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〈宮内《伊吹》レミイ〉

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日本帝国海軍巡洋戦艦 〈宮内《伊吹》レミイ〉型巡洋戦艦 Miyauchi-Ibuki-Lemmy Class,IJN

元ネタ:Leaf/AQUAPLUS「ToHeart」 宮内レミイ及び宮内ジョージ・クリストファー、宮内あやめ、宮内シンディ

解説

 〈保科《天城》智子〉型巡洋戦艦に次いで建造された、八八艦隊計画における巡洋戦艦の第二シリーズであり、八八艦隊計画で最後に計画・建造されたクラスでもある。

 八八艦隊計画の末娘である彼女〈13号艦〉級は、合衆国海軍が建造を開始した〈サウスダコタ〉級戦艦に対する回答として、〈来栖川《紀伊》綾香〉の実質的拡大改良型――41cm砲を12門搭載する、速力31ノットの高速戦艦――として計画された。
 ただし、武装配置は〈保科《天城》智子〉級の強化型といえる〈来栖川《紀伊》綾香〉とは異なり、〈サウスダコタ〉級および、後に建造される〈長谷部《高千穂》彩〉と同様の三連装砲塔4基搭載とされた。言うまでもなくこのことによって砲力はそのまま、防御区画を短縮することが可能だった(※1)。
 しかし、50口径16インチ砲を12門搭載する〈サウスダコタ〉級に対して45口径砲12門では決定的な優位が得られない、ならば〈サウスダコタ〉級を上回る、通常型の「戦艦」としては初めて46cm砲を搭載する「巡洋戦艦」として建造するべきだ、という意見が一部から出され、それは同時期に提出された〈来栖川《紀伊》綾香〉級の砲力強化案とともに艦政本部を混乱させた。確かに46cm砲自体は英国が実用化しており、また日本でも既に亀ヶ淵の射場では実験砲とはいえ、48cm砲の試射に成功していた。確かに魅力的な案ではあった。とはいえ、砲弾の共通性や砲塔設計の問題を拭いきることのできない46cm砲搭載案はいささか不利であることは否めなかった。砲力自体は互角であっても、速力面を考慮した場合決して「不利ではない」――防衛海軍として、そして未だ列強のテーブルにやっと付いたばかりの日本という国の実状を考えた場合(そして英国という「後ろ盾」に依存し続ける実状を勘案した場合)、砲弾も共用でき、威力自体もほぼ大差のない41cm砲12門案で決定しかける方向にあった。

 だが、史上初の大規模軍縮条約として知られる隆山軍縮条約会議が、〈宮内《伊吹》レミイ〉級の方向性を大きく変えた。
 保養地を権謀術数の場と化した世界初の軍縮条約において、結果からいえば日本は八八艦隊計画の全てを保有することに成功した。だが、その代償として受け入れることになった主力艦の総排水量制限の結果、〈宮内《伊吹》レミイ〉級は41cm12門艦として建造することが不可能(※2)となった。この制限は、結果的に風前の灯火といっていい状況にあった46cm砲搭載派に大きく味方した。条約が破棄され、無条約期に入った段階で46cm砲に換装可能な設計とした41cm砲艦にすれば、条約の保有枠にぎりぎり収まる艦として完成できる。勿論、装甲も換装の為にドック入りした際に強化してしまえばいい。

 条約会議の際の隆山温泉もかくや、といわんばかりの交渉と妥協が行われ、〈13号艦〉は最終的に46cm砲用の儀装に小改造を加えて41cm砲を搭載する形――つまり、〈来栖川《長門》芹香〉と同じ、41cm砲8門――で本艦型は完成することになった。
 ちなみに、合衆国は条約明けを想定した武装の変更については察知していたと言われている。しかし、現存する資料は原案通りの12門艦への武装強化、後には〈長谷部《高千穂》彩〉級の主砲への換装を想定している程度であり、46cm砲の搭載を想定していたわけではなかった。


〈第一状態〉

 竣工から、「第二状態」への改装までの間、〈宮内《伊吹》レミイ〉型は45口径41cm連装砲塔を4基搭載する、〈来栖川《長門》芹香〉型を大型化したような巡洋戦艦として運用された。このときの評価は、「(他の八八艦隊計画艦に比べると)中途半端な巡洋戦艦」とされることが多かった。事実、砲力としては八八艦隊計画艦中最低クラス、また、速力も〈保科《天城》智子〉型に比べてもせいぜい1ノット優速な程度であり、それだけでみるならば戦艦でもなければ巡洋戦艦としてもいささか鈍足な、どっちつかずの艦といえた。
 加えて、「第二状態」を持つ性格上、本艦の詳細は機密とされたことから、同型艦については艦名と概略性能のみが公表されていた。唯一の例外はネームシップであり、隆山条約加盟諸国の査察を受けた〈宮内《伊吹》レミイ〉で、このため艦橋構造物は敢えて費用の無駄を承知で〈来栖川《長門》芹香〉の線図を利用したため、〈来栖川《長門》芹香〉とされている写真の少なからぬものは第一状態における〈宮内《伊吹》レミイ〉の誤認であることが知られている。

 ところで、ここで一つ余談をさしはさむことを許していただきたい。
 生涯通算撃墜数31機のエースであり、テストパイロットを経た後、日本で二番目に地球の衛星軌道に達した男として知られるF田H之中佐(※3)は、その幼年時代、父親に連れられて見学した横須賀軍港で父親とはぐれてしまい、丁度岸壁に横付けされていた〈宮内《伊吹》レミイ〉乗組員に、ラムネをご馳走になるなど、随分と親切にしてもらった――そしてそのことが海軍への道の第一歩だった――と述懐していた。本来最高機密であるはずの艦まで迷い込んだF田少年もたいしたものだが、そのあたり、明治の空気が未だ残る牧歌的な時代だったのだろう。

 ちなみに同型艦で写真が公表されたのは4番艦〈宮内《戸隠》シンディ〉のみで、「第一状態」での写真はネームシップの〈宮内《伊吹》レミイ〉に次いで多い。


〈第二状態〉

 本級が所謂「第二状態」として再就役したのは、合衆国が隆山条約から脱退を表明した、1936年のことである。予定通り旧来の三年式45口径41cm砲に換えて、新式の94式45口径46cm砲が搭載された。
 本砲は、〈フューリアス〉をテストベッドとして改良が重ねられたものであり、冶金技術の向上によって、当初搭載が予定されていた砲に比べて30%の軽量化に成功していた。なお、余談ではあるが、〈高瀬《大和》瑞希〉型に搭載された50口径46cm砲は実質的に本砲の砲身延長型だった。ちなみに、日英間の密接な技術協力(といっても実質的には英国からの技術流入に近かったが)による技術的な蓄積がなければ、〈高瀬《大和》瑞希〉型への50口径砲搭載は見送らねばならなかっただろう、といわれている。
 砲の生産設備の問題(※4)もあって、同級4隻は一時的に英国に派遣されている。またこのとき、派遣先の英国で3番艦〈宮内《阿蘇》あやめ〉を除く3隻は予定通り46cm砲の爆風に耐久可能な塔型艦橋を採用、それも英国式の箱形というよりもむしろ、合衆国のポスト条約型戦艦が揃って採用した、円筒形の塔型艦橋に近いシルエット――言うなれば混血の帰国子女のようなものだろう――をもっていた。
 なお、これは、〈比叡〉で試験された塔型艦橋の発展型、と言われていた。だが、実際のところは〈宮内《伊吹》レミイ〉級の計画段階から対爆風対策としての塔型艦橋案は存在しており、むしろこちらの方が先と言えるだろう。
 ただし、〈宮内《阿蘇》あやめ〉は期間的に改装が間に合わないと判断されたため、主砲の46cm砲への換装と、既存の七脚式のパゴタ・マストの補強のみに留まった。
 とはいえ、その改装は突貫工事的に行われたためにどの艦もいくらかの問題を抱えていた。特に有名なのは1番艦〈宮内《伊吹》レミイ〉で、排水量的には〈来栖川《紀伊》綾香〉を大幅に上回る大型艦でありながら操舵特性に問題を抱えており、敵味方問わず衝角攻撃を行いかねない程であった。

 その後の大規模な改装としては、ミッドウェイ海戦で受けた損傷修復を機に、副砲の一部撤去と、高角砲の増設を行っている。海軍甲事件の影響を強く受けたこの改装だが、結果から言えば正しい選択なのか、判断するのは極めて難しい。というのも日本の置かれた状況は多数の高角砲を備えた「防空戦艦」というコンセプトを実現するには補助艦艇の数が少なすぎ、言うなれば、少しばかり場違いな方向に進みすぎた、といえるのかも知れない。

 軍縮条約の制限と、日本海軍の迷走ともいえる戦備方針から不本意な姿となって完成し、改装後も46cm砲搭載艦としては決して(〈高瀬《大和》瑞希〉の様に)華のある戦歴というわけではない本級だった。だが、結果的にいえば太平洋戦争においては合衆国、そして第三次世界大戦では欧州連合諸国の新型戦艦群に対抗しうる数少ない戦力であることは間違いなく、日本海軍にとってはなくてはならない艦であったと評するべき艦だろう。
 

航跡

 近年流行している架空戦記的な表現を使うのならば、「機密巡洋戦艦」として竣工した〈宮内《伊吹》レミイ〉級は、他の多くの八八艦隊計画艦と同様、戦間期の大半を補助艦同様の状態で運用された。そしてこれもまた他の艦型と同様に、基幹要員の育成、技量維持を目的に運用された艦もあった。〈宮内《伊吹》レミイ〉級の場合、〈宮内《伊吹》レミイ〉および〈宮内《戸隠》シンディ〉がその後者にあたり、残る2隻は人員の定数を大幅に割り込んだ数しか配属されていなかった。残る2隻は存在していることだけはわかっていたが、臣民の前にも、ましてや外国人の前ともなれば完全に秘匿されていた。それは、同盟国であるはずの英国でさえ例外ではなかった。お陰で、PS計画(※5)が実働し、4隻揃い踏みの写真が公表されるまで、ジェーンやヴァイヤーの海軍年鑑では常に憶測混じりの存在として語られていた。なお、この状態は、隆山条約について合衆国が更新しないことを明確に態度で示した1936年、主砲の変更に伴い、4隻揃って英国に派遣されるまで続いた。
 ともあれ、主砲の換装工事自体は約一年で終了し、イメージを一新した〈宮内《伊吹》レミイ〉級はその本国に帰還した――それはすなわち、約20年の歳月を経て八八艦隊計画艦が揃ったことを意味していた――だが、その4隻が本来の姿で柱島に揃ったのはごく短い間だった。
 1939年9月1日、英仏の宥和政策が過ちだったことを証明するかのようにドイツはポーランドに侵攻。大日本帝国もまた、日英同盟の共同防衛条項に従い、遣英艦隊の戦闘序列を発令、翌10月には〈宮内《鞍馬》ジョージ〉〈宮内《阿蘇》あやめ〉を初めとする主力艦8隻を中核とする艦隊を英本土および地中海に派遣した。結果的にいえば日本海軍のこの判断はいくらかの致命的な誤りを含んでいたのだが(※6)、それはまた別の話である。
 ともあれ、欧州戦線の展開は急速で、戦闘序列が発令されるまでにポーランド軍の大半は独ソ両軍の猛攻によって消滅、そして艦隊が出撃した5日後、10月6日にはポーランド軍は降伏している。
 結果として、第一次遣英艦隊がスカパ・フローに投錨する頃には世界の耳目はナチス・ドイツの動向よりもむしろ、カレリア地峡で繰り広げられているソ連−フィンランド間の紛争に集められていた。
 だが、第一遣英艦隊が完全に暇だったわけではない。先遣部隊の一部は英海軍指揮下で〈綺堂《グラフ・シュペー》さくら〉の追撃戦に加わり(そしてラプラタ河口にて同艦を捕獲するという戦果を挙げた)、英国本国艦隊との共同訓練も実施された。
 遣英艦隊における中核として期待された〈宮内《鞍馬》ジョージ〉〈宮内《阿蘇》あやめ〉の2隻だったが、その扱いは極めて難しいものがあった。特に砲システムの習熟については戦時就役艦並みのスケジュールで行われた(※7)ため、技量はお世辞にも優れている、とは言えなかった。

 しかし、5月に入り奇妙な戦争は終わりを告げた。ドイツ軍は瞬時にしてオランダ、ベルギーを席捲、フランスもまた、一ヶ月足らずで組織的な抵抗能力を喪失した。空軍こそ健闘したものの、陸上の戦線が崩壊しては何の意味もない。戦力の温存を図るため、空軍戦力の残余は地中海経由で北アフリカ、あるいは航続距離の短い戦闘機の一部は英本土へ脱出している。
 このとき、日本軍遣英部隊も撤退支援の為に利用された。〈宮内《鞍馬》ジョージ〉〈宮内《阿蘇》あやめ〉もまた例外ではなく、海軍航空隊ラルウォース分遣隊(通称ラル空)のエアカヴァーのもと、ダンケルク撤退戦の支援に出撃している(ドイツ水上部隊に対する警戒任務)。

 40年も終わりに近づくにつれ、英国の危機的状況はさらに深まることになった。
 7月には「鷲の日」――第一次英本土航空戦が火蓋を切った。ルフトヴァッフェは占領下のフランスだけでなく、ノルウェイからも渡洋攻撃を行い、結果として遣英艦隊は空襲を避けるため、スカパフローからクライド湾、あるいはベルファストへ移動することとなった。
 11月に行われた合衆国大統領選ではアメリカ優先協会の後押しを受けたロングが二期目の当選を果たした。フェア・ディール政策の成功に後押しされた彼は、予備選挙以来英国・英連邦・日本・南部の分離主義者による経済ブロックを批判し、「世界新秩序」による新たな経済圏の確立を謳い上げていた。勿論、この意味について、霞ヶ関とダウニング街は誤解することはなかった。対独同盟――最も甘く計算しても、大規模な対独支援を合衆国は打ち出したのだ。
 この月は、ある意味で日英同盟にとって不幸が重なる月だった。Uボートの攻撃で、船団の護衛についていた〈千鶴〉が撃沈された。このことを一つの象徴として、英本土周辺に情け容赦なく散布される機雷、あるいは大西洋を遊弋するUボートの狼群により、英国はじわじわとその交戦限界へ近づいていった。
 41年に入ると、その危機的状況はさらに悪化した。1月には米独伊三国同盟の交渉が開始された。地中海における優位を確保するために行われたタラント空襲(5月5日)は空振りに終わる。
 そして5月18日正午。〈日野森《ビスマルク》あずさ〉、〈日野森《プリンツ・オイゲン》美奈〉からなる小艦隊がゴーテンハーフェンを出撃した。21日には補給のためベルゲンに入港した彼女を偵察機が確認、英本国艦隊は直ちに迎撃部隊を出撃させた。27日まで続く〈日野森《ビスマルク》あずさ〉追撃戦の始まりだった。
 ベルファストを根拠地としていた〈宮内《鞍馬》ジョージ〉を旗艦とするフォースZもまた、〈日野森《ビスマルク》あずさ〉追撃に加わった。〈日野森《ビスマルク》あずさ〉に引きずり回された英国海軍の切り札として投入されたフォースZだったが、索敵の不備、そして46cm砲に不慣れな〈宮内《鞍馬》ジョージ〉だったが、有り余る敢闘精神は「まるで自動小銃を乱射するかのような」斉射を行わせ、結果、後続艦に充分な射撃データが届かなかった結果、〈日野森《ビスマルク》あずさ〉に対して充分な破壊を与える事が出来なかった。技量について、敢えて能力を均してしまったことがその最大の理由だった。
 最終的に〈宮内《鞍馬》ジョージ〉が被雷し、速力の低下を来したことで〈日野森《ビスマルク》あずさ〉追撃戦は実質的に終了した。
 このことを奇貨としたロング政権は国内世論を親独路線にまとめあげ、それは三国同盟の締結と、同時成立した武器貸与法に基づく本格的な対独支援、さらに在満米軍の大規模な戦力増強へとつながった。
 大日本帝国は外交官のみならず、民間も含めたあらゆる「親米派」といわれるひとびとを総動員し、また太平洋の向こう側に対しても積極的な働きかけを行い、破滅的な結果をもたらしかねない対米戦争の阻止に奔走した。「世界新秩序」とやらの結果、押しつぶされるのは紛れもなく大日本帝国であることは間違いない。戦艦戦力は今のところ実質的に互角だが、それ以外の戦力では大差を付けられている。本気で全面戦争をやったら勝ち目など万に一つもない(※8)。だが、その努力を嘲笑うかのように、太平洋の両岸では、民意は戦争の狂熱に急速に侵されていった。合衆国もさることながら、既に熱病に充分冒されていた大日本帝国の世論は、とある自称「大新聞」を先頭に、避戦工作を続ける政府を弱腰と非難した。ホワイト・フリート以来半ば自動的に合衆国を敵と認識していた海軍も、敢えて政治に口を挟むことは無かったが、とある皇族の非公式な感想は、水面下で海軍の方向を確定しかけていた。
 そして魔女の大釜は沸点に達する――42年3月、日米巡洋艦の間で突発的な偶発戦闘が勃発、まるでそれを待っていたかのように合衆国は前三年計画艦をドイツに供与すると共に、日本に対して実質的な最後通告である、ハル覚書(ノート)を日本側に差し出した。
 そして、これまで何とか欧州圏に収まっていた戦争は、人類史上二度目の世界大戦へと拡大する。


要目

〈第一状態:竣工時〉

  • 排水量 53,000トン
  • 全長 257m
  • 全幅 32m
  • 速力 32ノット
  • 武装 
    • 主砲 45口径41cm砲 連装4基
    • 副砲 50口径14cm砲 12門
    • 高角砲 45口径12cm高角砲 4門
    • 53.3cm魚雷発射管 8筒(水中)
  • 搭載機 
    • 水偵・観測機 計4機
    • 観測用気球運用可能

〈第二状態:太平洋戦争開戦時〉

  • 排水量 60,500トン
  • 全長 260m
  • 全幅 33m
  • 速力 31ノット
  • 武装 
    • 主砲 45口径46cm砲 連装4基
    • 副砲 50口径14cm砲 8門
    • 高角砲 40口径12.7cm連装高角砲 6基
  • 搭載機 水偵・観測機 計4機

〈最終状態:第三次世界大戦開戦時〉

  • 排水量 61,900トン
  • 全長 260m
  • 全幅 33m
  • 速力 30.5ノット
  • 武装 
    • 主砲 45口径46cm砲 連装4基
    • 両用砲 50口径12.7cm連装両用砲 12基

同型艦

〈宮内《伊吹》レミイ〉

〈宮内《鞍馬》ジョージ〉

〈宮内《阿蘇》あやめ〉

〈宮内《戸隠》シンディ〉 (1968年 練習艦に類別変更)

練習艦〈宮内《戸隠》シンディ〉(1968年)

  • 排水量 59,500トン
  • 全長 260m
  • 全幅 32m
  • 速力 26.5ノット(規定での上限)
  • 武装
    • 主砲 45口径46cm砲 連装3基
  • 両用砲 50口径12.7cm連装両用砲 4基

※旧三番主砲の位置には訓練生区画および講堂等が追加されている

(※1)実際には〈宮内《伊吹》レミイ〉級の12門案が先にあった。〈来栖川《紀伊》綾香〉の1、5番砲塔に採用された三連装砲塔はこの12門案向けに設計されたものを転用している。
 なお、〈宮内《伊吹》レミイ〉級の設計にあたり、助手の筆頭として実質的な設計を行ったK少佐は後に、〈長岡《加賀》志保〉の改装および〈緒方《瑞鶴》理奈〉およびその戦時向け簡略型といえる〈森川《雲龍》由綺〉の基本設計に携わることになる。
(※2)砲力以外では実質的に〈サウスダコタ〉級を上回る〈来栖川《紀伊》綾香〉級、そしておそらくその改良型となるだろう〈13号艦〉級の存在(というより、それに対応するための軍備拡大)を恐れた合衆国が主張し、建艦競争に巻き込まれ、在来艦の急速な陳腐化(つまるところ建艦競争に巻き込まれた結果としての財政破綻)を恐れた英国が日本の手綱を引いたことで妥結に至った。
(※3)西海岸に逃れた「TIME」誌の表紙を飾るなど、むしろアストロノーツとしての彼の方が有名だろう。ちなみに、そのとき彼に対してつけられたヘッドラインは「万能の平凡人」――確かに、合衆国人好みのヒーローでありながら、プライベートにおいては極めて平凡な父であり、夫であった彼には最も相応しい称号といえるかも知れない。
(※4)条約上、日本国内で46cm砲の生産設備を持つことは極めて困難だった。ちなみに、このとき〈宮内《伊吹》レミイ〉級に搭載された46cm砲は、名目上〈セント・アンドリュー〉級の代艦として計画された〈スフィー〉級用として生産されたものだった。ちなみに、ドイツ系をルーツとするいくつかの資料で散見される〈セント・ジョージ〉というのは、〈宮内《鞍馬》ジョージ〉の改装にあたってドックや資材を確保するために英国が付けた秘匿名称という説が最も強い。
(※5)パシフィック・ストーム(太平洋の嵐)の略語。さらに拡大され、マルP計画となる。
(※6)その一つが、「アークハート回顧録」や英国の、それも戦略レベルの視点で描かれた戦記(その代表はキタザキ・エンターテインメント配給で映画化された「航空艦隊物語」)で度々触れられる「日本海軍は主力艦ばかりを持ち込み、本来必要な護衛艦艇については等閑に付していた」という論調である。
 もちろん、それは英本土陥落に至る要因のアルファではあるが、オメガではない。
 むしろ、遣英艦隊の到着当時は「吸血鬼」として恐れられたポケット戦艦、そしてその後に続くであろう大型水上艦――言うまでもなく、それらは確実にかつてのシュペー艦隊のごとく用いられると予想された――の行動を封じ、撃滅するに足る(もちろん、地中海の覇権を維持したまま)だけの戦力が揃ったという意見の方が海軍内外を問わず多かった。
 誰もが戦争が変わっていたことに気付いていなかった、といえばそれまでだが。
(※7)加えて搭載していた主砲自体が新型のため、〈St.アンドリュー〉等の英国保有の46cm砲艦の蓄積データを参考にすることもできなかった。
(※8)「帝國海軍は、一年や二年は暴れてみせます」(山本五十六大将 当時海軍大臣)