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<A9>

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各種艦艇 / 〈長岡《加賀》志保〉 / 大ドイツ連邦軍指揮体制私案(2015年) / 世界設定 / ヘーアに関する覚え書き / クリーグスマリーネに関する覚え書き / ルフトヴァッフェに関する覚え書き / 大ドイツ帝国の年代別状況 / その他兵器 / 日本帝国陸軍歩兵火器に関する設定案

〈A9〉 Atom-Unterseeboot A9

Tactics「MOON.」鹿沼 葉子

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 第3次世界大戦最末期、ドイツが出現させた反応動力潜水艦。史上初めて潜航状態で北極海を横断し、その強大きわまりない力によって枢軸諸国を畏怖せしめた。
 涙滴型艦型をドイツで初めて採用し(合衆国の〈ホランド〉が史上初といえる)、吸音タイルによる静粛性能、加圧水型反応炉、低周波フェイズド・アレイ・ソナー、武装として有線誘導ホーミング魚雷と水上発射式巡航ミサイルを持つという、あまりにも世代を突き抜けた新技術の結晶だった。だからこそと言うべきか、ドイツ兵器にありがちな「登場時期が遅すぎた」新兵器の一例と云える。しかし〈A9〉は、一瞬の光芒というには鮮烈すぎる活躍を示し、ドイツの力を全世界に印象づけた。

 1952年6月。大ドイツ帝国の敗勢は誰の目にも明らかとなっていた。海軍はレイキャビクに集結した侵攻船団の撃滅に失敗し、空軍はドイツ本土への爆撃を防ぎ切れていなかった。陸軍はウラル戦線、スペイン戦線(仏西ともに睨み合いを継続中)、イタリア戦線、英国戦線を抱えており、忌むべき多正面戦争に引きずり込まれていた。北米大陸との連絡は、空路だけは辛うじて維持できていたものの、海路は完全に断ち切られていた。
 枢軸軍は英本土奪回作戦「アーク・エンジェル」を実働させて、ドイツ第32軍をイングランド南部に押し込んでいる。第32軍はヨークシャー、ランカシャー、リンカーンシャーのイングランド中部を中心に、運河や沼沢地、森林、丘などの地形を最大限に利用して防御戦を戦っていた。制空権こそ無いものの、時には鋭い反撃によってヒースの生い茂る原野に英軍を打ち沈めることすらあった。訓練を重ねていた筈だが行動の拙劣な英軍は、ドイツ軍の精鋭にとって「戦争教育」の対象でしかなく、小隊規模の珊罅劵譟璽凜А咾鳳儼概々檀隊1個連隊が殲滅されたことがその証左であろう。
 しかし、春にイングランド南部エセックスへ枢軸軍が上陸し、ドイツ軍の後背を絶とうとしたため、第32軍司令官シュティア上級大将はテムズ川以南へ部隊を撤退させていった。ドイツ軍はテムズ川上流とセバン川の間の地峡部を抜けてウェセックス、サリーに展開し、テムズ−セバン防御線を張ったものの、ロンドン防衛軍司令官フォン・コルティッツがヒトラーの「ロンドン破壊命令」に背いて英軍に降伏したことで防御線は崩壊したのである。
 以後は済し崩しにドイツ軍は後退し、ケント、サセックス、デボンシャー、コーンウォールの海峡に面した地域とウェールズ山岳地帯とに部隊が散らばっていた。シュティアら第32軍司令部はドーバーに移動して指揮を継続していたものの、攻勢など取れるはずもなく、海峡対岸のパ・ド・カレー地区に展開する50.8センチ砲を始めとする要塞砲群による阻止砲撃の傘のもとで防御戦を戦うので精一杯だった。英軍はカンタベリーを奪回してドーバーへ着実に歩を進めていた。今やドイツ軍は海峡に追い落とされようとしている。しかし、それでもヒトラーは英本土放棄を認めようとはしない。ドイツの勝利に終わった第2次世界大戦の戦果を失うことは「政治的に耐えられない」からだ。
 6月8日、総統ヒトラーは遂に「全面的に反応兵器を用いた戦争」の準備命令を下した。眼は充血し顔面が蒼白の鬼気迫るヒトラーの形相に、総統大本営の面々は何も云えなかった。しかし秘やかに策動が始まった。ヒトラーの趣味に付き合いきれないことを誰しもが感じていたのだ。 7月20日朝、NSDAP国家指導官ボルマンは、ヒトラーが上機嫌になっているのをいぶかしく思った。このところのヒトラーは反応兵器戦争準備(ドルンベルガー麾下のSSロケット軍が主体だった)が遅れていることにひどく苛立っていたのだ。
 同日、12時42分。リンツ郊外ティーゲルシャンツェの作戦室で、ヒトラーの足下に置かれていた鞄が爆発した。ヒトラーの死亡を確認したベルリンでは、国防軍と親衛隊とNSDAPの間で奇怪なゲームが繰り広げられ、国民に人気の高いエルヴィン・ロンメルが第2代総統に擁立された。
 7月26日、第2代総統ロンメルはポツダムにて休戦を枢軸諸国に提案した。これをポツダム宣言という。枢軸諸国も前向きの回答を約し、大戦は終結にむけて動き出したかに見えた。そして、8月15日のグリニッジ標準時正午をもって休戦することが確約された。
 8月8日、ベルリンに1本の通信が入った。「総統特務命令第666号に基づき、作戦を開始する」
 発振元はノール・カップに近いグリムスタ・フィヨルドからだった。ベルリンでは誰しもが首を傾げた。ノルウェー極北部に〈“インディカ”ユイナ〉の基地以外に何があったのか、誰も知らないのだ。ティルピッツ・ウーファーの海軍総司令部から問い合わせても返答はなかった。
 8月11日朝、スピッツ・ベルゲンの哨戒を終えて本国へ帰投中のヴァルター・ボートU5236(ヘルヴェルト・ヴェルナー)が、聞いたこともない潜水艦の航走音を捉えたことを定時通信で報告した。
 正体不明の物体は潜航状態のまま25ノットの速度で北極点方向に向かっており、それの航走音は電池式やヴァルター機関のものではなく、強いて言えば枢軸軍の反応動力潜のものに近いという。枢軸軍が反応動力潜を実戦投入していることは既に判明しており、それが北極海で行動していてもおかしくはない。ならば、グリムスタからの通信は一体なんなのか?
 その謎は意外な方面から明らかとなった。ヒトラー暗殺事件で重傷を負って入院加療していたギンシェ副官の供述により、爆発の前にヒトラーが一つの命令を出していたことが判明したのである。
 総統特務命令第666号。「消去せよ」とだけの単純な命令。その詳細についてはティーゲルシャンツェの書庫をあさり、RSHA長官ハイドリヒが親衛隊内部の計画担当者を締め上げて吐かせた。
 〈A9〉。初めて12日間の定常運転に成功した「完成体」の反応動力潜水艦。反応動力装甲空母〈“インディカ”ユイナ〉建造を隠れ蓑にグリムスタ・フィヨルドで進められていた計画。かつてヒトラーがデーニッツに約束していた新兵器。
 そのドイツ唯一の反応動力潜水艦は東京を攻撃することを命じられていた。反応弾を用いて。

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 ここに至り、ベルリンは騒然となった。休戦が取り決められたとはいえ、今はまだ戦争状態である。しかも反応弾を突きつけ合ったままで。
 そこにドイツ艦が反応弾を東京に見舞ったとすれば、休戦破りに激昂した枢軸軍は報復行動を自動的に開始するだろう。ドイツ本土は反応弾で灼かれ、反応弾攻撃に対する反応弾による報復が発動される。あとは止めどもなく憎悪と戦火が拡大していき、行き着く先は絶滅戦争である。欧州大陸はノーマンズ・ランドとなり、ギリシア・ローマ以来の文明の精華は絶え果てる。
 なんとしてそれだけは避けなければならない。欧州文明の守護者を称するからには。しかし、ドイツには〈A9〉の行動を止める手だてがなかった。
 〈A9〉が定時通信に出るならば、総統ロンメルがヒトラーの発した総統命令を取り消せるが、相手が長期間の潜航状態に入っているのではそれもできない。さらに追撃できる潜水艦が存在しない。ドイツに反応動力潜は〈A9〉の他になく、既存のヴァルター・ボートでは航続距離が及ばず、しかも今から追撃をかけても北極点近辺の海図は無いのだ。手探りで航行するのでは休戦発効に間に合わない。
 8月12日、窮したドイツは日本へ〈A9〉の存在と、それの行動を通報した。もはや日本の反応動力潜によって〈A9〉を沈めるしか、絶滅戦争回避の方法はなかったのだ。

 ドイツからの通報を受けた日本政府、国場首相の行動は速かった。
 皇室一家には巡幸の名目で東京から地方へ避難していただいた。次の内閣首班に指名した鈴木貫太郎侍従とともに、東京が消失した場合に備えて政府機能を維持できるだけの文書と官員も移動させた。日本銀行の資金も早急に移動させた。これで国内政治の準備は終わった。
 軍事では、〈亜12〉号潜にベーリング海峡での迎撃を命じた。ドイツ政府から、潜航したまま北極海を横断し、ベーリング海峡を抜けて太平洋に躍り出てくるという、〈A9〉の予想針路が知らされたからだ。
 さらに、第1次迎撃線の後方に、編成途上の第3機動艦隊がアリューシャン列島線沿いに展開した。哨戒部隊もダッチ・ハーバーを拠点に急速に展開していく。
 日本近海では水上発射型〈アーリアンボーテ〉の射程範囲に納まる海域の哨戒も開始された。統合航空軍本土防空集団にも誘導弾を撃墜するよう厳命が下った。
 ポートサイドとレイキャビクの反応弾パトロール部隊へはその任務を停止するよう命じた。その旨はロンメル総統にも伝えられている。
 ドイツでもSSロケット軍の弾道弾発射待機体制を停止させていた。日独首脳の考えは一致していた。狂人の思惑に付き合ってやる謂われなどありはしない。この事件をきっかけに日独首脳間の直通電話回線が引かれることになる。
 チャーチル首相とデューイ大統領へは自重を求めた。仮に東京が灼かれても休戦合意を守ってもらいたい、と。
 退陣することが既に決まっているチャーチルは諧謔に満ちた言を、「誠実な警官魂を持つ誠実な警官」と評されるデューイは堅苦しく、それぞれの言い方で両者は共に確約した。ド・ゴール率いる自由フランス委員会、バタヴィアのオランダ政府なども同様だった。
 これだけの準備を整えた国場だったが、彼は東京市民の避難は断固として行わせなかった。それどころか休戦交渉を進めるためと称して徹底した報道管制を敷いたのである。某新聞が三軍の慌ただしい動きを知って探りを入れ始めたが、国場は軽犯罪法から国家機密法までありとあらゆる法でもって記者達の活動を封じ込めた。某新聞が広島長崎炎上後に大々的な「反政府キャンペーン」を張り、ために一時期とはいえ英連邦との関係をややこしくした原因を作ったからには当然の処置だった。記者達が真偽定かならぬ情報を報道して東京市に恐慌状態を発生させるよりも、自分一人が憎悪の対象となるほうがまだ許容できた。
 全てが無事に済めば全てが笑い話になる。そうでないときは、千載に残る悪名を甘受して数百万の東京市民と共に反応弾の炎に灼かれる。そう覚悟を定めていた。
 現在の政府首脳は全てが東京に残っていた。次期内閣を構成すべき人々は皇室と共に避難している。あとのことは彼らに任せればよい。
 今、国場のやるべき事は、待つことだけだった。

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 日本の反応動力潜水艦〈亜12〉は北太平洋を急速北上していた。艦長の天沢郁未大佐率いる〈亜12〉が邀撃任務に投入された理由は単純だった。他の〈伊700〉シリーズ3隻が整備のため船渠に入っており、〈亜12〉だけが稼働状態にあったからだ。
 海軍当局は舞い上がっていた気分に冷や水を浴びせられた。ドイツとの大戦は日本を盟主とする枢軸軍の優勢で終局を迎えつつあり、海軍当局は北大西洋に実戦投入していた反応動力潜3隻を整備目的で呉に呼び戻したのである。本来ならばスケジュールを組んで行うべき処を3隻一遍に呼び戻してしまい展開すべき戦力をゼロにしてしまったのは、極めて低調となったドイツ潜水艦戦力への侮りがあったからとしか言いようがない。
 そのため、本来ならば実験艦である〈亜12〉を投入せざるを得なかったのだ。幸いにも〈亜12〉は実験プログラムをこなすべくハワイ北方海域にいた。水中高速潜水艦が次代の海軍戦略の中核をなすであろうことから、その性能を向上させるべく各種の実験を行わなければならなかったのである。
 水中高速潜水艦は水上と水中の戦いで主導権を握るほどに優れた威力を示していたが、幾つかの欠陥を露呈していた。在来のバラスト管制機構と操舵機構は高速に対応できず、艦が急横転したり、安全深度を越えそうになることがしばしば発生していた。また高速航走時における操舵員の負担が大きく、30分毎の交代をしなければならない有様だったのだ。
 これらの問題に対処し、かつ水中高速艦の能力上の極限を目指すために建造された実験艦が〈亜12〉なのである。加圧水型反応炉を搭載し、2基のギヤード・タービンを回して水中速力27ノットの健脚を誇っていた。操艦の応答性向上のためには、バラスト管制にプッシュ・ボタン式機構を採用し、操舵には拿捕したUボート(エレクトロ・ボート)の調査結果から航空機式機構が導入されていた。
 これらの機構により〈亜12〉は実用型の〈伊700〉シリーズを上回る性能を誇っている。〈A9〉邀撃に〈亜12〉を投入したのは最適な選択だったといえるだろう。必然の選択ではなく偶然によるものだったが。

 〈A9〉の情報は定時通信で〈亜12〉にも伝達されていた。その報告を読んだ天沢艦長は苦り切っていた。推定される諸元は〈亜12〉と余り違いは無いのだが、静粛性の差が大きいものと思われたのだ。
 〈亜12〉の静粛性能は、加圧水型反応炉の一次冷却水循環ポンプが出す騒音によって大きく損なわれていた。しかし、だからといって循環ポンプを止めることはできない。
 それに対して、〈A9〉の反応炉は加圧水型だが、ドイツ人が潜水艦の静粛さを保つことにひどく神経を使うことから、反応動力潜であっても従来のUボートと同様に静かであろうことは確実だった。さらに吸音タイルを船体に貼り付けてあることも報告されていた。つまり潜水艦にとってもっとも大事な静粛性能に大きな差があるのだ。
 この行き過ぎた技術追求のために、ドイツは反応動力潜水艦を必要な時に投入できなかったのだが、現に〈A9〉が活動している状況では慰めにもならなかった。
 これらの情報は全てドイツが提供していた。グリムスタの基地に陸軍参謀本部直属の降下猟兵部隊を送り込み、制圧して得たものである。
 ドイツ政府が、本来ならば国家機密の最たるものというべき最新鋭反応動力潜水艦の性能情報を日本へ開陳したのは、日本に撃沈してもらわなければならない事情もさることながら、グリムスタで親衛隊のおこなっていたことへの嫌悪もあった。
 〈A9〉の情報全てを日本に知らせることには親衛隊とドイツ海軍が反対していた。親衛隊は反応兵器情報の独占をもくろんでおり、海軍は反応動力潜水艦こそが再建すべき戦力の中核をなすからだった。ために予想針路を知らせるだけで良いではないかという意見が大勢を占めていたのだが、降下猟兵部隊指揮官の報告が届いたことで、情報全てを提供する方向へと変わったのである。
 グリムスタ基地は偽装したブンカーのさらに下にあった。電力は地下深くに設置された反応炉(「花畑」と呼称されていた)から供給されている。内部はA、B、C、Tの四つの棟に分かれており、AからCまでは居住区で、T棟が研究施設と基地全体の管制を司っていた。A棟は親衛隊員、B棟には技術者がいてまだしも人間らしい待遇だった。しかし潜水艦建造に従事すべく連れられて来ていたロシア人労働者や共産主義者が住まわせられたC棟の居住条件は劣悪極まりなく、虐待と言っても良いものだった。さらにA棟の秘密扉から続く一角には、放射能被爆の影響調査の結果とおぼしき「人ならざる姿」の物体が多数、隔離放置されていた。それらは全てが死体だったが、あまりにも「人ならざるもの」へと変貌を強要された姿に、調査にあたった降下猟兵は嘔吐したという。
 基地内は葬送の列を思わせるような黒服の一般親衛隊隊員が支配者として君臨していたが、降下猟兵部隊の攻撃に対しては「非常事態だ」と叫びながら右往左往することしかできない無能さをさらけ出し、たちまちの内に制圧されていった。
 白日のもとにさらされた基地の内情は、その高度な科学技術と醜悪な行動とが奇妙な形で併存していた。或る意味、ナチス・ドイツ的体質そのものと云えるかもしれない。結局、この事態を招いた親衛隊が折れ、海軍も情報開示に賛成した。
 これらの経過を経て、〈亜12〉の天沢の下に情報が届けられたのだが、裏の事情までは日本政府に統合国防軍令本部と天沢は知らない。懇切丁寧に全情報を伝えてきたドイツに対して奇異の念を覚えたのだが、政府上層部はともかく一介の艦長たる天沢が気にやんでも仕方がなかった。 〈亜12〉の航海は順調で、浮上航行でベーリング海峡を越え、プリンス・オブ・ウェールズ岬、ホープ岬を過ぎ、潜航してアラスカ北部バロー岬沖に達していた。ボーフォート海である。
 ここにはバロー海谷と呼ばれる深さ4000メートルに達する海底峡谷があり、北極海を潜航してきた艦が通り抜けなければならない地点だった。他の海域は水深200メートル未満と浅く、永久海氷と海底とに挟まれて進退窮まる恐れがある。〈A9〉がベーリング海峡へ向かうからにはここを通過する可能性がもっとも高かった。
 ベーリング海峡は水深が浅いため戦闘行動に向かない。またロシア領海に近い箇所での戦闘行動はロシアを刺激しかねず、さらに海峡で迎撃しては休戦発効時刻に間に合わない恐れがあった。天沢は統合国防軍令本部の了解をとりつけた上で、バロー海谷と
ベーリング海峡とを最短距離で結ぶポイントに〈亜12〉を移動させた。深度は100。
 そして、グリニッジ標準時8月15日09時05分(現地時間8月14日23時05分、日本時間8月15日18時05分)。北緯73度西経155度にて、〈亜12〉は〈A9〉と遭遇した。

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 〈A9〉は静謐なままでたたずんでいた。場所はバロー海谷からベーリング海峡へと向かう地点、バロー岬沖。
「おそろしく静かです」
 水測長が言った。ディーゼル/電気推進の潜水艦には及ばないものの、確かに〈亜12〉の騒がしさとは段違いの静かさだった。〈亜12〉の斜め上方左には氷山がある。
 〈A9〉の艦長はヒトラー・ユーゲント上がりの親衛隊員、ヨハネス・オイゲン・フォン・ヒルシュモーア=エネスコSS中佐。報告書によればNSDAPの教義に従順で熱心な党員にして、物理学博士号をとっているという。ヒトラーにも随分と気に入られていたらしい。後継者との噂まであった、とか。
 がちがちの党員で学者。天沢にとって極めて苦手なタイプの人間だった。
 天沢は水中電話のスイッチを入れた。とにかく最初は投降を勧めるつもりだった。休戦発効まで3時間を切っている。戦闘を回避できるならばそれに越したことはない。また〈A9〉が〈亜12〉を無視してベーリング海峡へ向かったとしても好都合だった。
 ベーリング海峡は哨戒攻撃部隊が展開を完了して封鎖済みであり、〈亜12〉は勢子として罠に追い込めば良いからだ。浅い海峡で〈A9〉が戦闘力を発揮できるわけもなく、勝負は簡単に着くはずである。原子核分裂反応による爆発が起こることでベーリング海峡が幾分広くなる可能性はあったが。
 さて、まずは挨拶からだ。天沢は発音の怪しいドイツ語で話しかけた。
「グーテン・ターク(こんにちは)!本艦は日本帝国海軍所属の潜水艦〈亜12〉号。少々よろしいかな?」
 場にはそぐわない挨拶だったが、天沢は本気だった。さて、どう返してくるだろうか。
「どうぞ」
 あまりにも素っ気ない声が返ってきた。こちらは完璧なキングズ・イングリッシュだった。海水で変調されているため、その感情までは伺えない。英語に切り替え、とりあえず何気ない話題から切り出した。
「今頃、海上では白夜なんだろうね。真っ白な海氷が随分と綺麗だと思うのだが」
「…そうですね」
「本艦は哨戒任務中だ。貴艦へはロンメル総統から戦闘停止命令が出ている筈だが、そのことは?」
「さあ」
「日本とドイツとの間で休戦が決まった。グリニッジ標準時の正午で発効となる」
「そう、ですか」
「………」
 あーだ、こーだと時間稼ぎに30分以上も言ってはみたが、結局沈黙に取って代わられた。
 気まずそうに天沢は呟いた。
「…我が軍に投降はしないのか?」
「そうです」
「引き返せないのか?」
「はい」
「何故?」
「消去。これが党の意志だからです」
「党?ヒトラーは死んだのだぞ!奴のために死ぬ必要など無いんだ」
 言葉は通じているのに意味が通じない。そして、はっきりとした否定の言葉が返ってきた。マイクの前でゆっくりと首を振っているのだろう。
「総統は党の意志を代表しているのです。党の規律は私にとって絶対の規律であり、党の教えは全ての理なのです」
「何故だっ!?」
 もはや〈A9〉は言葉を使う段階は終わったと判断したらしい。
「日本帝国海軍〈亜12〉号。確認。消去する」

「敵艦に発射管注水音を確認!」
 水測室より報告が来る。完全に〈A9〉は戦闘行動を起こすようだった。
「発射管注水。外扉開け。こちらもいくぞ!」
「注水ようそろ。外扉ようそろ!」
 〈亜12〉は急速に戦闘態勢を整えた。気圧が急激に変化するかのように緊張が増していく。だが、〈A9〉の方が早かった。
「高速推進器音!数は二つ!本艦に向かう!」
「欺瞞音響体放出!続けて、1番、てっ!」
 〈亜12〉の艦体よりカーバイト剤が放出されて海水との化学反応で激しい音を立てた。それに隠れつつ魚雷を打つ。
「後進全速一杯。面舵30度。氷山を盾にする」
「ようそろ!」
 天沢は欺瞞音響と魚雷航走音にまぎれて氷山の陰に身を隠そうとした。後進にギヤが入り、スクリューが摂氏マイナス数十度の海水を攪拌して、〈亜12〉は大きく弧を描いて〈A9〉から身を隠すように動いた。
「両舷停止。ツリム取れ」
「ツリム取った」
 丁度その時爆発音が聞こえてきた。最初は1発、次に間をおいて2発。最初の1発は〈亜12〉の打った魚雷で、或る程度航走してから自爆するようセットしておいたものだった。次の二つの爆発音は〈A9〉のもので、これは魚雷の爆発音とカーバイトの立てる音に迷走して氷山に激突した。 氷山は海面下100にまで身を沈めているだけあって、魚雷2発程度で粉々になりはしなかったが、破片が舞って沈んでいき、ヒビが入ったようで大きな亀裂音とそこに海水が侵入する音で海域が満たされた。
「水測、敵艦は?」
「失探しました。聴音可能まであと5分はかかります」
 これだけ海水を攪拌しては致し方ない。待つことが最上の手段だった。
 さて、敵はどう動く?このまま休戦発効時間までじっとしていてくれるならば有り難い。こちらを無視して海峡突破を図るならば、哨戒線へ追い込むだけだ。〈A9〉には後部発射管は無い。向こうが魚雷を打とうと回頭するよりも早く打てる。
 天沢は今後の展開を組立始めていた。敵は東京に反応弾を打ち込むのが目的である。こんなところで潜水艦にかかずらわっている暇は無いはずだった。天沢は思いに打ち沈んでいった。

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『また一緒に暮らしましょう』
 数年ぶりに届いたお母さんからの手紙は端的なものだった。
 これからはお母さんと一緒に暮らせる。
 お母さんの手料理が食べられる。
 それ以外には何もなかった。
 お母さんのいないこの数年は僕にとって虚構以外の何ものでもなかった。
 ふと、お母さんの顔も声も明瞭に思い出せない自分に気が付いて自己嫌悪に陥っては、古ぼけたアルバムから平面上に印刷された偽りの母の姿を眺めては溜飲を下げる。
 そんな退廃的な時間を過ごしたこともあった。
 でも、これからは違う。
 僕の空白の時間は今日で埋まる。
 止まった時間は動き出す。
 その時の僕は何の疑いも抱かずにそう考えていた。
 そして僕はザルツブルクを出て、シュヴェーリンへと来た。

 しばらくぶりに逢ったお母さんは、写真で見ていたのとは全然違った。
 体はやつれ、頬はこけて、眼窩は落ちくぼみ、髪は白い部分が大半を占めていた。あんなに綺麗な碧い目、金の髪だったのに。
「お母さん」
 返事の代わりにお母さんは僕がヒトラー・ユーゲントに入っているかどうかを尋ね、入っていないのを知って、がっかりした。
「……まあいいわ」
 お母さんは、僕がお母さんのことを「お母さん」と呼ぶことも許さなかった。指導官ベルタルダ。人前ではそう呼ばなければならなかった。
 お母さんは党の教義を熱心に語った。話の内容は理解し難かったけれど、それでも僕は幸せだった。
 それからの生活、メクレンブルクの大管区指導者と呼ばれる人、フリードリヒ・ヒルデブラントの邸宅での生活はひどいものだったけれど、お母さんの手料理は食べられなかったけれど、お母さんといられるだけで満足だった。
 だけど、辛かったのは、優しかったお母さんが他の党員の人達を見て、悪し様に陰口を言うことだった。
「どう思う?私は党がミュンヘンに在った頃から女性組織に加わって活動していたのよ。なのにゲルトルート(ショルツ=リンク)なんて下品な女が指導者になるなんて。私の実家はザクセン王家から領地をいただいていたんだから!夫の家は代々ハプスブルク皇家に仕えていたのよ!それなのに田舎の指導部だなんて」
「……」
「ね、あなたもそう思うでしょ?おかしいって思うでしょ?」
「そ、そうだね」
「ベルリンにさえ行ければ、総統閣下にお目にかかれば!」
 お母さんがひどく醜く見えて、その気持ちを押し隠すのが辛かった。

 お母さんの誕生日だった。
 ここに来る前に買ってあった、かわいい木鼠の置き時計。養護院でのお小遣いを少しずつ貯めて買った。
 お母さんの誕生日にプレゼントを渡すことができるなんて何年ぶりだろう。気に入ってくれるだろうか。お母さんは時計が好きだったから、きっと喜んでくれると思う…。
「ねえ!」
「あ、あの…お誕生日おめで…」
 お母さんが来たから、その時計を後ろに隠した。
「さっきね!ベルリンに行ける方法を思いついたのよ!」
 僕の言葉を遮るようにまくし立てる。すっかりプレゼントを渡すタイミングを失ってしまった。
「それでね、あなたの協力が必要なの。協力してくれるわよね」
「はい、僕………お母さんの為なら何だってするよ」
 そうしてお母さんは僕の首を締め始めたのだ。
「これがその方法なのよ!あの女が視察している場所で不審な死に方をしているユーゲント団員がいれば、監督不行届であの女が失脚するのよ!そうなれば私が代わって、ベルリンの女性指導部に入れるんだわ!私の資質が認められるのよ!あなたも嬉しいでしょ?だったらもっと嬉しそうな顔をしてよっ!」
 お母さんは笑っていた。ひきつった顔で、狂った音盤のように同じ言葉を、ベルリン、ベルリン、ベルリンと叫び続ける。
 僕は抵抗しなければ良かったのかも知れない。お母さんの為に死んでいれば良かったのかも知れない。でも、僕は苦しかった。苦しくて、無我夢中で腕を振り回していた。
 僕の手の中には、お母さんへのプレゼントの時計があった。
 あとは予定調和だった。

 手に握っていた置き時計で、お母さんの頭を打った。
 よろめいたお母さんは回廊の欄干から下のフロアへ落ちていった。
 置き時計は壊れて動かなくなった。
 僕は動かなくなったお母さんを眺めていた。
 大管区指導者となのる人が来た。帝国女性指導部長と名乗る人も来た。
「これは困った……」
「ベルリンには何と?」
「事故、だな。古株というだけで、どうということもない女だよ。貴族出身を鼻に掛けていてうるさかったな」
「まあ…」
「息子がいてね、こちらは優秀だ。従順すぎるきらいはあるが……」
「それだから、良いのでは?ギムナジウムへ入れてやり、大学入学資格(アビトウーア)を取らせれば」
「ふむ、弁護士か何かにしてやるわけだ」
「親衛隊はテクノクラートを大勢欲しておりますわ」
「罪を見逃してやり、恩を着せた上で、親衛隊の中枢で出世してくれれば……」
 あの人達が何を言っているのかよく分からなかった。
 お母さんは何を望んでいたのだろう。ザルツブルクの屋敷だろうか。僕が写真でしか知らない、華やかな生活を取り戻したかったのだろうか。
 きっと、党の教えを全て受け入れれば、お母さんの気持ちも分かる。党を否定することは、お母さんを否定すること。党の教えを拒むことは、お母さんを拒むこと。
 だから、僕はNSDAPの党員として生きていく。脇の下の、自分の血液型を刻んだ刺青と共に。

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「潜艦長?」
 先任が不思議そうに問いかけてきた。おう、と答えて、天沢は夢うつつから覚めたように頭を振った。時間は2分と立っていない。
「敵艦は?」
「なんとか聴音可能になりましたが、発見できていません」
「腐ってもドイツ軍か……」
 やはり静粛性の差が出始めていた。敵艦の動静がつかめないのでは、こちらも手の打ちようがない。天沢は決断を下しかねていた。そこに聴音から新たな報告が入った。
「潜艦長。聴音機のブラウン管にヒゲのような波形が現れています。正面から来ます」
「くそっ、ズーフ・ゲレートか!」
 ズーフ・ゲレート。波形がパルス状の超音波を用いて高い距離分解能と方位分解能を実現しているアクティブ・ソナーである。〈A9〉がこれを使用しているということは積極的に捜索を行っているということだ。
 時間はあるか?海水の擾乱が収まってから間もないから、敵もこちらの位置を確認できていないはずだ。
 〈A9〉は最新型の低周波フェイズド・アレイ・ソナーGHGを持っていた。GHGの距離と方位の分解能に優れた性能は、既存の全ての潜水艦以上に遠距離からの探知能力を〈A9〉に与えていた。そのため〈A9〉は〈亜12〉の到着を前もって知っており、この海水が攪乱された中でも〈亜12〉の行動を追うことができていたのだが、そのことを天沢は知らない。
 天沢は戦闘開始を命じた。なんという性能かと呆れてもいる。あの擾乱音の最中でもこちらの行動を押さえ、かつ擾乱音に隠れて高速で移動し、攻撃位置を確保してのけたのだ。
「魚雷戦用意!」
「高速推進器音、急速に接近してきます。数は二つです!」
 水測から続けて報告が来た。とっくの昔に発見されていたらしい。自艦の騒がしさが恨めしかったが、恨んでいる暇はない。
「両舷全速前進!」
 〈亜12〉の2基のスクリューが猛然と海水を攪拌し艦体を加速させる。
「魚雷、正面から来ます!」
 魚雷は何事もなく〈亜12〉の脇を通り過ぎていった。聴音魚雷は後方の音は拾わないようになっており、それは日独ともに変わらない。ゆえに天沢は艦を突進させて魚雷をやり過ごす手を使った。魚雷の爆発尖の翼螺が十分に回転していないだろうと推測しての危険な賭だったが、とりあえず危険は去った。〈亜12〉は減速した。
「聴音、敵艦はどうだ?」
「動いていません」
「よし、3番、4番発射用意」
 天沢はとどめを刺すべく、攻撃を命じた。〈亜12〉の行動に度肝を抜かれたのか、打ったらすぐに移動すべきところをそうしていない。こちらは魚雷のなんたるかを知っているのだ。天沢は促成栽培であろう(と決めつけていた)親衛隊将校を哀れんだ。
 XPこと10式聴音魚雷が2本。3年式1型以来の日本製聴音魚雷の究極として、大速度大射程と高い信頼性を発揮する魚雷である。正面から音源へ向けて発射すれば、後は魚雷がけりを付けてくれる。
 これで勝負は決まった筈、だった。
「高速推進器音が二つ!二時の方向!」
「どこから来た!」
 天沢は怒鳴った。〈A9〉がさらに魚雷を打ったならば聴音員が報告するはずだった。彼らが聞き落とすことなど、この状況ではあり得ない。
「先程の魚雷です。本艦を通過した後に左に舵を切ったものと」
 水測長とは別の聴音員が報告した。敵の聴音魚雷は大きく左回りに弧を描いて〈亜12〉に迫ってきていた。只の聴音魚雷ではなかったのだ。
「取舵30度!両舷全速前進!」
 〈亜12〉は左舷へ向けて猛烈な加速を開始したが、魚雷もまた転舵して追尾してくる。
「欺瞞音響体放出!両舷停止、取舵そのまま」
 天沢は或る程度航走したところで音の壁を作り、その陰で加速を止め、惰性で艦を回頭した。これで敵の聴音魚雷は欺瞞音響体を〈亜12〉と誤認するだろう。その後はこちらが攻撃する番だ。
「高速推進器音二つ!10時の方向。音響体を突破してきます!」
 聴音員が絶叫した。〈亜12〉はスクリューを停止させて惰性で回頭中である。魚雷に対して大きくその身をさらけ出し、循環ポンプの出す音を隠せていない。もはやかわせる距離ではなかった。
「反応炉、緊急停止!総員、対衝撃態勢をとれ!」
 そう命じるのが精一杯だった。そして、衝撃が来た。意識が白くなった。

                            7

「早くしないとケンちゃん、脳味噌を細かくちぎっていろんな所に隠しちゃうよ。細かくちぎった脳はハジの大好物なんだよ」
 そうだった。最近ハジが大発生していて、社会問題になっていたんだ。
「ハジにはすのこがよく効くんだって。あの不気味な角をすのこの隙間にはめてやれば、身動きできなくなるんだって」
 すのこを買いに行こう。家にあるかも知れないけれど、ふたつあったって困りはしないんだし。
 そう思って風呂屋にいったら、すのこの大売り出しをやっていて、すのこだらけだった。
「何をやっている?」
「すのこを買いに来たんだ。ハジに襲われたら大変だし」
「ハジって、何」
「凶暴で…醜くて……何だっけ?」
「いい加減にして向こうに戻れ!ぼけっ!」
 BLAM!

                            8

 気が付くと、艦内は修羅場に変じていた。赤色灯に切り替わっている。僅かばかりの時間だが失神していたらしい。どこかに打ち付けたらしく、体の節々が痛かった。天沢は声を張り上げた。
「損害確認!反応炉はどうか!」
「停止に成功しました。動力は二次電池に切り替わっています!」
 機関部からはすぐに返答があった。つづいて発射管室から現状を知らせてきた。
「発射管室、浸水!現在、応急作業にかかっています」
「よし!聴音はどうか!」
「聴音器は無事です」
「敵艦の動きは?」
「…………敵艦、浮上しています!高圧排水の音です!」
「なに………!?」
 信じられなかった。何故、そんな行動を取っている?こちらの動きは向こうの高性能ソナーに捉えられているだろうに。
「戦闘配置につけ!浮上する」
 〈亜12〉は北極海の海面へ向けて、浮上を開始した。

 浮上には思いの外、時間がかかった。外殻に損傷があるかも知れないため、バラスト・タンクのツリムの取り合いに時間をかけたからだ。
 海面近くには分厚く氷が張っていると思われたが、そうでもなかった。ロシア語で「ポリニヤ」という、海氷の隙間で薄く氷が張っている場所だった。〈亜12〉は艦橋で薄氷を割って海面に姿を表した。
 天沢は防寒具に身を固め、手には革手袋をはめて艦橋に上がった。零下数十度の海水に冷やされた金属に素手で触れば手の皮が張り付いてしまう。同僚の何人かが北大西洋で手の皮をやっつけてしまっている。
 海上は目の覚めるような青空だった。時刻はグリニッジ標準時8月15日11時40分(現地時間8月15日01時40分、日本時間8月15日20時40分)。
 高緯度であるため夏は白夜であり、すでに夜が明けている。天沢は目をしばたかせて、周囲を見回した。
 艦の右舷方向、数百メートル先に、ドイツの反応動力潜水艦が浮かんでいた。その艦橋部に人影を認めた。
 天沢は無線機のスイッチを入れて、〈A9〉に話しかけた。
「フォン・ヒルシュモーア=エネスコSS中佐?」
「ええ」
 すぐ返事がきた。向こうはこちらが話しかけるのを待っていたのかも知れなかった。
「何故、魚雷を自爆させた?完全にそちらの勝ちだった筈だ」
 〈亜12〉が転舵しても追いかけてきて、欺瞞音響体の作り出した音の壁をも貫いた魚雷は有線誘導式の魚雷だった。日本海軍でも開発を進めてはいるが、誘導システムの開発に手間取り、いまだはかばかしい成果は上がっていない。魚雷の探知部(シーカー)からの情報処理が上手くいっていないのだ。
「……手元が狂っただけです」
「どっちにしても党の意志は果たせなかった訳だ。もう一度、やるかね?」
「……いいえ」
「そうだな、それがいいな。で、どうするね。本国に戻るのかい?」
「それもいいかも知れませんね」
 空を見上げたようだった。天沢も空を見上げた。雲一つない、青空だった。
「知らない間に随分と変わったんでしょうね」
「まあね。こちらの爆撃機が随分と暴れたらしいからな。こんな北極海にいるよりは退屈しないと思うが」
 ためらっているような声が来た。
「十年近くも本国に帰っていない…ベルリンには何度か報告のために行ったけれども」
「そんなに!まあ、ベルリンは、そちらで言うところの退廃芸術の宝庫にはなったようだが」
 軽い笑みのような声が聞こえてきた。
「……本国に報告したいのだが、宜しいかな?」
「え?ああ、いいとも。そちらが終わった後、私の方でもさせてもらうが」
「ええ」
 天沢は〈A9〉艦長の報告を確認するため、無線の周波数を切り替えさせた。彼の報告する声がスーピーカーから流れてきた。
「…ドイツの兵士諸君!私は反応動力潜水艦〈A9〉の艦長、フォン・ヒルシュモーア=エネスコSS中佐である。本艦は先代の総統閣下の命により、敵を消去すべく行動していた。ここに私は報告する。本艦は日英米枢軸軍最強艦艇の戦闘能力を『消去』することに成功した!よって、本艦は任務を達成したものと認め、ロンメル総統の命に従って、本国へ帰還する。ドイツの力は衰えてなどいない。大ドイツ帝国は敗れてはいないのだ!祖国の栄光は太陽の如く輝かしくある!勝利万歳(ジーク・ハイル)!」
 なんて奴だ、天沢は呆れていた。こんなことを言うためだけに、わざわざ此処まで来たのか?だが、随分と楽しくなっていた。腹の底から笑いたい。まったく、大したものだった。
 天沢は無線のスイッチを入れた。
「おい、随分とまた…」
 ふかしてくれるな、と続けようとしたが遮られた。
「夜明けの光をドイツでは何というか、知っているか?」
「いや…」
 東の地平には高度の低い場所に太陽があり、銀色に輝いている。
「希望の光(ジルバー・シュトライプ)と言うんだ…」

 〈A9〉は艦首を巡らし、北へ向かおうとしていた。別れ際、〈A9〉の艦長は晴れやかな笑みを浮かべて振り返った。
「そういえば、まだ、ちゃんとした自己紹介をしていなかった。私はヨハネス・オイゲン・フォン・ヒルシュモーア=エネスコです」
「天沢郁未」
「では、よろしく」
 敬礼を交わしあって別れた。
 ヨハネスの止まっていた時間は動き出したのだ。天沢も日本へ帰るために艦を回頭させた。

 艦橋で周囲の監視をしながら、天沢は何とはなしに一人娘の未悠(みゆ)を思い出していた。さて、なんと語ったものかな。どんな任務だったかを話すことはできないが、ヨハネスのことだったら話せるか。彼が我が家を訪ねてきてくれるなら、父一人娘一人の二人きりの家族にとって楽しいのだが。
 天沢の思いをよそに、報告を受けたベーリング海峡の哨戒部隊から回転翼機が飛んできた。何やら、外部拡声器で叫んでいる。大方、休戦発効について騒いでいるのだろう。
「騒がしいのが来たな」
 〈亜12〉は、夏の終わりの海が霞んで見えなくなる場所へ行こうとしていた。北極圏の短い夏は終わりを告げようとしている。
 そして戦争の夏もまた、終わった。

要目

  • 全長 103メートル
  • 全幅 8.4メートル
  • 全高 6.24メートル
  • 排水量
    • 3,741トン(水上)
    • 4,287トン(水中)
  • 機関 反応動力ギヤード・タービン2基2軸 10,000hp
  • 主基 加圧水型反応炉1基
  • 速力
    • 21ノット(水上)
    • 29ノット(水中)
  • 安全潜入深度 250メートル(圧壊深度 500メートル)
  • 魚雷発射管 53.3センチ水圧式6門
  • 弾道弾 水上発射型巡航弾道弾〈アーリアンボーテ供咤牡