+!!!日本帝国海軍 重巡洋艦〈江藤〉
+!!Leaf「まじかる☆アンティーク」江藤結花
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+!!建造編
+! 次世代重巡と〈折原《吉野》浩平〉級を巡る混乱
+ 隆山海軍軍縮条約失効直後に設計された〈利根〉級と〈高瀬〉級の重巡洋艦は、共に海軍の将来を担う重巡として相応しい艦であった。〈利根〉級こそ予算の不足で実際に建造されることはなかったが、〈高瀬〉級は造られている。そしてさらに〈高瀬〉に続く次世代重巡洋艦は一体どちらの艦をベースにするのか。激しい議論が戦わされた末、次世代重巡は〈利根〉拡大発展型として建造することがほぼ決定した。
+ しかし、第2次世界大戦の勃発により、この計画は大幅な変更を余儀なくされた。再び議論が戦わされた結果、海軍は〈利根〉発展型よりも確実かつ早期に揃えられる〈高瀬〉級の発展型――〈折原《吉野》浩平〉級を選んだのであった。〈利根〉発展型は当面の所先送りされ、海軍は〈高瀬〉発展型を量産することによりこの大戦を戦い抜こうとしたのだった。かくして〈折原《吉野》浩平〉級は4番艦までが起工された。が……。{{br}}
+ 当時大西洋や地中海でで展開されていた日英対独米(合衆国は義勇軍)の激戦は、航空母艦とそれに搭載される航空機の威力をまざまざと見せ付けていた。その戦訓を受けた海軍は〈折原《吉野》浩平〉級を、2番艦〈折原《筑波》みさお〉を残して全て空母に変えること余儀なくされた。この〈折原《吉野》浩平〉級の艦種変更によって新型重巡を得られなくなった海軍は、これまで凍結されていた〈利根〉発展型建造計画を再開させたのであった。{{br}}
+ かくして〈利根〉発展型の建造計画は再開されたものの、時勢はすでに航空主兵と海上護衛に移っていた。〈折原《筑波》みさお〉が空母への改装を逃れたのも、真性大艦巨砲主義者たちの悪あがきに過ぎなかったのだから。{{br}}
+ 〈利根〉発展型を巡る海軍内の状勢も4派に分かれるという混乱を極めた。建造を中止して〈長森《大鳳》瑞佳〉級など空母の建造を優先すべきだと主張する根っからの航空主兵主義者、〈折原《吉野》浩平〉のように空母に艦種を変更して、一刻も早く空母の数を揃えよと主張する妥協的航空主兵主義者、そして重巡として完成させよとする大艦巨砲主義者と、巡洋艦に防空プラットフォームなど一定の価値を見出しているエクストリーム論者。{{br}}
+ この4派の間で激しい議論が戦わされた。通算3度目の〈利根〉発展型論争である。しかしあるとき、この議論に水を注す事態が発生した。{{br}}
+(注1){{br}}
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+! 米新型重巡の恐怖
+ 日本海軍の仮想敵たるアメリカ合衆国海軍は、隆山条約失効以前に〈ウィチタ〉という優秀な重巡洋艦を産み出した。失効後は〈ウィチタ〉を拡大強化した〈川中島《バルティモア》里美〉級を文字通り「量産」して(注2)、世界で初めて防護巡洋艦に8インチ砲を搭載し「重巡洋艦」のカテゴリーを作り出した〈橋本〉(注3)や、イギリス人から「餓狼」と呼ばれた〈足柄〉など、世界にその名を轟かせた日本の重巡洋艦群に対抗しようとしていた。{{br}}
+ そこまでは日本海軍も知っていた。だからこそ〈折原《吉野》浩平〉級を計画したのだった。そして〈折原《吉野》浩平〉級が空母になっても、従来までの重巡、そしていわゆる〈超甲巡〉――〈大庭《白根》詠美〉級装甲巡洋艦などでかろうじて対抗し得ると考えた(というより、自分たちを無理矢理納得させざるを得なかった)からこそ、〈折原《吉野》浩平〉級は空母になったのであった。{{br}}
+ さて、「第3次〈利根〉発展型論争」に水を注した事態とは、軍の対米情報部と艦政本部が協同で編集し、関係各所に配布された「合衆国海軍建艦計画の動向」という冊子の中に記載された一つの記事であった。それは合衆国が5年から10年以内に建造するであろう重巡洋艦の性能を予測したものだった。具体的な内容は、{{br}}
+1、船体 基準排水量17000トン以上。艦主要部は対8インチ砲防御以上の防御力を有すると推測される。{{br}}
+2、砲力 55口径8インチ砲9門以上搭載と推測される。ただし発射速度は砲弾装填作業の機械化・自動化により従来よりも遥かに向上し、高角砲並になると推測される。{{br}}
+3、機関 既存艦とほぼ同等の出力と推測される。排水量は増大しているため、速力は多少低下する。
+(以下省略){{br}}
+ というものであった。ここに記された艦はいうまでもなく後の〈河合《デモイン》音子〉級である。そしてこれを見た「第3次〈利根〉発展型論争」の当事者たちは文字通り震撼した。特に「2」の項の「高角方並の発射速度」は一定時間あたりの投射弾量が従来の日本重巡の2倍から3倍=砲力が2倍から3倍であることを意味し、さらには20,3センチの大口径砲がそのまま高角砲になる可能性をも意味していた。大艦巨砲主義者は前者を重大視し、航空主兵主義者は後者を重大視した。なおエクストリーム論者は両方を重大視している。{{br}}
+ かくして奇妙な一致を見た。〈利根〉発展型はこの「米17000トン重巡」に勝ち得る艦として設計されることとなった。{{br}}
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+! 〈折原《筑波》みさお〉の最期
+ 〈利根〉発展型の設計が順調に進み、1番艦〈江藤〉の予算が承認されたころ、太平洋で繰り広げられていた日米機動部隊航空戦、そして大西洋とインド洋におけるドイツ潜水艦との果てしない船団護衛戦は、日本海軍に1隻でも多くの防空艦と護衛艦を要求していた。しかし〈江藤〉級を建造しなければ「米17000トン重巡」を含む合衆国新型巡洋艦群に押し切られてしまう。さりとて防空艦と護衛艦が足りなければ大切な空母、そして海洋国家の赤血球たる商船が海の藻屑と消える。{{br}}
+ 海軍はこのジレンマにしばらく悩まされたが、この堂々巡りを断ち切る事態が1942年9月29日に日本海で発生した。舞鶴から呉に回航して、最終工事を行うことになっていた〈折原《筑波》みさお〉が出港直後、合衆国潜水艦〈アーチャーフィッシュ〉の雷撃を受け沈没、そのあまりにも短い生涯を終えたのであった(注4)。{{br}}
+ この〈江藤〉級とも何かと関係の深い重巡の死は、〈江藤〉級2番艦以降の建造を断念させた。〈折原《筑波》みさお〉の喪失を重く見た海軍上層部は、ついにこれ以上の重巡建造を諦め、空母と防空艦、そして〈折原《筑波》みさお〉の命を奪った潜水艦を撃退する対潜護衛艦の建造を最優先とする建艦シフトを打ち出したのだった。{{br}}
+ 結果、〈江藤〉は日本海軍最後の、そして最強の砲戦型重巡洋艦という栄誉を図らずも担うこととなった。{{br}}
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+! 〈江藤〉の性能
+ 日米戦は1943年に終結したが、〈江藤〉の完成はそれよりも遅い45年の11月であった。なお本来ならば〈江藤〉のライバルとして最強重巡の座を争う予定であったが停戦によりその機会を失った〈河合《デモイン》音子〉級の1番艦〈河合《デモイン》音子〉と同級2番艦〈セイレム〉もほぼ同じころに完成し、太平洋艦隊に配備されている。{{br}}
+ ここで〈江藤〉の性能を〈河合《デモイン》音子〉級と比較する。{{br}}
+ 〈江藤〉の主砲は三式50口径20,3センチ砲。砲身長は従来の重巡主砲と同じ50口径だが、初速、砲弾重量とも米重巡の55口径8インチ砲に勝るとも劣らない優秀砲である。これを15門、5基に分けて3連装砲塔(注5)におさめた。そしてこの3連装砲塔は5基全てが前部甲板に搭載(注6)された。配置は艦首側から、甲板と同じ高さに1番砲塔、2番砲塔、一段高くなって3番砲塔(以上前向き)、3番砲塔と同じ高さに4番砲塔、甲板と同じ高さに戻って5番砲塔(以上後ろ向き)(注7)と、古今に例のない極めて奇抜な搭載方式である。{{br}}
+ 主砲発射速度は自動砲化によりは1門あたり毎分6発を実現した。〈河合《デモイン》音子〉級はそれよりも進み、毎分10発と差をつけられているが、搭載門数自体が勝っているので、くしくも一分あたりの投射弾数は、〈江藤〉6発×15門=90発、〈河合《デモイン》音子〉級10発×9門=90発と、全く互角となった。だが〈江藤〉は前述した通り砲塔の前部集中配置により、砲弾散布界が狭く命中率は〈河合《デモイン》音子〉級を凌駕している。{{br}}
+ なお当初の予定とは異なり、主砲の高角砲化は行われていない。防空艦の量産に成功したことと、砲塔に分厚い装甲を施し高角砲並みの旋回速度を保つことができなかったためである。さらに魚雷発射管は最初から廃された。このことからも、〈江藤〉は水上砲戦を徹底的に追及した艦であることがうかがえる。
+ 〈江藤〉の装甲は、舷側が最大178ミリ(18度傾斜)と、〈高瀬〉、(重巡としての)〈折原《吉野》浩平〉級に準じているが、甲板が最大105ミリと、極めて大きい防御力を有している。砲塔装甲も前楯229ミリ、天蓋127ミリ、側面・後面100ミリという重装甲を誇り、まさに水上砲戦において敵重巡主砲弾の命中に耐え得る設計となっている。この装甲においては〈江藤〉は〈河合《デモイン》音子〉級を全ての面で凌駕している。{{br}}
+ そして速力は、168000馬力の高圧機関が33,5ノットの高速を発揮する。この速力は〈河合《デモイン》音子〉級と互角である。しかし重装甲大重量の砲塔を前部に集中したことにより、繰艦特性に難が生じているが、2枚舵の採用で最低限に抑えられたことは特質に値するだろう。{{br}}
+ 〈江藤〉の大きめの艦橋は艦中央部よりやや後方に配置され、その後方に一本にまとめられた誘導煙突、高射装置を乗せた後部艦橋、背負い式の両用砲塔と順番に配置されている。{{br}}
+ 〈江藤〉を初めて見た人々は、皆一様にその力強さに感嘆するが、その後にはお約束のように、「艦の大きさに比べて主砲口径が小さい」(注8)という印象を抱いたという。その指摘はある意味当然である。5基の砲塔、分厚い装甲、そして大出力機関を備えた〈江藤〉の基準排水量は20000トンを軽く超え、23500トンという戦艦に近い値となった。その上全長は〈来須川《長門》芹香〉(第2時改装後)と全く同じ224,5メートルであったのだから。{{br}}
+ だがしかし、〈江藤〉が最強の巡洋艦であったかといえば、必ずしもそうではない。今日、それに最も相応しい艦はイタリアの〈柴崎《ルクレツィア・ロマーニ》彩音〉級(1番艦は1946年11月完成)という評価が一般的である。{{br}}
+ 〈柴崎《ルクレツィア・ロマーニ》彩音〉級は、基準排水量20020トン。52口径15,2センチ砲の「軽巡」だが、1分に15発を発射する速射砲で、これを3連装5基15門搭載している。装甲は舷側240ミリ、甲板130ミリ、砲塔230ミリと〈江藤〉を完全に凌駕している。ただ〈江藤〉は一定時間あたりの投射弾量で僅かに勝り(注9)、集弾性、ダメージコントロールでもどうにか優位には立っている。{{br}}
+ 日本が〈柴崎《ルクレツィア・ロマーニ》彩音〉級の情報を得たのは1944年、〈江藤〉が進水した後のことである。この情報を得るのがもう少し早ければ、〈江藤〉の建造は中止され、装甲巡洋艦が新たに計画されていたかもしれない。が、そうはならならず、さりとて強化改造をするには〈江藤〉の工事は進み過ぎていた。結局〈江藤〉と〈柴崎《ルクレツィア・ロマーニ》彩音〉級との対決は実現しなかったが、もし実現していたら、性能も同型艦の数も勝る強敵に敗れる可能性が大きい、という評価が現在の艦船専門家の中では主流となっている。{{br}}
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+!〈折原《筑波》みさお〉の形見
+ 〈江藤〉は全くの新造艦であったが、艦首に輝く直径80センチの菊花紋章だけは別であった。1942年10月、舞鶴沖で哨戒中の駆潜艇が洋上に浮かぶ菊花紋章を発見、これを回収した。これは〈折原《筑波》みさお〉の菊花紋章であることが判明したが、これを〈江藤〉に継承させるという舞鶴鎮守府長官の思いつき(注10)には、かつて〈江藤〉の建造に反対した者も含めて誰も反対しなかった。彼らは艦そのものを憎んでいるわけではなかった。{{br}}
+ 最強の重巡〈江藤〉は、最強になるどころか無念の最期を遂げたこの〈折原《筑波》みさお〉の菊花紋章を受け継いで第3次世界大戦を――大艦巨砲がすでに過去のものとなった戦争を戦い抜くことになる。
+ 〈折原《筑波》みさお〉の形見はそれだけではなかった。いや、こちらの方が〈折原《筑波》みさお〉の権化といえるだろう。それは人である。〈江藤〉の艦長は、かつて沈みゆく〈折原《筑波》みさお〉から脱出に成功した砲術長であった。当然、大艦巨砲主義者である(注11)。さらに乗組員も〈折原《筑波》みさお〉の生き残りが多く配属されていた。第2次大戦が終結した今、彼らは近いうちに勃発すると思われるドイツとの戦争で〈折原《筑波》みさお〉の復仇を果たそうと心に誓っていた。{{br}}
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+注1:次世代重巡の選定と〈折原《吉野》浩平〉級を巡る混乱については「〈折原《吉野》浩平〉級航空母艦」の項に詳しい。{{br}}
+注2:〈川中島《バルティモア》里美〉級は〈高瀬〉と正面から対抗できる強力な重巡である。このような艦を「量産」してしまう合衆国海軍に対して、日本海軍の一部勢力が「重巡」としての〈折原《吉野》浩平〉級にこだわったのもある程度の納得がいく。{{br}}
+注3:〈橋本〉は、1934(昭和9)年に事故で沈没していたが、合衆国海軍は〈橋本〉登場時の衝撃を忘れてはいなかった。{{br}}
+注4:当時の〈アーチャーフィッシュ〉艦長、ジョゼフ・エンライト氏は第2次、第3次両大戦を生き延び、退役後に〈折原《筑波》みさお〉の詳しい撃沈状況を書いた「TUKUBA!」という本を執筆している。{{br}}
+注5:この砲塔内部には方位盤、射撃盤が装備され、単一砲塔による正確な独立射撃が可能であった。なおこれは〈河合《デモイン》音子〉級も同じである。{{br}}
+注6:ここが〈利根〉発展型といわれる所以である。{{br}}
+注7:〈相田《最上》響子〉級(航空巡洋艦改装前)の後部主砲塔2基の配置を前部主砲塔3基のすぐ後方に持ってきたと思えば理解しやすい。{{br}}
+注8:これを口にしたがために〈江藤〉乗組員に蹴り倒された他艦の水兵もいるという。{{br}}
+注9:〈江藤〉の20,3センチ徹甲弾は150kgSHS(超重量砲弾)で、〈柴崎《ルクレツィア・ロマーニ》彩音〉級の徹甲弾は50kgである。よって1分間の投射弾量は、〈江藤〉が150kg×15門×6発=13500kg、〈柴崎《ルクレツィア・ロマーニ》彩音〉級が50kg×15門×15発=11250kgとなる。{{br}}
+注10:合衆国陸軍航空隊の空爆から〈折原《筑波》みさお〉を守りきれなかったことと、日本海に合衆国潜水艦の跳梁を許し〈折原《筑波》みさお〉を沈めさせてしまったことを気に病んでいたという。
+注11:だが彼は「軍人は政治に関与すべからず」を地で行くような人物でもあった。そのため、第2次2・26事件にも関わっていない。{{br}}
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+!!戦歴編
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+!昭和22年海軍観艦式
+ 〈江藤〉完成からおよそ2年後の1947年10月29日、横浜沖で連合艦隊のほぼ全ての艦が参加するという極めて壮大な観艦式が挙行された。当然〈江藤〉もこれに参加し、その雄姿を国内外にアピールした。{{br}}
+ そしてこの観艦式と同時に演習も行われた。この頃の国際状勢(ドイツとの緊張)も影響してか、この演習は実弾を用いて行われ、実戦さながらのものであった。そして事件はこの実弾演習中に起こった。
+ この時の〈江藤〉は、英国海軍の戦艦〈スフィー〉の曳航する標的を目標に砲撃を行っていた。そして〈スフィー〉も〈江藤〉が曳航する標的に対して同じことをしていた。何度も砲撃を交わすうちに、〈江藤〉の放った徹甲弾のうち一発がこともあろうに〈スフィー〉に命中してしまったのである。{{br}}
+ 命中個所は艦体中央部。もっとも、重巡の主砲で戦艦の装甲を打ち抜けるはずもなかったが。〈江藤〉は直ちに砲撃を中止、各部を調査したところ、主砲射撃方位盤に狂いが生じていたことが判明した。〈スフィー〉にも直接的な損傷は発生しなかったが、乗員の受けたショック少なくないものがあり、さらに被弾の衝撃で一部の電路が切れ、反応が鈍くなった個所が発生したという。{{br}}
+ この件に関して〈スフィー〉側は〈江藤〉の行為を不問にしたことから「演習中の事故」として処理された。しかしこの出来事は海軍の一部から「〈江藤〉暴走事件」などと称され〈江藤〉乗組員のプライドを大きく傷つけた。{{br}}
+ そして1948年5月、第3次世界大戦が勃発した。{{br}}
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+!艦対艦誘導弾
+ 第3次大戦開戦後、〈江藤〉に水上砲戦の機会は訪れなかった。遣印艦隊に配属されていたらソコトラ島沖で発生した「第2次印度洋海戦」でイタリア艦隊相手に水上砲戦もできただろうが、〈江藤〉はこの時本国で定期検査を受けていたので、この海戦に参加することはなかった。ソコトラ沖での友軍の苦戦を聞いた〈江藤〉艦長は「もしも本艦がいたら……」と悔しがったという。{{br}}
+ その後の〈江藤〉は、パナマ運河攻略作戦に参加したものの、やったことは地上支援の艦砲射撃だけであった。次のカリブ海での戦いは日独空母機動部隊の航空戦が主であり、〈江藤〉の任務は空母の護衛が主で、幾多の対空戦を経験したが主砲が火を噴く機会は全くなかった。なおこのカリブ海の戦いでは、皮肉にも〈江藤〉が主敵と定めた合衆国の〈河合《デモイン》音子〉〈セイレム〉(注12)と同一戦隊を組んだこともあった。艦の性能がほぼ一致していたため、なんら障害は発生しなかったが。{{br}}
+ カリブの戦いは枢軸側の勝利に終わり、新たな戦いの舞台は大西洋へと移った。ここで〈江藤〉は一旦本国へ帰還し、とある実験に参加することになった。このころ日本は世界に先駆け対艦誘導噴進弾を実用化しようとしていた。この対艦誘導弾の実射試験は1950年10月、防諜上の理由からドイツ潜水艦の侵入が不可能となっていた日本海で行われた。{{br}}
+ 〈江藤〉は完成以来一度も使われたことのなかった水上機用カタパルトを撤去し、そこに発射ケースに組み込まれた誘導弾を4発搭載して、〈江藤〉と同じように誘導弾を搭載した他の艦10隻と共に、約50キロ離れた標的へと一斉に誘導弾を放った。{{br}}
+ この実験で得られた結果は、海軍の兵器ドクトリンを大変革させるのを可能とするものだった。それは、命中率・射程とも水上艦の艦砲を上回り、威力も戦艦を沈められるかどうかは不安だが、巡洋艦以下の艦ならば確実にダメージを与えられるという内容だった。この実験結果に誘導弾への自信をつけた日本は、後に誘導弾の大量配備を行い、そしてそれが1952年1月の「ベルファスト沖海戦」での一方的な勝利に繋がることになる。{{br}}
+ 実験終了後、この実験の当事者たちによる打ち上げパーティーが開かれたが、ここでの会話は自然に新兵器、対艦誘導弾についての話に展開した。要は、戦艦はおろか砲戦型巡洋艦まで否定するような会話が展開されたということである。{{br}}
+ 〈江藤〉艦長は面白くなさそうに酒を飲んでいた。彼は大艦巨砲主義者であったが、冷静な判断力を持ち合わせる人物だった。当然誘導弾の有効性を理論的には認めていたが、内心ではなお水上砲戦への執着を捨てきれていなかった。しかしこの時の彼の脳内にはかなりのアルコールが浸透しており、冷静さは失われていた。そしてパーティーでの会話が砲戦重巡の否定にまで達した時、彼はテーブルを両手で強く打ちつけた。{{br}}
+ 一瞬で静まり返る会場、そしてあっけに取られるパーティー出席者たちを尻目に彼は、{{br}}
+「貴様らに何がわかる」{{br}}
+ と、凄みのある声で怒鳴った。そしてふらつく足取りで会場を立ち去った。{{br}}
+ 彼の過去や経歴――大艦巨砲主義者であり〈折原《筑波》みさお〉の生き残り――を知るものたちはこの場でこんな話をするべきではなかったと後悔したという。なおパーティーは無礼講であったので、〈江藤〉艦長の態度は問題にならなかった。{{br}}
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+!秘匿名称〈報復〉と〈江藤〉
+ 1952年1月、1隻の空母が大西洋戦線に派遣された。〈宮田《飛天》健太郎〉、日本初の反応動力推進空母である。このとき〈宮田《飛天》健太郎〉は定数よりも多くの艦載機を露天繋止してまで大西洋にやってきたのには大きな理由があった。{{br}}
+ 英本土奪還作戦〈アーク・エンジェル〉を直前に控えたこの時期、ナチス親衛隊の反応動力空母〈インディカ《ユンナ》〉を沈め、〈アーク・エンジェル〉作戦の不安要素を少しでも取り除くための、秘匿名称〈報復〉作戦が立案された。〈宮田《飛天》健太郎〉は〈報復〉作戦を実行する第7航空艦隊の旗艦にして唯一の空母であった。そしてそれを護衛するのはわずか5隻、防空駆逐艦の〈五月雨〉〈結波〉〈泰雲〉〈源霧〉、そして〈江藤〉であった。{{br}}
+ 1952年1月30日、ノルウェー、トロムセー沖で航空隊を発進させた〈宮田《飛天》健太郎〉は〈インディカ《ユンナ》〉を大破着底させ、〈報復〉は成功した。反撃に転じたドイツ軍機が7航艦に襲いかかってもきたが、〈江藤〉と4隻の防空艦、護衛戦闘機隊はドイツ機を撃退し、艦隊はアイスランドへの帰路についた。{{br}}
+ しかし、7航艦の危機はまだ去っていなかった。{{br}}
+ 1952年2月1日、午前1時30分。電波管制下にあった〈宮田《飛天》健太郎〉が定時水上電探捜索を行い、3隻の敵影を捉えた。反応は〈川中島《バルティモア》里美〉級が2隻、〈河合《デモイン》音子〉級が1隻、いずれも第3次大戦開戦後、ドイツが合衆国から鹵獲したものである。距離は30キロメートルだった。{{br}}
+ このドイツ艦隊来襲の報に接し、〈江藤〉艦長は自分たちがドイツ艦隊を撃退すると言った。先月の18日に行われた「ベルファスト沖海戦」でドイツ水上艦隊は全滅し、もう〈江藤〉が主砲を振るって戦うべき相手は今回現れた巡洋艦ぐらいしかないだろう。{{br}}
+ 議論は紛糾した。7航艦司令兼〈宮田《飛天》健太郎〉艦長のM大佐は、艦載機を緊急発進させてドイツ艦隊を撃退するつもりだった。命令を下せば10分以内にある程度まとまった数の航空隊を発進させ得る態勢が整えられていた。それで対艦誘導弾を発射すれば簡単に決着が付く。{{br}}
+ 〈江藤〉艦長も理解していた。大艦巨砲はもはや時代遅れの思想であることを。航空機はレシプロからジェットへと革命的発展を遂げ、艦砲よりも射程が長く、命中率も高い誘導弾が飛び交う時代である。艦砲は全くなくならないにしても、今後その価値はますます低くなるであろうことは明白だ。であるからこそ〈江藤〉に、この愛すべき最後の砲戦型重巡に、本来の役割を与えてやりたい。〈江藤〉に最後の花道を飾らせてやりたい。そして、自分たちの――〈折原《筑波》みさお〉から脱出し、無念の涙を流した自分たちの重巡乗組員としての存在異議を示したい。〈江藤〉艦長はそう言ってM大佐を説得した。{{br}}
+ 〈江藤〉艦長の決意は揺るがない――そう判断したM大佐は〈江藤〉に敵艦隊迎撃のGOサインを出した。〈江藤〉は即座に反転した。しかし敵艦は3隻、このままでは〈江藤〉が不利である。そこで〈江藤〉は2年前に取りつけてからそのままだった誘導弾発射ケース内に収められていた誘導弾4発を発射、それは〈川中島《バルティモア》里美〉級の1隻(艦名不詳)に3発が命中し、それを無力化することに成功した。なおこの艦は20分後に自沈した。{{br}}
+ それでも残った2隻のドイツ巡洋艦は、僚艦の脱落にもめげずに突撃をやめようとしない。こうなっては採るべき道は1つ、見敵必戦の精神で勇敢な敵艦と正面から渡り合う。〈江藤〉艦長たちの夢見た水上砲戦で。{{br}}
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+! 第2次ノルウェー沖海戦
+ ドイツ艦隊との距離を18000まで詰めた〈江藤〉は射撃を開始、その瞬間、発砲炎の閃光を浴びた艦首菊花紋章――かつて〈折原《筑波》みさお〉の艦首にあったそれが、まるで「仇を討ってくれ」と言わんばかりに、黄金色に輝いた。{{br}}
+ 対するドイツ艦隊の射撃開始も同時であった。ここに重巡洋艦同士の夜間水上砲戦「第2次ノルウェー沖海戦」の火蓋が切られた。{{br}}
+ 〈江藤〉はまず敵艦隊の先頭に位置した〈川中島《バルティモア》里美〉級の〈フォン・ヴァルダーゼー〉を目標にした。〈川中島《バルティモア》里美〉級の戦闘能力は〈江藤〉に遠く及ばない。射撃開始後3分と経たないうちに〈ヴァルダーゼー〉は主砲が沈黙、艦上構造物は半壊し、あちこちから火を噴き上げていた。〈江藤〉も敵2隻からの集中射撃を浴びたが、戦闘能力が低下するほどの損害は受けなかった。〈ヴァルダーゼー〉沈黙(後に沈没)の時点で戦闘は〈江藤〉と〈河合《デモイン》音子〉級〈マクシミリアン・ホフマン〉との一騎討ちに移行した。〈江藤〉はついに己が主敵と定めた艦――〈河合《デモイン》音子〉級と雌雄を決することになった。{{br}}
+ 両艦の戦いは熾烈を極めた。同航戦となり15000の距離を隔てて、〈ホフマン〉は6秒おきに9発の砲弾を吐き出し、対する〈江藤〉は10秒おきに15発を放った。最初は全くの互角だった。〈江藤〉も〈ホフマン〉も射撃用レーダーは破壊され、火災も引き起こした。そして闇夜の中、両艦は互いの火災炎を目標に光学射撃を交し合った。{{br}}
+ しかし砲戦を続けるうちに、〈江藤〉が徐々に有利となってきた。砲弾散布界の狭さによる命中率は、自艦が受けたよりも多くの命中弾を〈ホフマン〉に与え、〈ホフマン〉より1ランク厚い装甲は自艦に容易に致命傷を負わせなかった。戦闘はやがて〈江藤〉が〈ホフマン〉を圧倒した。〈ホフマン〉は最終的に、大火災と多量の浸水を引き起こし、落城した要塞の様相を見せる艦上構造物と艦体を海底に沈めていった。〈江藤〉の損害も軽くはなかった。甲板は穴だらけ、両用砲は8基中6基が破壊され、砲塔も2基が使用不能、舷側装甲帯にも歪みが生じ、一部は剥離し浸水もしていた。航行への支障が少なかったのは幸いであった。{{br}}
+ この海戦後、〈江藤〉艦長は艦内で宴会を開き、酒を飲み、菓子を食べながら嬉し泣きした。いや、彼のみならず〈折原《筑波》みさお〉の生き残りや、そうでない乗組員たちも泣きながら宴会に興じたという。〈江藤〉就役以来約7年、〈折原《筑波》みさお〉沈没時から数えると約10年の月日が流れていた。日本最後の砲戦型重巡はここに「復仇」を果たし、有終の美を飾ったのであった。{{br}}
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+!戦後の〈江藤〉
+「第2次ノルウェー沖海戦」で中破した〈江藤〉はアイスランドで応急修理を受けた後、日本の大神工廠に回航されドッグ入りした。修理が終わった時には第3次大戦もすでに終わっていた。1955年、〈江藤〉は予備艦に指定され、そのまま大神でモスポール保存されることになった。〈江藤〉艦長は愛する自艦との別れを惜しんだが、退艦する際の彼の表情は、己が信念を貫き通した男のみができる晴れ晴れとしたものであったという。{{br}}
+ それから月日は流れ、1985年、〈高瀬《大和》瑞希〉級の現役復帰(注13)と大改装の決定に伴い〈江藤〉にも現役復帰、打撃巡洋艦への改装の話が持ち上がった。しかしそれは実現しなかった。すべての主砲塔を前部に配置したため、その主砲塔を撤去すると艦のバランスが取りづらくなるというのが理由だった。バランス問題の解決は決して不可能ではなかったが、コストパフォーマンス的に見ると、〈江藤〉を改装するよりも新しい艦を造った方が良いと判断されたのである。その後、〈江藤〉に現役復帰の話は持ち上がっていない。{{br}}
+ 2000年現在、〈江藤〉は今も大神の軍港にある。今後再び現役復帰の機会が巡ってくるのか、それとも予備艦リストからも外されて解体されるのかは定かではない。しかし海軍ファンの一部に〈江藤〉の極めて特徴的な姿と戦歴に魅せられて、〈江藤〉の記念艦化を真剣に訴える人々が存在するのもまた事実である。彼らは口を揃えてこう言う。{{br}}
+「大きな船体に小さい主砲。そこが良いんじゃないか」{{br}}
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+注12:この2隻は第3次大戦勃発時は太平洋に配備されていたのでドイツの手には渡らなかった。なお、両艦とも90年代中盤まで現役で活躍した。{{br}}
+注13:〈高瀬《大和》瑞希〉級の現役復帰は、当時の中曽根首相の対独強硬政策に伴うもので、軍事的な意味より政治的な意味の方が強かった。{{br}}
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+!要目
+*基準排水量23500トン
+*全長224,5メートル
+*全幅25,6メートル
+*機関出力168000馬力
+*速力33,5ノット
+*兵装
+**50口径20,3センチ3連装主砲塔5基
+**60口径12,7センチ連装両用砲塔8基
+*装甲
+**舷側178ミリ
+**甲板105ミリ
+**砲塔229ミリ
+*[同型艦]〈江藤〉のみ