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アメリカ連合海兵隊史の変更点

-南部連合海兵隊は、南北分裂時に合衆国海兵隊から分かれて成立した組織である。第一次南北戦争時には艦船に乗り組み、海戦や封鎖線突破における斬り込み部隊として、また合衆国の戦線後方や根拠地への奇襲に活躍した。これは後の概念でいうコマンド部隊的な活躍であり、この経験からアメリカ連合海兵隊ではコマンド部隊としての任務が重視される事となる。
+南部連合海兵隊は、南北分裂時に合衆国海兵隊から分かれて成立した組織である。第一次南北戦争時には艦船に乗り組み、海戦や封鎖線突破における斬り込み部隊として、また合衆国の戦線後方や根拠地への奇襲など、後の言葉でいうコマンド部隊として活躍した。
-第一次南北戦争終結後、南部連合海兵隊は海軍艦艇に乗り組み、主にメキシコ湾からカリブ海にかけて活動した。中南米に足がかりを得ようとする合衆国はこの海域に軍艦を派遣しており、「南部の心臓部」テキサスの安定化を望む南部連合、同海域に植民地を持つ英西との間で度々衝突が起きていた。多くの場合、衝突の主役となるのは両陣営の軍艦乗り組みの海兵隊であり、20世紀初頭までのカリブ海は南北の艦船がかつてカリブ海を思うままに暴れ回った海賊たちのように争う海域と化していた。
-{{br}} また南部連合海兵隊は、同じくメキシコ湾の内海化が目的の対メキシコ戦プランも計画している。メキシコは伝統的な反米(南北)国家であり、仮にこの国が対南部連合陣営に参加した場合、南部連合の「柔らかい腹」を直撃される恐れがあった。これに対処するため、長大な国境線で合衆国とにらみ合う陸軍に代わり、南部連合海兵隊が中心となって対メキシコ戦計画が立案される。
-{{br}} 〈カスター〉と名付けられた計画はメキシコ湾に面した地帯への上陸・占領を目的としており、特にユカタン半島への侵攻がもっとも重視されていた。この計画は結局実行される事は無かったが、これをきっかけとして、以降の南部連合の戦争計画では国境線―陸軍、南方―海兵隊という構図が定着していく。
-{{br}} この時期の南部連合海兵隊でもう一つ特筆すべきは、1898年のハバナにおける活動だろう。スペイン領キューバのハバナ港でスペイン海軍の軍艦が原因不明の爆沈事故を起こした際、付近を航行していた南部連合海軍軍艦がハバナに入港、海兵隊員を下船させて救難活動に当たった。
-{{br}} これは同艦艦長と乗船していた海兵隊指揮官の独断によるものであり、本来の任務とは正反対の活動でもあったが、「何かあれば真っ先に駆けつける海兵隊」という、未来の何らかを思い起こさせるものではあった。
-{{br}} だが、これらは海兵隊の総力を挙げたものとはとても呼べなかった。南部連合海兵隊が後の歴史の萌芽となるような「戦争」を経験するのは、第一次大戦においてである。
+第一次南北戦争後、海兵隊は主にメキシコ湾からカリブ海にかけて活動した。中南米に足がかりを得ようとする合衆国はこの海域に軍艦を派遣しており、南部連合、同海域に植民地を持つ英西との間で度々軍艦とそれに乗り組む海兵隊同士の衝突が起きていた。
+{{br}} またこの時期、海兵隊が中心となってメキシコ湾の内海化・安定化を目標とする対メキシコ戦の計画が立案されている。これは実行される事は無かったが、これが切欠で以降の南部連合の戦争計画では国境線―陸軍、南方―海兵隊という構図が定着していく。
+{{br}} そして、20世紀に入り、海兵隊が創設以来初の「近代戦」を戦う機会がやって来た。
-第一次世界大戦が勃発すると、南部連合は英仏と共にドイツ第二帝国に宣戦布告した。これに従い陸軍はジョン・パーシング大将を司令官とする欧州派遣陸軍(CSARER)を編成、ヨーロッパへ送り込む。
-{{br}} この際、当時の南部連合海兵隊司令官ジョージ・バーネットは海兵隊部隊を同軍に編入する事を主張、陸軍の反対を押し切りこれを認めさせる。バーネットはこれを機会に海兵隊の規模・戦力の拡大を狙ったのである。これに従い、南部連合海兵隊初の海外派遣部隊が編成され、欧州へと派遣される事になった。
-{{br}} フランスに到着したCSARERは急遽西部戦線に参加することとなったが、この時海兵隊は投入されていない。パーシングが海兵隊を陸軍の予備戦力と見なしていたためであり、働き場を与えられない海兵隊員の憤りは激しく、ためにCSARER内部でも陸軍と海兵隊の軋轢は絶える事が無かった。
+第一次世界大戦が勃発すると、南部連合は英仏と共にドイツ第二帝国に宣戦布告した。これに従い陸軍はジョン・パーシング大将を司令官とする欧州派遣陸軍(CSARER)を編成、ヨーロッパへ送り込む。この際、当時の海兵隊司令官ジョージ・バーネットは海兵隊の地位向上を狙い海兵隊部隊の参加を求め、陸軍の反対を押し切りこれを認めさせる。これに従い、海兵隊初の海外派遣部隊が編成され、欧州へと派遣された。
+{{br}} フランスに到着したCSARERは急遽西部戦線に投入されたが、パーシングが海兵隊を陸軍の予備戦力と見ていた為参戦していない。この処置への海兵隊員の憤りは激しく、CSARER内部でも陸軍と海兵隊の軋轢は絶える事が無かった。
-状況が変わったのは1915年に入ってからである。当時の海軍大臣ウィンストン・チャーチルの発案で計画され、15年2月に発動されたトルコ領ガリポリ上陸作戦。陸上兵力の不足から急遽南部連合海兵隊も投入される事となったこの大作戦は、史上初の強襲上陸という事でミスを連発した協商側の作戦指導の不手際と、ドイツ軍事顧問団や、後にトルコ共和国初代大統領となるケマル・アタチュルクらトルコ軍の奮戦により16年1月、最後の上陸部隊が撤退した事で終了した。
-{{br}} このガリポリ戦は近代戦史における初の敵地上陸であり、南部連合海兵隊にとっても戦後多大な戦訓と多くの課題を残す事になる。上陸直前の海域の掃海や守備陣地に対する艦砲射撃、上陸海岸での混乱の統制や上陸部隊への艦艇からの支援砲撃、英軍が史上初の強襲揚陸艦〈リバークライド〉を実戦投入したのもこの戦場においてである。これらは戦後の南部連合海兵隊がカリブ海での強襲上陸作戦を計画するにあたって貴重な研究材料となった。まさに海兵隊は自らの血肉と引き換えに知恵を学んだのである。
-{{br}} ガリポリ撤退後、海兵隊は戦闘で受けた損害の回復に努めた。が、初の大規模戦闘、それもこれまでに経験した事のない大損害からの回復は容易ではなく、フランスで部隊の再編に努める事になる。
+状況が変わったのは1915年に入ってからである。海軍大臣ウィンストン・チャーチルの発案で計画され、15年2月に発動されたトルコ領ガリポリ上陸作戦。陸上兵力の不足から急遽南部連合海兵隊も投入される事となったこの大作戦は、史上初の強襲上陸という事でミスを連発した協商側の作戦指導の不手際と、ドイツ軍事顧問団や、後にトルコ共和国初代大統領となるケマル・アタチュルクらトルコ軍の奮戦により16年1月失敗に終わった。
+{{br}} ガリポリ戦は近代戦史における初の敵地上陸であり、海兵隊にとっても戦後多大な戦訓と多くの課題を残す事になる。これらは戦後の海兵隊がカリブ海での強襲上陸作戦を計画するにあたって貴重な研究材料となった。まさに海兵隊は自らの血肉と引き換えに知恵を学んだのである。この後、海兵隊は戦闘で受けた損害の回復に努めるが、初の大規模戦闘、それもこれまでに経験した事のない大損害からの回復は容易ではなく、フランスで部隊の再編に努める事になる。
-南部連合海兵隊が再び戦闘に加入するのは1918年6月、ベローウッド(ベローの森)の戦闘においてである。ドイツ軍の攻勢によりパリに危機が迫っていた中、海兵隊にも出動が命じられ、部隊はベローウッドに布陣し、フランス軍を蹴散らして進撃してきたドイツ軍との間に激烈な戦闘を展開、ついに同地を奪回。この時の海兵隊員の奮戦はドイツ軍が彼らを「魔犬(Teufelhunde)」と呼び、フランス軍も絶賛する程のものだった。この時海兵隊が出した犠牲は創設以来――13植民地の独立以来――最大のものであり、この記録は後の第二次南北戦争に至るまで破られる事は無かった。
-{{br}} ガリポリとベローウッド、この二つの戦闘は南部連合海兵隊にとって初となる近代戦であり、その名は現在でも東部連合海軍強襲揚陸艦の艦名という形で伝えられている。
+海兵隊が再び戦闘に加入するのは1918年6月、ベローウッド(ベローの森)の戦闘においてである。ドイツ軍の攻勢によりパリに危機が迫っていた中、海兵隊はベローウッドでドイツ軍と激戦を展開、ついに同地を奪回する。この時の海兵隊員の奮戦はドイツ軍が彼らを「魔犬(Teufelhunde)」と呼ぶほどだった。この時海兵隊が出した犠牲は創設以来―13植民地の独立以来―最大のものであり、この記録は後の第二次南北戦争に至るまで破られる事は無かった。
-第一次大戦後、戦中から続く好景気に影響されて南北間には雪解け・融和の空気が漂っていた。開戦当初、合衆国では南英仏への対抗から同盟側に立って参戦しようとする動きがあったが、Uボートによる貨客船ルシタニア号の撃沈によりそれも霧散していた。そして戦後、北米の人々はそれに感謝していた。
-{{br}}  仮に合衆国が参戦していた場合、英仏側の南部連合とも再び戦火が開かれていただろう。そうなれば「アメリカ戦線」とでも呼ぶべきものが構築され、北米大陸に甚大なる被害を及ぼしたに違いない。欧州を襲った戦渦、長大な塹壕戦と延々続く消耗戦、人口ピラミッドを激変させるほどの損害は見る者にそうした悪夢を思い起こさせるに充分だった。こうした世論を背景に戦後の北米にでは「平和への回帰」政策が主流となった。
-{{br}}  またこの時期は軍同士の交流も盛んで、両軍の若手幹部などが互いの国へと出張し、交流を深めるという光景も見られた。例えば軍内部で書かれた論文なども余程の機密でない限り割合簡単に読む事が出来た。この時の情報交換から、合衆国はガリポリ戦の貴重な戦訓を、南部連合は合衆国の太平洋における水陸両用作戦の研究を知ることが出来た。もっともこうした関係も29年の世界恐慌からくる南北関係の再びの悪化によって終りを迎えたが。
-{{br}}  なお、この時交流をもった両軍の若手軍人たちは後年第二次南北戦争において作戦の指揮を執ることになる。ゆえに第二次南北戦争は第一次と同様、友人知人同士が南北に分かれて争い合う戦争でもあった。
-{{br}}  だが、こうした融和ムードは一面的なものであり、政府や互いの軍首脳部も、この穏やかな季節が永遠に続くとは思っていなかった。その象徴が21年の隆山条約における三年計画艦隊の保有であり、15年に開通したパナマ運河である。
+第一次大戦後、戦中から続く好景気に影響されて南北間には雪解け・融和の空気が漂っており、「平和への回帰」政策が主流となった。
+{{br}}  この時期は軍同士でも盛んに交流が行われ、両軍の若手幹部などが互いの国へと出張し、親睦を深めるという光景も見られた。例えば軍内部で書かれた論文なども割合簡単に読む事が出来た。この情報交換から、合衆国はガリポリ戦の貴重な戦訓を、南部連合は太平洋における水陸両用作戦の研究を知ることが出来た。もっともこうした関係も29年の世界恐慌からくる南北関係の再びの悪化によって終りを迎えたが。
-第一次世界大戦の最中、それまで主に英国・南部連合による度重なる介入により中南米に決定的な足がかりを作れないでいた合衆国が、遂にパナマに念願の運河を開通させた。これにより合衆国は太平洋からカリブ海へと繋がる交通路を手に入れ、南部連合のカリブ戦略は大きな変更を迫られる事になる。
-{{br}}  パナマに合衆国軍が駐留するという事は、それまで南部人の浴槽であったカリブ海に遂にヤンキーが踏み込んできた事を意味する。最悪南部連合の生命線であるメキシコ湾岸工業地帯を突かれる可能性もあった。一応カリブ海に関しては英西と共に対合衆国包囲網を形成する事が方針として挙げられていたが、そればかりに頼ってもいられない。陸軍が第一に長大な国境線を防衛、場合によっては侵攻する事も考え、ただでさえ兵力に余裕の無かった当時、パナマ運河の存在は南部連合そのものの命脈も左右する死活問題だった。大戦終結後、南部連合は軍の近代化に入ると共に、その視線を遥か南に向けることになる。
-{{br}}  それまでの計画がフロリダ―キューバ―ジャマイカを結ぶラインでの防衛計画だったのに対し、新たに立案された計画の骨子は海兵隊が主軸となっての攻勢防御、その最大の目標はパナマ運河の占領である。
-{{br}}  南部連合海兵隊は24年から32年までニカラグア内戦へ投入されていたが、同地から引き揚げた後、ヴァージニア州クオンティコの海兵隊学校で本格的な水陸両用作戦の研究に着手する。ここでガリポリ戦の戦訓の研究や図上・実働演習を繰り返し、ハードウェアでは〈リバークライド〉のような強襲揚陸艦・また水陸両用車の開発、ソフトウェアではノースカロライナ州ニューリバーに建設した訓練場で新たに制定されたマニュアルを使って兵を教育していった。ちなみにこの時に陸海軍との共同演習を推し進め、強力なリーダーシップを発揮したのが後のアメリカ連合海兵隊の「顔」であるホランド“雷鳴”スミスである。
-{{br}}  なお余談だが、この時期の研究の中でガリポリ戦の教訓から「海兵隊独自の上陸支援用戦艦」「海兵隊専用空母」の保有が検討されている。気の早いことにそれぞれ〈トリポリ〉〈モンテズマ〉という仮称艦名までつけられていたが、流石に海軍の反対から実現しなかった。航空隊については既に保有している海兵隊航空隊は別として、作戦初頭は海軍航空隊の支援を受ける事、艦砲射撃については海軍の旧式戦艦・海防戦艦を投入する事で話がついた。
+第一次世界大戦の最中、合衆国が度重なる南英の妨害を排して、遂に悲願のパナマ運河を開通させた。これにより合衆国は太平洋からカリブ海へと繋がる交通路と南部連合の裏庭への進出拠点を得、南部連合のカリブ戦略は大きな変更を迫られる事になる。
+{{br}} これを受けて新たに立案された計画の骨子は海兵隊が主軸となってパナマ運河占領である。これに従い、海兵隊は当時進行していたニカラグア内戦からの引き揚げ後、ヴァージニア州クオンティコの海兵隊学校で本格的な水陸両用作戦の研究に着手する。ここでガリポリ戦の戦訓の研究や図上・実働演習を繰り返し、揚陸機材等のハードウェア、実際の作戦で使用されるマニュアルなどのソフトウェアの開発に邁進する。
-スペイン領キューバ、フロリダ半島の南部、メキシコ湾に蓋をする形で位置する東西に長い島である。36年に勃発したスペイン内戦において、ナショナリスト側の総司令官となったカナリア諸島司令官フランシスコ・フランコに従ったキューバ駐留スペイン軍がはるばるイベリア半島へ向かった。
-{{br}}  内戦は39年、フランコ軍の勝利に終わったが、問題は戦争終結後に起こった。人民戦線を打倒しスペインの指導者となったフランコが、戦後合衆国に対し、キューバを貸与したのである。戦中のドサクサ紛れに日英南はスペイン領フィリピンを独立させており、それに対する報復の結果とも言われている。これにより、それまで比較的安全な地域と思われていたフロリダ半島の目と鼻の先に合衆国の拠点が出現した事となり、南部連合首脳部は一時的な恐慌状態に陥った。スペインを合衆国側につかせてしまった事は、南部連合史における痛恨の失敗と記録されている。
-{{br}}  このためそれまで南部連合軍が企図していたカリブ海での戦争計画は覆され、第二次南北戦争でも南方作戦は大きな制約を課せられる羽目になる。
+スペイン領キューバ、フロリダ半島の南部、メキシコ湾に蓋をする形で位置する東西に長い島である。スペイン内戦において、ナショナリスト側の総司令官となったフランシスコ・フランコ指揮下のキューバ駐留スペイン軍がはるばるイベリア半島へ向かった。
+{{br}}  内戦は39年、フランコ軍の勝利に終わったが、問題は戦争終結後に起こった。人民戦線を打倒しスペインの指導者となったフランコが、戦後合衆国に対し、キューバを貸与したのである。これにより、それまで比較的安全な地域と思われていたフロリダ半島の目と鼻の先に合衆国の拠点が出現した。南部連合軍が企図していたカリブ海での戦争計画は再び覆され、第二次南北戦争でも南方作戦は大きな制約を課せられる羽目になる。
-1943年2月1日、南部連合は合衆国軍を奇襲、第二次南北戦争が勃発した。南部連合海兵隊は長躯カリブ海を南下、海軍の護衛空母と海防戦艦の支援の下、パナマ運河への強襲上陸を開始した。ガリポリ以来の上陸戦というハンデから多くの混乱も見られたが、パナマ守備隊は奇襲で混乱しており、勢いは南部連合にあった。コロンを占領しガトゥン湖に雪崩れ込んだ南部連合に対し合衆国軍は主力を太平洋岸まで後退させ、少数部隊によるゲリラ戦に出る。この頃太平洋ではすでに日米間で停戦が成立しており、太平洋に合衆国艦隊の大半が集中している隙に戦争を有利に進めようとしていた南部連合としては当てが外れた格好だった。
-{{br}}  数ヶ月にわたる戦闘の末、漸く合衆国守備隊の残骸を蹴散らし太平洋に到達した―まさにその時、再編された合衆国太平洋艦隊がパナマ沖に到着。〈伊藤《エンタープライズ》乃絵美〉を主力とする空母部隊から発艦した攻撃隊が南部連合軍を爆撃、さらに大西洋側でエアサポートに当たっていた南部連合海軍護衛空母部隊を奇襲し、全艦を撃沈する。空襲で装備の大半を失った南部連合海兵隊は上陸してきた合衆国海兵隊との度重なる戦闘の末に撤退を決意、捲土重来を期してパナマから脱出した。
+1943年2月1日、南部連合は合衆国軍を奇襲、第二次南北戦争が勃発した。海兵隊は長躯カリブ海を南下、海軍の支援の下、パナマ運河への強襲上陸を開始した。ガリポリ以来の上陸戦というハンデから多くの混乱も見られたが、パナマ守備隊は奇襲で混乱しており、勢いは南部連合にあった。数ヶ月にわたる戦闘の末、漸く合衆国守備隊の残骸を蹴散らし太平洋に到達した―まさにその時、再編された合衆国太平洋艦隊がパナマ沖に到着。〈伊藤《エンタープライズ》乃絵美〉を主力とする空母部隊から発艦した攻撃隊が襲いかかり、さらに大西洋側で支援に当たっていた南部連合海軍護衛空母の全艦を撃沈する。空襲で装備の大半を失った海兵隊は上陸してきた宿敵、合衆国海兵隊との度重なる戦闘の末に撤退を決意、捲土重来を期してパナマから脱出した。
-43年8月、合衆国軍はパナマ運河を突破、遂にディキシーのバスタブに突入した。周辺海域の安全を確保した後、ハワイと西海岸からの増援を待ってカリブ海への進出を開始、各島の守備隊を一掃し、翌44年1月にはジャマイカ島に合衆国海兵隊が上陸する。
-{{br}}  キューバの南方に存在するこの島は元々英国領だったが、英本土の陥落後は宙に浮いた形となり、開戦初頭に南部連合陸軍空挺部隊の投入によって占領されていた(形式上は保護占領の形をとり、英国政府にも通告済み)。それ以降は陸海空軍が進駐し、キューバの監視やパナマ侵攻部隊への兵站集積地など、南部連合のカリブ海の活動拠点となっていた。
-{{br}}  同地に上陸した合衆国海兵隊を待っていたのは、占領直後からの工事によって要塞と化したジャマイカの地と、パナマの復讐に燃える南部連合海兵隊だった。南部連合本土で合衆国軍の反撃が開始される中、数次に渡る総攻撃や陸上支援に出撃した戦艦同士の夜戦まで引き起こしたジャマイカ攻防戦は7月、北米全域での戦線縮小のため南部連合軍が付近を遊弋する合衆国海軍の間隙を突いて撤収する事で終結、南部連合海兵隊も再度の部隊再編のため本土に後退した。
+43年8月、合衆国軍はパナマ運河を突破、遂にディキシーのバスタブに突入した。周辺海域の安全を確保した後、ハワイと西海岸からの増援を待ってカリブ海への進出を開始、各島の守備隊を一掃し、翌44年1月にはジャマイカ島に合衆国海兵隊が上陸する。キューバの南方に存在するこの島は元々英国領だったが、大戦勃発後は宙に浮いた形となり、開戦初頭に空挺部隊によって保護占領されて以降は陸海空軍が進駐し、キューバの監視やパナマ侵攻部隊への兵站集積地など、南部連合のカリブ海の活動拠点となっていた。
+{{br}}  同地に上陸した合衆国海兵隊を待っていたのは、要塞と化したジャマイカの地と、パナマの復讐に燃える南部連合海兵隊だった。南部連合本土で合衆国軍の反撃が開始される中、ジャマイカ攻防戦は7月、戦線縮小の為南部連合軍が撤退する事で終結、海兵隊も再度の部隊再編のため本土に後退した。
-ジャマイカ撤退後、海兵隊は半壊した部隊の再編を行なっていたが、既に戦況はカリブ海はおろか、南部の裏庭たるメキシコ湾の制海権も彼らの手からこぼれ落ちていた。陸上においてもミシシッピ州が制圧され、首都アトランタも包囲された状況下、海兵隊に残された最後の戦闘部隊はフロリダに移動、同地を守備するフロリダ方面軍の指揮下に入った。既に戦況は、彼らに「海兵隊」ではなく「陸軍」として戦う事を強要するまでになっていた。
-{{br}}  1945年4月、第二次南北戦争最後の作戦―フロリダ半島侵攻作戦〈アイスバーグ〉発動。キューバに集結していた合衆国の大艦隊が侵攻を開始した。迎撃に出撃した南部連合海軍最後の艦隊を撃滅した後、遂に合衆国軍は半島南部に上陸を開始、フロリダ方面軍は全域に張り巡らされた要塞陣地に立て篭もってこれを迎撃する。
+ジャマイカ撤退後、海兵隊は半壊した部隊の再編を行なっていたが、既にカリブ海はおろか南部の裏庭たるメキシコ湾の制海権も彼らの手からこぼれ落ちていた。陸上においてもミシシッピ州が制圧され、首都アトランタも包囲された状況下、海兵隊に残された最後の戦闘部隊はフロリダに移動、同地を守備するフロリダ方面軍の指揮下に入った。
+{{br}}  1945年4月、第二次南北戦争最後の作戦―フロリダ半島侵攻作戦〈アイスバーグ〉発動。グアンタナモに集結していた合衆国の大艦隊が侵攻を開始した。半島南部に上陸した合衆国軍に対し、フロリダ方面軍は全域に張り巡らされた要塞陣地に立て篭もってこれを迎撃する。
-{{br}}  このマイアミ攻防戦に先立ち、笑い話のような逸話が残されている。マイアミに篭城する海兵隊はそれまでの防御戦で弾薬を消耗しており、一方の合衆国軍もそれまでの経験から市街戦は甚大な被害を受ける事を痛感していて、当初は攻略に消極的だった。それに変わる手としてマイアミを包囲した後、降伏勧告が行なわれる事になったのだが、指揮官同士の交渉はお互いが海兵隊であった事から次第にヒートアップ、途中から両軍の兵がスピーカーを使って相手陣地に野次を飛ばし、最後には全部隊挙げての聞くに堪えない壮絶な罵倒、罵詈雑言の果てに交渉は決裂、海兵隊同士の壮絶な殴り合いへと突入したのである。
-{{br}}  その後もフロリダ方面軍は湿地帯での慣れぬ戦闘に苦しむ合衆国軍を苦しめ続けたが、マイアミの陥落によって内陸に撤退、4月末には連合首都アトランタが陥落する。そして5月7日、南部連合政府はワシントン宣言を受諾、南部連合は合衆国に対して無条件降伏し、海兵隊をはじめとする南部連合五軍(陸・海・空・海兵隊・州軍)も武装解除された。
-{{br}}  アポマトックス講和会議において南部連合は合衆国に併合され、大西洋から太平洋に至る広大な国土と人口、そして大戦によって膨れ上がった巨大な軍事力を併せ持つ、巨大な統一国家の誕生である。
+{{br}}  その後もフロリダ方面軍は湿地帯での慣れぬ戦闘に苦しむ合衆国軍を苦しめ続けたが、マイアミの陥落によって内陸に撤退、4月末には首都アトランタが陥落する。そして5月7日、南部連合政府はワシントン宣言を受諾、南部連合は合衆国に対して無条件降伏し、海兵隊をはじめとする南部連合五軍(陸・海・空・海兵隊・州軍)も武装解除された。
+{{br}}  アポマトックス講和会議において南部連合は合衆国に併合され、大西洋から太平洋に至る広大な国土と人口、そして大戦によって膨れ上がった巨大な軍事力を併せ持つ、巨大な統一国家が誕生したのである。
-!戦後――吸収と再編
-南北統一後、旧南部連合軍は武装解除された後、新たに再編される新生合衆国軍への編入が進められた。これにはワシントン宣言における南北アメリカの統一の理念が背景にあるが、同時に戦後を見据えた合衆国首脳部の冷徹な考えもある。
-{{br}}  太平洋においては日本帝国とは休戦が続いていたが、いつの日か再び戦火が開かれると(この当時は)考えられていたし、国境の北には着々と兵力を増強しつつあるドイツ北米軍集団が存在した。ドイツ(そして南部)を信用し過ぎたロングと違い、ウィルキー政権にとっては自国以外の国家はほぼ全てが潜在的な仮想敵国なのである(もっともそのウィルキーにしても、国の内部に敵を取り込んでしまった事は最後まで気付かなかったが)。
-{{br}}  この政府方針に従い、旧南部連合軍の連邦軍への編入は比較的早いペースで進められていった。連邦軍への編入が比較的順調に進んだ理由は、旧南部連合軍首脳部の主だった指揮官が自らこれに従い、かつての部下達に連邦軍への参加を呼びかけた事が大きい。その中にはブラッドレーやウォーカー、マッケーンなどの第三次大戦において合衆国軍を支える事になる軍人達もいた。
-{{br}}  だがその一方で、ヤンキーの傘下に入る事をよしとせず、部隊を脱出して地下に潜伏する者も少なくなかった。彼らは第二次南北戦争中に行方不明となっていたジョージ・パットン大将(旧南部連合陸軍テネシー方面軍司令官)の下に集結し、「いつかあの南部の旗を」の誓いと共に、来るべき日に備えていた。
+!戦後―吸収と再編
+南北統一後、旧南部連合軍は武装解除された後、新生合衆国軍への編入が進められた。これにはワシントン宣言における南北アメリカの統一の理念が背景にあるが、同時に戦後を見据えた合衆国首脳部の冷徹な考えもある。
+{{br}}  太平洋においては日本帝国とは休戦が続いていたが、いつの日か再び戦火が開かれると考えられていたし、国境の北には着々と兵力を増強しつつあるドイツ北米軍集団が存在した。軍事力の再編を急務とする政府方針に従い、旧南部連合軍の連邦軍への編入は比較的早いペースで進められていった。連邦軍への編入が比較的順調に進んだ理由は、旧南部連合軍首脳部の主だった指揮官が自らこれに従い、かつての部下達に連邦軍への参加を呼びかけた事が大きい。その中にはブラッドレーやウォーカー、マッケーンなど、後の戦争でにおいて合衆国軍を支える事になる軍人達もいた。
+{{br}}  だがその一方で、ヤンキーの傘下に入る事をよしとせず、軍を脱走する者も少なくなかった。彼らは南部降伏後も地下に潜伏していたジョージ・パットン大将の下に集結し、「いつかあの南部の旗を」の誓いと共に、来るべき日に備えていた。
-!悪夢――蜂起と再生
-1948年5月13日、カナダのケベックに集結していたドイツ北米総軍が一斉に行動を開始、第三次世界大戦が始まった。国境線に展開していた合衆国軍を蹴散らして合衆国に雪崩れ込んだドイツ軍に対し、初日に新首都ワシントンDC(政府機能はボストンから『帰還』していた)とフィラデルフィアを反応弾で吹き飛ばされた合衆国軍は後手後手に回っていた。さらに初戦の混乱から立ち直り、対日戦と対南部戦で鍛え上げられた軍事力がドイツ軍に向けられようとしたその瞬間、合衆国各地に潜伏していた旧南部連合軍残党が一斉蜂起、合衆国軍はさらなる混乱に見舞われる。〈春の目覚め〉と呼ばれた作戦に従い、パットンの下に組織化された旧南部連合軍は各地で合衆国軍を攻撃、これにより防衛線は崩壊し、合衆国軍は敗走を余儀なくされる。そして6月6日、ドイツに逃れていた南部連合自治大臣ジョン・マッカーシーがボストンに帰還、アメリカ連合の復活を高らかに宣言する。
-{{br}}  アメリカ連合の復活―東部連合の成立と共にアメリカ連合海兵隊も復活したが、第三次大戦中は目立った戦果を挙げていない。理由は第一に、東部連合に参加した旧南部連合海兵隊の兵員が少なかった事。陸海空軍で比較的多くの旧南部連合将兵が東部連合へ参加したのに対し、他の軍種ほど規模の大きくなかった海兵隊では、東部連合へ参加する人間が相対的に少なかった。
-{{br}}  第二は、海兵隊に新たに人員を回す余裕が成立して間もない東部連合には無かったためである。第三次大戦の主戦場となった北米ではまず第一に人間が必要とされるのは合衆国(プラス日英)と直接対峙する陸軍であり、次いで空軍、海軍となり、海兵隊の優先順位は最下位だった。これでは独立した軍種として戦争に参加するのは不可能だった。その為東部連合海兵隊は戦争の全期間を通して旧南部連合海兵隊の人員を中核とするスケルトン化を推し進め、戦後の再建の時まで雌伏する事になる。もっとも東部連合海兵隊が大戦中何もしていなかったという訳ではなく、キューバやマルティニーク攻防戦に一部部隊を派遣し、既にお家芸となりつつある小数のコマンド部隊による奇襲・後方攪乱などで戦果を挙げている。
+!悪夢―蜂起と再生
+1948年5月13日、第三次世界大戦が始まった。史上初の反応弾攻撃と旧南部連合残党による一斉蜂起により合衆国の防衛線は崩壊、そして6月6日ボストンにおいて、ドイツから帰還したジョセフ・マッカーシーによりアメリカ連合の復活が宣言される。
+{{br}}  新生アメリカ連合―東部連合の成立と共にアメリカ連合海兵隊も復活したが、主に人員不足から、第三次大戦中は目立った戦果を挙げていない。海兵隊は戦争の全期間を通して旧南部連合海兵隊の人員を中核とするスケルトン化を推し進め、戦後の再建の時まで雌伏する事になる。もっとも海兵隊が大戦中何もしていなかったという訳ではなく、キューバやマルティニーク攻防戦に一部部隊を派遣し、既にお家芸となりつつある少数のコマンド部隊による奇襲・後方攪乱などで戦果を挙げている。
-第三次大戦後、ニクソンによる旧南部連合勢力の粛清劇(ウォーターゲート事件)を切り抜けた東部連合海兵隊は、国土の復興と戦争による混乱の終結を待って組織の再編に乗り出した。陸軍が北米大陸を主戦場に定め、戦力の大部分を東西分割線に集中している状況下、海兵隊はカリブ戦線での任務を担う事になる。主任務を合衆国の生命線であるテキサス油田への海上侵攻とし、ニクソン政権による軍事予算の拡大により当初のドイツ軍のお下がりの装備を改変、70年代には一応の満足のいく強襲揚陸部隊の再建を完了した。
-{{br}}  また、第二次南北戦争での最終決戦地となったフロリダについては、眼前のキューバを睨む意味からも陸軍と共同で防衛計画が練られた。後年「大戦の決着を左右する」と言われたケープ・カナベラル宇宙基地も建設され、かつての南部連合軍防御陣地を復活させるなどPACTO軍の侵攻に備えて全土の要塞化が進められた。
-{{br}}  また、水陸両用作戦と並んで重視されたのが、軍の発足当時からの伝統であるコマンド作戦である。第一次・第二次南北戦争、第三次大戦でも東部連合海兵隊の精鋭部隊が敵基地や後方地帯に侵入し数々の戦果を上げた事もあり、東部連合海兵隊では特に選抜した将兵による特殊部隊を編成し、有事の際敵地に部隊を送り込む事を計画している。
-{{br}}  この海兵隊特殊部隊は主に中南米での紛争に数多く投入され、特にコロンビア紛争での活躍が有名で、西側のマスコミからは「プレジデント・コマンド」なるニックネームを与えられている(この名称は当の隊員からも激しく不興だったが)。
-{{br}}  なおこの時期、海兵隊を隠密裏に敵地に上陸させる目的で、海軍と共同で大型の強襲揚陸潜水艦を建造しようという計画が存在した。これ自体は珍しい発想ではなく、発足当初からコマンド部隊としての任務を重視していた海兵隊では40年代から既に潜水艦からの海兵隊員の揚陸作戦を実施している。結局は他の装備の調達を優先するということで中止されたが、後年この建造計画に対し、合衆国に亡命した東部連合海兵隊のある退役少将は「わが軍の上層部はバカなのではないかと思った」とコメントしている。
-{{br}}  この他にも、現在でも東部連合海兵隊は「上陸支援用軽戦艦」の建造を求めている。毎回申請されては却下されているのだが、艦砲射撃の威力をよく知っている海兵隊の切実な希望と言えなくもない。
+第三次大戦後、ニクソンによる旧南部連合勢力の粛清劇を切り抜けた海兵隊は、国土の復興と戦争による混乱の終結を待って組織の再編に乗り出す。陸軍が北米大陸を主戦場に定め、戦力の大部分を東西分割線に集中している状況下、海兵隊はカリブ戦線での任務を担う事になる。主任務を合衆国の生命線であるテキサス油田への海上侵攻とし、ニクソン政権による軍事予算の拡大によりドイツ軍のお下がりだった装備を改変、70年代には一応の満足のいく強襲揚陸部隊の再建を完了した。
+{{br}}  また、第二次南北戦争での最終決戦地となったフロリダについては、キューバを睨む意味からも陸軍と共同で防衛計画が練られた。後年「大戦の決着を左右する」と言われたケープ・カナベラル宇宙基地も建設され、旧南部連合軍防御陣地を復活させるなどPACTO軍の侵攻に備えて全土の要塞化が進められた。
+{{br}}  また、上陸作戦と並んで重視されたのが、発足当時からの伝統であるコマンド作戦である。第一次・第二次南北戦争、第三次大戦でも海兵隊精鋭部隊が敵基地や後方地帯に侵入し数々の戦果を上げた事もあり、東部連合海兵隊では特に選抜した将兵による特殊部隊を編成し、有事の際敵地に潜入させる事を計画している。この部隊はコロンビア紛争などの中南米の紛争に投入され、西側のマスコミからは「プレジデント・コマンド」なるニックネームを頂戴している(これは当の隊員らからも不評だったが)。
-以上のように、1861年から続くアメリカ連合海兵隊の歴史は、栄光と敗北、雌伏と再起という苦難の連続だった。その数々の試練に対し自らの掲げるモットー「AHEAD AHEAD GO AHEAD(進撃せよ 進撃せよ 進撃せよ!)」の通りに立ち向かい、それを乗り越えてきたアメリカ連合海兵隊の歴史は、各国の同組織、日本帝国海軍陸戦隊や合衆国海兵隊などに決して劣るものではない、そう確信する。その精神は、常に困難に立ち向かい、それをガッツで乗り越えていく「アメリカンスピリット」であり、彼ら東部人もまた、紛れもない「アメリカ人」の証明といえる。
-{{br}}   かつて二つの家に別れ、現在も北米で対峙する二つの「アメリカ」が、同じ「アメリカ人」として握手を交わす日が来るのか―それは不明である。だが、たとえどのような時代になっても、アメリカ連合海兵隊がその誓いを破る事はないだろう。彼らは常に誠実に、「AHEAD AHEAD GO AHEAD」の雄叫びとともに、進撃する事をやめない。それは確かである。
+以上のように、1861年から続くアメリカ連合海兵隊の歴史は、栄光と敗北、雌伏と再起という苦難の連続だった。その数々の試練に対し自らのモットー「AHEAD AHEAD GO AHEAD!」の通りに立ち向かい、それを乗り越えてきたアメリカ連合海兵隊の歴史は、各国の同組織、合衆国海兵隊や日本海軍陸戦隊に決して劣るものではない、そう確信する。
+{{br}}   かつて二つの家に別れ、現在も北米で対峙する二つの「アメリカ」が、同じ「アメリカ人」として握手を交わす日が来るのか―それは不明である。だが、たとえどのような時代になっても、彼らは常に誠実に、進撃する事をやめない。それは確かである。