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〈吉川〉の変更点

+!!!〈吉川〉級軽巡洋艦(YOSIKAWA Class CL, IJN){{br}}{{br}}
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+!!軽巡洋艦〈吉川〉級(元ネタ:リーフ「痕」より吉川、阿部貴之、柳川刑事){{br}} {{br}}
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+!【解説】{{br}}
+ 日本海軍が戦艦部隊の直衛を目的として建造した大型軽巡。当時日本海軍では「単機能艦の組み合わせにより、艦隊そのものを一つの巨艦とする」と言う思想が起こっていた。主力たる戦艦は敵戦艦との砲撃戦に集中させ、その他の脅威…敵水雷戦隊、航空隊の攻撃を防ぐ副砲、高角砲を別の艦に分離することで、戦艦の小型化による建造費の低減を図ろうと言うものであった。{{br}}
+ 〈吉川〉級軽巡は当初、その思想に基づいて建造された、戦艦から分離した副砲と高角砲のプラットフォームとも言える艦になる予定であった。その多数備えた主砲と高角砲により、戦艦部隊に接近する水雷戦隊、航空機を撃破するのが主任務である。そのため、多方向からの敵の進攻にそなえて同級には僚艦及び護衛する戦艦とも一括して情報の交換が行える新型の通信装置が装備された。その専用アンテナの特異な形状から「ギター」と呼称されるその装置は同級最大の外見的特徴となった。{{br}}
+ 完成した同級一番艦〈吉川〉は1万トンを越える重巡並みの艦体に60口径と言う長砲身の三年式15.5cm三連装主砲5基15門を備え、やはり長砲身の94式長10cm連装両用砲四基を備える重砲撃艦として、従来の軽砲備、重雷装の大型駆逐艦的軽巡とは明らかに一線を画した艦として認知された。その性能は世界の海軍関係者に注目され、ジェーン海軍年鑑は特別解説を掲載し、米海軍は対抗馬として「ブルックリン」級大型軽巡の建造に踏み切る。{{br}}
+ しかし、戦艦直衛戦力として、決戦の場で活躍する事を期待された同級は、全艦が不運と恥辱、そして汚名にまみれてその生涯を終えると言う不本意な結果に終わるのである。{{br}}{{br}}
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+!【海軍大演習事件】{{br}}
+ 1934年(昭和11年)、海軍大演習の最中その事件は起きた。当時3隻が就役済みだった吉川級は一番艦〈吉川〉でも竣工から2年と経っていない文字どおりの新鋭艦であり、三番艦〈阿部〉などは慣熟航海終了の仕上げとしてこの演習へ参加していた。訓練において、同級からなる第七戦隊司令官の栗田少将は〈阿部〉に将旗を掲げた。その仕上がりを見ようと思ったのである。{{br}}
+ この時の〈阿部〉艦長は苦学して海軍兵学校に入り、優秀な成績で卒業した苦労人。音楽を愛する温和な人物であり、同じような境遇ながらその怜悧な頭脳と冷ややかな態度で優秀ながら敵の多かった二番艦〈柳川〉艦長ともウマの合う人物だった。一方、一番艦〈吉川〉艦長は、技量こそ優秀だったが、かつて特務機関に属し、麻薬の密売にも手を染めていたのではないかと噂される素行不良の人物。この三人の艦長にあった微妙な確執を、栗田が見抜けなかった事がこの日の惨劇に繋がった、とも言えるかもしれない。栗田は航行序列を〈阿部〉〈吉川〉〈柳川〉の順に定めたのだ。{{br}}
+ 訓練が佳境に差し掛かった時、その事件は起きた。減速し、回頭にかかった〈阿部〉に、〈吉川〉が追突したのである。激しいショックで艦内の人間はことごとく投げ出され、〈阿部〉のスクリューや舵などの航行機構は全壊した。「足を抱え込んでうずくまる」ようにその場から動けなくなってしまったのだ。{{br}}
+ 一方の当事者、〈吉川〉も艦首がねじくれたように大破していたが、辛うじて自力航行が可能だった。訓練は中止され、〈阿部〉は〈柳川〉に曳航され母校へ帰還。ただちにドック入りした。一方〈吉川〉は自力航行で帰還し、工作艦による修理を受ける事となった。
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+ 〈阿部〉の損害は深刻なものだった。回頭中に追突されたため、応力のかかり具合から艦体がゆるやかながらブーメランのように曲がっており、さらに歪んだスクリューシャフトがエンジン停止までに回転を続け、艦尾全体に破壊を広げていた。また、訓練未了の乗組員達のダメージ・コントロールの未熟さゆえに浸水が広範囲に及び、電気機構などに深刻な損害が出ていた。調査に当たった技官達は「修理不能。廃艦が妥当と見込む」と言う報告書を書かざるを得なかった。{{br}}
+ しかし、更に重大な事態が発生していたのは〈吉川〉の方だった。内部に入った技官達は機関が新鋭艦にもかかわらずひどく劣化している事や、内部設備に大幅な欠員が生じている事を知って狼狽した。事態の重大さを悟った海軍は直ちに〈吉川〉建造の経緯を調査する専門委員会を設置。事故の目撃者であり、法務士官の訓練も受けていた〈柳川〉艦長を委員長として調査を開始した。{{br}}
+ その結果、〈吉川〉艦長が物資の横流しに関わっており、粗悪な燃料を納入して差額を着服していた事、その結果、機関が麻薬患者の内蔵のように劣化した事その他諸々の〈吉川〉艦長の悪事が明るみとなったのである。{{br}}
+ 直ちに軍法会議が招集され、事故は艦を沈没させ、証拠の隠滅を図ろうとした〈吉川〉艦長による故意のものと断定。〈吉川〉艦長は軍律に対する重大な違反行為の廉により銃殺された。損傷した〈阿部〉は廃艦。〈吉川〉も内部の空洞化具合から見て廃艦と決まり、〈柳川〉による射撃訓練の標的艦とされ沈没した。{{br}}{{br}}
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+!【余波】{{br}}
+ こうして、期待の大型軽巡二隻が失われた事は、海軍にも大きなショックを与えた。事故から艦体構造が意外に脆弱である事を知った艦政本部は、建造中の四番艦〈柏木〉の工事を中止。設計をやり直した上で改良型の〈柏木〉級として建造する事を決定。また、喪失した二隻の穴埋めとして〈相田《最上》響子〉級軽巡2隻の建造を決定した。{{br}}
+ 事故から生き残った人々の傷も深かった。〈阿部〉艦長は事故への責任から精神の常態を崩し、軍病院へ入院。二度と海軍へ復帰する事は出来なかった。司令官栗田少将は責任こそ問われなかったが、艦を衝突させる事への恐怖感がトラウマとして残り、彼を苦しめる事になる。{{br}}
+ 一方、唯一残った〈柳川〉艦長は何かを調査する事に熱意を向けていた。{{br}}
+ この時、彼は調査の過程である重大な事実を掴んでいた。それは、〈吉川〉艦長が海軍内部のある派閥に属しており、その意向を受けて行動していたと言う事である。実は〈吉川〉艦長はその前歴に目を付けた海軍内部の対外強硬派、いわゆる「永遠の盟約派」に属しており、組織の裏金調達に暗躍していたのである。そして、やや押しに弱い性格の〈阿部〉艦長を組織に勧誘しようとして断られていた事も。{{br}}
+ しかし、この事に気づいた時には「永遠の盟約派」は〈「吉川」艦長を切り捨てており、彼と組織を繋ぐ証拠の全てが隠滅されていた。〈柳川〉艦長は親友の本当の敵を討つ最大の機会を逃したのである。{{br}}
+ 〈柳川〉艦長は絶望した。いや、幻滅、と言う方が正確かもしれない。優秀な艦と人材を犠牲にして組織の利益を追求する「永遠の盟約派」、そうしたものの惷動を許す海軍の体制、そしてその海軍を建設してきた日本と言う国家。その全てにである。いまや、彼にとって唯一心許せるのは、入院中の〈阿部〉艦長を見舞う時と、〈柳川〉と言う艦そのものしか残されていなかった。{{br}}
+ 彼は転属や昇進の全てを断り、〈柳川〉艦長の座にとどまりつづける。不名誉なレッテルを貼られた〈吉川〉級最後の生き残りと言う不吉な艦に転属を希望するものも無く、彼はその地位を保ちつづけた。やがて、艦自体が他の艦では組織に適応できなかった、一匹狼たちの配属先のようになっていった。しかし、〈柳川〉艦長はあの事件さえなければ海軍中央で発揮できたであろう、その優秀性を持って乗員を統率し、鍛え上げ、同艦を海軍屈指の実力者へと成長させていったのである。訓練においてはただ一隻で能力的、数的に優勢な対抗部隊の艦艇を翻弄した。訓練で〈柳川〉に叩きのめされた艦は、準同級艦〈柏木〉〈相田《最上》響子〉、軽巡〈日吉〉、空母〈千鶴〉〈梓丸〉、駆逐艦〈楓〉〈初春〉〈子の日〉など数知れない。{{br}}{{br}}
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+!【終焉の時】{{br}}
+ 対米戦勃発後、〈柳川〉はその卓越した単独行動能力を持って、敵中深くへの斬り込みや偵察などの危険な任務をこなしつづけたが、被害を受ける事はなかった。逆に〈柳川〉を迎撃に向かった艦が次から次へと返り討ちに遭うに至り、米海軍は〈柳川〉を「孤独の狩猟者」「暗夜の狩人」と呼んで恐れるようになる。{{br}}
+ そして、対米戦終結間際、本土の泊地にいた〈柳川〉の元にも「永遠の盟約派」によるクーデター、第二次2.26事件勃発の急報が飛び込んだ。艦長の過去を知る少数の人間は、彼が鎮圧派に回るのかと考えた。だが、予想は外れる。艦長の命令は、盟約派への合流と、港内の艦艇に対する無差別攻撃…{{br}}
+ 彼は、もはや日本などどうでも良くなっていた。盟約派が実権を掌握し、対米戦を継続すれば日本は滅びるだろう。だが、それこそが今の彼の望みだったのである。事実上海軍より見捨てられた形に近い乗員達は、国よりも心服する艦長の命に従う事を選ぶ。かくして、その砲門はまず、近くに停泊していた軽巡〈日吉〉と、4隻の護衛駆逐艦に向けられた。瞬時にこの5隻を無力化した〈柳川〉は、出港後も偶然遭遇した〈相田《最上》響子〉を夜間砲撃戦で撃破するなど、まさに解き放たれた野獣のように行動していた。{{br}}
+ 『〈柳川〉反乱派に同調、軽巡〈日吉〉大破、護衛艦多数沈没』の報を受け、現地に急行したのは、皮肉にもかつて〈柳川〉と演習で対戦し、散々に翻弄された〈柏木〉と駆逐艦〈楓〉〈初春〉〈子の日〉であった。彼らはずたずたにされた護衛艦艇の残骸や、ひどく痛めつけられた〈日吉〉といった港内の惨状に激怒、直ちに追跡を開始した。〈楓〉の通信長は優秀な技量の持ち主で、〈柏木〉の装備する「ギター」通信装置に飛び込むおぼろな情報を元に〈柳川〉を追尾、発見する。奇しくも、そこは〈阿部〉艦長が入院する軍病院の沖合いだった。〈柏木〉以下4隻は直ちに交戦に入る。相手はかつて訓練でどうしても勝てなかった相手だが、今度こそ「バッドエンド」を許す訳には行かなかった。{{br}}
+ しかし、〈柳川〉は強かった。まずは邪魔な駆逐艦からだとばかりに3斉射で〈楓〉を大破戦線離脱に追い込み、続けて〈初春〉〈子の日〉も直撃弾により後退する。恐るべき技量だった。戦いは〈柳川〉と〈柏木〉との一騎討ちとなった。{{br}}
+ 戦闘開始から10分後、〈柳川〉は数発の命中弾を受けながらも健在だったのに対し、〈柏木〉は無数の命中弾を受け、傾斜していた。勝負はまたしても〈柏木〉以下の「バッドエンド」で終わるかに見えた。{{br}}
+ しかし、ダメコンに成功し、傾斜の回復と、砲撃を受けて海中に落下し、艦の動きを縛っていた錨鎖の切断に成功した〈柏木〉は必殺の一撃を放った。〈柳川〉にはない片舷8射線の酸素魚雷である。撃ち出された8本の魚雷のうち、2本が〈柳川〉の下腹部をえぐった。形勢は逆転し、〈柏木〉は一気に多数の命中弾を〈柳川〉に叩き込んだ。たちまちスクラップ運搬船のごとき様相を呈した〈柳川〉は、病院のある海岸に向けて転進する。{{br}}少しでも〈阿部〉艦長の下に近づくかのように。しかし、果たせず数分後、〈柳川〉は一気に増大した浸水量に耐えかね横転。転がり出した砲弾の自爆と装薬への誘爆により跡形も無く砕け散り轟沈した。が、この時見守っていた〈柏木〉他の艦長達は{{br}}
+「我々は爆発音を聞いた覚えが無い。〈柳川〉の最期は、灰になって崩れ去るかのような静かなものに思えた」{{br}}
+と証言している。{{br}}
+ こうして、不名誉と汚名にまみれた〈吉川〉級最後の一隻が散った。生存者は皆無である。改良型である〈柏木〉が反乱者を撃滅し、海軍の名誉を守った事はせめてもの同級の救いと言えるだろうか。{{br}}{{br}}
+
+!性能諸元{{br}}
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+基準排水量 10800トン {{br}}
+全長 198メートル {{br}}
+全幅 20メートル {{br}}
+機関出力 98000馬力 {{br}}
+速力 34ノット {{br}}
+兵装 {{br}}
+主砲 60口径15.5センチ三連装砲×5{{br}} 
+両用砲 65口径10センチ連装砲×4 {{br}}
+機銃 25ミリ三連装×8 同連装×6 {{br}}
+40ミリ4連装×6 同連装×8(〈柳川〉第一次改装後){{br}} 
+搭載機 水上機×3 {{br}}
+同級艦{{br}}
+ 〈吉川〉 1933年就役。1934年海軍大演習事件で大破。標的艦となり〈柳川〉の砲撃で沈没。{{br}}
+ 〈柳川〉 1933年就役。1944年第二次2.26事件で反乱軍に同調。追跡部隊との交戦により沈没。{{br}}
+ 〈阿部〉 1934年就役。同年海軍大演習事件で大破。修理不能と判定され、解体処分。{{br}}