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〈雛山〉

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戦時急造護衛艦〈雛山〉

(元ネタ To Heart(LEAF)より雛山理緒)

 

 

 開戦にあたって、ドイツのUボートによる通商破壊攻撃は当然予想されたことであり、帝国海軍も対潜作戦に対しては十分な準備を整えていた。と統合軍令本部も海軍も自信を持っていた。
 しかし、開戦直後からその自信は根底から揺らぐこととなった。ドイツ海軍の進出速度は帝国海軍の予想を大きく上回り、たちまちにして太平洋西部およびインド洋における日本の通商活動は危機に瀕することとなった。
 この「亡国の危機」に対して帝国海軍は、〈来栖川《紀伊》綾香〉〈坂下《尾張》好恵〉まで繰り出して水上砲戦部隊の脅威を退けることには成功したが、依然としてUボートの跳梁跋扈は続いていた。
 それに対し、全力で<松>級護衛駆逐艦の量産が続けられていたが、絶対数の不足を補うには至らず苦しい戦いが続いていた。
 その一方で、艦政本部は来るべき海上決戦に備えた空母の建造と戦艦の近代化に忙殺され(大きな損傷を受けた<尾張>の改修問題もその一つであった)護衛艦の建造量増加策にまで能力を割く余地が無くなっていた。それを見越して海上護衛総隊は独自で「どれだけ安価かつ短期間で護衛艦艇を建造できるか」という命題の元、護衛艦の自主開発に乗り出していた。

 本来軍艦とは縁のない技術者がかき集められ(「優秀」な造船・造兵技術者は艦政本部が根こそぎ押さえてしまっていた)、後にブレーンストーミングと呼ばれる自由闊達な論議(彼らは「わいがや」と呼んだ)によって、わずか3か月で排水量720トンの護衛艦の仕様がまとまった。
 同艦は、徹底的に簡素化した船体に汎用の機関と中古の兵装を載せる方針を採り、船殻は徹底的に直線で構成され材料はすべて軟鋼としたほか、マストの一部には竹まで使われていた(さすがに実戦投入時には軽合金もしくは鋼材に改められたが)ディーゼルエンジンとした主機関も艦本型あるいはMAN型でなく発動機製造株式会社(後のダイハツ工業)に製作を依頼し、兵装も空母・戦艦などから取り外した長10サンチ高角砲と25ミリ機銃、電探もメートル波型(後にマイクロ波型に換装)という、異例特例の固まりのような艦であった。
 徹底したブロック建造システムとモジュール化によって、試作一号艦はわずか60日という従来の軍艦建造の概念を超えた速度で完成した。
 艦政本部からは「父無し子」と言われ、「あんなものが浮くわけない」と莫迦にされた試作一号艦であったが、直線基調でありながらもスリムで抵抗の少ない船体のおかげで、8000馬力で26ノットという速力を発揮でき、燃料消費率も良好であり、さらに建造費用が極めて低廉であるという点が統合軍令本部の認めるところとなり、一部を手直しした上で量産が開始され、試作一号艦は〈雛山〉と命名された。
 命名基準は「温泉名」とされた。「雛山温泉」というのは有名な隆山温泉の奥にあるひなびた一軒宿の湯治場であり、計画の初期にこの温泉で話し合いが持たれたことによる。なお、600隻以上に及んだ同級であったが命名元は尽きることがなく、<隆山><草津><有馬><別府><雄琴>などは、それぞれ命名地の温泉組合が献納した艦である。言い換えれば、温泉組合が献納できるほど同級は安かったのである。
 一号艦<雛山>には操舵性に問題があり、航空装甲巡洋艦〈藤田〉への接触事件を始め、何度か接触・座礁を起こしている。改設計が行われた量産型においてはその危険は減少したが、やはり操艦に難のあったことは否めない。ただ、上部構造物の重量低減が功を奏して復元性は極めて良好であり、冬季北大西洋における船団護衛でも不安を感じさせることはなかったと言われている。

 実戦投入後の<雛山>は、低燃費による長い航続力と整備補修の容易さが買われ、インド洋から北部太平洋、オーストラリア、カリブ海、そして大西洋まで東回りに世界を一周しながら転戦し続け、北はレイキャビク強襲作戦から南はマゼラン海峡突破作戦まで、およそ帝国海軍の戦場すべてを駆け回り、船団護衛のみならず対潜戦闘・水上砲戦・緊急輸送・空母護衛・泊地警備・機雷敷設・上陸支援・救難・監視その他この艦に可能なありとあらゆる任務を休み無くこなし続け、「海軍一の働き者」という異名をとったが、その一方で船体も構造物も補修の跡だらけとなり、英国海軍からは「Patchworked Rio」というあだ名ももらっている。「Rio」というのは、日英共同船団護衛作戦時に使用された符丁が、そのまま通称となったものである。

 大戦最盛期には、帝国海軍はもちろんのこと、英国ほか枢軸各国にも供与されたためまさに突貫建造が行われた。そのため、兵装面では特に長10サンチ高角砲が陸軍の〈八車《七式中戦車》文乃〉に使用されることとなったために不足を来たし、特型以前の駆逐艦から取り外した12.7サンチ砲を高角砲に改造したものや陸軍の88ミリ高射砲を連装砲塔に仕立てたもの、果ては前後砲塔をそっくり撤去してその場所にポムポム砲と4連装機銃を2段に積んだ変わり種まで現れ(ちなみに砲塔撤去型は実戦ではかなり活躍している。近接対空火力の密度から言えば〈穂高〉級防空巡をも上回っていたからである)機銃も戊式40ミリの他、武式12.7ミリや鹵獲品のMG42まで積まれていた記録がある。
 機関の製造も間に合わなくなってきたため、蒸気タービン機関を搭載した<良太>型が作られた他、実験的ではあるが電気推進・ガスタービン・スターリング機関搭載型まであり、満州国の沿岸警備向けに石炭缶とレシプロ蒸気機関を積んだ艦や帆装実験艦まで作られた。
 さらに、安価で簡易な構造であったため改造も容易であり、機雷敷設艦・特殊潜行艇母艦・高速輸送艦・観測艦・電波妨害艦・大型噴進弾搭載上陸支援艦・中小国海軍が「駆逐艦」として使用するための雷装型・前部砲塔を撤去して四式散布爆雷投射器を六基(!)備えた対潜強化型・各種兵装や機関の実験艦・さらには元弩級戦艦の30サンチ砲を艦首方向固定で搭載した対地砲撃艦まで作られた。

 こうして、終戦までに各種派生型を含めて約600隻が作られた<雛山>型であったが、建造費低減・建造期間短縮・重量軽減のため、第二士官室の廃止、士官寝室の4人部屋化(仕様によっては3段ベッドで6人)リノリウムの廃止など艦内居住設備は(同時期に建造された海軍艦艇と比較して)劣悪であり、乗組員からは「貧乏長屋」「あばら屋」と悪口を叩かれた。
 一方、敵たるUボート乗組員からは、むやみやたらに増殖してちょろちょろ走り回るところから「ゴキブリ」と呼ばれ、「1隻見たら30隻いると思え」との戦訓(?)まで作られた。
 ほとんどの艦は船団護衛用に特化していたため華々しい戦果も挙げることもなく、ドイツ軍が反応動力潜水艦を実用化した戦争末期には返り討ちに逢うことも多かったため、戦記ではその存在を無視されることも度々である彼女たちは「隠れキャラ」とも呼ばれる。しかし、大戦序盤から終戦まで懸命に働き続け、最も多くのUボートを「撃退」し、数多くの貴重な商船・輸送船を守りきった艦であることは疑う余地がない。


 

【要目】(〈理緒〉)
排水量:720トン
全長:70.2m
水線幅:7.85m
速力:26ノット
武装(主要):長10サンチ単装高角砲 2基
           25ミリ連装機銃  4基
           四式散布爆雷投射器 1基
           爆雷投下軌条    1基

  ○保存艦について
 いわば「使い捨て」であったうえに酷使された艦が多かったため、終戦時には、少数の程度の良い艦が海上保安庁や周辺諸国へ譲渡された他は、ほとんどが溶鉱炉行きか海底で魚礁として過ごすこととなった。
 呉海軍記念公園にも舞鶴海上護衛資料館にも、記念艦として保存されているのは〈塚本《甲型》千紗〉級であり、その他各地方の海上護衛隊基地にも〈塚本《甲型》千紗〉級が保存されている例は見るが、<雛山>級は一隻も保存されていない。
 <雛山>級が海軍施設において一隻も保存されていない理由は、あまりの居住設備の貧弱さに、海軍が同級の内部を公開したくなかったからだという説もある。
 しかしその中で、同級の奮闘によって護られた海運界の関連施設と、同級の建造に大きく貢献した造船所によって、同級の姿を今も眼にすることができる。

<雛山>(第一号艦) 大谷育英会研修所(兵庫県姫路市)
 大谷育英会は、日露戦争後、海員遺児のために海運業界が資金を出し合って設立された育英事業団であるが、現在では広く海事を志す青少年のための育英事業および海事に関する啓蒙活動を行っている。
 同育英会が姫路市に所有する海洋研修所に、ネームシップ<雛山>が保存されている。  一般の記念艦と異なり、停戦直後の姿のまま、塗装も剥げ落ち前線での補修跡や幾多の弾痕も生々しく残して保存されている(腐食防止のための樹脂処理は施されているが)艦内設備も当時そのままであり、海事を志す青少年に海上護衛の厳しさと重要性を伝えるための教材として活用されている。
 熾烈な戦火をかいぐぐりつつ地球を一周し、我が身を盾として主力艦・輸送船・商船を守り抜き傷ついたその姿は、数ある記念艦の中でもっとも栄えある姿であるとも言えよう。  海軍記念日および同会創立記念日(8月18日)以外には一般公開されていないが、同研修所を利用した場合に希望すれば艦内を見学することができる。そのため、同研修所は戦史研究会や図演遊戯同好会の合宿に人気であり、夏期休暇の時期などは抽選予約となるほどである。ただし、「こみパ拡大版」の時期は空いているらしい。

<瀬石>(第五九六号艦) 藤永田自動車教習所(大阪府大阪市)
 最終型の一隻であるが、完成時には〈塚本《甲型》千紗〉級との置換えが始まっていたため、沿岸警備に使用され実戦を経験しないまま停戦を迎える。
 停戦後、海上保安庁の警備艦<せせき>としてその名の由来となった瀬石温泉のある知床半島周辺で漁業保護などに従事した。解役後、同艦を建造した藤永田造船所が払い下げを受け社員研修所として使っていたが、大阪湾岸再開発計画により同造船所が移転した跡地利用として自動車教習所が設立された際に、同教習所の事務所及び講義室・食堂・待合室などとして使われることになった。
 内部は大幅に改装されており外観も白く塗られて同教習所名が大書されてはいるが、同級独特の艦形を偲ぶことはできる。
  一般公開はされていないが、同教習所敷地外からもよく見える。
 なお、老朽化が進んでいるため近日中に解体処分されるとの話もあるので、可能な向きは一度見ておくのも良かろう。写真を撮る場合は、湾岸道路の休憩所から中望遠レンズで撮影すると良い。
 ちなみに、同艦はよく「そうせき」と誤読されるので気をつけられたい。