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〈梓丸〉

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〈梓丸〉級特設航空母艦 AZUSAMARU Class CVE,IJN

Leaf「痕」柏木 梓

(注)昭和末期の学習研鑽社「ミリタリーイラストレイテッド空母名鑑」の記事の抜粋であり、内容には現在知られている戦史との相違があります。


 英国海運業社、「エル・クー社」によって建造された高速貨客船〈プリンセス・アズエル〉を日本海軍が改装、航空母艦としたもの。エル・クー4姉妹の2番艦である。

 エル・クー社が社運を賭けて建造した豪華客船の二番手〈プリンセス・アズエル〉は、1番手〈プリンセス・リズエル〉とはまた違った趣向のものとなった。優美と俊足を具現化したような客船〈プリンセス・リズエル〉とは異なり――はっきり言ってしまえば正反対――いかに多くの貨物、客をそれなりの速力で運ぶかを念頭に置かれ設計された〈プリンセス・アズエル〉は、力強さと精悍さを感じさせる貨客船となった。排水量は約18000トンとエル・クー4姉妹のなかで最大となったが、他の姉妹とおなじく艦影の美しさは失われていない。
 栄えあるエル・クー4姉妹の次女〈プリンセス・アズエル〉は1919年の竣工後、期待にたがわぬ業績をあげた。〈プリンセス・アズエル〉は英亜航路に投入され、多くの人々に「インド洋のアスリート」と呼ばれ愛された。その理由として考えられるのは、腕のよいシェフがつくる豪華客船に似合わぬ質素かつ美味い料理、面倒見のよい船員達、そして大型ゆえの豪快さのうらに繊細をもつ艦影だと思われる。ただし、シェフについては「何者かにいつも追われいるみたいだった」、船員については「面倒見がよいのはそれはそれでよいことなのだがその『面倒の見方』に問題があった」と乗りこんだ人間全てが語っていることから、〈プリンセス・アズエル〉独特の性格があったのであろう(この傾向はエル・クー4姉妹全てにいえることだが)。

 だが、他の姉妹と同様に、大恐慌の余波が原因のエル・クー社倒産によって〈プリンセス・アズエル〉は日本の来栖川海運に買収された。あらたな艦名は「梓丸」。買収後の小改装を行った隆山造船所、その社長の4姉妹の名を取って名付けられたといわれているが真相は定かではない。ただ確実なのは、「梓丸」と改名され以前と同じように日英間を渡りつづけた〈プリンセス・アズエル〉の人気は衰えることなく、いつしかそのファンの人間達は自他ともに「梓もの」と呼称したことであった。
 こうして、来栖川の豪華貨客船として平和な時代を謳歌した「梓丸」であったが、世界情勢からはやはり無縁ではいられなかった。1936年の座礁事故――隆山軍港近海での座礁。大型軽巡〈柏木〉の操艦ミスによって起こった接触の危険を回避するために発生した――を契機とした海軍援助の第1次改装によって「戦時において空母に短期間で改装できる」改装を施された。一例を挙げるのならば、エレベーターの大きさを飛行機用に大型化、などである。もちろん、豪華客船としての価値は減じていない。
 この改装は当時こそ国税の乱費などと非難の対称となったものだが、後世からみれば成功といえるものだった。この改装には1年ほどの時間を要したが、改装の結果、開戦後の空母への本格改装は5ヶ月で終了させることが出来たからだ。客船から空母へ直接改装された〈あるぜんちな丸〉(後の〈海鷹〉)をはじめとする他の商船改装作業が1年以上も必要であったことを考えると、この重要性は大きい。もっともこの措置は、海軍が客船ファンによって〈楓丸〉空母改装計画をリークされ、〈楓丸〉を合衆国に売却するはめに陥った挙句結果的に合衆国空母を増加させてしまった「〈エディフェル〉事件」の教訓によるものであったのだが。

 第1次改装後再び商船航路についた〈梓丸〉は、それからわずか2年ほどで豪華客船としての使命を終えた。第2次世界大戦の勃発により海軍に徴用され、空母として本格改装される運びとなったのだ。
 改装の方式としては、1929年に海軍の補助で建造された〈浅間丸〉級客船――空母改装を前提に建造――の改装計画とほぼ同様のものとなった。客船時代の遊歩甲板以上の構造物を撤去し、ここに一層の開放式格納庫を設け、その上に全長約180メートル、最大幅25メートルの飛行甲板を設置した。当初飛行甲板は165メートルを予定していたが、空母の理解が深い英国海軍からの助言を受け、180メートルに延長された。また英国からの助言には小型島型艦橋を装備した〈エディフェル〉の運用実績情報もあり、これをもとに〈梓丸〉は設計を艦橋構造物のない平甲板型から小型島型艦橋設置へと変更した。

 航空機の搭載は計27機、補用4機で、艦戦11、艦攻16機を搭載する予定だった。これは日本海軍が本級のような商船改造空母の主任務を海上護衛ではなく機動部隊の補助としていたことの影響である。また、速力は貨客船時代と変わらず23ノットであった。

 貨客船〈梓丸〉は1939年10月に改装を開始、翌年40年の3月に改装を終了し、完熟訓練の後すぐさま第1次遣英艦隊の一艦として生まれ故郷である英国へ向かった。なお、出撃の時点ではいまだ来栖川海運からの正式な買収手続きは行われておらず、軍艦籍も得ていないため菊の御紋章もなく、さらには艦名も〈梓丸〉のままだった。艦名はこれ以後も最後まで〈梓丸〉であったのだが、その理由は軍艦籍を得たのちも〈梓丸〉の名前が遣英艦隊で定着したため――そして多数の「梓もの」の反対があったためでる。
 他のエル・クー姉妹と同様に変わった経歴をもった〈梓丸〉であったが、その傾向は空母改装後も変わらず、豪快さと繊細さをかねそなえ、対地攻撃、船団護衛、機動部隊戦、はては水上砲撃戦に巻き込まれるなど、なんでもこなした補助空母として活躍した。また、英国到着後に装備された油圧式カタパルトの使用実績は、日本海軍にカタパルトの有用性を教育した。


遣英艦隊参加


 遣英艦隊の空母として風雲急の欧州、英国へと向かった〈梓丸〉の任務は、当初から日本海軍が予定していた機動部隊の補助ではなく、商船護衛任務であった。
 だが、ここで早々と日本海軍が持つ戦術思想の問題点が露呈された。〈梓丸〉の速力不足である。貨客船としては高速の域に達していても、空母として運用するには速度が低すぎたのだ。旧式の航空機以外まともに発艦が出来なければ〈梓丸〉は航空運送艦以上の価値はなくなってしまう。事実、使用実績の振るわない〈梓丸〉の艦長はその心境を「鬼ッ子になった気分だ」と述べている。
 だが、その問題も英国が給与した油圧式カタパルト装備で解決した。このカタパルト装備の恩恵は絶大であり、日本護衛空母群が合衆国護衛空母に負けず劣らずの活躍をするきっかけとなった。
 カタパルト装備によって飛躍的に有用性を高め、船団護衛に活躍した〈梓丸〉であったが、1941年4月に空前絶後の戦闘を行うことになる。

 「空母〈千鶴〉の悲劇」の報復のために行われたUボート狩り作戦(この作戦は〈梓丸〉艦長の兵学校の後輩が輸送船〈日吉丸〉艦長として〈日吉丸〉とともに死亡した事により、激怒した〈梓丸〉艦長の発案により実施された)に参加した〈梓丸〉であったが、Uボートの洋上補給地点を数々の情報――暗号名称『コンビニ』『タカユキ』(名称由来不明)などの機密情報――をもとに見事突きとめ、ミルヒクーを撃沈した後にUボート群――大西洋の狩猟者(JDA)――の反撃代わりの攻撃を受けた。
 ハンターキラー隊の戦いは緒戦こそ統率のとれたものだったが、次第に状況は混乱に陥り、〈梓丸〉護衛以外の対潜艦艇群はばらばらになってしまう。
 両者が報復の意味をこめて激闘を展開する中、〈梓丸〉は突然のカタパルト故障によってUボートの攻撃をかわすことしかできなかった。
 狩猟者達とハンターキラー隊の戦いが中盤に差し掛かったころ、突如として〈梓丸〉直接護衛についていた軽巡〈柏木〉の艦橋が吹き飛び、続いて〈梓丸〉
周辺に2本の水柱が立った。
 ――――敵水上艦!? そんなまさか。〈梓丸〉見張り員は周囲を見まわした。
 たしかに水上艦は周囲には存在していなかった。電探にも反応がない。異常はないはずだった―――数分後、2万メートル向こうの水上からつきだされる、謎の連装砲をそなえた砲塔が発見されるまでは。
 ヴィシー・フランス海軍所属巡洋潜水艦〈シュルクーフ〉。20.3cm砲2門を装備する世界に類を見ない――すくなくともこの時点では――大型潜水艦。〈シュルクーフ〉は臨時に大西洋のUボート群に加えられ、通称破壊に参加していたのである。本来ならば〈シュルクーフ〉はフランス崩壊時に英国へと脱出が可能であったのだが、当時のシェルフィーク艦長の心理的要因から独軍側に付くことを決めてしまっていた。彼は独Uボートとともに〈シュルクーフ〉を扱って大戦果をあげるという誘惑に打ち勝てなかったのだ。
 〈シュルクーフ〉発見から、〈梓丸〉の悲惨かつ前代未聞の戦いが始まった。他の艦艇の支援が(他のUボートとの戦闘で)あてにならないことを知った〈梓丸〉艦長その思い切りのよさと積極的な性格から独力での〈シュルクーフ〉排除を決意。ここに空母対潜水艦の砲撃戦が開始された。
 砲撃といっても、〈梓丸〉の武装は12.7cm高角砲が8基。近距離から射撃しなけば必中はのぞめない。〈梓丸〉は〈シュルクーフ〉へと接近していった。
 これに対し、〈シュルクーフ〉は洋上航行をしつつ砲撃をくりかえす。雷撃を行わない理由は簡単。魚雷を撃ち尽くしていたからだ。そう、ミルヒクーが補給しようとしていた艦は〈シュルクーフ〉だったのだ。よって復讐の意志は〈シュルクーフ〉がもっとも強い。
 このような相手では〈梓丸〉の劣勢は必至だった。まず〈シュルクーフ〉の第3射が飛行甲板前部を叩き、発艦が完全に不可能となり、続いて第5射で〈梓丸〉尾部を直撃、船体を貫通して爆発、その影響でスクリューが捻じ曲がり航行不能となってしまった。
 〈梓丸〉には悪夢の事態であった。だが、この後さらに悪夢は継続される。〈シュルクーフ〉は好き放題に〈梓丸〉を砲撃。装甲を持たない特設空母のため大部分の砲弾は艦底まで信管が発動せずに付きぬけていったが、穴だらけにされることには変わりがない。さらには艦橋を直撃された〈柏木〉が操艦ミスからか、〈梓丸〉にとどめとばかりに接触、衝撃による浸水増加によって〈梓丸〉の運命はここに潰えようとしていた。
 だが、あと一息というところで〈シュルクーフ〉の攻撃が停止した。これも理由は簡単だった。20.3センチ砲の砲弾がつき、さらには〈梓丸〉の救援に舞い戻ったハンターキラー隊が〈シュルクーフ〉を包囲しつつあったからだ。燃料も枯渇しつつあったことも大きい。〈シュルクーフ〉は信じていたものを失い、その失ったものに運命の終止符を打たれた。〈シュルクーフ〉はその後他のUボートに救援を受けるべく離脱しようとするが、ハンターキラー隊の包囲を突破できるはずもなく、あえなく撃沈された。

 大損害を受けた〈梓丸〉はこの後曳航を受けてジブラルタルに移動、〈柏木〉と共に修理を行った。修理が終わった半年後――41年11月、戦局は北アフリカが焦点となっていた。〈梓丸〉はこの後遣欧艦隊東部部隊に配属され、アレクサンドリアへの物資輸送『ア』船団の護衛を電波特務艦〈琴音〉と共同して行った後、『多』号作戦(マルタ島への輸送作戦)においての航空機強行輸送や、アレクサンドリア夜襲時の防空戦、マルタ撤退作戦での兵員輸送を行い、スエズ経由の地中海撤退後は中東方面の撤退援護を行った。そしてその後枢軸軍がインド洋海上兵力の総力を結集して発動したコロンボ強襲作戦「エムデン演習」(合衆国軍作戦名「フォーリジャー」)の迎撃において発生した支離滅裂なインド洋での艦隊決戦、モルジブ沖海戦において日英戦艦部隊の航空援護を行った。


太平洋戦線


 枢軸国艦隊が国ごとに別々の艦隊運動を行った結果混沌というにふさわしい海戦を繰り広げたモルジブ沖海戦は、日英連合軍の戦略的勝利、戦術的痛み分けに終わった。ここでの損害は合衆国のシベリア侵攻における日本軍の苦戦の遠因となった。
 〈梓丸〉はモルジブ沖海戦の損傷艦を護衛してシンガポールに入港、そして海上護衛総体に編入され、ここへきてついに〈梓丸〉のような小型空母が行うべき任務――海上護衛戦に参加した。
 だが、運命はふたたび〈梓丸〉に巨大な戦場をあたえた。マリアナ沖海戦後、この戦争の勝敗を決定付けるべくおこなわれることになった「は」号作戦――ハワイ侵攻作戦に他の海上護衛総体所属の護衛空母群とともに参加をすることとなったのである。
 〈梓丸〉は客船〈浅間丸〉級改造の護衛空母〈浩鷹〉(旗艦)〈綾鷹〉〈初鷹〉、他7隻の駆逐艦で編成される「は」号作戦部隊第3機動艦隊(草加龍之介中将)の第6支援部隊(草加任一中将)に編入された。この護衛空母群の任務は無論機動部隊戦闘などではない。オアフ島への上陸支援である。
 第1機動艦隊とマーシャル・ウェーク配備の爆撃機によってハワイ航空戦力がすり減らされた後の侵攻であったので、D‐DAY+6までは第6支援部隊は純粋に上陸支援を行うことが出来た(ハワイを支援すべきジョンストン・ミッドウェー航空隊は第1機動部隊による航空撃滅戦――東太平洋航空戦によって誤報が積み重なった結果自滅に近い形で壊滅している)。

 だが、事態は上陸7日後――1994年10月25日早朝、急転する。それは対地攻撃任務の航空隊を〈梓丸〉を始めとする護衛空母群がオワフ・ハワイ両島に送り出した後に発生した。
 電探員の絶叫が聞こえた瞬間、それは出現した。
 無数の水柱。
 そしてその数万メートル先には、合衆国艦隊の「ヴィクトリー・ロード」作戦の主力部隊、戦艦部隊が迫りつつあった。
 前日の猛烈極まりない第1機動艦隊(角田覚冶中将)の空襲によって撤退したと判断された合衆国艦隊の「おとり」部隊が、「主力」としてハワイ攻略船団への突撃を再開していたのだ。
 闘志旺盛の〈梓丸〉艦長もさすがに蒼ざめた。数年前の〈シュルクーフ〉との砲撃戦が頭によぎる。艦長は思った。冗談じゃない。やはり絶対に信用してはいけないものがこの世にはある。反転だ。逃げてやる。
 艦長はそう判断すると、草加任一の避退命令を聞くや否や、猛烈な勢いで遁走を始めた。その逃げっぷりはそれまでの歴戦艦〈梓丸〉とは似ても似つかぬものとなり、これを見た他の護衛空母の見張り員は口々に「〈梓丸〉の性格が『反転』した」と証言している。またこの混乱により出撃前に〈梓丸〉炊事員が装甲空母〈千鶴(供法喊羯員との賭けの勝利品として〈千鶴〉からがめて来た大量の嗜好品がばれるなどてんやわんやの状態であった。
 全滅を覚悟した事態であったが、結局この戦い(米軍名称カウワイ沖海戦)は護衛駆逐艦部隊の奮戦と第2機動艦隊所属〈千鶴(供法咾旅匐隊の偶然の参戦、そして戦艦群の反転により駆逐艦3、〈初鷹〉損失の損害で切り抜いた。だが、〈梓丸〉を含む護衛空母群の受難はまだ終わっていなかった。
 戦艦群反転後、突如としてオワフ島から出撃した合計10機のB17〈ラルヴァ〉、B29〈ガディム〉が飛来、迎撃に失敗した第六支援部隊は〈浩鷹〉〈綾鷹〉を空襲によって失った。このうち〈綾鷹〉損失の原因はB17〈ラルヴァ〉の体当たり(故意か否かは不明)によって機体が空母の体内といえる格納庫内に侵入、その後大爆発を起こして爆沈している。旗艦を引き継いだ〈梓丸〉は残存駆逐艦を引き連れて航空援護を受けられる真珠湾近海まで避退した(この後避退したことに激怒した〈雄蔵〉艦長と〈梓丸〉艦長の激烈な口喧嘩が発生する)。

 合衆国艦隊の実質的壊滅とともにハワイ沖海戦は終了し、太平洋戦争の勝敗は決定付けられた。〈梓丸〉は海戦によって負った損傷をメジェロ環礁で修理した後、合衆国西海岸上陸「征」号作戦の第1段階、シアトル上陸「戯」号作戦に参加するための訓練中に停戦となり、その後予備艦となった。


停戦後


 予備艦籍となった〈梓丸〉であったが、第3次世界大戦の勃発と共に現役に復帰、船団護衛戦を中心に活躍、大戦後は予備艦にもならないまま解体された。

 本級は2つの大戦を通して日本の海上交通の守護神として活躍し続けた護衛空母の原型を作ったという意味で興味深い。また、エル・クー4姉妹のうちではもっとも長期間にわたって活躍した。これは客船時代から受け継がれてきた使い勝手のよさと艦長達の闘志存在であろう(食事は最後まで美味かったらしい)。
 余談ではあるが、戦時中のある機関紙「さおりんといっしょ」ではエル・クー4姉妹のうち人気は最下位であった。悲劇性が高い艦ほど人気が高いのはどういうことだというのは今でも世界中の「梓もの」の心の叫びであるという。

要目 (第2次大戦時)

  • 基準排水量  17830トン
  • 全長     173メートル
  • 全幅     25.3メートル
  • 機関出力   45200馬力
  • 速力     23ノット
  • 兵装
    • 12.8cm高角砲×8
    • 航空機31機