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〈音羽《ラングレー》早苗〉の変更点

+!!!合衆国海軍航空母艦〈音羽《ラングレー》早苗〉{{br}}{{br}}
+!!(元ネタ:トゥインクルレビュー/フェアリーテールより音羽早苗){{br}}{{br}}
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+ 合衆国海軍がはじめて建造した航空母艦。客船からの改造で、経歴としては直後に改装された<エディフェル>に良く似た経歴を持つ。しかし、とある事情で実戦部隊に配属された期間はごく短く、その生涯のほとんどを練習空母として後方で過ごした。合衆国海軍の母艦航空隊パイロット、そして艦載機の大半は彼女の元から巣立っており、彼女こそは合衆国機動部隊を育て見守った「寮母さん」とでも言うべき存在なのである。{{br}}{{br}}
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+!【スカウト】
+ 1931年、合衆国海軍は航空母艦の取得を計画した。既に列強海軍の多くは独自に空母の建造に乗り出しており、合衆国海軍としてもその潮流に乗る必要性を感じていた。{{br}}
+ しかしながら、当時の合衆国海軍は3年計画として知られる戦艦10、巡洋戦艦6を主体とした大建艦計画を開始しており、さすがの合衆国といえどその負担は大きく、空母の研究開発に回る予算は限られていた。{{br}}
+ そこで、海軍航空委員会では民間の大型船を空母の母体として「スカウト」することを決定した。既に完成している船体を引き取って改造すれば、空母取得までの時間を短縮でき、さらに一から建造するよりも失敗する危険が少ない。こうして、各地に必要な船を捜すためのスカウトマンたちが派遣された。その中にのちに合衆国海軍きっての航空戦の大家となるウィリアム・ハルゼーがいた。{{br}}
+ 彼が目をつけたのが、西海岸の海運会社が保有していたクルーズ客船〈音羽《ジュピター》早苗〉だった。排水量換算で12000トンと十分な大きさを持ち、速度も25ノットとまずまずの速さを持つ。変わっていたのは、機関にターボ・エレクトロリックを用いていた事で、そのためダンサーのように自在な加減速が可能となっていた。{{br}}
+ 〈音羽《ジュピター》早苗〉に惚れ込んだ彼は、詳細な改装計画まで含めた報告書を作成。海軍航空委員会に提出した。この報告を受け、海軍は〈音羽《ジュピター》早苗〉のスカウトを決定。直ちに購入の手続きが取られ、その責任者にハルゼーを指名した。{{br}}{{br}}
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+!【蜜月の終わり】
+ 正式に海軍籍に編入された〈音羽《ジュピター》早苗〉は艦名も〈音羽《ラングレー》早苗〉に改められ、空母への改装が行なわれた。その結果は素晴らしいもので、素材が良かったとは言えどんくささの抜けない日本の〈HMX-12《鳳翔》マルチ〉などに比べて遥かに完成度の高い空母となっていた。2基のエレベーターを持ち、広い開放型格納庫には40機の航空機が格納できた。艦長となったハルゼーは夢中になって〈音羽《ラングレー》早苗〉を用いた洋上航空戦術の研究に取り組んでいった。{{br}}
+ 彼女の経験を生かして建造された、ほぼ同等の性能を持つ改装空母<エディフェル>が完成し、配備されると演習でもレッド、ブルー両軍に空母を配属しての対抗演習も行なわれるようになり、両者を率いる航空戦隊司令となったハルゼーはますます洋上航空戦術に傾斜していく事になる。しかし…そこに悲劇が待ち受けていた。{{br}}
+ 1936年、急報を受けて駆けつけたハルゼーが見たのは、大傾斜を起こした〈音羽《ラングレー》早苗〉の無残な姿だった。スクリューシャフトの一つが断裂し、艦底にも亀裂が生じて浸水が起き、沈没寸前の大破状態になっていたのである。{{br}}
+ 原因は、シャフトの金属疲労だった。もともと軍艦用としては強度不足で、しかも酷使されたためにいつのまにか亀裂が生じて折れたのである。しかも、調査の結果もう一本のシャフトやエンジン自体にも故障の兆候が見られた。元来沿岸用クルーズ船のため、外洋で連続使用するには向いていなかったのである。{{br}}
+ ハルゼーは後悔した。調査の結果彼の責任は問われず、初の本格的空母…後の〈鳴瀬《ヨークタウン》真奈美〉級建造プロジェクトに参加する事になった。もちろん栄転である。しかし、自責の念は消えはしなかった。自らのミスで、有望な空母を一隻失ってしまったと…彼は〈音羽《ラングレー》早苗〉の元を去り、以後数年の間、彼女の前に姿を現す事はなくなる。{{br}}{{br}}
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+!【練習空母化】{{br}}
+ 残された〈音羽《ラングレー》早苗〉は機関出力を抑えて運転すればこれ以上の故障が起きる可能性は無いと判定された。そこで、彼女は第一線部隊を外れ、教育部隊に回される事となった。艦種も練習空母に変更され、それまでの母港だったハワイから、練習航空隊の基地があるサンフランシスコ――正確にはその沖合いにあるミスト島へと移った。そこで彼女は教育航空隊と試験航空隊の二つの部隊の面倒を見る事になる。{{br}}
+ この島にやってくるのは人間も機体も若く、様々な可能性に満ちたものばかりだった。〈音羽《ラングレー》早苗〉は両部隊の訓練や試験を支援し、艦長以下のクルーも訓練生にかつての第一線時代を踏まえてアドバイスをするなど良好な関係を築いた。その間、〈音羽《ラングレー》早苗〉の飛行甲板は新世代機の登場にあわせて次第に延長され、そのシルエットは通常空母時代とは変化していった。{{br}}{{br}}
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+!【再会】
+ 1943年、第二次南北戦争の最中に〈音羽《ラングレー》早苗〉を擁する教育航空隊に、司令として一人の将官が着任した。あのハルゼーだった。ハワイ沖の失態で予備役に編入されかけたところを、それまでの功績によって処分を減免され、後方部隊勤務となったのである。着任したハルゼーは〈雛岸《スカイレイダー》希〉の編隊による歓迎飛行を受けた後、見知らぬ空母を見て首を傾げた。そこで、艦長とであったハルゼーはようやくそれが〈音羽《ラングレー》早苗〉である事に気が付く。彼が知っていた頃より10メートル以上も飛行甲板を延長していたため、すぐにはわからなかったのだ。懐かしい思い出と、微かな後悔のかけらを抱いて、ハルゼーは勤務に精励した。{{br}}
+ ハルゼーは司令室に留まって事務仕事をするより、自らをもう一度鍛えなおすかのように、訓練生たちに混じって訓練メニューをこなしながら、彼ら一人一人の資質を見極めるほうを好んだ。そんな彼に訓練生たちは好意を抱き、敬意を持って接する。そうした光景を〈音羽《ラングレー》早苗〉艦長は微笑ましい目で見つめていた。{{br}}{{br}}
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+!【再び、戦場へ】
+ そんな穏やかな日々も長くは続かなかった。1948年5月、第三次世界大戦勃発。大西洋艦隊の空母部隊は全滅し、日英枢軸への合衆国参加後の初の大規模作戦となったパナマ運河奪還戦―<贖罪>作戦においても合衆国艦隊は空母4隻を喪失し、ハルゼーの後を継いで合衆国機動部隊を率いてきたマーク・ミッチャー大将が戦死する大損害を被った。
+ 深刻な人材不足をきたした合衆国海軍はハルゼーの復帰を決定。辞令を受け取ったハルゼーがミスト島を離れる前日、〈音羽《ラングレー》早苗〉艦長はハルゼーに直訴した。
+「私を―この艦を連れて行ってください」と。{{br}}
+ この国難とも言える時期に、いつまでも後方にいることは耐えられません。もちろん、教育が大事な任務だという事は私も承知しています。ですが、私はもう一度あなたの下で働きたい…{{br}}
+ ハルゼーは逡巡したが、やがて、〈音羽《ラングレー》早苗〉艦長の意気を汲み取り、大きく頷いた。この瞬間、〈音羽《ラングレー》早苗〉は戦闘任務への復帰を果たしたのである。{{br}}
+ もちろん、彼女の戦力は前線に投入するには貧弱なものである。しかし、練習空母という任務上、新型の航空機運用機材を搭載した〈音羽《ラングレー》早苗〉は限定的ながらジェット機やヘリコプターを運用する能力を持ち、後方から補充機を飛ばしたり、物資や航空機を運送するなど、多彩な支援任務をこなした。言わば、家庭を切り盛りする良き妻となったのである。第一線のタレントから教育者という第二のステージを経て、これが〈音羽《ラングレー》早苗〉にとっての第三のステージであった。{{br}}{{br}}
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+!【その後】
+ 支援空母として第三次世界大戦を潜り抜けた〈音羽《ラングレー》早苗〉は終戦と同時に退役し、復興のための資材として解体を予定された。しかし、ハルゼーをはじめとする航空部隊はこの決定に一斉に反発した。海軍航空隊にとっては永遠の恋人とも言うべき彼女と別れるなど絶対に許せないというのである。特に海軍作戦部長に就任していたハルゼーは海軍長官や大統領への直訴を繰り返し、ついに〈音羽《ラングレー》早苗〉の保存を認めさせた。現在、彼女はハワイにあって海軍航空博物館となり、その飛行甲板に「子供を抱く」ようにして歴代の合衆国艦載機群を展示している。{{br}}{{br}}
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+!【要目】{{br}}
+基準排水量14.550トン{{br}}
+全長208.4メートル{{br}}
+全幅22メートル{{br}}
+飛行甲板幅33メートル{{br}}
+機関出力42,000馬力{{br}}
+最高速力25ノット{{br}}{{br}}
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+兵装{{br}}
+5インチ単装高角砲4基{{br}}
+ボフォース40ミリ機関砲連装10基{{br}}
+ブローニング12.7ミリ機銃8基{{br}}{{br}}
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+搭載機数40機{{br}}