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〈フィーリア〉

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F1〈フィーリア〉級護衛艦 Geleitboote F1 FIELLIA Klasse,KM

フィーリア「プリンセス・メモリー」カクテル・ソフト

大井 篤「海上護衛戦」学研M文庫/NHK取材班「日米開戦勝算なし」角川文庫

建造の経緯


 F1型とも呼ばれる、ドイツ海軍の護衛艦(エスコートヴェセル)。日本海軍の〈雛山〉級海防艦に相当する艦である。第2次世界大戦から第3次世界大戦終結まで、ドイツ海軍の主力護衛艦として奮戦し続けた。
 基準排水量712トン、全長76m、全幅8.8m、出力タービン2軸14000馬力、速力28ノット、航続力20ノットで1500海里。武装10.5cm砲2基、37mm連装機銃2基、20mm機銃4基、爆雷40。1949年以降は前方投射爆雷も装備した。
 1934年計画で7隻が発注され、一番艦F1〈フィーリア〉の竣工は1936年である。F8以降は番号のみの命名となった。1950年までで建造隻数は90隻、改良型のF91型も含めて最終的に110隻にのぼる。
 設計はガヤロー設計局(注1)が担当。建造は主にブレーメンのデシマーク社と、キールのゲルマニア造船でおこなわれた。上部構造物を軽金属製とするなど随所に先進技術を盛り込んでいるが、いかにもドイツ的なことに性能優先の凝った設計であり、量産性に留意されることはなかった。2001年現在、残存艦はロストクに1隻が残るのみである。
 通商破壊もしくは艦隊決戦を主眼としたドイツ海軍にしては珍しく、船団護衛用の艦として計画された。しかし英国のスループやコルヴェット、フリゲイトが商船の護衛を目的としていたのに対し、本級にはいざというときに駆逐艦戦力を補助するという狙いがあった。同時期の〈フラワー〉級コルヴェットに比して過大なまでの最大28ノットという高速力と、20ノットの巡航速力はそのためのものである。ところが完成した本級は駆逐艦としては性能が些か不足と見なされ、建造は7隻で一旦止められることになった。その後の本級は「宿屋の手伝い」のような機雷掃海や哨戒任務についていた。


注1:シュテルン・ガヤロー造船官が主宰。O級巡洋戦艦、〈橘《フォン・リヒトホーフェン》天音〉級正規空母、〈カノーネ〉級駆逐艦で著名。ピンギン、アムリタ、チャームという従来からの主力各局が人事異動やその他の要因で動けなくなっていった替わりに、大戦後半におけるドイツ海軍の主力設計局としてブリュッケ設計局(秘匿呼称FC02)とともに活躍した。

海驢(ゼーレーヴェ)


 見放されかけた本級が脚光を浴びたのは、ヒトラー自身ですら信じがたいほど好調に進展した第2次世界大戦の戦局によるものだった。
 1940年7月2日ヒトラーに英本土上陸作戦の立案を要求された国防軍三軍(主に陸軍と海軍)は混乱しつつもそれぞれに作戦案を提出した。
 陸軍総司令部(OKH)は、マーゲートからウェイマスまでの広い正面に一週間以内で三波合わせて22個師団もの戦力を上陸することを主張した。
 これに対して海軍総司令部(OKM)は、確保できる輸送船舶量、船団護衛、掃海、機雷封鎖、上空援護などの実施の困難さから陸軍側の計画を実行不可能と反対した。海軍の提案では、上陸正面をフォークストンからワージングまでに縮め、陸軍の戦力は第一波を10個師団から6個師団へ減らし、上陸期間も12日間へ延長することを主張した。さらに輸送船舶量が、河川や運河用の艀を動員しても圧倒的に不足していることを語った。
 他にも上陸開始時刻の選定など、さまざまな問題で陸海軍は対立して譲らず、作戦の実施は9月半ばに延期され、さらに海峡の制空権獲得が進展しないため、10月12日、英本土上陸作戦は中止されることになった。
 作戦中止は、海軍総司令部を安堵させた。1940年7月当時、彼我の戦力差は絶望的なものだった。使用可能な艦艇がドイツ側は戦艦2隻、空母が0隻(〈グラフ・ツェッペリン〉級2隻が艤装中で、仮装航空巡洋艦〈愛沢《シャルンホルスト》ともみ〉がドック入りしており、商船の〈ポツダム〉と〈グナイゼナウ〉が仮装航巡へ改装中)、巡洋艦が5隻、駆逐艦が9隻である。ノルウェー侵攻作戦「ヴェーゼル演習」で駆逐艦を大量に消耗してしまっていたのだ。潜水艦だけは47隻もあったが、ドーバー海峡制圧の役には立たない。要するにドイツ海軍は海上交通破壊と沿岸警備しかできない状態だった。これ以後、海軍総司令レーダーは戦力の拡充に意を注ぐが、中心となったのは特に英本国艦隊の52隻に対して劣勢の駆逐艦だった。
 これにより、1942年の英本土上陸作戦「第2次ゼーレーヴェ」開始時には25隻もの駆逐艦を揃えることができた。輸送船舶はシュペーアが中心になって増産をおこない、何とか所要量を満たすことができた。しかし、レーダーもシュペーアも見落としていたことがあった。護衛艦の問題である。
 ドイツ海軍は英仏海峡を東はダンケルク沖、西はシェルブール沖に機雷による阻止帯を設置することで封鎖したものの、その機雷帯を突破した英潜水艦を押さえ込む戦力が殆どないことに実施直前になって気づいた。英海軍のように駆逐艦を護衛に当てることはできなかった。駆逐艦は英海軍水雷戦隊と戦わねばならない上に、これまた劣勢の巡洋艦戦力を補うことが要求されていたからだ。結局泥縄と知りつつも、本級や水雷艇T級のほかにトロール船を改装した掃海艇にSボート(魚雷艇)など、使える限りの船を用いて護衛をおこなわせるしかなかった。そしてようやくにして本来の仕事を与えられた〈フィーリア〉級は完全に任務を遂行してのけた。
 「我らは戦う。彼等(国防軍の兵士のことか?)に微笑みが戻るまで」を合い言葉に、護衛戦隊はまるで昼だけしかない世界にあるかの如く日夜を問わず、潜水艦の跳梁を押さえ込み、襲撃を掛けてくるMGB(高速砲艦)や〈椎名《MTB》繭〉(高速水雷艇)を、その高速力と砲力をつかって撃退したりと、「洞窟内のモンスツルムと戦う」ような獅子奮迅ぶりだった。それは初期型7隻のうち、英本土陥落時に生き残ったのがF1〈フィーリア〉のみという苛烈な戦いであった。

攻勢


 この活躍に着目したドイツ海軍は、本級を護衛艦主力として量産することに決した。ただし第2次世界大戦の実質的な終結に伴い、その建造ペースは遅々としたものになる筈であった。しかしすぐさま方針が切り替えられて本級の大量建造へ転じることになった。カナダ侵攻作戦が国防軍総司令部(OKW)で決定されたのである。
 このため〈フィーリア〉級は機関を換装することになった。従前のままでは航続力に難があるからである。MAN社のMZ型ディーゼル・エンジンを搭載し、出力は7100馬力へと減少したが航続力は6500海里と飛躍的に延長された。艦首もより凌波性の高い形状へとかえられた。これらの設計変更により、〈フィーリア〉級は沿岸護衛艦から航洋護衛艦へと変貌したのだった。
 けれども大量建造が開始されたものの、建造はなかなか進まなかった。ドイツ的に凝った設計が量産を妨げたのである。〈雛山〉級が平均50日(最短記録40日)で建造できたのに対し、〈フィーリア〉級は300日弱もの時間が必要であった。これでは火急時に量産できないではないかと、OKM第12課の護衛参謀グロスブルネン大佐が設計局に噛みついたものの後の祭りというものだった。作戦開始までにようやく20隻が揃ったが、不足していることには変わりがない。結局、英海軍がカナダへ逃亡する際に、燃料不足や故障などの諸事情で放棄していった駆逐艦やコルヴェットを修理しつつ活用するしかなかったのである。英国の研究書に依れば、英国で捕獲した艦こそが欧州連合の数量的な主力護衛艦だったと言われるほどだった(注2)。
 そして、1945年5月、作戦「赤の場合」が発動され、フランス軍を先頭に押し立てて欧州連合軍がミクロン島に上陸した。合衆国の目と鼻の先で行われた侵攻作戦に、合衆国ウィルキー政権は艦隊を派遣して監視を行わせただけだった。そして、この時OKMが想定していたよりも英国海軍は消耗しており、ヴィシー・フランス艦隊とドイツ艦隊との交戦にて戦艦〈橘《インフレクシブル》郁子〉と空母〈アーク・ロイアル〉を撃沈された後、彼等はケープタウンを経由してオーストラリア目指して落ち延びていった。

 これが良くなかった、と後年にものした著作にて、グロスブルネン大佐は切歯扼腕することとなる。カナダ侵攻作戦において、ドイツは欧州の造船能力を用いた大船団を仕立てて大西洋を押し渡った。事前に想定された損害は20隻以上(15万トン)近くに上ると見られていた。ところが案に相違して、僅か6万4000トン程度だった。これならば許容範囲以内であると、OKMでは判断した。衰弱した英海軍にこれ以上のことができるはずもない。ましてや劣等人種においてはいわんや。
 詰まるところ完全に慢心してしまったのだ。長年の英国海軍へのコンプレックスが裏返ったものと見て良いのかも知れない。
 英国海軍恐れるに足らず。この風潮がドイツ海軍内部に蔓延してしまっては、長年に渡り英国の護衛作戦を研究してきたグロスブルネンが警鐘を鳴らしても、それをまともに取り上げるものは少なかったのである。海軍総司令カール・デーニッツにしてからが、この大勝に興奮したらしく、潜水艦よりも戦艦建造を優先されたことに憤慨しているコメントは残しているが、護衛艦に対して何らのコメントを残していないのだ。ただ兵站や戦時経済に独特の勘を有する総統ヒトラーが、船団損害の見積もりが甘いことを指摘している。しかし、デーニッツから占領下英国において確保したコルヴェットの数量が十分にあることを説明されて満足していたのである。
 それにドイツ海軍は目前の敵、合衆国海軍大西洋艦隊をまず打倒しなければならなかった。そのためにはまずH級戦艦4隻を完成させねばならない。
 そして日英潜水艦の跳梁を押さえ込むには哨戒拠点を前進させていけば良いとも見られていた。具体的にはパナマとスエズを押さえてしまえば日英の潜水艦は大西洋と地中海へ侵入できない。唯一の入り口足り得る南大西洋は、アルゼンチン政府とマルビナス(フォークランド)租借について政治交渉中だった。つまり大西洋のドイツの内海化は目前だった。斯くして数少ない護衛艦〈フィーリア〉級の建造は優先順位が下げられてしまった。
 一方同じ頃の日本では、太平洋戦争の損害からの復旧と、商船と護衛艦艇、潜水艦の建造が急がれていた。造船所などの生産設備もまた増強されていた。日本人は来るべきトン数消耗戦争に勝利すべく、尋常ならざる熱意でもって努力を重ねていたのだ。

 ドイツの攻勢作戦は続く。国力が貧弱だからこそ短期決戦で勝利しなければならない。勝利し続けなければドイツ国内の諸矛盾を覆い隠せなくなる。ためにさらなる戦争へとドイツはのめり込んでいった。標的は、経済で優位に立つ合衆国である。
 1948年、合衆国との戦争は呆気ないほどの短期間に決着が付いた。首都ワシントンを反応弾攻撃によって失った合衆国は、わずか半月で崩壊してしまったのである。ドイツ陸軍と空軍は猛烈な突破戦闘で北米大陸の大地を蹂躙してのけた。
 この戦争にドイツ海軍は関与するところが少なかった。東部海岸での通商破壊と、策源地のファンディ湾奥セント・ジョンの防衛が主任務だった。合衆国大西洋艦隊の反撃を撃退したことで、今次戦争で均等に三軍が活躍したと総統から賞されている。しかし、それは政治的意味合いが濃い。だからこそ、次なる日英同盟軍との戦いでは主役を努めねばならないのだ。陸空軍に匹敵するだけの武功を揚げ、宣伝に努めなければ予算を獲得できなくなる。今なお海軍を指揮下におさめんと虎視眈々のゲーリングから組織を守るためにも、海軍は勝利を欲していた。つまるところ首都グロス・ベルリンの政治ゲームが前線に影響を及ぼしていたのである。
 パナマ地峡防衛失敗の雪辱と共に、以上が、ドイツ海軍がカリブ海での攻勢をとり続けた理由である。北米総軍を支配するマンシュタインは海上護衛をこそしっかりと行ってもらうことを望んでいた。合衆国企業群と契約できない内は、欧州から全てを運ばねばならないからだ。そして数少ないながらも、枢軸軍潜水艦が大西洋航路を脅かしていた。
 しかし海上護衛は賞されること少なく、また絵にもならない「沈黙の作戦」である。この「沈黙」ということ、「発表されない」ということは「認められない」「宣伝されない」ということである。為に、著書でグロスブルネン大佐が呪って止まない、艦隊決戦主義へとドイツ海軍は傾斜していった。
 もっとも、ドイツ海軍が決戦主義へと傾斜したことにはドイツ経済の現状が影響している。なんとなれば、ドイツと欧州の艦艇建造能力は商船建造と艦艇建造の並立を許容することができなかった。であればいずれかを優先せねばならない。戦略的には枢軸軍の進出を抑えることが最優先されたため、ドイツは護衛艦や商船よりも艦隊整備を優先させたのである(但し、潜水艦整備はまた別である)。
 艦隊整備に狂奔するその姿が、日本帝国海軍のかつての有様と相似形を為していることに、ドイツ海軍上層部は気づいていない。


注2:〈ハント〉級護衛駆逐艦40隻(ZBと番号が振られた)。〈フラワー〉級コルヴェット38隻。42年当時建造中のまま捨て置かれた〈キャッスル〉級30隻もドイツの発注によって完成された。これら捕獲艦は仏伊両国へ、ヒトラーから協力を感謝するとの名目で数隻ずつ贈呈されている。

死相


 破局の時期はすぐにやってきた。1949年に枢軸軍がパナマ地峡を占領し、コロンを出撃基地とした枢軸軍潜水艦部隊が暴れ始めたのである。
 たちまちの内に中南米航路は事実上閉鎖されてしまった。特に狙われたのが、ヒトラーの政治的思惑に基づいて原油購買がされてきたベネズエラ近辺を航行するタンカーだった。石油精製基地のある蘭領アルバ島、キュラソー島は機雷封鎖されてしまい、タンカーやその他商船の触雷、被雷沈没が相次いだ。1949年なかば以降は、毎月17万トン近い損害を出し続けることになる。この時期、欧州の船舶建造能力は損害に辛うじて耐える事ができた。
 遅蒔きながらもドイツ海軍は、フランス・イタリア海軍と共にカリブ海外縁の島々の海峡を機雷封鎖することにした。機雷封鎖により枢軸軍の潜水艦が大西洋を狩り場とすることを防ごうとしたのである。
 しかしながら、やはり時機を失したというべきだった。同年8月、自由フランス軍を先頭に押し立て、枢軸軍がマルティニーク島を強襲、占領した。さらに9月30日、マルティニーク島フォール・ド・フランス湾を出撃した〈岡本《伊373》みなみ〉号潜が大西洋を横断し、ジブラルタルの防御網すらも突破して、ティレニア海でイタリアの大型商船〈レックス〉を撃沈してのけたのである。〈レックス〉はブルー・リボンを獲得したこともある、5万トンの高速客船だった。それは枢軸軍にとっては意気上がる起死回生の「スリー・ポイント・シュート」だった。以後も陸続と枢軸軍の潜水艦が大西洋で得点を上げ始め、欧州連合側のディフェンスを崩しまくっていく。
 中でも合衆国と南部連合の潜水艦部隊の活躍が目立っていた。彼等は手持ちの潜水艦をブレマートンやハワイで改装し、さらには日本で建造して供与された伊号水中高速潜で暴れまくった。枢軸軍潜水艦隊の主力は彼ら合衆国と南部連合の海軍といっても差し支えないほどのものだったのである。

 〈岡本《伊373》みなみ〉による〈レックス〉撃沈はイタリア政界に波紋を巻き起こした。首都ローマの目と鼻の先で敵潜水艦が暴れたとあっては、二代目統領チアノの面目は丸つぶれである。しかも「青りんご号」こと〈岡本《伊373》みなみ〉号潜はイタリア海軍の追撃をかわし、再度ジブラルタルを突破して逃げおおせたのだった。統領チアノはヒトラーに猛烈な抗議をした。大西洋の航行の安全を確保できないならば、直ちに北米に展開しているイタリア軍を引き上げさせる、と。
 側面防備や後方警備が主任務とはいえ、今イタリア軍に抜けられては北米戦線が崩壊してしまう恐れが大きい。ヒトラーは〈フィーリア〉級護衛艦の建造を優先させる総統命令を出した。ちょうどその頃OKMのグロスブルネンは360隻になる護衛艦大量建造を立案しており、これで海上交通線の安全は確保できるかに見えた。
 しかし同年8月にカリブ海、特にマルティニーク島を巡る熾烈な攻防戦は既に始まっており、一連の戦いで欧州連合の駆逐艦の大量消耗が引き起こされたため駆逐艦建造が優先され、護衛艦建造を優先させるという先の総統命令は撤回されてしまったのである。同時に、護衛艦と商船もまた戦線を支えるために大量に投入され、バハマ、キューバ、イスパニョーラ(ハイチ)、ジャマイカ、プエルトリコ、マルティニークらアンティル諸島周辺海域で失われていった。

 商船大量喪失の影響はすぐに現れた。中南米からのコーヒー豆や穀物、食肉、金属資源(ジャマイカのボーキサイトなど)の輸入が途絶え、特に物資の殆どを輸入に頼るロンドン民政府管区では飢餓状態に追い込まれつつあった。緊急的にドイツ本土から物資を運び込むことで治安は持ち直したものの抜本的な解決策とは云えない(注3)。さらに北米の前線へ軍需物資を運ぶ船舶もまた急速に不足していった。
 そんな事態を引き起こしながらも、ドイツ海軍はなおもカリブ海での攻勢維持に固執した。北大西洋、特にアイスランドやオークニー諸島、ブルターニュ半島にあてるべき防備資材をもつぎ込み続け、このために枢軸軍のアイスランド強襲による陥落を許してしまっている。
 ドイツ海軍にとっては、ライバルの空軍と陸軍に対する面子が何よりも大切だった。ヴィシー・フランス軍を援護するという名目で、ヒトラーに禁じられていた枢軸軍への積極攻勢を仕掛けたが故にドイツ海軍は引き下がれなくなっていたのである。そして海軍が引き起こしたカリブ海決戦に引きずられる形で、空軍と陸軍もカリブ海に大兵力を展開せざるを得なくなっていった。これによりキューバ島の陸上戦闘と航空戦が行われ、特に航空戦での消耗は北米グレート・プレーンズの戦線に悪影響を及ぼす結果になる。
 これらカリブ海に展開するドイツ三軍に物資を補給するために商船が徴発され、損害を重ねていった。最終的に1950年末、デーニッツがカリブでの敗北を認め、英国諸島周辺海域と北米東岸の防備を固めるというドクトリンを発するまで、ドイツと欧州は大量の艦艇と商船400万トン以上を失っていた。これはイタリア一国の商船保有量を上回る量を喪失し、かつ大西洋を横断できる優良な商船を大量に失ったということであった。このため欧州各国の沿岸交易は多大な支障を来し始めた。
 その損害を補うために、軍需省のシュペーアやOKMのグロスブルネンらが苦心していた。しかし巨大な造船力を持つはずの英国や合衆国東部の造船所で船舶建造をおこなおうにも、かつては欧州の過半をしめていた英国の造船能力は本土攻防戦の際に英軍によって半数が破壊されており、さらに英国人は高額な賃金を約束されて初めて働きだしたものの巧妙にサボタージュした。英国を上回る能力を持つ合衆国東部でもストライキが頻発して全くはかどらなかった。親衛隊の採った、恫喝でもって労働者を働かせようとする政策もまた、ドイツへの反発と抵抗運動を招くだけだった。ドイツ本土で外国人労働者相手に上手くいった施策が、必ずしも他の土地でも適用できるとは限らないのだ。
 この事態に、さしものシュペーアも匙を投げ出しかけていた。高額の賃金支給で釣っても完成期日が長期にわたってずれ込むのでは、予算を食いつぶすだけである。
 建造すべきなのは戦艦か、空母か、駆逐艦か、潜水艦か、それとも商船なのか。優先事項が決定されさえすれば、軍需相シュペーアの能力で船台の調整と大量建造は可能であった。しかし海軍戦略に定見のないヒトラーの朝令暮改に振り回され続け、ドイツの造船能力は麻痺状態に陥っていった。
 ヒトラーに助言すべきデーニッツ海軍総司令は、海上交通破壊によって英国を屈服させただけに海上護衛の重要性を理解していた。しかし枢軸の盟主日本は太平洋の奥座敷に位置し、Uボートで封鎖するにはあまりにも遠かった。わずか数隻のUボートが日本近海で暴れるだけでは圧殺されるのがオチである。ために日本海軍が大西洋に派遣した戦力を叩き続けることが肝要だった。ために護衛艦よりも艦隊型駆逐艦の建造を進言していた。このデーニッツと参謀達が共有している、ドイツ海軍が劣勢であるという認識が、決戦へと海軍を駆り立てていったといっても過言ではない。
 そして、1950年半ば。幾多の戦いの末、カリブ海の制海権はほぼ完全に枢軸軍の手に落ちた。結果、欧州連合にとって海上交通の状況は破滅的なものとなる。カリブの要衝マルティニークから出撃する潜水艦と、グアンタナモ−レイキャビク航路を護衛する機動部隊が猛威を振るい、北大西洋航路は閉鎖されたも同然となった(注4)。
 ドイツ潜水艦隊もまた枢軸軍レイキャビク船団への攻撃を実施しており、それはかなりの成果を上げていたが日本はその損害に耐えうるだけの船腹保有量と造船能力(注5)を持っていたし、大量の護衛戦力を投入してドイツ潜水艦隊を圧倒しつつあったのである。デーニッツが新型ヴァルター・ボートを投入しても、彼我の戦力交換比の悪化を食い止めることはできなかった。
 北米戦線では家族からの便りが届かないため北米派遣イタリア軍の士気が落ち始め、さらにフランス軍にも動揺が走った。
 合衆国軍の反攻以後も、ドイツ軍は合衆国軍の勝利を簡単には許さなかった。しかし、友軍の動揺にグレート・プレーンズでの戦線維持に危機を感じたマンシュタインは戦線を後退させることを決した。勿論、マンシュタインは枢軸軍が突出してくるならば「バックハンド・ブロウ」でもって叩きのめすつもりだったが、アイゼンハウアーは配下の将軍達の手綱を引き締めて広正面進撃をおこない、マンシュタインに付け入る隙を与えなかった。戦線はじりじりと東へと進み(または後退し)、最終的にミシシッピの線で戦われることとなる。
 ドイツ北米総軍は戦力補充が欧州よりなされなくなったため、補充先を旧合衆国東部諸州に求めざるを得なくなっていった。主要な兵器のみならず、兵員もまたドイツ系合衆国市民やSS−NAによって教育が施された少年兵(義勇SS「ネイサン・フォレスト」など)をもってまかなわれた。
 北米戦線は「戦争の現地化」が進むこととなる。行き着く先は、東西合衆国間の果てしない憎悪の応酬だった。


注3:ヒトラーは英国国民を「丁重に」(字義通りの意味で)扱うよう指示を出している。スラブ人と違ってアングロ・サクソン人はゲルマン人に近く、また帝国を築き上げた英国市民は敬意を表するに値するから、という理由だった。いわばヒトラーの見栄と人気取り政策だったが、英本土を養うためにドイツは経済的に相当の無理を重ねなければならなかった。ロンドン民政府管区へ運ぶ食料はバルバロッサ大管区とウクライナ大管区から調達したのだが、今度はロシア人パルチザンの活動が激しくなった。パルチザン鎮圧の為に投入される治安部隊(25万人以上)と資材はドイツ経済を蝕んでいった。大戦末期にはロシアに投入される戦力は、ウラル戦線と治安部隊とを合わせて150万人近くにまで膨れ上がっている。つまりドイツは北米とロシア、大西洋にイタリア戦線を抱える多正面戦争状態に陥っていた。
注4:マルティニーク島占領は自由フランス軍主体(という名目)でグアンタナモ上陸の直前に敢行された(「ジョゼフィーヌ」作戦)。ヴィシー・フランス政府は面子にかけて奪回に固執し、結果として北米艦隊もマルティニーク戦に深入りしてキューバ水域への戦力集中が成せず、さらにマルティニークへの強行輸送によって商船も大量に失われてカリブ海制海権喪失の一因となった。大西洋航路には、ブレスト沖からケベックへ向かう航路と、ジブラルタルからニューヨークへ向かう航路の二つがあった。カリブ海へはニューヨークからマイアミを経由して向かうことになる。このニューヨークからカリブ海へと至る、長大な交通線は欧州連合の弱点となり枢軸軍潜水艦部隊の熾烈な攻撃にさらされたのである。
注5:1950年、日本の建造能力は月産40万トンに達していた。対して欧州全体で30万トンである。一見互角のように見えるが、日本が単一規格で大量建造できるのに対し、欧州はドイツ(占領下イギリス含む)、フランス、イタリアでそれぞれ独自規格に基づき建造していた。これにより船団速度などに不統一が生まれていた。

苦闘


 ヒトラーの大西洋帝国が北米と欧州とに分断されつつある1950年、ドイツ海軍護衛戦隊は苦闘を続けていた。絶えざる敵潜の襲撃。大量虐殺とも言うべき機動部隊による航空攻撃。襲いくる北大西洋の波浪。そして水上部隊の無理解と非協力(注6)。
 悪条件が重なるにもかかわらず、大西洋両岸をつなぐ航路の安全が自分達の働きにかかっていることを認識しているため、護衛戦隊の士気は旺盛だった。戦技も枢軸軍護衛部隊に匹敵するまでに向上している。彼等は「少女の笑顔を取り戻すためにモンスツルムに戦いを挑む少年」のように、敢然と船団護衛をおこなった。
 しかしその前途は厳しいものだった。ドイツ海軍の暗黒面、人員不足と兵員層の薄さが露呈したのである(抜擢人事で能力を発揮する者もいたが、それはごく少数だった)。護衛船団指揮官は応召された老大佐、または商船学校卒の予備将校が大部分を占めていた。応召士官は最新の戦術への反応が鈍く、予備将校出身者は商船救助を優先させて攻撃は二の次だった。優秀な士官達は潜水艦か水上艦隊に配備されており、護衛戦隊に回される事はなかったのだ。ドイツ海軍では相変わらず通商破壊と艦隊決戦が優先されていたのである。
 そして前線部隊のみならず、ベルリンのOKMでもグロスブルネンら護衛参謀たちが海軍上層部や各官庁を相手に厳しい戦いを強いられていた。資材の割り当て、船団スケジュールの調整、護衛への協力要請などなど、調整すべき事は山ほどあったが、縦割り行政の弊害で事は進まなかった。本来ならば帝国軍総司令部(OKW)で処理すべき案件がOKM第12課にのしかかっていたのである。
 そんな中、〈フィーリア〉級の建造効率改良(90日にまで短縮された)と量産は進み、今や名実共にドイツ護衛部隊の主力となっていた。ミクロンとアゾレス、コーンウォールには護衛戦隊航空部隊が展開し、空軍の払い下げを受けたFw200やB−17による哨戒も始まった(注7)。かつての攻守処を入れ替えた形となっていたのである。
 しかし、海上護衛に関する命令系統が海軍軍令部に一本化されていた英国と違い、欧州は独仏伊で共同歩調が取れていなかった。商船規格も違えば暗号も違うし、対潜運動教範も個々に違っていた。ドイツ商船は船団を組むが、フランスとイタリアの商船は独航による高速突破を好んでいる。
 そして、欧州連合の商船暗号は枢軸側に解読されており、方位探知とあわせて欧州連合商船の予定航路は筒抜けとなっていたのである。斯くして商船団は枢軸軍潜水艦の待ち伏せに遭い壊滅していく。ドイツではリレー式電気計算機Zシリーズで構築した暗号が破られていると夢にも思わず、休戦まで暗号体系を大きく変更しなかった(半年毎に解読鍵を更新してはいた)。日本ではチューリング博士の理論をもとに組み上げられた世界初のコンピュータ『コロッサス』を原型に、真空管式電子計算機を開発して暗号解読に用いていたのだ(D計画遂行の為にも必要とされていた)。真空管はすぐさまフェライト・コアを用いたパラメトロン素子へ、さらに理化学研究所が開発した半導体素子に置き換えられ、ドイツをコンピュータ技術で上回っていくことになる。
 OKMで護衛計画立案を担当しているグロスブルネンはドイツ護衛戦隊指揮の元で独仏伊合同の船団を組んでの護衛と、高海艦隊の駆逐艦戦力を護衛に転用することを望んでいたが、これに関してヒトラーの歯切れは悪かった。
 フランス、イタリアの命令下にドイツ艦艇を置くことは望ましくなかった、かといってドイツから一方的に命令して臍を曲げられては北米戦線が危うくなる。特に20万人以上を派遣しているヴィシー・フランス政府へ配慮しなければならなかった。護衛戦力についても艦隊保全主義からいって望ましくなかったし、デーニッツが駆逐艦の転用ではなく潜水艦の建造促進を進言しているために沙汰やみになった。ために首脳レベルでの調整はされず、常に現場レベルにしわ寄せが来た。

 そして破滅の時が来た。「長いナイフの夜」ともいわれる「大襲撃(グロス・アングリフ)」である。
 1951年1月、天候が悪化する時期を見計らってドイツが送り出した「ギリー」船団と「イーディン」船団の計70隻が、枢軸軍の航空攻撃と潜水艦の攻撃で沈んだのだ。折悪しく天候が回復して航空機の活動が始まったのである。潜水艦もまた反復攻撃を繰り返した。〈フィーリア〉級ら護衛艦も相当数が沈められた。この月の消耗トン数は遂に50万トンに達し、ドイツにとっては「魔物が村を襲った」かのような大損害を被った。
 2年前の欧州ならば損害を補うことはできた。しかし、アイスランドのケフィラビク基地に進出した戦略爆撃機〈富嶽〉による爆撃が始まり、造船所や工場群の被害が相次いでいた。さらに地中海ポートサイドからは、バクー、マイコプ、プロエシチの油田地帯への爆撃が始まった。カフカスからの石油パイプラインや鉄道もパルチザンによって各所で分断され、各所で流通が滞った。油田地帯で大量に原油を生産できても、工業地帯へと運び込まねば用をなさない。欧州全体の工業生産量は大きく落ち込んでいった。トン数消耗戦争に欧州は敗北しつつあったのだ。
 ドイツ本土では不足分を補うための人造石油による生産が続行されたが、地中海で枢軸軍にレバント航路を破壊されたフランスとイタリアはそうもいかず、工場の操業は止まり、市民生活は悪化、軍事活動も控えざるを得ない状況に追い込まれていった。
 ドイツ本土への爆撃も激しくなっていった。工場群は東方のダンツィヒ大管区やオストラント大管区、インゲルマンラント大管区へと疎開していった。造船所は〈富嶽〉の行動半径外のバルト海深奥部に移っていった。しかし爆撃されない場所で生産するのはよいが、今度は生産物を必要な場所へ運ばなければならない。工業地帯への打撃が減少したと見て取った枢軸軍は、操車場、橋梁、内陸運河の水門といった交通の要衝にむかって爆撃するようになった。運河と鉄道が破壊されたため、ハンガリーのキンチェスバーニャや、南仏のボーキサイト鉱山からの輸入は停止状態に陥り、ドイツ空軍の継戦能力は息の根を止められつつあった。北海沿岸部には機雷が投下されて沿岸航路も危険度が増した。
 枢軸軍が投下した機雷は、時限式、磁気感知式、水圧感知式、音響感知式、それらを複合させた方式など種々様々だった。掃海部隊が一通り掃海して安全と判断した後に、輸送船が通行すると途端に水圧を感知した機雷が爆発する事例も多く、ために枢軸軍の侵攻目標と推定される英本土への防衛資材輸送ははかどらず、防御陣地設営と物資備蓄は大幅に遅延してしまう結果になる。さらに英国諸島周辺には枢軸軍潜水艦が多数展開し、酷いときには一個連隊をのせた輸送船が海没することもあったのである。
 バルト海もまた危険になった(注8)。中立国スウェーデンに面する国際海峡のカテガット海峡にも機雷が投下され、さらに沿岸部や大河の河口域の航路帯に集中してばらまかれた。沿岸航路をゆく商船の触雷が相次いだ。そのため、スウェーデンのキルナ鉱山で産出する高品質の鉄鉱石の輸入もまた止まったのである。ルールでの鉄鋼生産量は落ち込み、かわりにバルバロッサ民政府管区での生産に切り替えられたが、途中の輸送手段に問題がありすぎた。ドイツ内陸の動脈たるライン川、エルベ川、オーデル川、ドナウ川にも機雷が投下されて艀などに損害が大きくなっていった。ドイツは戦争を遂行する体力を失いつつあったのだ。
 1951年夏には、レイキャビクに本拠を置いた日本第2機動艦隊が欧州沿岸を襲った。その航空攻撃力は圧倒的なものであり、北海と大西洋に面した地域や航路は暴風に遭ったような損害を被っていた。一月に満たない期間だったが、彼等が去った後には航行できる船舶はほとんど残っていなかったのだ。


注6:高海艦隊などでは駆逐艦を護衛に差し出すことをひどく嫌がっていた。艦隊保全主義に基づいて戦力を維持すべきだから、との理由である。しかし駆逐隊の中には護衛に協力的な部隊もあった。中でも、中華民国出身のト・ユンファ大佐率いる部隊は、彼自身「凶手」と枢軸軍から呼ばれる程の潜水艦キラーぶりを発揮した。
注7:ラダール・ゲレートと磁気探知機を積んだ哨戒部隊第901航空戦隊は有効な戦力として期待され、実際に戦果も挙げている。しかしカリブ海の消耗に起因する航空戦力不足によって戦力抽出が相次ぎ、有効戦力たり得なかった。1951年10月12日から15日にかけてのアイルランド沖航空戦で夜間偵察に駆り出されて壊滅してしまったのである。
注8:同時期、黒海も航行には危険な海域と変じていた。ポートサイドから発した〈富嶽〉が石油積出港のバツーミ、スフミ、さらにアゾフ海入り口のケルチ海峡、クリミア半島周辺、ドナウ河口域に機雷を投下していた。ドイツのタンカーは黒海南岸を這うように進むしかなく、ドナウ川へ辿り着くまでにひどく日数がかかるようになった。

我らは戦う


 ドイツの商船団が断末魔にあえいでいる最中、ドイツ海軍は艦隊保全主義に基づく行動をとっていた。1951年末、キールからリガの新根拠地へ移動して戦力の温存を図っていたのである。そして12月24日のグロス・ベルリン空襲に応えるべく、総統命令により、最後の機動部隊を囮とした突入作戦「北の暴風」が発起されることになった。
 この時期、ドイツ海軍の保有する艦艇数は作戦を発起するにはかなりきつくなっていた。しかし、それでも作戦は発起されねばならない。そのために護衛戦隊から多数の艦艇が高海艦隊へ引き抜かれることになった。対空戦闘可能な駆逐艦(46型Z75級など)は第1航空戦隊へ優先して配備されており、高海艦隊の駆逐艦は36型などの古い駆逐艦が多かったのだ。それ故に対空戦闘能力が危ぶまれ、対空戦闘に優れている〈フィーリア〉級護衛艦が引き抜かれたのである。
 数の激減した護衛部隊は、セントペテルスブルクとダンツィヒとをつなぐ航路で砕氷船と〈フィーリア〉級数隻が活動するだけになってしまった。その航路こそがロシアで精製された人造石油をグロス・ベルリンへと運ぶ唯一の安全なルートだったのだが。
 この艦艇引き抜きを巡り、「北の暴風」作戦の図上演習においてグロスブルネン護衛参謀が護衛強化を強硬に主張している。しかし結局、デーニッツが仲裁に入り、艦艇引き抜きに了解を求めたという(注9)。

「私としては、主として、二つの点で、この演習の構想に疑問をいだかざるを得ない。一つはドイツの現在の国力から考えて、アイスランドに決戦場を求めるのは無理ではないかということ。他の一つは泊地強襲という戦法が、戦争の現段階で、割に合わぬものでは無かろうかということである。
 第12課から見ていると、ドイツの国力は決戦を求める余力はないと思われる。ノルウェー方面で囮行動を起こし、アイスランドで艦隊の全力を上げて殴り込みをやるということは、陸空軍もその方面で決戦に出るのだという構えが無ければ効果の無いものとなる。ところが、ドイツの船腹事情は余裕がなく英本土の陸軍部隊への増勢と物資備蓄が十分でない上に、空軍は本土防空で手一杯である。自力で飛んでいける空軍はともかく、陸軍の兵士と物資は船で英国諸島へ送らねばならない。けれども現今の状況ではドーバーを渡ることすら危険なのである。そしてこれにあてるべき護衛兵力は不足気味であり、高海艦隊へ引き抜かれた後は海上輸送に全く自信が持てない、と言わざるを得ない。
 また場所がどこであろうとも、いまの戦局で大艦隊の殴り込みを試みようとすることは大いに疑問である。殴り込みというのは、根本的に奇襲戦法なのであるが、昨今の日本艦隊のように非常に合理的に、綿密な事前偵察は無論のこと、安全率を十分取ってやってくる戦法に対し、奇襲を持って乗ずることは非情に見込みの薄いものとなった。まして目標の目立つ大艦隊でそれをやろうというのである。たとえ、その奇襲が成り立ってみたとして、確かに枢軸軍の陸上兵力は打撃を受けるであろう。しかるに政府は講和を強要する腹づもりであろうが、果たして敵国がそれに乗るであろうか。本土失陥後も戦争を続けた英国の例もある。ひとたび奪回に失敗したとしても、二度三度と試みることは明らかであろう。
 私は英本土への増勢と補給とを万全にすることに重点をおくべきと考える。敵は必ず英本土へやってくるのだから、敢えて出撃する必要はない。海軍は英本土防衛部隊の支援に徹し、陸上で敵軍を消耗させ、その上で和を講じ、かつその際に英本土を返却すると言い添えれば、亡命政府はその条件に乗るであろう。であれば戦場においても道義の上でもドイツの勝利となることは明らかである。
 そのためには、高海艦隊と第1航空戦隊とを解散し、その人員を航空基地整備と海上護衛部隊の強化に当てるべきだ。小艦艇は護衛艦に転用し、艦隊用タンカーは民需用に返してしまって、ロシアからの石油輸送と英国諸島への物資輸送に当てるのが、現戦局において、もっとも、効果的であり急務であると思う」
 これに対し、高海艦隊を代表した水雷参謀は、殴り込み作戦の必要性を弁じた。この中佐は、なぐり込みが大きな成功をおさめるとはいわなかったが、しかし、空軍と陸軍だけでは敵を防ぎきれるものではないから、高海艦隊と第1航空戦隊も使わねばならぬと主張しただけであった。
 最後にデーニッツ総司令直々に、日本もまた経済上の苦境に追い込まれつつあることと、敵上陸船団の撃滅に成功して講和できるならば、(提督はこれを強調していた)艦隊が全滅したとしても意義があるのだ、と語った。高海艦隊の人達は大いにうなずいていたが、護衛参謀は白けるだけであった。始めから結論が決まっており、人の話を聞く気が無いならば、呼び出す必要は無いだろう。
 図上演習(クリークシュピール)の結果は書くまでもないと思う。第1航空戦隊は日本機動部隊に敗れ、北米艦隊と合同した高海艦隊は敵艦多数撃沈と引き替えに壊滅したのである。その惨めな結果に、条件や作戦をいくつか変えて、ようやく成功率5%と出た。この結果が総統大本営に伝えられ、殴り込み作戦はいよいよ発起されることになった。しかしお手盛りの作戦が上手くいくはずもなかったのである。
(「大西洋上における船団護衛戦闘についての記録(邦題:海上護衛戦)」アルベルト・グロスブルネン著/ハイデ・フェアラーク出版(1960年3月初版発行)より抜粋)

 護衛参謀の抵抗もむなしく、高海艦隊の駆逐艦戦力の不足を充当するために護衛戦隊から〈フィーリア〉級20隻あまりが引き抜かれた。彼らは全艦無事に帰還したがその時にはドイツが海洋を失い、英国諸島が奪回されるであろうことは既定の事実と化していたのである。

 1952年1月末、ドイツ海軍最後の攻勢作戦「北の暴風」は実行に移された。英国諸島の安全化を狙って行われた作戦は失敗に終わったが、全滅した独仏合同艦隊や第1航空戦隊のみならず、護衛戦隊もまた多大な損害を被ったのである。
 まずもって結氷したバルト海を啓開してスカゲラック海峡の掃海を行わなければならず、触雷による被害は沈没9隻、大破2隻にのぼった。そして北大西洋を横断する北米艦隊の為に、中継地点のアゾレス諸島へ燃料を運ばねばならない。この燃料輸送にロアール河で温存されていた油槽船〈ポーニイ〉、〈サリアン〉が投入された。護衛部隊も〈フィーリア〉級に〈ハント〉級など10隻がつけられた。
 しかしアゾレスへ辿り着けたのは油槽船が1隻、護衛艦が3隻だけだった。生き残った油槽船が〈ポーニイ〉、〈サリアン〉のどちらかであったかは不明である。北米艦隊に給油した後、北米艦隊を追っていた日本第1機動艦隊の分隊にアゾレス基地は襲われ、艦艇船舶は殲滅されたからである。
 攻勢作戦が失敗に終わった後、ドイツの英国諸島防衛部隊(ドイツ第32軍)は枢軸軍英本土奪回軍との間に凄惨な防衛戦闘を繰り広げることになる。彼らに対するドイツ本土からの補給は駆逐艦やSボートといった小艦艇を使った、ごく僅かなものであった。

 1952年8月15日正午(グリニッジ標準時)。日英米枢軸と欧州連合は休戦に達した。事実上のドイツの敗戦だった。英国諸島は奪回されて英王室はロンドンへ還御し、ベルリンより西は瓦礫の山と化していた(注10)。
 ドイツ護衛戦隊、かつては200隻以上の保有数を持っていた戦隊は41隻にまで数を減じていた。損傷の無い艦は、無かった。
「我らは戦う。彼等に微笑みが戻るまで」
 ドイツ護衛戦隊のモットーである。けれども彼等は商船団を守りきれなかった。彼らが守ろうとした人に微笑みが戻ったかどうかも定かではない。
 しかしながら、彼等の奮闘を笑うべきではない。彼等はそうあろうと努力し続けたのだから。国家が破滅する直前に至るまで(注11)。
 もって瞑すべきであろう。


注9:護衛戦隊はデーニッツの指令にたてつき、高海艦隊司令部との衝突が多かった。このことに関してセクショナリズムが激しすぎるとの指摘もあるが、ドイツ民族に運命に関する考え方の根本的な不一致に基づく衝突だった、とグロスブルネン大佐は反論している。事実、ロシアという後背地を抱えているとはいえ、ドイツは資源輸入国であることに違いはなかった。そのため輸送手段を破壊されると食糧難や生産遅滞が起こっている。
注10:1952年3月、9日と10日の二日間に全噴進式戦略爆撃機〈飛鳥〉によるベルリン空襲が行われた。〈飛鳥〉の初めての実戦参加により、欧州全域が爆撃圏内に納められた。4月にはウクライナの人造石油工場が〈飛鳥〉に爆撃され、ヒトラーを除くドイツ首脳部の継戦意欲を奪っていた。
注11:1952年8月9日朝。ベルゲンを脱出した輸送船団(魚介類や鯨油などを積載)が、日本機10機ばかりに捕捉された。護衛艦4隻がついていたが、OKM12課では全滅を危惧した。しかし日本機は水平爆撃で命中弾を出さず、船団は全艦無事にブレーメルハーフェンに入港した。護衛戦隊最後の勝利だった。日本側の記録では「武士の情け」ということでおざなりの爆撃で済ましたものらしい。但し、編隊長は査問にかけられて更迭されている。

要目 括弧内は後期型

  • 基準排水量 712トン(820トン)
  • 全長 76m(80m)
  • 全幅 8.8m
  • 出力 タービン2軸 14000hp(後期型MZ型ディーゼル2軸 7100hp)
  • 速力 28ノット(25ノット)
  • 航続力 20ktで1500海里(17ktで6500海里)
  • 武装
    • 10.5cm砲×2(連装×2)
    • 37mm連装機銃×2(×4)
    • 20mm機銃×4(×8)
    • 爆雷40個(80個)

同級艦

  • F1〈フィーリア〉
  • F2〈プリンツェズィン(王女)〉
  • F3〈ハイリヒャー(聖女)〉
  • F4〈クラインキント(幼女)〉
  • F5〈プロスティツアーテ(娼婦)〉
  • F6〈バルバル(蛮人)〉
  • F7〈シュラオ(狡猾)〉
  • F8〜F90(F8型)
  • F91〜F110(F91型)