甲板には、夜のうちに格納庫内で整備済みの艦載機が出撃準備を整えている。発艦まであと5分。永遠に思える5分。あるいは永遠の5分。
 そして、迫りくる永遠。
 K大佐は思った。永遠だと? そんなものを存在させてたまるものか。軍人は不確かな未来だからこそ戦える。そして傷付き、倒れ、それでも進み、大切な何かを守っていく。そこには不確かだけど、平和の可能性がある。だからこそ俺達は戦う。俺はそんな現実にいたい。永遠などに行きたくないっ!
 畜生、あと少しで発艦なのに――〈折原《吉野》浩平〉のだれもがそう諦めかけたとき、彼らは信じられないものを目にする。
 回頭、反転し、〈折原《吉野》浩平〉の新たな盾となるように駆逐艦2隻へ立ち塞がる〈氷室《八雲》シュン〉の艦影を。
「馬鹿な、戻れ!」
 思わず叫ぶK大佐。だが、その叫びを予期したように送られた〈氷室《八雲》シュン〉から電文が艦橋を凍りつかせた。
「我は同じ目を持つ者なり。ならば、責任をとる。だれしも訪れる世界への責任を」
 K大佐は理解した。〈氷室《八雲》シュン〉艦長(*12)が、〈折原《筑波》みさお〉の空母化に反対した擬装委員長の1人であったことを思い出したのだ。
「最後の時間は為すべきことを為す。貴艦のために。祖国の再興と『絆』を信じ。」
 そして、次の電文を最後に、〈氷室《八雲》シュン〉は通信を絶った。
「さらば」
 集中砲火を受けつつ駆逐艦〈鬚〉(*13)に体当たりをかけた後、〈葦〉の雷撃を受け〈氷室《八雲》シュン〉は沈んだ。もちろん、とうに5分はたっている.。
 反乱軍側部隊で生き残ったのは、〈折原《吉野》浩平〉の第1次攻撃隊(ロケット弾もしくは小型魚雷装備の〈綾火〉と護衛の零戦)が護衛艦艇に集中されたため、艦載機発艦に成功し第2次攻撃隊を撃退することが出来た空母〈城島《蔵王》司〉のみだった。そして〈城島《蔵王》司〉は東京湾へ向かっていた。東京湾では、反乱軍艦隊旗艦空母〈南条《応龍》紗江子〉(*14)、そして護衛空母〈松本〉、戦艦〈坂下《尾張》好恵〉、巡洋艦〈柳川〉〈吉井〉等がその牙を剥き出さんとしていた。
 〈折原《吉野》浩平〉の戦いはいまだ続いている。
 
 

 
 ハワイ・真珠湾のGF司令部が大島沖での戦闘の詳細を知ったのは、シアトル発米特使艦隊の迎撃に反乱軍艦隊が出撃し、その迎撃のため出港した第1機動艦隊が湾口で伊号潜水艦部隊のウルフパックによって地獄を垣間見た直後だった。
「我、小笠原方面への一時退避後、反乱軍艦隊(米特使襲撃艦隊)への追撃に移らん。以後、無線封鎖を実施す」
 〈折原《吉野》浩平〉が最大出力で放った通信の最後はそう締められていた。〈折原《吉野》浩平〉も無線傍受により反乱軍艦隊出撃を知っていた。
 軽空母1隻で正規空母を含む大規模部隊である反乱軍艦隊に挑む。正気の沙汰ではなかた。しかしだれもがあの艦なら何を命じてもそれを行うだろうと確信していた。そして〈折原《吉野》浩平〉を救い、日本を救うためには艦隊を迎撃に向かわせるほかなかった。だが、問題はどの艦艇を迎撃に向かわすかだった。休戦破りへの備えは相変わらず必要なのだ。
 結局、大損害を受けた第1機動艦隊は4つの部隊に再編成された。東京に向かう旧式戦艦部隊。ハワイに残留する機動艦隊。そして2つの反乱軍艦隊迎撃部隊――砲戦部隊と空母部隊。
 この決定が為された理由は簡単だった。空母戦力が半減したにもかかわらず、第1機動艦隊各艦長から激烈とも思える出撃要求が出たからだった。そして空母部隊には、その艦長たちの大半が参加していた。空母部隊編成、主力空母〈長森《大鳳》瑞佳〉〈里村《海鳳》茜〉。護衛艦艇、軽巡〈七瀬〉を筆頭に、駆逐艦〈繭〉〈袖月〉〈澪月〉、電子作戦艦〈川名〉、他多数――。
 GF司令部が反乱軍艦隊の迎撃に主眼を置き、〈折原《吉野》浩平〉の存在をすでになかったもの――自分から沈められに行く艦艇など――とする中、空母部隊の艦長達は違った。彼らは〈折原《吉野》浩平〉を、K大佐を忘れることなど出来なかった。目的も〈折原《吉野》浩平〉の救出を第1に考えていた。何故なら、それほどの価値を――「絆」を持つものとして、〈折原《吉野》浩平〉は認識されていたのだから。たとえ中身が無茶苦茶なものであったとしても、すさんだ戦場で得た大切な想い出を〈折原《吉野》浩平〉と共に紡ぎ、その結果結ばれた「絆」を失うことなど許されなかった。たとえ、だれもかれもが〈折原《吉野》浩平〉を忘れ去っていたとしても。
「目的は〈折原《吉野》浩平〉の支援、救出及び反乱軍空母の撃滅。第1機動艦隊空母部隊、出撃!」  
 永遠をめぐる戦いの終局が幕を開いた。

 米特使艦隊への攻撃を目指す反乱軍艦隊。それを追撃する空母〈折原《吉野》浩平〉、そして、待ちうける連合艦隊砲戦部隊と空母部隊。
 旭日旗をはためかせた4つの艦隊が交錯したのは、1943年3月3日早朝、ミッドウェー北方約80海里の海上だった。
 
 

レッドサン・バーニング

 
 それは一通の電文から始まった。
「我、反乱軍艦隊発見セリ」
 この後位置、時間が記される言葉を放ったのは、追跡に当たっていた〈相田《最上》響子〉の水偵だった。通信は全艦隊が傍受した。そしてその位置で攻撃可能なのは〈折原《吉野》浩平〉ただ1艦だった。
 〈折原《吉野》浩平〉が編成した攻撃隊はほぼ全力の〈綾火〉、零戦合計40機。上空直掩は残していない。どのみち奇襲に成功しなければ、空母複数をもつ反乱艦隊に勝ち目はない。
 K大佐は断固たる調子で命じた。
「出撃」

 反乱軍艦隊は連合艦隊との《決戦》を前に艦載機を消耗する気はさらさらなかった。連合艦隊側空母部隊さえ撃破できれば、直接的な脅威は存在しなくなる。
 よって連合艦隊空母部隊にのみ索敵を集中させた。〈折原《吉野》浩平〉を発見したのが、レーダーが使用不能――チャフの影響――となり、攻撃隊の接近が確実と認めた直後であったことにはそういう理由があった。〈折原《吉野》浩平〉攻撃隊は奇襲に成功した。
 
 ハワイから無理矢理飛ばした〈雪見〉により、航空戦の状況は連合艦隊側に手に取るようにわかった。PPIスコープ上でミッドウェー西方から現れた40機が一瞬にして1000機となり、その直後反乱軍艦隊から艦載機が統制のとれないまま〈折原《吉野》浩平〉へと向かっていく。迷う暇はなかった。
「旗艦〈長森《大鳳》瑞佳〉へ。〈折原《吉野》浩平〉へ攻撃隊接近中。救援を要す」
 受信直後、空母部隊は反乱軍艦隊を攻撃圏内にとらえた。
 
 空母〈城島《蔵王》司〉艦長は過去に空母〈南条《応龍》紗江子〉艦長に経歴を助けられたことがあった。あの悪夢のミッドウェー沖海戦で空母〈剛龍〉の艦長だった彼は、被弾の衝撃で意識を失った。その後気付いたときには友軍の駆逐艦の中だった。無論すでに〈剛龍〉は多くの乗組員を道連れに沈んでいた。被弾時、何も出来ずに空母を失い、そして生き残った艦長。そんな立場の彼を責める人間は多かった。そして彼は自身にとって閑職というべき軽空母〈城島《蔵王》司〉の擬装委員長を拝命する。〈折原《筑波》みさお〉の重巡化に手を貸したのは海軍への復讐だった。その後、元空母マフィアだった彼の行動を「裏切り」と見た者達は〈城島《蔵王》司〉完成後、すぐさま彼を地上勤務に送ることに働きかけ、そして成功した。だが、そこで現在の〈南条《応龍》紗江子〉艦長が彼を悪循環から救った。軍令部に太いパイプを持つ〈南条《応龍》紗江子〉艦長は再び彼を〈城島《蔵王》司〉艦長の立場に戻らせた。そして〈南条《応龍》紗江子〉艦長の悪魔のささやき。そういう理由で、彼は反乱軍に加勢していた。すべては復讐のため。〈南条《応龍》紗江子〉艦長のため。
 彼が自艦の防空より〈南条《応龍》紗江子〉の防空を優先させたのは以上の影響がある。彼にとっては〈南条《応龍》紗江子〉艦長が全てだった。たとえ「永遠」への道を歩もうとも。
 〈城島《蔵王》司〉には攻撃隊の約半数が殴りかかった。彼らは、沈みゆく〈氷室《八雲》シュン〉を無力感と共に見ている。

 攻撃隊指揮官の眼下には飛行甲板がささくれ立ち、炎上しつつ左舷に傾く〈城島《蔵王》司〉が存在していた。そのかわり攻撃隊は対空砲火と戦闘機の迎撃により半数以上を失っていた。そして反乱軍艦隊には、〈南条《応龍》紗江子〉その他の空母が健在だった。40機の奇襲成功でこの損害と戦果。指揮官にはそれが満足すべき結果かどうかわからなかった。だが確実なこともひとつあった。自分は2度と〈折原《吉野》浩平〉へ着艦できないだろうと。それは攻撃開始直前に〈南条《応龍》紗江子〉から艦載機が西方に出撃していたのを認めた時からわかっていたことだったが。
 ふと遠くを見ると、東方から無数の黒点が接近していた。対空電探装備機から電探が使用不能になった(おそらく電波妨害)と連絡があった。確実なことはひとつ増えた。空母〈南条《応龍》紗江子〉は不運のうちに沈んだ空母として戦史に名を刻むだろう。交通事故のようなどうしようもない不運だと。そして〈城島《蔵王》司〉もその後を追うだろう。
 そういえば、と彼は思った。〈城島《蔵王》司〉艦長と〈里村《海鳳》茜〉艦長は同期だったな。

 右舷から雷撃機〈流星改〉数機が迫る。すでに1本の雷撃、3発の直撃弾、多数の至近弾を浴びている〈折原《吉野》浩平〉は行き足が鈍い。衝撃。命中魚雷数は2本に増えた。左右舷命中なので大傾斜していないのが救いであったが、火災は増すばかりだった。大島沖で再合流した駆逐艦2隻も防空に忙しい。攻撃隊からの戦果は伝わっていた。〈城島《蔵王》司〉大破。とりあえず仇は討ったということか。K大佐は思った。そして反乱軍艦隊の攻撃はたった1隻の軽空母に集中している。あとは連合艦隊がこの機会を逃さなければいい。いい気分だった。だが、1つだけ悔やみがあった。あの戦いの中、苦しくも楽しい日々を一緒に送った艦艇たちとは、もう2度と出会えないことだった。生き残れば違うだろうが、それも無理だろう。結局、永遠からは出ることが出来なかったのか、俺は。
 再び迫る〈流星〉。今度は左右舷同時攻撃。避退も予期しているのか、わざと斜線をはずそうとしている〈流星改〉もいる。浸水のため舵の効きは遅い。命中必至。 意味ある死。それはK大佐にとり、永遠などという意味の無い死よりずっと納得がいくものだった。
 だが―――。
「味方機!!」
 周囲から聞こえた歓声と同時に、両舷の雷撃機の動きに乱れが生じた。上空から火線が吹き伸び、数機の〈流星改〉がちじじりに避退する。続いて姿を現した零戦と〈綾火〉が〈流星改〉を追いまわし、撃退した。 
 K大佐は〈折原《吉野》浩平〉の救援に駆けつけた味方戦闘機に、ネコとワッフルのエンブレムが描かれているのを見た。
 そうか。俺は、あいつらのおかげで、永遠から戻ることが出来たか。この2年間、俺が過ごした時間は無駄じゃなかったってことだな―――――。
 そう思った瞬間、すさまじい衝撃が艦橋を襲った。安堵感を感じながら、K大佐の意識は吹き飛ばされた衝撃によって切れた。少量ではあるが残存していた格納庫の小型魚雷が誘爆を始めていたのだ。
 〈折原《吉野》浩平〉の火災は、救援に向かった空母部隊護衛艦艇が到着した後も続いた。
 
 

そして世界が終わるまで

 
 その日の横須賀は晴天だった。多くの見物客が、視界を確保すべく湾口を埋め尽くしていた。そして―――歓声。ドックから1隻の空母が出現した。重巡譲りの無骨な船体が重圧感を発している。
 軽空母、〈折原《吉野》浩平〉
 第2次2・26事件の折、劣勢下果敢に(無謀にも)反乱軍艦隊に攻撃をしかけ、勝利の一端をになった有名空母だった。あの海戦で空母を撃破された反乱軍艦隊は、その後連合艦隊砲戦部隊と交戦、敗北した。結果クーデターは失敗し合衆国との講和は無事達成され、中東で第3帝国の脅威が大きくなる中、太平洋にとりあえずの平穏が戻った。今、彼女はその時の損害から立ち直り、1年の時を経て連合艦隊に復帰しようとしていた。配属先は第1機動艦隊。太平洋戦争後、縮小された連合艦隊(外戦部隊)の主力をなす空母群だった。
 結局、俺はなにをやっていたのかな。〈折原《吉野》浩平〉艦橋で傷の癒えたK大佐は思った。日本軍はあの事件の結果、多くのものを失い、そして得た。うん、俺もそれと同じか。世界は決して楽園じゃないけど、守るべきものがあり、愛すべきものがある。3年前の絶望の後、俺はそれを見つけた。ならばいいじゃないか。今度は、自分の足で歩きながら過ごしていこう。旭日旗の光に輝くこの大洋で。
 湾外には第1機動艦隊艦艇群があった。反乱軍艦隊迎撃におもむいた連合艦隊空母部隊の艦艇の全ても相変わらず所属している。
 突然、通信員が大量の電文をもって艦橋に入ってきた。K大佐はその全てに目を通した後、爆笑し、その後「1艦1艦べつに返してやる」とつぶやき、いかに返信でボケるかを考え始めた。『ばかばか』艦はいまだ健在だった。そしてK大佐は第3次世界大戦においても『ばかばか』艦と共に戦場を駆けることになる(*15)。
 電文は第1機動艦隊全ての艦から発せられたもので、その全てが同じ文だった。
「オカエリナサイ」
 桜の花が咲き乱れる、1944年3月初旬の春だった。
 
 そして、輝く季節へ――。

注8 〈松〉級駆逐艦12番艦
注9 日本海軍は第2次2.26事件の際に発生した海戦について正式名称を設けていない。
注10 〈保科〉級軽巡2番艦。〈大庭〉とは因縁の仲だった。
注11 〈大庭〉級重巡1番艦(大改装後)。〈猪名〉とは因縁の仲だった。
注12 白顔の美男子で、謎な(そして意味深な)言動が多かったという。現在、女性海軍ファンに人気があり、恐るべきことにファンクラブまで存在する。
注13 〈雄(由宇)〉級駆逐艦4番艦。戦時急造の第1型に属する。
注14 〈森川》雲龍》由綺〉級空母(中期型)。実質的には〈森川《雲龍》由綺〉の設計に細かな変更点が見られる。搭載機数54機。日本空母の中ではじめて設計当初からCICを設置した空母であり、その空戦指揮は的確かつ無駄の無いもので、パイロットは「女教師みたいな艦だ」と口をそろえて言っていた。事実、彼女の航空官制官のコールサインは「先生」だった。
注15 第3次世界大戦では汎用空母として使用された後、指揮艦に改装されている。大戦後、除籍解体。

要目(第二時大戦時)

  • 基準排水量 14500トン
  • 全長    198メートル
  • 全幅    21メートル
  • 速力    33ノット
  • 兵装    40口径89式12.7cm高角砲(連装)×6
  • 艦載機55機(格納庫内40機、露天15機)