はじめに

 本作は、同人誌「駆逐艦『名雪』の生涯」(軍事史通信HARUNA 平成11年12月26日発行 ブラック・ストーン氏執筆)を元ネタとした3次創作です。
 以上の点をふまえてお読みいただければ幸いです。


 夢。
 夢を見ている。
 でも、何だか良くわからない。
 遠くで、光が瞬いている。
 それと近くでも、もっと大きな光が何回も、いくつも。まぶしくて目が眩みそう。
 どうしたんだろう……。わたし、何でこんな夢を見てるのかな? これは夢なんだって自覚もできてるし。
 うーん、うにゅ……。
 その時、遠くでまた光った。
 今までの、ピカピカしたようなのとは違う。
 蛍の光みたいだったのが、すぐに大きくなって……。わぁ、綺麗……。「漁火」って、あんな感じなのかな?
 でも、良くわからないけど、悲しい気もする光だな……。
 そんな不思議な光景を、わたしはただ眺めているだけ。そのうちに周りから声が聞こえてきた。誰かいるの? 何て言ってるの?
「……長、やりましたぞ!」
 ??? 良く聞き取れない。けど「やりました」って、何を?
 ん……ドンドンって……あ、ゆういち……?
 

名雪と「名雪」(原案:ブラック・ストーン/著:U−2K)
 

「んん……」
 目の覚めたわたしは、身体を起こして寝ぼけ眼を擦りながら、あちこちを見回す。
「うにゅ……」
 うん、ちゃんとわたしの部屋だよ。じゃあさっきの音は、やっぱり祐一が部屋のドアを叩く音だったんだ。
 わたしは慌てるように横になって、寝たふりをする。こうしてれば、祐一が部屋に入って来て、わたしを起こしてくれるから。3年生が始まった日に、わたしに約束してくれたように。
 やがて、ドアの開ける音がして、誰かが部屋に入る気配がした。
「くー」
「……やっぱり、こいつがひとりで起きることなんて、まずないか」
 本当は起きてるんだけどね。って、さらっとひどいこと言ってるよ。祐一の意地悪。
「さて……なーゆーきー! おーきーろーっ!」
 大声で怒鳴られる。うう〜、耳がキンキンするよ〜。寝てる時は気がつかないんだけど。
 でも、まだ我慢しなくちゃ。そしたら、祐一も別の方法を考えると思うから。
「ふぅ……。この寝ぼすけめ。仕方ない」
 祐一の顔が近づいてくる。わたしが祐一の大声に耐えて狸寝入りをしてたのはこのため。祐一の顔とわたしの顔がもっと近くなって、間がなくなれば……えへへ〜。今日は朝から良いことがあるよ〜。
 ……え? あれ?
「んゆ〜っ! ひゅ、ひゅういひぃ〜っ!」
「おー、伸びる伸びる。ははは、まるで餅みたいだな」
「ひゃめふぇお〜、いひゃいほぉ〜」
 い、痛いよ〜。ほっぺた引っ張らないでよ〜。
「うりゃうりゃ。どうだ、ほれ起きろ起きろ〜」
「ひょうほひへふほ〜っ!」
 だからもう起きてるんだってー! うわーんっ!
 その時、祐一がわたしの頬を放した。やっと顔が元の形に戻る。でも、ひりひりして熱い。
「いやー、楽しかったぞ。おはよう、名雪」
「おはようじゃないよ! なんて起こし方するんだよ」
「だって、お前は滅多なことじゃ起きないし。たまには刺激溢れる方法をだな……」
「だからあの目覚まし使えば大丈夫だって言ってるじゃない」
「あれは駄目だ。その代わりに俺が直接起こしてやってるんだろ。感謝しろ」
「だからって、ほっぺを引っ張るなんて……うー」
 わたしが期待してたのは、こんなことじゃないのに。ひどいよ、祐一……って、へっ?
 いつの間にか、祐一の顔が視界に入りきらないほどに近づいていた。その直後、わたしの唇に温もりが触れる。ほんの少しの間だけ。
「ほれ、学校に遅れるぞ。先にメシ食ってるからな」
 そう言い残して、祐一が部屋を出て行く。
 わたしはその背中を見送るだけで、口元に指をあてたまま、ぽーっとしていることしかできなかった。
 

 結局この日の学校も遅刻寸前だった。いつものよう通学路をパタパタと走って、学校の中でも走って、教室に飛び込んだ。
 でも、今日は祐一が悪いんだからね。不意打ちでキスなんてするから……わたし、あれからしばらくボーっとなっちゃったよ。
 それで、わたしが一体何の夢を見ていたのかという疑問に対する答えも、ついに出ることはなかった。
 けど……。
 

「命中まで、1分」
「敵艦隊の動きに変化ありません」
「敵さんはまだ我々が魚雷を撃ったのを知らないようですな、艦長……艦長?」
「ぐー」
「あ……また寝てるのか。はぁ……」
「進路そのままで射撃を続行。こっちの雷撃を悟られるな……ぐー」
「よ、宜候。ここが正念場――っ!?」
「被弾、被弾!」
「命中個所は? 損害知らせ!」
「2番砲塔被弾、使用不能! 砲員3名戦死!」
「敵艦、本艦へなおも発砲」
「このままでは……せめて、魚雷が命中するまでは――まだか?」
「命中まであと20秒」
「……」
「……10、9、8……」
「ぐー、ぐー」
「当たれよ……」
「4、3……じかぁーんっ!」
「!?」
「や……」
「敵1番艦に水柱3! 2番艦に1! いずれも本艦のものです!」
「艦長、やりましたぞ!」
「……6本中4本命中……上出来だおー……ぐー」
「敵艦に大火災発生……あっ!? 敵1番艦、大爆発しました! 轟沈です!」
「やった、万歳……」
「敵2番艦も落伍しています」
「艦長、退避するなら今のうちです。『新月』や他の艦のことも気になります」
「ぐー、よろしい。直ちに退避……味方と合流するんだおー……ぐー」
「宜候! 砲撃を続行しつつ離脱だ! 取り舵一杯!」
「よーそろーっ! とぉーりかぁーじいっぱーいっ!」
 ……。
 ……。
 

 また今日も変な夢を見た。やっぱり良くわからなかったけど、ちょっと騒がしい感じだったのは覚えている。
 前に香里が「夢は見たその人の精神状態を表すのよ」なんて言ってたけど、わたし、どうしちゃったんだろ……はぁ。
 そんな訳で、また図らずも早起きしちゃったわたしは、久しぶりにゆったりと朝ごはんを食べているんだけど、あまり食が進まなかった。
 とにかくイチゴジャムを塗ったトーストをもぐもぐとしていると、キッチンの仕事を終えてリビングにやって来たお母さんがわたしの前に座って、いきなり聞いてきた。
「名雪、何かあったの?」
「え……?」
「昨日から何だか思いつめた顔をしてるわよ。祐一さんだって心配してくれてるんだから」
「そうだったの?」
 隣でマーガリンつきの食パン(イチゴジャムも美味しいのに)を食べている祐一に向き直る。彼は目だけでわたしの方を見ながら答えてくれた。
「ああ。学校でも考え込んでただろ。何か心配事でもあるのかなー、と思ってさ」
 そっか。祐一は気づいてくれてたんだ。それで心配までさせちゃって……。ごめんね、祐一。それとありがとう。
 じゃあ、もうこうなると内心のモヤモヤを隠し通すこともできないよね。うん。話しちゃおう。そしたら少しは楽になるかも。
「変な夢を見るの……」
 わたしはこれまで見てきた奇妙な夢のことを打ち明けた。と言っても、夢だからはっきり覚えてる部分が少ないから、話そのものは5分もかからずに終わっちゃったけど。
「……っていう夢なんだよ」
「うーむ、訳わからん。何だよそれは?」
 一通り、記憶にある限りのことを説明し終えると、祐一が顔じゅうに「?」を張りつけたような表情をしていた。
「わたしが自分でわかれば苦労しないよ」
「いや、居眠りマスターのお前なら夢も操れるんじゃないかと思ってな」
「う〜、そんなことできないよ〜」
 わたしをからかって笑う祐一。くやしいけど、でもわたしはそんな時の祐一の笑顔も好きだから、何か複雑。
「……名雪」
「え?」
 それまで黙っていたお母さんが、静かに、でも深刻さを含んだような声で呼んだ。振り向くと、真面目な顔をしている。怖いって訳じゃないけど、でも、こんなお母さんを見るのは珍しい。
「名雪。あなたは自分の名前は好き?」
「うん。だって……祐一が『良い名前だ』って、ほめてくれたから……」
「ぐはっ……。お、お前なぁ、あんま恥ずかしいこと言うなよ。あんな前の話を……」
「あ、覚えててくれてたんだ。わたし、凄く嬉しかったんだから……」
 あれは祐一がこの街に来てからそんなに経たない頃――まだわたしを恋人にしてくれる前のことだった。好きな人に自分の名前をほめてもらえるなんて、あの時は内心の喜びと恥ずかしさを堪えるのが大変だった。
「あらあら。それなら良かったわ」
 一転していつもの笑顔に戻るお母さん。わたしが小さい頃から見ている大好きな顔だった。
「じゃあ、もう話してもいいかしらね」
「何を?」
「あなたの名前の由来についてよ」
「わたしの名前?」
 どういうこと? それに、今話した変な夢のこととは全然関係ないよ。何でいきなりわたしの名前なんだろう?
「あなたの見た夢は、多分、あなたの名前と関係しているわ」
「?」
「まず、あなたの『名雪』って名前は、わたしのおじいさま……あなたのひいおじいさまがつけてくれたのよ」
「ひいおじいさん……」
 と言われても、ピンとこない。だって、ひいおじいちゃんのことなんて、わたしは全然知らないから。どんな人だったのかも、そして名前すらも。
「そうだったんだ……わたしはてっきり、お母さんかお父さんがつけてくれたんだと思ってたよ」
 お父さん。本当ならとても身近な存在のはず。でもひいおじいちゃんと同じように、あまりイメージが湧かない。わたしが物心つく前から、この水瀬の家には父親の気配はなかった。
 わたしはこのことをあえて聞こうとはしてこなかった。もしかしたらお母さんはお父さんと辛い別れをしたのかもしれないから、聞くのはためらわれた。それに、お母さんがいてくれたから、わたしはお父さんがいなくて寂しいと思ったことはほとんどない。
 そして、今は祐一がわたしのそばにいてくれる。ずっと一緒だって約束してくれた。祐一、ありがとう。わたしも祐一とずっと一緒だよ。
 心が幸せになったところで、意識を再びお母さんの方に戻す。話はまだ終わっていない。
「それでね、おじいさまは昔、船に乗っていたのよ。船の名前は『名雪』っていうの」
「わぁ……。わたしと同じ名前なんだ」
「正確には、その船からあなたの名前を貰ったのよ。船の方が先輩になるわね。ふふっ」
「でも、それと名雪の夢とどう関係してくるんですか?」
 これまで黙っていた祐一も、わたしたちの話に加わってくる。祐一の聞いたことは、わたしにとっても大きな疑問だったから、さりげなく話題を進展させてくれた祐一に感謝。
 すると、お母さんは何だか意味深な微笑を浮かべている。少しドキドキするよ。
 ちょっとだけ緊張しながらお母さんの言葉を待つ。そして、お母さんの口が開かれた。
「『名雪』という船は、軍艦だったんですよ。昔、まだ日本に海軍があった頃の駆逐艦でした」
「ぐ、軍艦ですか?」
 わたしが驚くよりも早く、祐一が目を丸くしていた。うー、ぐんかん、ぐんかん……。わたしがお母さんの言葉の意味を完全に理解したのは、祐一が叫んでから何秒か後のことだった。
「ぐんかん……って、戦う船の、あの軍艦だよね」
「わたしも詳しくは知らないんですけど、太平洋戦争でとても活躍したそうよ」
「じゃあ、真っ暗な所でピカピカ光ってたのって……」
 そこまで言いかけた時、祐一が膝を打った。
「夜に撃ち合いをやってたとか?」
「そうですね……。話を聞いた限りでは、名雪の見た夢は、おじいさまが戦っている時のことじゃないかしらと思ったのよ」
「戦ってる時……」
 あれって、戦争してたの? 信じられないよ……あんなに綺麗だったのに。
 それに、まだわからないこともたくさんある。
「じゃあ、ひいおじいちゃんはどうしてわたしにその軍艦の名前をつけたのかな……?」
「おじいさまは軍艦の『名雪』が大好きだったからよ。わたしがあなたをお腹の中に授かった時に『名雪』という名前をくださって、それにわたしも素敵だと思ったから、そのまま頂いたの」
 お母さんは目を閉じながらそう教えてくれた。昔のことを思い出してるみたいに。でも、それはわたしが生まれる前のこと。結局わたしはひいおじいちゃんのことを全然知らない。
「ねぇ、ひいおじいちゃんってどんなことしてたの? それとその『名雪』って船も」
「戦争中に『名雪』の艦長だったって聞きましたけど、『名雪』に乗ってた頃のことをあまり話さなかったから、わたしが知ってるのはそこまで」
「そうなんだ……」
 もっと詳しく知りたかったのに、うー、残念……。
 でも、お母さんはわたしのそんな感情をわかってたみたいだった。頬に手をやって、いつもの微笑みを浮かべたまま、わたしに言った。
「名雪。あなたが興味を持ったのなら、自分で調べてみたらどうかしら?」
 
 
 

「『調べてみたら』って言われても……」
「秋子さんも知らないんじゃ仕方ないだろう」
 ああー、なんてすがすがしいんだろう、と思うのは決して行き過ぎじゃないだろう。歩いて学校に行く。こんな「贅沢」を味わうのは久しぶりだ。
 などと、頭の片隅でそんなことを思いつつも、とりあえずは名雪の話を聞いてやる。まぁ実に奇妙奇天烈な話だったから、俺もそれなりに興味を覚えていた。
 しかし、名雪の名前がねぇ……確かに珍しいけど、良い名だとは思う(俺の恋人、という身びいきもあるかもしれないけど)が、それがまさか軍艦の名前だったとは……実に意外だ。
「ま、秋子さんも忙しいだろうから、やるなら自力でやらないとな」
「うん。それはわかってるよ」
 と、ものわかりの良い名雪は微笑を浮かべた。母親を案じる娘の顔だ、と感じられるような優しさに満ちている。いつもは「可愛い」といった笑顔をすることが多いが、たまにはこうした一面も見せる名雪。それもまたこいつの魅力なんだが……。
「でさ、そのことなんだけど……」
 しかし、ここでいきなり俺に向き直った名雪は、もういつものマイペースな名雪だった。
 いや、マイペースというより、何かを秘めているな、この顔は。
「ね、手伝ってくれないかな?」
「何を?」
「わたしの名前のルーツを調べるの」
「は? 俺が?」
「うん、祐一が」
「何で?」
「だって、わたし……軍艦とか、戦争とか全然知らないもん」
 少し困ったようにうつむくが、またすぐに笑顔に戻って俺を見上げる。
「祐一、でもね」
 って、おい、この表情は反則だぞ……。すがるような、ねだるような、ほんのちょっとだけ潤んだ瞳で俺を見る名雪。くそっ、断れなくなるじゃないか。
「男の子って、そういうのに詳しいんでしょ?」
「く、詳しいって言ってもなぁ。せいぜいゼロ戦と戦艦大和くらいしか知らないぞ。ましてや駆逐艦だなんて」
「その時点でわたしよりも知ってるね」
「う……」
 こいつの言うことにも一理ある。確かに軍艦とか、武器だとかは男の趣味だし、俺も小学時代や中学時代には大和のプラモを作ったこともある。
 でも、そんなのはたいていの男子が経験してるんじゃないか? 何も俺だけが特別ってことはないだろう……と思う。実際、俺の周りにもそういう奴は結構いたし、うん。
「確かに俺の知識はお前よりも上だろうけど、せいぜい五十歩百歩ってところだぞ」
「うー、でもでも、わたしだけじゃ無理だよ」
 なおも食い下がる名雪に対し、やんわりと諌めの言葉――要約すると「俺も無理だ」という意味になる言葉を発しようとした時、俺たちはちょうど校門を抜けて学校に入っていた。それとタイミングを合わせるかのように鳴り響く予鈴のチャイム。
「ほれ、ここまで来て遅刻は嫌だからな、急ぐぞ」
「あ、待ってよ、ゆういち〜」
 そんな間延びした声を背中に聞きながら、俺は考え込んでいた。
 名雪。なゆき。「名雪」……。ううーむ。
 もし、あいつが「名雪」という名前じゃなきゃ、一体どうなってたんだろう? あいつのことを何か別の名前で呼んで、思い出を共有して、やがては互いを好きになってたんだろうか? 
 でも、想像すらつかない。やっぱり名雪は「名雪」で、俺にとってはこの上なく特別な存在だからだ。
 普段は全然意識しない、人の名前。まるで空気を吸うかのように「名雪」と口にしてるけど、今はその単語に重みすら感じてしまう。
 ああ、そうか。それは俺の責任なんだ。俺はあいつのいとこであり、あいつの名前をほめてやった男であり、そして恋人だ。大切な人の名前だから、こんなに重いんだ……。
 となると、自分の取るべき行動は、もうひとつしかないってことか。そうか。
 やれやれ。ま、乗りかかった船ってやつだ。しょうがないか。
 

「祐一っ、放課後だよっ」
「なにー!? もう放課後かっ!」
「うん」
「最近、ノーリアクションなのな、お前」
「もう慣れちゃったもん」
「……ちょっと待ってろ」
 と、バカなやり取りをしているうちにも、教室からはクラスメートたちが減っていく。俺も鞄の中に教科書とノートを手早く放り込んで、重くなったそれを手に取った。
「名雪、俺に付き合え」
 と言って、よっこらしょ、と心の中で掛け声をして立ち上がった俺の傍らから、いきなりノーテンキっぽい声がかけられた。
「おっ、デートか?」
「バカ、そんなんじゃねえよ」
「今さら隠すこともないだろ? もうクラス公認の仲なんだから」
 へへへ、と俺をからかうように笑うのは、こっちに来てからすぐに親友になった北川潤だ。
 こいつに言わせると俺は「変な奴」だそうだが、俺もこいつを変な奴だと思っている。だからなのか、俺と北川は妙にウマが合った。名雪にも「似た者同士で相通じるんだよ」などと笑いながら言われる始末だし。
「あーあ、お前らが羨ましいよ。もう進学決まってるしなぁ」
 北川が声だけでなく、表情にも羨望を滲ませる。
 そう、俺と名雪はこの時点で既に進路を決定していた。同じ大学で、どちらも推薦合格を勝ち取ったのだ。俺は学校での成績を認められ、名雪は主に部活動を評価されてのことだった。
 名雪は3年間、陸上部で活躍し、なおかつ部長さえ務めていたのだから推薦を受けるのも納得できるが、俺までそうなるとは、自分でも実に意外だと思ってしまう。
 まぁ、これも夏休みとか、名雪と一緒に勉強を頑張ったおかげなんだろうな……。
 しかし、受験戦争から解放された俺たちとは異なり、北川は典型的な受験生として、俺たちと同じ大学への合格を狙っている。
 でも、まぁこいつも多分大丈夫だろ。なぜなら……。
「だからあなたもそれを決めるために勉強するんじゃない。あたしの努力を無駄にしないでよね、北川君」
 と、ここで俺たちの会話に加わったのが、名雪の親友(ということは、自然に俺の友達ということにもなる)の美坂香里だ。学年一の秀才にして、俺たち4人組「美坂チーム」のリーダーでもある。
「北川は今日も香里先生の個別指導か」
「ああ、そうだよ……毎日厳しいよ」
「何言ってるのよ。あたしだって受験生なのよ。その貴重な時間をわざわざ割いて特訓してあげてるんだから、文句言わない!」
 それとも、そんなにあたしと勉強するのがイヤなら止めてもいいのよ。と、香里がジト目になって言うと、北川は途端にうろたえ出した。
「いやいや、そんなことはありません! ああもう、今日も美坂とお勉強楽しいなぁ〜」
 滑稽なほど卑屈になった北川に、俺は思わず苦笑してしまう。やっぱりこいつは香里のことを……。
 一方、「先生」香里も北川と同じ大学、すなわち俺と名雪の受かった大学を志願している。彼女は頭が良いから医学部を目指しているらしいが、このふたりの入試が成功すれば、「美坂チーム」は今後さらに存続することになる。
「じゃあ、図書室に行きましょうか。今日は数学を重点的に教えるから」
「ああ……その、おてやわらかに」
「あなた、それは自分の成績を見てから言いなさい。このままじゃ本当に危ないんだからね」
「うぐ……」
 ふたりともお互いに好意以上のものを抱いているのは、俺も名雪も感づいている。香里がこんなに親身になって北川を指導しているのも、キャンパスライフを共有したい、と思っているからだろう。で、北川もなんだかんだ言ってはいるが、香里と一緒に勉強できるのは嬉しいはずだ。
 ちなみに俺と名雪は、ひそかにふたりの関係の発展を応援してたりもする。
「あ、じゃあね。名雪、相沢君」
「うん。また明日ね〜」
「おう。北川、頑張れよ」
「……お前らはホントいいよなぁ。じゃあな」
 ま、香里がついてれば、北川も何とかなるだろ。人ごとだと思って、楽観主義に立ちながら俺と名雪は教室を出た。今はそれよりも、名雪に降りかかった問題の方が俺には重要だった。
 

「ね、今日はどこ行くの?」
 名雪はすっかりデートだと思い込んでいるらしい。まぁ、これまでも放課後に商店街とか、百花屋とかいろいろ行ってるから、名雪がその気になっているのも無理はない。
 でも、今日の俺はデートのつもりで誘った訳じゃない。
「イチゴサンデーはしばらく奢ってやれないぞ」
「え?」
「今日は図書館だ。知りたいんだろ? 名前のルーツを」
「祐一……」
「手伝ってやるよ。まぁ、あまり役に立たないかもしれないけどな」
「ううん、そんなことないよっ! すっごく頼もしいよっ。ありがとうっ!」
「わ、こら、んなとこで抱きつくな」
 結局、デート中のカップルのようになってしまった。でも、ま、いいか。好きな女の子に甘えてもらえるのは、男冥利に尽きる……かもしれない。それに、俺が言うのも何だが、名雪は可愛いし。
「っと、急ぐぞ。早くしないと閉館の時間になっちまうぞ」
「うんっ」
 

「……ダメだったね」
「ああ。あんま時間もなかったしな」
 図書館での奮闘40分ほど、しかし、それは実らなかった。
 何か駆逐艦に関係する本があるか、棚を片っ端から見てみたが、思うような成果を上げられずに閉館時間を向かえ、あえなくタイムオーバーとなった。
 で、俺と名雪は徒労感と敗北感を味わいつつ、日も暮れた街をとぼとぼと家路についている。
「もう、日もすっかり短くなったな」
「そうだね。もうすぐ雪も降るようになるよ」
「そうか……寒いのはやっぱ嫌だな」
「わたしは好きだよ、冬は」
 でも、今の俺は、傍らのこの女の子がいなければ、寒いに限らずどんな季節も嫌いになってしまうに違いない。逆に、名雪さえこうして一緒にいてくれれば、いつだろうと好きになれるんじゃないか。そんな気がする。
 恥ずかしいから、本人には言わないけどな。
「……結局ダメだったな」
 そんなことは図書館で体験したばかりだから、意味のない言葉だ。でも俺はなぜかそう言っていた。さっき考えた名雪への想い、その照れ隠しかもしれない。
「あ、祐一。本屋さんは? あそこなら夜までやってるよ」
 そうか……本屋にも本はいっぱいあるな。当たり前だけど。まだ6時にもなってないし……それも良さそうだな。
「じゃあ、ちょっと寄ってみるか」
「うん。行こっ」
 

「最初からこっちに来るべきだったな……」
 駅前にある本屋は、この近辺では一番大きい本屋らしい。しかし、こうしてミリタリー本の置いてあるスペースに立っていると、どうやらその評判は正しいと思える。ずらっと並んだ軍事本の棚を目の前にしては。
「でも、多過ぎてどれがどれだかわからないよ……」
「さっきと比べると贅沢な悩みだな。とにかく『名雪』とか、『駆逐艦』とかタイトルがついてるのを探せば良いんだと思うけど……おっ」
 とか言ってたら、いきなり見つかった。背表紙にはズバリ「日本駆逐艦史」とある。俺が求めている(であろうと思われる)まさにそれだ。
 手に取ると、まず目に入るのが「世界の艦船」という表題と白黒写真の表紙。スマートな船が写っている。どうやらこれが駆逐艦らしい。
 パラパラと素早く適当にページをめくると、船の絵や写真がいくつも載っていて、解説文らしきものも掲載されている。文章はさほど多くはないから、読み易そうではある。
「……」
 名雪も俺の傍らから、覗き込むようにしてその本を眺めている。やがてざっと目を通し終え、目次に戻った時、ふと、名雪が俺を呼んだ。
「ねぇ、祐一」
「ん?」
「『軍艦』と『駆逐艦』って、どう違うのかな?」
「え、えーっと、それは……うーん。まぁ何かが違うんだろうけど……」
 じゃなけりゃ、わざわざ違う呼び方をするはずがない。でも、素人の俺にはその違いが良くわからない……昔、プラモを作ってた頃に良く行った模型店に「戦艦」とか「空母」とか、とにかくたくさんあったけど……って、そうか!
「なぁ、お前は戦艦と空母はわかるよな」
「あ、うん。空母はニュースとかで良く見るよね。でも、それと駆逐艦とは……」
 名雪の疑問を途中で遮り、俺は話を続ける。俺が伝えたいのはこれからだ。
「名雪。これは俺の思いつきなんだけど、車にもいろいろあるだろ。乗用車とかトラックとか、バスとか」
「うん」
「だから、軍艦の中にもたくさん種類があるんだ。戦艦ってのは、例えば大和のように、でっかくて、大きい大砲を積んでて……空母は平べったくて、その上に飛行機を乗せてる」
 脳内でそれらをイメージしながら、手を広げて大きいことをアピールする。名雪の言う通り、テレビや新聞で見る機会の多いアメリカの空母は本当にでかいと思う。写真だけでもそう思うのだから、実際に見たら想像以上の大きさなんだろう。
 でも、今は駆逐艦とは何か、というのを名雪に説明するのが本題だ。
「逆に駆逐艦は小さくて、素早い船のことなんだ。ま、車で言うと軽自動車みたいなもんじゃないのかな」
「そうなんだ……うん、それならわたしもわかるよ。祐一、物知りだね」
「なんとなくそう思っただけなんだけどな」
「じゃあさ、この『雷型』とか……『ひがしぐも』とかってどういう意味なのかな?」
 名雪が指で示しながら首をかしげたところには「東雲型」とあるが、多分名雪の読み方は間違ってるだろう、と思う。でも、俺もわからない――って、「SHINONOME」って、隣におもいっきり答えが出てるし。
 と、話が逸れた。今の名雪は駆逐艦の「○○型」というのが気になるらしい。
 ここはやっぱり、さっきみたいに身近な例――車を使って説明するのがわかり良いだろうな。
「それは……乗用車の中にも『カローラ』とか『セドリック』とか、いっぱいあるだろ。テレビのCMとかでも、とにかくいろんなメーカーのいろんな車が出てくるし。船もそういう風に、いくつもタイプがあるんだよ、多分。古くなったら新型を造ったりもするしさ」
「ふーん」
「それで、ひとつのタイプの艦が何隻も建造されて、それにもひとつひとつ名前がついている。お前がカエルのぬいぐるみを『けろぴー』と命名したように」
「けろぴーは船じゃないよ〜」
「んなことはわかってる。たとえ話だ……と、この本を良く読めば『名雪』も出てるかもしれないし……。買ってくか?」
「そうだね。お家で落ち着いて読もうよ」
「よし。じゃあ、これ買って今日はもう帰ろう」
 値段を確認するため本の裏を見る。「海を護る!」と勇ましいキャッチコピーが添えられた三菱重工の広告にほぼ占拠された裏表紙。その左下に探すものはあったが、そこにあった数字を見て、名雪が驚きの声(といっても、あまり驚いているようには聞こえないが)を上げる。
「わ……」
 1800円か……でも、背に腹は変えられないか。それにこの本、詳しそうだし。
「……イチゴサンデー、本当にしばらく我慢しろ」
「……うん」
 名雪の顔は本当に悲しそうだった。
 

 俺たちはおもいっきり見落としていたようだ。「『名雪』も出てるかもしれない」どころではなく、この「日本駆逐艦史」には、そのものズバリ「名雪」として掲載されていたのだ。
「本当にお前と同じ名前だな」
「うん。びっくりだよ」
 俺の部屋で、さっき買ってきた本のひとつのページ――駆逐艦「名雪」に視線を集中している俺と名雪だが、俺はこの寝ぼすけで、イチゴとネコに目がなくて、それでいて優しくて可愛いこいつと同名の軍艦が存在していた、という事実に言い知れぬ不思議さを感じていた。
 じゃあ、当の本人である名雪は一体どう思ってるんだろう?
「なぁ、名雪」
「……」
「名雪。おい、名雪っ」
「えっ? あ、ごめんね、祐一」
「どうした? やっぱお前も不思議に感じるか」
「うん……この船、戦うために造られたんだよね」
「そりゃそうだ。軍艦なんだし。それに、この写真だってそうだろ」
 説明文と図面が出ている次のページには、白黒写真がある。見たところ、どうやら大砲を撃っているシーンのようだ。解説には、昭和14年の訓練中とある。
「これは訓練……練習の最中らしいけど」
「じゃあ、本当に戦争もしたのかな?」
「それは、名雪自身が良く知ってるだろ。お前の見た夢ってのは、この『名雪』が戦ってる夢だったんだし」
「そう……だよね」
「おい、本当にどうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
 名雪の声が陰り、横顔に曇りが生ずる。俺は心配になって、少し声を荒げて聞くが、名雪は無言で首を数度、横に振っただけだった。相変わらずの深刻な表情に、全然大丈夫じゃないじゃないか、と言おうとした寸前、名雪はポツリと呟いた。
「戦争……わたし、やだな……」
「名雪……」
 俺は、溜息をつくように彼女の名を呼んだ。
 名雪の気持ちは、俺にも良くわかったからだ。戦争になると人が死んでしまう。名雪は一度、大切な人を――秋子さんを失いかけた。俺にとっても大切な人だ。だから、人の命が奪われることの怖さ、悲しさを、身をもって知っている。
 それに俺だって、こいつが今、俺の元から永遠にいなくなったら、自分が自分でなくなる。多分俺は壊れてしまうだろう。あの時、全てを拒絶した名雪のように……。
 とは言え、この駆逐艦も体験した太平洋戦争を抜きにしては、おそらくこいつの求める「名前のルーツ」には辿り着けないぞ。
 そこで、俺は話題を変えるような質問をしてみることにした。
「じゃあ、名雪はこの『名雪』は嫌いなのか?」
「ううん、そんなことない……と思う。良くわからないけど、ひいおじいちゃんの船だもん。祐一はどうなの?」
「俺は、素直にカッコイイと思うぞ」
 これは偽りのない本音からの感想だ。やはり男たるもの、こういった強いものに憧れるのは良くあることじゃないか? たとえそれが人殺しのための道具――兵器だったとしても。
 実際、そう思ったからこそ昔、大和やゼロ戦のプラモを作ったりした。今は作らなくなったけど、カッコイイという意識は変わってない。
「祐一は男の子だからだよ」
「それはそうかもしれないけど……」
 まぁ、これは名雪の言う通りだろうな。女の子の軍事マニアなんて、まず聞いたことがない。
「でもな、戦争が嫌だって言ってたら、話が先に進まないぞ」
「うん。それはわかってるよ」
「じゃ、しばらくそのことは置いておけ。軍艦なんだから、戦争しなきゃならなかったんだ。それがこの『名雪』の仕事だっただけだよ」
「……そうだね」
 やっぱり難しい表情と声だったが、とにかく名雪は俺の言葉を理解し、頷いてくれた。しかし、俺に向かって顔を上げた名雪は、いつもの名雪に戻っていて、そしてどことなく無邪気だった。
 そんな彼女の、改めての第一声は、俺にとっても実に難しい――それ以前にわからない、答えの思いつかない質問だった。
「何でこの船はわたしと同じ名前になったのかな?」
 
 
 

「ただいまー」
「祐一、お帰りっ」
 玄関から声が届くと、わたしは一目散にそっちへと走った。家の中なんだからそんなに慌てなくても良いんだけど、でもわたしはそれほど祐一の帰りが待ち遠しかった。
 今日の放課後、祐一は本屋さんに行ってて、わたしは久しぶりにひとりで家路についていた。わたしも一緒に行きたかったんだけど、でも祐一は、遅くなるとお母さんを心配させるからって、わたしだけ先に帰れって……。
 わたしを気遣ってくれたのは嬉しいけど、祐一ともっと一緒に頑張りたかったよ。
 そんな想いを隠しながら、わたしは笑顔で聞いた。いつもわたしのことを想ってくれる祐一に「ありがとう」って気持ちを込めて。
「ね、どうだった?」
「ああ、結構良さそうなのがいくつかあったぞ。ほら」
 と、わたしに紙袋を持たせる。わっ……重いよ。一体何冊あるんだろう?
「おかげで随分と散財しちまったぞ。こりゃ本当にしばらくは百花屋自粛だ。今日だけで6人の夏目先生が逝ってしまわれた……」
「う……ごめんなさい、祐一」
「あ、まぁ、名雪が悪いんじゃない……でも、今度からはお前も少し出してくれたら、俺も助かる」
「うん」
 

 とりあえず、祐一が着替え終わる頃を見計らって、祐一の部屋に行ってみる。
「よう」
 すると、祐一はもう準備を整えて、わたしのことを待っててくれた。
 わたしが何も言わなくても、全部理解してくれている祐一。
「今日もよろしくね、祐一先生っ」
「先生って……まぁいいか。では、今日の講義を始めるとしようか? 名雪くん」
 ふふっ、やっぱり祐一はわたしをわかってくれてる。それを嬉しく思いながら、祐一の部屋に入ると、そこには昨日買ってくれた「日本駆逐艦史」が開かれている。
「まず、駆逐艦『名雪』は、『吹雪型』っていう種類の駆逐艦の中の1隻だ」
「え? でも、昨日のこの本には」
「これでは別々になってたけどな。やっぱり分類上は一緒の方が多いらしいぞ。で、お前の船はその中でも特に変わってる、と言うわけだ。『初春型』って駆逐艦の性能があまり良くなかったから、比較検討のために特別に1隻だけ造られた訳だし」
 わたしは頷いた。そう、祐一が買ってくれた「日本駆逐艦史」にはそんな風に書いてあった。それと同じ頃、「深雪」(なんか女の人の名前みたいだけど)という駆逐艦が、味方の船に衝突されて沈没しちゃったんだけど、「名雪」が建造されてたから損失は埋められた、ともあった。
「それで、この『吹雪型』は、『特型』とも呼ばれてるんだ」
「とくがた……?」
「ああ。何でも『吹雪型』は、それまでの駆逐艦とは全然違う――凄く高性能な船らしいんだよ。だから『特別』の『特』で、特型。そこで……」
 さっき帰ってきた時に持ってた紙袋を開けた祐一は、次々と本を取り出した。わ、3冊もある。道理で重かった訳だよ……。
「これの出番になる、ってことだ。こっちの方が前のよりは詳しいと思うぞ。まず特型の写真集の『駆逐艦 吹雪型』。次に『特型駆逐艦』、そんで『聯合艦隊軍艦銘銘伝』の3つ」
「前のふたつはわかるけど、これはその『特型』とは違うんじゃない?」
「そう思うだろ。でも関係はあるんだ。中を見てみろよ」
 祐一が辞書みたいに分厚い本――「れんごうかんたいぐんかんめいめいでん」ってのを適当にパラパラとめくる。活字で埋め尽くされたようなそれに、わたしは圧倒された。
「……うわぁ……これ、全部日本の軍艦が書いてあるの?」
「名前の由来から、船の一生まで、いろいろと書いてあるぞ。だからこれを読むと」
「『名雪』の由来もわかるんだね!」
「と思う。ちょっと探してみるか」
 調べ始めたのが昨日。で、もうわたしの船の――ううん、わたしの名前がどこから来たのかがわかるんだ。わくわく。
「あ、これかな?」
 わたしは目次の「天象・気象名」のところを指差した。わたしの名前には「雪」が入ってるから、多分ここだと思う。
「そうだな……って、随分とあるな」
 祐一にページを開いてもらったけど、あおくも、秋雲、朝雲……ホントにいっぱいある。本全体から見ればごく一部に過ぎないけど、それでも探すのは大変そう……って、あれ?
「ねぇ、ここ『雲の部』ってあるよ。雪とか、ほかにもあるのかな」
「あ、そうか。なら、何も隅から隅まで調べなくて良いな。雪、ゆき……と」
 しばらく本に目を通す。ページを順番にめくっていくと、やがて「雪の部」になって、そしてわたしはそれをついに見つけた。
「あっ、祐一! ここ、ほらあったよ!」
「……『名雪(なゆき)』だな、確かに……どれどれ」
 わたしと祐一が一心に視線を注ぐ個所には、こうあった。

 春になってから、冬のなごりに降る雪のこと。昭和9年12月に竣工した吹雪型の25番艦であり、改特型とも称される特型の最終艦であるため、最後に降る雪の意味を持つ名を冠せられたとの説がある。

「『春になってから、冬のなごりに降る雪のこと』って……名残雪?」
「それで『最後の艦』ってことか……」
「……」
 名残雪。それからわたしがイメージするものはふたつある。寂しさと嬉しさ。矛盾してるけれど。
 わたしは冬が――雪が大好きだから、それが降らなくなるのは寂しい。でも、雪が降らなくなって、桜が咲いて……あったかい春が来るのも楽しみにしている。複雑だけど、その冬の最後の雪は、寂しくて嬉しいと思ってる。
「この船が名残雪から命名されたってことは、お前の名前も名残雪ってことになるな」
「うん、そうなるね」
「ま、お前は名残雪ってより『名残寝』だけどな。わははっ」
「ひ、ひどいよゆういち〜」
 うー、こんな時でもわたしをからかうんだね、祐一は。わたし不幸……。
 あ、それでもやっぱり良かったよ。自分の名前の由来がわかったのがわたしには嬉しかったからね。
 その後は「聯合艦隊軍艦銘銘伝」とは違う本をパラパラと流し読みして、「友鶴」って船がひっくり返っちゃったことに驚いたりしながらも、勉強を終わりにした。わたしはもうちょっと調べていたいと思ったけど、祐一は「明日の朝に苦労するのは俺だから早く寝てくれ」って。
 わたしも起きる努力はしてるんだけど……。あの目覚ましを素直に使わせてくれたら大丈夫なのに。
 とにかく、また明日も頑張ろう、うん。ふぁいとっ、だよ。
 

 次の日になっても、わたしたちは軍艦の本と向き合ってる。こうして調べていると、昔の海軍についていろいろとわかるけど、意味のわからない言葉とかがたくさん出てきて、わたしは頭をひねることが多い。現に今も……。
「ね、この『第4艦隊事件』って何のこと?」
「あ、これは……確か、大嵐だよ」
「?」
「えっと……昭和10年に、海軍の第4艦隊ってのが、訓練中に大嵐に遭って大変なことになったんだ。艦首がもぎれたり、船体が歪んだりとか」
「ええっ? 鉄の船なのに?」
「それだけでかい嵐だったんだろ。でも、それだけじゃないみたいだ。昨日読んだ『友鶴事件』は覚えてるだろ?」
「うん」
 昭和9年だよね。わたしの船の生まれた年と同じだから覚えてる。「友鶴」という軍艦が転覆しちゃった事件。原因は……小さい船に武器をたくさん積んで、上が重くなっちゃったから逆さまにひっくり返った、って読んだけど。
「ま、日本の軍艦は結構無理をしてたんだ。武装が過大だったりとか。で、この『第4艦隊事件』で船が折れたりしたのは、軽くするために船体の骨組みや外板をケチってたかららしい。ここにも書いてあるだろ?」
「あ、ホントだね」
 確かに書いてある。「兵装重量の増加に対処するため船体を軽量化し過ぎた」って。
「じゃあ、その後は直されたんだね」
「船体をもっと頑丈にしたり、ブリッジを小さくしたり、船底におもりを詰めたりとか、海軍は大慌てになったんだってさ。でも、それでもどうにかなった。日本中の造船所が頑張って」
 それもそうだよね。わたしたちだってテストの前には慌てて勉強するもん。って、ちょっと例えが変かな? うーん、船のことはあまり良くわからないけど、テストなんかよりもずっと大変だったんだろうな。お疲れ様、昔の皆さん。
「ちなみに『名雪』もそういった改造を受けてるぞ。見た目も随分変わってる。ほれ」
 そして祐一が、本を見せてくれる。今度は「日本海軍艦艇写真集 駆逐艦 吹雪型」っていう、この前買って来てくれた本で、タイトルの通りその「特型」の写真がいっぱい出ている。
「こっちが完成した時、で……これが性能改善後だ」
「ホントだ……」
 見比べると確かに違う。何て言うか……ダイエットに成功した、みたいな感じがする。随分スマートになっちゃった。
「ま、これでもう2度と『第4艦隊事件』みたいなことにはならなかったらしい」
「そうなんだ……でも、祐一はすごく詳しいね」
「ま、そりゃあこういうことは男の方が関心を持ちやすいだろ。それに、俺はお前と違って、夜更かしも少しはできるからな」
 そっか、わたしが寝た後も、祐一はいろいろ調べてくれてたんだ。なんか、何もかも祐一任せになっちゃってる。本当はわたしが全部自分でやらなきゃいけないのに。
「祐一、ごめんね。頼ってばかりで」
「は? いまさら何言ってるんだよ。俺も好きでやってるんだし、そんなこと考えるな」
「うん。ありがとう」
 祐一が鼻の頭を人差し指で掻きながら、わたしを励ましてくれる。祐一はやっぱりわたしに優しい。
「ほら、もうそろそろ寝ろよ。明日も学校あるんだし」
「あ、もうこんな時間なんだ……。うん。おやすみなさい、祐一」
 今日もたくさんのことがわかった。このまま順調に行けば、わたしの名前についての疑問が全部解けるのも、そんな先のことにはならないんじゃないかな?
 でも、わたしたちは次の日に、もっと凄いものを見つけることになる。
 
 
 

「おい、これって……」
「うん、ひいおじいちゃん……だと思う」
 今日も今日で、俺たちは「名雪」について調べていた。明日は学校が休みになるから、いつもよりは夜更かしできる。
 で、今回の資料は「特型駆逐艦」という本だ。勉強や教養の雑誌で有名な会社の本で、初めて見た時は「この会社ってこういう本も出してるんだなー」なんて驚いたけど、中身も大したものだった。
 まず、一番興味を引かれたのは「潮」という、特型の姉妹艦の模型だった。
 サイズは50分の1っていうから、かなり大きいんだろう。特型の実物ってのは、だいたい110メートルだから、それを50で割ると……2メートル以上にもなる。俺の背丈よりも大きい。
 それだけのサイズで、しかもとにかく細かく作られているのが、写真からも良くわかる。大砲だとか魚雷だとか、さらには細かい金具だとか……いや、凄いの一言に尽きる。思わず欲しくなるくらいの立派な模型だな。
 と、話がややこしくなるから「潮」はこの辺にして、今、俺と名雪がポカーンとしながら見ているのは、この特型の本の後ろあたり、駆逐艦の艦長とかの伝記が書いてある部分だ。
 もっと詳しく言うと、俺と名雪を驚かせているページの見出しには「水瀬春文……………寝ながら戦う豪傑」とある。
「間違いないだろう。『水瀬』って名前なんだから」
 そう、ここにある「みなせはるふみ」って人が、名雪のひいおじいちゃん――ってことは俺の曽祖父でもある。
 でも、このフレーズは……。
「『寝ながら戦う』……って、お前の眠り癖は遺伝だったのか?」
「そ、そんなの知らないよ〜」
「名雪だって、寝ながら登校したりメシ食ったりするだろ」
「だから、それは知らないって……気づいたら制服着て道路にいたりすることはあるけど……」
「それまで寝てたんだろ。まったく、この寝ぼすけさんめ」
 とか言っても、こっちの曽祖父殿の方が凄いよな……。寝ながら戦う、ってことは、ブリッジで寝ながら自分の艦を指揮して、戦争をしてるってことだから。よく沈められなかったもんだよな……。
 とか変な関心をしつつ、文章に目を通す。読み進めると「クラ湾夜戦」という戦いで寝ながらの離れ技をしたらしい。
 昭和18年7月5日の深夜、コロンバンガラという所にいる陸軍に物資を輸送していた時、アメリカの艦隊と遭遇。戦闘になったけど「名雪」と味方の艦隊はこれを追い払って作戦を成功させた。特に「名雪」は、雷撃で敵の巡洋艦1隻を沈めて、1隻を大破させたとか。
「『酸素魚雷』……って、何?」
 その文の中にあった4文字を疑問に思った名雪が急に聞いてきた。確かこれは、ついこの前「名雪」の手がかりを探している時に本で読んだな。えーと……。
「……酸素を使っている魚雷だ」
「酸素?」
「まずな、魚雷はエンジンで動くんだよ。中に燃料と空気が入ってて、燃料を空気で燃やして回るんだ」
「うん」
「エンジンだから排気ガスが出る。それを海中に捨ててるんだ。だから、魚雷が進むとその後にガスの帯が伸びる。すると目立って避けられやすくなる訳だ」
「ふーん……」
「でも酸素魚雷ってのは、燃料を燃やすために酸素だけを積んでるんだ。酸素の実験、理科の授業でやらなかったか?」
「……あ、そういえばやったよ。ろうそくの炎が激しく燃えるのを」
「そう、それだよ。俺もやったけどさ……。酸素はものを燃やすのに効率が良いから、魚雷に使うと凄いスピードが出るんだ。それに、窒素とか余計なのがないから、排気ガスも少ない」
「じゃあ、見つけにくいんだね」
「それもあるけど……馬力がでかくなるから、爆薬がたくさん積める。だから破壊力が凄いってのもある」
 などと、とりあえずこれまでの予習から得た知識でそれらしい説明をしてみたけど、本当に正しいんだろうか……付け焼刃で慌てて身につけたようなもんだから俺には自信がない。すまん、名雪。
「その凄い魚雷を使って、相手に勝ったんだね」
「そうだと思う……多分」
 自分でも確信がないので、曖昧な返事しかできない。でも名雪は、俺の正しいかどうかわからない説明で納得しているようだ。
 まぁ、俺としてはこれ以上ぼろが出ないように、話を元の路線――「名雪」に戻す必要があるな。
「でも、この酸素魚雷ってやつを使ってたのは、特型の中では『名雪』だけだったんだとよ」
「え、なんで?」
「詳しくは知らないけど『名雪』は特型の中でも特別だからな。一番新しいから、その分性能も前の24隻に比べて良いらしい。速力も他の特型より2ノットは速かったって話だ」
 性能改善後、特型の最高速力は38ノットから34.5ノットに下がってしまったが、「名雪」だけは36.5ノットも出たんだから、大したもんだ。
 それでその名を受け継いだ目の前のこいつが、脚が速くて陸上部で活躍してたんだから、何とも運命じみたものを感じてしまう。不思議だよなぁ。
 と、今日の本題は名雪のひいおじいちゃんの話だったんだっけ。
「で、話を戻すぞ。その『クラ湾夜戦』で勝った後もいろんな海で戦って、生き残って……。日本は戦争に負けたけどな。その後、『名雪』は引揚船になって海外から日本の兵隊を連れ帰って、防波堤になったらしい」
「防波堤?」
「ああ。船体が堤防に利用されたとか。今は大湊にあるんだってよ」
「大湊……?」
「自衛隊の基地がある港らしいけど、ちょっと待ってろ。地図で調べるから」
 普段あまり使わない、学校用の地図帳を引っ張り出して開く。大湊、おおみなと……。
「あった、ここだ。青森県」
「どこどこ?」
「ほら、下北半島の一番奥のところ」
「あ、あったね。ふーん……ここに今もあるんだ……。あ、じゃあひいおじいちゃんはどうなったのかな?」
「そこまではこの本には書いてないな。ま、戦争では死ななかっただろ。お前に名前をつけてくれたんだしな。それは素直に秋子さんに聞いた方が早いと思う」
「そうだね……ねぇ、祐一」
「ん?」
「今もあるんだったら、本物を見られるよね? 行ってみたいな」
 

 名雪が突拍子もないことを言い出してから1週間が経った。
 あいつはあれから秋子さんに、水瀬少佐――ひいおじいちゃんのことを聞いたらしい。「わたしが生まれることをとても喜んでくれたんだって」と、名雪が本当に嬉しそうに語ったのは数日前のこと。しかし、名雪が生まれる前に亡くなってしまったらしい。結局ひいおじいちゃんは、ひ孫の誕生を見ることはできなかったってことになる。
 しかし、これで名雪にとっての問題ごとは、残りひとつとなった。
 駆逐艦「名雪」の実物を見に行くこと。
 明日からはいよいよ土日と文化の日を交えた3連休であり、名雪が念願した日が迫っている。
 もう準備は整えてある(と言っても手荷物や着替えくらいだけど。宿も取ってない。どこか適当に見つけて泊まれば良いだろ)。後は明日に備えて寝るだけだ。朝に激弱な名雪は今日は特別に早寝していて、例のごとくもう夢の中だろう。これで明日起こすのが楽になれば良いんだけど……。
「じゃ、俺もそろそろ寝ます」
「祐一さん」
 リビングから出ようとした俺を、秋子さんが呼び止める。
「はい?」
「祐一さん。ありがとうございます」
 上半身だけ振り向いた俺に、秋子さんが丁寧に頭を下げた。堅苦しいというほどでもないが、こっちがつい恐縮してしまうほどの秋子さんの態度に、今の俺はただ姿勢を正すだけだった。
「あのことは本来、名雪が自分で調べることでした。でも、結局は祐一さん任せになってしまいましたね」
 と、頭を上げていつもの穏やかな表情で秋子さんが言う。しかし、俺はその笑顔の奥に、何かが隠されているような気がした。過去の例に当てはめるとすれば、オレンジ色のジャムの正体を問うた際の返答である「企業秘密です」の台詞を言った時のような……。
 今の秋子さんが隠すことといえば、多分、今回俺と名雪が関わったことじゃないか?
 そう結論づけた時、俺は単刀直入に聞いていた。
「秋子さんは……知ってたんですか? 名雪の名前の由来を」
「あなたたちが調べたほど、詳しくはなかったですけどね。でも」
 母親が子供を想う笑顔。その時の秋子さんの顔は、まさにそんな顔だった。
「祐一さんと名雪が一緒に頑張っている姿を見ていて、わたしはとっても嬉しかったですよ。それに安心しました」
「安心……ですか?」
「祐一さんが名雪を支えてくれてますから」
 その言葉を紡いだ秋子さんの笑顔に対し、俺は何も言うことができなかった。我が子への愛情のみで成り立っている。しかもそこには、俺も含まれているらしい。
 俺はいったい、何と返答したら良いのか、言葉が思いつかない。すると秋子さんは、あらかじめ用意してあったのか、懐から袋を取り出す。
「そのお礼、ということでもないですが、受け取ってください」
「秋子さん、これは……」
 差し出された茶封筒は、見るからに膨らんでいた。いかにも「札束が入っていますよ」と言わんばかりの存在感を持って。
「大湊への旅費です。せっかく受験も終わったんですから、息抜きも兼ねて、函館まで足を伸ばしてみても良いかもしれませんよ」
「でも、これは多過ぎますよ」
「そんなことありませんよ。それに、祐一さんはお金を無駄使いするような人じゃないのはわかっていますから」
 うーん、どうしてこの人は、そこまで人を信用できるんだろう? どう考えてもこれは、高校生の身分からすれば大金過ぎる。それに俺は大湊へ行く資金は自力で用意している。でも……。
「秋子さん、ありがとうございます」
 結局、頂くことにした。秋子さんの厚意を無にしたくはないし、まぁ余ったら(絶対余るけど)貯金しておけば問題はないだろ。
「それじゃ、おやすみなさい。祐一さん」
「はい。おやすみなさい」
 と、ちょっと回り道をしたけど俺も就寝することにした。
(しかし、使い道、か……。まぁ欲しいものはいろいろあるけどな……そうだ!)
 自分の部屋に戻るため階段を上っていた俺は、実に有効的な「大金の使い道」を思いついた。よしよし、明日からがますます楽しみになったな。
 
 
 

「ぐー」
 わたしの隣で、祐一がぐっすりと眠りこけている。カタンカタン、と定期的に刻まれるレールの響きが子守唄代わりになったのかな?
 いつもなら、わたしが眠っちゃうことが多いんだけど、今日はその逆。わたしの肩にもたれかかった祐一の頭の重みが、温もりが気持ち良い。
 こんなわたしでも、少しは祐一の文字通りの支えになれてるのかなー、なんて考えてみる。でも、わたしの心を支えてくれるのは、お母さんと……何よりもこの人。わたしの愛する祐一。
 ただ寝ている祐一を支えるくらいじゃ、全然割に合わないよ。
 でもとりあえず、それももうすぐ終わり。さっき下北って駅を過ぎて、大湊線の終点、大湊は次の駅。もう少し祐一の寝顔を見ていたかったけど、起こさなきゃ。
「祐一、もうすぐ到着だよ。起きて」
「……ぐー」
「ゆういち、ゆういちっ」
 ゆさゆさゆさ。そんな音がするくらいに祐一の肩を揺する。いつもはわたしの寝起きの悪さをからかうくせに、自分だってなかなか起きてくれないじゃない。もう。
 とか思っていたら、そんなわたしの心の呟きを聞き届けてくれたかのように、祐一が目を開けて、姿勢を正してわたしの方を向いた。
「う、うーん……あれ? 俺、寝てたか?」
「うん、ぐっすりとね。疲れてたんだよ、きっと。もう何時間も電車に乗ってるんだから。もうすぐ着くよ」
「そうか。起こしてもらっちゃって悪いな」
「ううん、祐一の寝顔、可愛かったよっ」
「ばっ、バカ! 変なこと言ってないで、忘れもんなんてするなよ!」
 そして祐一は、照れを隠すかのように、わたわたと荷物を整理し始めた。わたしの前で何も恥ずかしがることなんかないのに。
 そんなことを思いつつも、わたしの胸は期待でいっぱいになっていた。わたしの名前の原点との出逢いに。
 

「あれが『名雪』か……?」
「そうみたいだね」
「全然船には見えないぞ」
 わたしも祐一に全く同感だった。
 こうして港の岸壁に立って、遠目から見るわたしの名前と同じ軍艦は、完全に防波堤の一部、ううん、防波堤と一体化していた。写真で見たような大砲とか、艦橋とか、そういうのも一切ない。ただ「ここが船体」ってわかるのは、そこだけグレーで塗られていて、コンクリートとは微妙に色が違うからだった。
「でもあれ見ろよ。船首の部分」
 訂正。船体の前(と思われる)3分の1くらいのところから一段低くなっていた。あれは写真や絵で良く見た日本の駆逐艦の特徴――確か「せんしゅろう」とか言ったっけ?
「じゃあ、あれで間違いないよね」
「だろうな。あんな不自然な形の堤防なんて、普通はないだろ」
 それきり、祐一もわたしもただ黙ってそれを見つめるだけだった。
 どのくらいそうしていたのか、良くわからない。でもその間にも、自然は刻々と変化する。
 低く垂れ込めた雲に隙間が生まれ、そこからまっすぐに差し込み海を輝かせるお日様の光。岸に寄せては砕ける波の音。時折、「にゃーにゃー」とわたしの心をかき乱す魅力を秘めたウミネコの鳴き声も聞こえる。そして冷たい海風が吹きつけ、鼻腔をつんと刺激する潮の香り。
 そんな情景に包まれながら、それでも、無機質なコンクリートに囲まれた鉄の塊から、何かを見出したいと思って、埠頭に立ちつくす。
「名雪、もっと近くに行ってみよう。これじゃ埒があかないからな」
 ふとした祐一の提案に、わたしはこくり、と無言で頷いた。
 

「はー……やっぱり船なんだなぁ」
 祐一が感心したように言うけど、ここまで――防波堤の、つまり「名雪」の上まで来ると、彼の言ったように、わたしにも理解できた。
 足元は鉄板で、あちこちからいろんなものが突き出ている。手すりの跡とか、何かの機械をくっつけていたと思われる金具とか。今ではすっかり用を成さなくなったそれらは、ただの堤防には相応しくなかった。
「名雪、どうだ? 納得したか?」
「うん……」
「生返事だな」
「だって、わたしまだ良くわからないよ」
 確かに、今立っているのが軍艦だったのは理解できる。ここ大湊の防波堤になっていることも本に書いてあった通りで、これがあの「名雪」なのは疑いようがない。だからわからないなんてことはないんだけど……。
「いまいち、実感が湧かないんだよね」
「名雪……」
「おかしいよね、わたし。祐一にわがまま言って、せっかくここまで来たのに……。何か感じられるって信じて来たのに……」
 でも、わたしはまだ何も得られてはいない。これじゃ、祐一にも無駄足をさせちゃうかもしれない。結局、祐一の迷惑になるわたし。そんなのイヤだよ……。
「……?」
「な……!?」
 え、なっ――何これ?
 突然、足元から光が溢れる。鉄の床から湧き出し、渦を巻くように舞う光の粒子。
「……マジかよ」
「凄い……綺麗」
 呆然と呟く祐一とわたしだけど、感情はきっと同じだったと思う。だって、不思議だけど本当に綺麗な、まさに夢でも見ているようだったから。
 でも、やがて無数の光の粒がひとつに固まって、それが人の形になって……。
「あら、お客さんかしら? 珍しいわね」
 わたしたちの目の前に、綺麗な女の人が現れた。
「……」
「あ、そっか。驚かせちゃってごめんなさい。人が来るのは久しぶりだから、ついこの姿になっちゃった」
「……あの」
 喉がカラカラに渇いていた。でも、搾り出すようにそれだけを言った。全く意味の通らない一言だけど、さっきの不思議過ぎる現象を目の当たりにしたわたしにはそれが精一杯だった。
「……ま、無理もないわね。とにかく、落ち着いて聞いて欲しいの。私はこの船なんだけど……信じてはもらえないかもしれないけど」
「この船、って……」
 祐一が唖然としながらその女の人に聞いた。顔が半ば青ざめている。わたしも同じような顔をしてるのかもしれない。
「そうね、なんて言ったら良いのかしら……。この船の心――ううん、『魂』と表現しちゃっても良いかな?」
「魂……」
「ほら、人間――特に日本の人は、物には何でも魂が宿っている、なんて考えるでしょ。私もそれのひとつと考えておいて」
「そう……ですか」
 信じられないけど、でも信じなきゃならない。本当に現れて、こうして話をしているんだから。
「あの、ええと……何てお呼びすれば」
「あ、自己紹介がまだだったわね。私のことは『名雪』って呼んで欲しいな。別に『特型』でも構わないから、貴方の好きな方で」
 あっ、わたしと同じ名前……やっぱりこの人、この船の魂さんなんだ。
「……じゃあ、『名雪』さんって呼んでいいですか?」
「もちろん!」
 その時の「名雪」さんの微笑みは、嬉しそうで、優しくて、素敵で……。お母さんに少し似ているかもしれないし、祐一がわたしだけに見せてくれる、わたしが一番好きな笑顔っぽいのも含まれているような気がした。
 わたしに、もしお姉さんがいたら、こんな人なのかもしれない。
「あ、あの……わたし、水瀬名雪っていいます」
「水瀬……貴方、まさか水瀬艦長の?」
「はい。ひ孫なんです」
「それで、名前が私と……そう、そうなんだ。ふふっ、嬉しいやら恥ずかしいやら、ちょっと照れるわね。いらっしゃい、名雪ちゃん。逢えてとても良かったわ」
「あ……わたしもです」
 わたしは緊張しっぱなしだった。けど、「名雪」さんが親しく接してくれるおかげで、その緊張がすうっ、と身体から抜けていく。だからわたしは、次からの「名雪」さんの言葉に、自然に対応することができた。
「さて、せっかく来てくれたんだから、いろいろお話でもしてくれれば嬉しいんだけど……お時間いいかしら?」
「はいっ」
 わたしもだいぶ落ち着いてきたから、この人に聞きたいことがたくさん思いついた。それに付き合ってくれるんだ。良かった。
「で、まず聞きたいんだけど、ここってあまり人が来ないのよね。そんな辺鄙な所へわざわざ来るなんて、何か訳ありかな?」
「わたしの名前の原点を探しに……。それでここに来れば、それを感じられると思ったんです」
 そしてわたしは、これまでのことを簡単に説明することにした。毎晩変な夢を見たこと。お母さんから名前の由来を初めて聞いたこと。全く知らない軍艦を調べることを、祐一に手伝ってもらおうとしたこと。
「で、急にこいつが言ったんです。『名前のルーツを調べるから手伝って』なんて……。あ、俺、こいつのいとこの相沢祐一っていいます」
「ええ、よろしく。祐一くん。でも、ただのいとこって訳じゃないでしょ?」
「ええっ!? あ、あー、それは……」
「うにゅ〜……」
「ふふっ、ま、彼氏さんと一緒に、私のことを調べてくれたのよね」
「は、はい」
 話の要所要所で、祐一も加わってくれた。恥ずかしい思いもしたけど、説明そのものはスムーズにできたんじゃないかな、と思う。
 特に、祐一の協力がなかったらわたしはここまで来れなかったことについては、口が自然に動いた。
「わたしは軍艦とか、駆逐艦なんて全然わからないし、でも祐一なら『大和』とか知ってるって言うから、無理言って助けてもらったんです」
「大和さん、か……懐かしいわね。そっか、もうあれから57年になるのか……」
「あれから?」
「大和さんが最期の航海に出てからよ。天一号作戦――昭和20年4月6日、大和さんたちは沖縄に行くため呉を出港したんだけど、私はそれを見送ったの。桜の綺麗な春だった……」
 昭和20年の沖縄。歴史の授業で習った。その頃の沖縄では、アメリカ軍と激しい戦いがあったって。
「そ、それは……水上特攻の……」
 祐一がそう言ったっきり、絶句した。すると「名雪」さんは首を軽く縦に振った。
「ええ。それきり戻らなかったわ。もともと生還を期さない旅だった。それは大和さんたちも理解してたと思う。でも、それでも……それでも、大和さんは『行ってきます』って、私にそう言ったの」
 そう言った「名雪」さんの瞳が揺らいでいた。悲しい思いをしているのは、表情を見るだけでもわかった。でもすぐに顔を変え、さっきまでの微笑を浮かべたようなそれに戻る。
「あ、ごめんなさい。脱線しちゃったわね。続けてちょうだい」
「はい。それで本を調べて、ひいおじいちゃんのこともわかりました。そしたら、実際に船を見たくなったんです」
「ふぅん……なるほど、それでわざわざ……。ま、私は普段、さっきみたいな現れ方はしないのよ。誰かに見られたら『幽霊だー』なんて大騒ぎになっちゃうからね。でも、貴方たちってどうも他人とは思えなかったのよ。だからつい派手にしちゃったんだけど……間違ってなかったわね」
 水瀬艦長の子孫の方だったんだから。とつけ加えて、ほっと息を吐いた。
「でも、私の夢をねぇ……。何かが光ってる夢、だったかしら?」
「はい。祐一は、夜に撃ち合いをしてるんじゃないか、って」
「夜戦か……うーん、それなら何度かしたことはあるけど、どれがどれだか。夜の砲戦って、普通に見てると自分の射撃の光しか見えないのよ。私の見張りの水兵さんは、星明りがなくても2万メートルは見えてたけど」
「2万……20キロもですか!?」
 びっくり……。普通は夜なんて何も見えないのに。街の中は明かりがいっぱいあるけど、そうじゃなかったら電柱とかに頭をぶつけちゃいそうだよ。
「そうよ。そういう訓練を受けてたから。それに、私たちには良い電探――今で言うレーダーね。それがなかったし。結局目だけが頼りだったのよ。それで、光ってた以外で何か覚えてない?」
「うーん……そう言えば、遠くで急に火が上がって、それで『ばんざい』とか聞こえたような気がします」
「万歳……あ、それならあの時だわ!」
 急に大きな声を出した「名雪」さんは、両手をパチン、と合わせて笑った。
「18年7月の戦いね。私の記憶では、戦闘中に乗員がそんなことを言った夜戦は他にないから」
「何でも『名雪』さんの戦いの中では一番凄かったとか」
「単独の戦果ではね。発射魚雷6本中4本命中で、巡洋艦1隻撃沈、1隻撃破。今から考えてもちょっと信じられないわ。魚雷なんてそんなに当たるものじゃないから」
「そうなんですか?」
「今のミサイルや魚雷は、勝手に目標へ向かって行くけど、私たちの時代はただまっすぐ進むだけだから。せいぜい1割が当たれば良い方だけど、3分の2も命中するなんて……あの時の私はよほど幸運だったみたい。私も損傷はしたけれど」
「大丈夫だったんですか?」
「大丈夫じゃなかったら、私は今頃、防波堤じゃなくて魚礁になってたと思うわ。何発かは貰っちゃったけど、沈んだり動けなくなったりするほどの傷じゃなかった」
「良かったですね」
「そうね。でも、それは別に本題じゃないのよ。一番良かったと思うのは、食料とかを無事に送り届けられたことね。それと、水瀬艦長が優しい人だったってことも、改めてわかったし」
「?」
 わたしの疑問は顔に出ていたのかもしれない。「名雪」さんはすぐに説明してくれた。
「海戦が終わって落ち着いた後に、船の中のみんなは大喜びして、騒ぎ出したの。ま、無理もないわよね。とにかく大戦果だったから。でもね、艦長さんはその時、『喜ぶのも良いが、我々は多くの人を殺めたのだから、あまりはしゃぐのは好ましくないな』と言ったのよ」
「……」
「多分、艦長さんは自分が沈めた船の人のことを考えてたんだと思う。その一言で、喜んでた人もみんな冷静になって、それで、敵の水兵さんたちの冥福を祈ったわ。水瀬艦長はそういう人だった」
「ひいおじいちゃんが……お母さんから聞いた通りだ……」
 お母さんは言ってた。「おじいさまは大らかで優しくて、立派な人だった」って。そして「名雪」さんも、お母さんとは違う出来事でだけど、やっぱり同じように思っている。
 そんな立派で優しい人が、わたしのひいおじいちゃんだったんだ。嬉しいな……。
「とにかくそんなこともあったのよ。で、その後もいろいろ海戦はあったけど、どうにか生き延びて……今は隠居生活ね」
 肩をすくめて苦笑する「名雪」さんだけど、別に困っているようには見えなかった。じゃあ、「名雪」さんは、今の暮らしをどう思ってるんだろう?
「あの、『名雪』さんはずっとここにいるんですよね」
「ええ。戦争が終わって、外地の兵隊さんたちを内地へ送り届けてから、ここの防波堤になったのよ」
「退屈じゃないんですか?」
 すると、「名雪」さんは少し首をかしげ、考える仕種をした。
「そう悪い暮らしじゃないわね。海は好きだから、港が終の棲家ってのも良いものよ。それに何年かに一度、港の人たちがお化粧を直してくれるから」
「お化粧……してるんですか?」
「あ、ごめんなさい。『お化粧を直す』って言っても、ペンキを塗り直すことなのよ。私ほら、船だから身体は鉄でできてるし、ほっとくと潮風で錆びちゃうの」
「あ、そっか」
「その点から言えば、まだまだ私も現役、ってところかしら? でも、艦齢から言えばもうおばあちゃんなんだけどね。ふふっ」
「そんなことないです! すっごく綺麗です……」
「あら、ありがとう。貴方みたいな素敵な人に――それも水瀬艦長のひ孫さんにそう言ってもらえるなんて、誇れるほど嬉しいわ」
 本心からほめたつもりなのに、今度はわたしがほめられちゃった。うにゅ……恥ずかしいけど、祐一にほめられるくらいに嬉しいよ。
 下を向いて照れるわたしを見守ってくれていた「名雪」さんだけど、わたしが火照りの抜けない顔を上げると、「話を戻すわね」と言った。
「動けなくなっても、いろいろと話は入ってくるわね……。ここは港だから、良く船が通るのよ。だから彼女たちとお話もするの。それに、実体じゃない方の私――今、貴方たちに見せている方ね。それなら人にまぎれてある程度は動けるから」
 でも、そう言い終えた直後、少しだけ表情を険しくさせる「名雪」さん。
「ま、不満と言えば、船として自由に動けないってことくらいかな? ああー、海を走るって、本当に気持ちが良かったわよ。太陽の光も、潮風も、波も……『世界の全てが私を祝福してる!』なんてことを良く思ったものよ」
「やっぱり船なんですね。こうしていると綺麗なお姉さん、って感じなのに」
「そりゃそうよ。私は軍艦として生を受けたの。この蒼く広い世界を駆けるために」
 すると、すうっ、と息を吸って、止める。そして口を開いた時に出てきたのは、透き通るような声音だった。
「♪仰ぐ誉れの軍艦旗、軸に菊を戴いて、太平洋を我が海と……」
 わぁ……。まるで歌手みたいに綺麗な声だよ。でも、これって歌……だよね?
 大湊の波止場に響く歌声。その時、目を瞑ったまま明瞭な声で歌を奏でる「名雪」さんを、雲の隙間からの眩い光が照らし出す。すっごく神秘的……。まるでお空が「名雪」さんにスポットライトを当てたみたい。
「♪風も輝くこの朝だ、伸ばせ御国の生命線……って、わからないわよね。『太平洋行進曲』って、私が若い頃の歌なんだけど」
「はい……わからないです。ごめんなさい」
「ううん、いいのよ。古い歌だから」
 わたしの答えに、首を軽く横に振って慰めてくれる「名雪」さん。
「でも、私の艦首には菊の御紋なんてついてなかったんだけど。正確に言うと、私は『軍艦』じゃないし」
「え? どういうことですか?」
「海軍では、私たち駆逐艦は『軍艦』には分類されてなかったの。少なくとも書類上は。菊の御紋をつけていた戦艦とか空母とかはれっきとした『軍艦』なのよ」
 そうだったんだ……軍艦なのに軍艦じゃないって、何か変だけど。でもそんなの関係ないよ。
「でも、『名雪』さんたちは一生懸命戦いました! わたしは本でしか知らないから、生意気な言い方かもしれませんけど……」
 わたしは思わず大声を上げていた。自分が軍艦じゃないって言った時の「名雪」さん、なんだか寂しそうだったから……それを否定したかった。「名雪」さんはまぎれもない、勇気のある船だったってことを伝えたかった。
「そうね……私たち特型の姉妹でも、生き残ったのは潮姉さんと響姉さん、そして私。3隻だけだった」
 それは知ってる。祐一の買って来てくれた本にそう書いてあった。そして、「名雪」さんの言うお姉さんふたり――「潮」は解体、「響」はソ連に引き渡されて、後は行方不明になっちゃったことも。
 もう、「名雪」さんは、お姉さんたちと逢うことはできないんだ。可哀想だよ……。
「戦争って、悲しいですね」
「そりゃそうよ。私だって戦争なんてしたくなかったわ」
 即答する「名雪」さん。自分の言葉に何の疑問も迷いも抱いてはいない。そんな感じを受けるほど明確に言った。
「私たちは確かに、戦うために生まれたわ。それでも、みんなひとつのことを願ってた。平穏無事に天寿を全うして、それで造船所で解体されて新しい鉄に生まれ変わることを」
「え? でも、解体されちゃったら――」
「船としては『死んだ』ことになるわね。でも、もし戦争も紛争も起きずにそうなれるとしたら、それはとっても名誉なことよ。軍艦として――ううん、兵器としての本分を尽くせたことになるから」
「兵器の本分……」
 わたしは思わず「名雪」さんの不思議な一言を呟いていた。本分。自分のすべきこと、とかいった意味。兵器は戦うために作られたものだけど、「名雪」さんは……。
「戦争するためじゃないんですよね」
「私たちが強い、ってことが知られてれば、誰も日本と戦争したりはしない。いわゆる『抑止力』ってやつね。自分たちがそうなれれば、軍艦として生まれてきて良かった、って思うわよ」
 そう言って微笑む「名雪」さんだけど、その笑みの中に、何だか儚げなものが混じっていた。
 わたし、頭はあんまり良くないけど、学校で習った歴史くらいなら大体覚えている。昭和20年8月15日、天皇陛下さんの声が日本中に放送されて、アメリカとの戦争に負けたことくらいは。
「でも、戦争は……」
「ええ、負けちゃったわ。私たちも頑張ったとは思うんだけどね……。ま、負けたから私はこうして、ここにこうやっているんだけど。不甲斐ないわよね。陛下や国民に申し訳なく思うわ」
 まるで謝るような感じで下を向いてしまう。その後も言葉は続くけれど、声は悲しげで、わたしの心をきゅっ、と絞めつけた。
「私に乗って、動かしてくれた人の中にも死んだ人はいるわ。みんな良い人たちだった。家族もいたし、大切な人も――ちょうど、貴方の彼氏さんみたいにね」
「祐一みたいに……」
 わたしにとって、祐一はかけがえのない人。ううん、わたしの存在は、もう祐一なしでは成り立たない。だから「名雪」さんの言ったことは、凄く切実だった。もしも今、わたしの目の前から祐一が永久に消えてしまったら――。
「それだけじゃないわ。私が沈めた船にも、人が乗ってた。肌や髪の毛や目の色が違っても、家族がいたり好きな人がいるのは同じだったでしょうね……」
 自嘲気味に、儚げな笑みを覗かせる。そうか。この人は……自分の戦った相手も可哀想に思ってるんだ。なんて優しいんだろう……。
 でも、それでわたしの疑問が解けた訳じゃない。
「じゃあ、何でそういう人たちは軍隊に入るんですか? どうしてそんな危ないことを……」
「守りたいからよ。自分の命よりも大切な人を、祖国を、何が何でも守りたいと思ったから。そのために、自分が死ぬことになっても」
「……」
「ま、なかなか理解できないのも無理はないわね。誰だって、大切な人を失いたくはないもの」
 うん。「名雪」さんの言う通り、わたしは彼女の言葉を全部は納得できていない。いくら「大切な人を守る」ためでも、わたしはもう2度と、お母さんや祐一と離れたくない、って思ってる。でも、それでも守る方の気持ちもなんとなくわかる。祐一はわたしを守ってくれてるけど、わたしも同じように祐一を守りたいよ……。
「でもね、これだけはわかって欲しい。私たち駆逐艦は――ううん、大日本帝国海軍の軍艦も、私たちに命を預けてくれた乗組員の人たちも、みんな『国を守りたい』と思って戦った。そして……多くの船が沈んで、多くの人が戦死したの。昔、そんな船たちと人たちがいた、ってことだけは覚えておいて。お願い」
「はい……」
 結局わたしは、矛盾する考えを頭の中に残したまま、曖昧さを含んだ返事をすることしかできなかった。
「それとね、この瞬間も、そんな覚悟を持っている船と人もいるってことも、ついでに覚えておいて欲しいわね。ほら」
 そう言いながら海の方に向いて、陽光に煌く穏やかな波頭の先を指差す「名雪」さん。
 そこには……。
「私の後輩たちよ。今日もああして、海を守るために頑張っているの」
 船が港から出て行くところだった。あまり目立たないグレーだけど、後ろに掲げられた旗だけが鮮やかに見える。
 日の丸の真ん中の赤丸から、光が溢れるような感じにデザインされた旗。そうだ、「旭日旗」とか「軍艦旗」って言われてる旗だ。じゃあ、あれは……。
「海上自衛隊……ですね」
 祐一がわたしの気持ちを代弁してくれた。そうか、ここは大湊で、海上自衛隊さんの基地があるから、ああいうのを見るのは別に不思議でもなんでもないね。
「今じゃあの娘たちが日本の海の防人。私なんかよりもずっと立派で、義務も果たしてるしね」
「え? どういうことですか?」
「だってほら、自衛隊は今まで一度も戦争をしなかった――いいえ、させなかった。50年もの長い間、抑止力として常に日本に平和をもたらしてくれたのよ。少なくとも、私はそう信じてるわ」
 この時の「名雪」さんの目は、何だかとても優しくて……まるでお母さんの眼差しみたいなのを、沖を進む軍艦に向けていた。
「信頼してるんですね」
「ええ、そうよ。だから、もし良かったら……貴方たちも、あの娘たちのことを応援してくれたら、私も嬉しいわ」
 そうして、再びわたしたちに振り向いて、にっこりと――ううん、にやりっと笑った。な、なんかイヤな予感がするな……。
「ま、小難しい話はここまでにしときましょう。私も貴方たちのことを聞きたいし。名雪ちゃんと祐一くんはどうして恋人になったのか、とかね」
「い、いきなりそれを聞きますか?」
 祐一が驚いて聞き返す。でも「名雪」さんは、しれっとして笑った。
「ええ。私にはそれが一番気になるわ。貴方たちとても幸せそうだし。ね、どうして知りあったの?」
 うー、「名雪」さんはいろいろ教えてくれたから、わたしたちも隠しごとはできないよ。でも、別に隠す必要もないんだけど。ただ、凄く恥ずかしいだけ。
「え、ええと……わたしと祐一は……」
 

 結局、あれからわたしは祐一との関係を洗いざらい話す羽目になった。あ、でも「名雪」さんも失敗談とかを聞かせてくれたから、おあいこになるかな?
 例えば……昭和10年の「第4艦隊事件」で大嵐に巻き込まれた時、船体が折れちゃうんじゃないかと思ったこと。それで、あんまり波が荒いので、まだ生まれて間もなかった「名雪」さんは船なのに船酔いしちゃって、恥ずかしい思いをしたこと。そしたら、仲間の軍艦たちもみんな同じか、それよりも大変な目に遭って――怪我しちゃったりしてて、自分はまだましだったこと。
 わたしたちにもわかりやすいように「名雪」さんは、面白可笑しく語ってくれた。
 それ以外にもいろんなお話をしたけど、時の経つのを忘れるくらいに楽しかった。
 でも、やっぱり時間は過ぎていって、気がついたらお日様はもうだいぶ傾いていた。
「あら? もうこんな時間になっちゃったのね」
「え、あっ、ホントだ」
「名雪、悪いけど、そろそろ……」
「うん……」
 祐一の言いたいことはわかっている。いつまでもこうしている訳にはいかない、ってこと。でもやっぱり名残は惜しい。
「それじゃ、今日はこの辺でお別れね。とても楽しかったわ」
「あの……またここに来てもいいですか?」
「また逢いに来てくれるの? ええ、もちろん大歓迎よ!」
「はいっ! また来ます……必ず」
 わたしがそう言うと、笑って手を振った「名雪」さんが消えていった。最初に現れた時と逆に、足元から光の粒子になって、空気に溶けていって……船体に吸い込まれるようにして、「名雪」さんは自分に戻っていった。
 そうして、わたしたちはさっきまでの賑やかさが幻だったかのような静けさに取り残された。
「……行っちゃった」
「そうだな……」
 わたしも祐一も、心ここにあらずって感じで呟いたけど、逆にわたしの心の中は、たくさんの温かい、そして優しい気持ちでいっぱいになっていた。
「祐一。わたし、いろいろ考えたんだけど……」
 いくら考えても、わたしの結論はこれしかなかった。「名雪」さんがわたしに伝えたかったことに応えられているかどうかは自信がないけど、自分の素直な考えに逆らうことなんてできない。
「やっぱりわたし、戦争は起こってなんか欲しくないし、人が死ぬのはイヤだよ……」
「ああ、それは俺だって同じだ」
「でも、この人――ううん、この船なら、『名雪』さんなら、大好きだよっ」
 うん。これだけなら自信を持って言える。日本のために戦った「名雪」さん。そして今もなお、日本の平和とわたしたちの幸せを祈ってくれる「名雪」さん。
「わたしの名前は、そんな素晴らしい船からもらったんだね……。わたし、それがすごく嬉しい」
「そうか、良かったな」
 この時の祐一の顔はとても優しくて……。
「うんっ!」
 わたしは、祐一の胸の中に飛び込んでいた。いきなりだったから祐一は少し驚いてたけど、すぐにわたしを抱きしめてくれる。祐一の温もりが、優しさがとても心地良かった。
 祐一はしばらく胸を貸してくれたけど、でも、いつまでもって訳にはいかないよね。わたしが祐一の背を抱いていた腕の力を抜くと、祐一もわたしを抱く力を緩めてくれたから、わたしはゆっくりと祐一から離れた。
「じゃ、そろそろ行こっか?」
「な、そのことなんだけど……東京へ行かないか?」
「東京……今から?」
「あと2日あるからな。それに、ちょっと用事ができたんだ。やっぱダメか?」
 東京か……わたしは行ったことないから、それも良いかもしれない。それに……。
「ううん、祐一と一緒なら、わたし、どこまでもついて行くよ」
「そうか、ありがとうな」
 祐一が右手を差し出してくれた。わたしはそれをぎゅっ、と強く握り返すと、とても幸せな気持ちになれる。やっぱりわたしは祐一といられるのが一番良いな。たとえどんなことがあったとしても。
「祐一……」
 そんなことを思ったから、わたしは不意打ちで祐一にキスをした。ちゅっ、とほんの一瞬、唇が軽く触れるだけのキスだけど。
「おっ、おい? いきなり何を……」
「えへへっ……この前のお返しだよ。さっ、行こっ!」
 
 
 

 あれから1ヵ月以上経ち、もうこの街はすっかり雪化粧が施されていた。
 それで今日は12月23日、天皇誕生日(すなわち祝日)であり、名雪の誕生日でもあるこの日、俺はあるものを待っていた。
 午前10時を少し回った頃、
「祐一さん、お届けものですよ」
 と、階下からの秋子さんの声に立ち上がり、階段を駆け下りる。これまで首を長くして待ちに待ったものがついに届いたのだ。
 運送会社の人が「取扱注意」「この面を上に」と書かれたラベルの張られた細長い箱を慎重に運んで来て、玄関に下ろす。うーむ、これか……。結構大きいよな、やっぱり。
「はんこをお願いします」
「あ、はい」
 伝票にペタン、と「相沢」の三文判を押すと、運送屋は「ありがとうございました」の挨拶とスマイルを残して去って行った。
「祐一さん、大きい荷物ですね」
「ええ、そうですね」
 秋子さんも不思議そうにそれを見ている。ま、そりゃそうだろう。いきなりこんな大きいのが来たら。
「いったい何かしら?」
「これ、秋子さんのおかげで手に入ったんです」
「え?」
 いつもの微笑に疑問の表情を混ぜた秋子さんに、具体的に教えるべく、厳重に梱包された箱を開く。ダンボールと木枠で封をされたそれは開けるのが結構大変だったけど、中身の大切さを考えれば、送り先がそうしてくれたのはありがたい。
 と、苦労してようやく箱の中身を明らかにした時、秋子さんは感嘆するように短く言った。
「まぁ……」
「こんなの、俺だけの財力じゃ、とても買えませんでしたから」
「やっぱりわたしの思った通りでした。祐一さんはお金を無駄使いするような人じゃないって」
「……しかし、凄いな……」
 俺はほめられた照れ隠しのため、「中身」について言及してみる。
 はー、もうこりゃ「凄い」以外の感想しか出てこないな。これほど見事な代物なら、あいつも多分……。
 俺は、いつものように寝坊している名雪が起きてくるのがとても楽しみになっていた。
 

「名雪〜、起きてるか?」
「祐一? うん。おはようございます」
「もう昼だけどな」
 ドア越しに声をかけると、名雪はとりあえずまともに目が覚めているようだった。そのままノブを握ってドア開ける。すると、名雪はもう着替えていて、よそ行きの服装をしていた。
 ま、今日はこいつの誕生日だし、どこかに行こうって約束だったからな……。
「出かける時間にはまだ早いよね?」
「まぁな。その前に見て欲しいものがあってさ」
「?」
 名雪に見えないよう足元に置いといた「見て欲しいもの」を慎重に持ち上げる。結構重いし、何よりも凄く精密なものだからな……丁寧に扱わないと。
「これなんだけど……」
「え……こ、これ……?」
「どうだ? 凄いだろ」
 細長いアクリルのケースの中に、灰色に塗られた軍艦。ちゃんと赤い船底まである本格的なものだ。
 艦橋の後ろから低く下がった甲板。前に1基、後ろに2基の12.7センチ連装砲塔。2基の3連装61センチ魚雷発射管。2本ある煙突は、前のそれが少し細い。そして木でできた台座には、「1/100 大日本帝国海軍 駆逐艦 名雪」と書かれた金メッキのプレートが張ってある。
「ど、どうしたの……これ……」
「この前東京に行っただろ。その時にちょっとな、頼んでおいたんだ。お前と別行動を取った時だよ」
「あの時に……」
 そう。なぜ俺が大湊に行ったあの日、いきなり東京へ行こうなどと言い出したのか。それはこの「名雪」の精密模型のためだった(名雪と一緒に東京見物したかったのもあるけど)。
 駆逐艦「名雪」について調べる過程で見た特型の模型に心惹かれ、また軍艦の模型を特注で作っているメーカーの広告を見つけた俺は、ひとつのことを思いついた。「名雪」の模型を作ってもらいたいな、と。
 でも、そのメーカーは東京の板橋区にあった。満足のいくものを作ってもらうには直接出向いて説明・交渉しなければならないだろう。しかも特注なんだから、多分凄く高いんだろうけど、俺には肝心の金がない。
 ところが旅の前日、秋子さんの心遣いによって俺はいきなり大金を手にしてしまった。大湊への旅費に使ってもたくさん余るこのお金、それ以外の使い道は考えたけど、無駄使いは秋子さんに申し訳ない。
 そんな時、俺は「名雪」の模型が欲しいという希望を思い出した。大湊で逢って話もした「名雪」のことを、名雪は大好きだと言った。それで俺は決断したんだ。名雪に「名雪」をプレゼントすることを。
「それで、どうするの……それ」
「ん? ああ、今日はお前の誕生日だろ。決まってるじゃないか」
 何をわかりきったことを、という感情を込めて自然に言ってみた。けど、名雪はさらに混乱しているようだ。口元を両手で押さえて言葉もない。
「じゃ、ここにおいて置くぞ」
 俺は「名雪」を持ったまま名雪の部屋に入って、腰ほどの高さがあるタンスの前に立った。
 そのタンスの上は、今はすっきりとしたものになっている。名雪を起こす役割が、かつてここをほぼ支配していた目覚まし時計群から俺に移ったので、彼らは引退したのだ。まぁ、名雪の見事な寝っぷりの前に、目覚ましたちが任務を果たすことは滅多になかったけど。
「……っと。おっ、サイズはピッタリだな。しっかり乗ったぞ」
 模型の「名雪」は、ちょうどタンスの上面全体に収まった。と言うより、俺がタンスのサイズを念頭に入れて注文したのだ。そしてそれに、模型の出来具合(縮尺が大きければ大きいほど精密に作れる)と俺の予算の問題(大きい模型ほど高くなる)とを合わせたら、偶然にもきりの良い100分の1になった。
 全長1.18メートルもある「名雪」の精密模型は、昭和18年の時の姿――「友鶴」事件と第4艦隊事件で発覚したトップヘヴィ対策として、船体強化と艦橋の縮小を行った性能改善後の姿を再現している。
 つまり、戦史の上で彼女が最も輝いていた時期、クラ湾夜戦の時の状態でもある。
「……」
 こうして「名雪」が名雪の部屋にあるのを眺めると、なんと言うか……実に素晴らしい。感慨深い。俺の恋人の、愛しいその名前の原点となった軍艦。調べを進めていくうちに、船のほうにもすっかり惚れ込んでしまったらしい。
「どうだ、名雪? 良くできてるだろ。特注だからな、とにかく精密に、本物そっくりに作ってもらったんだぞ」
「ゆ……祐一」
 その時、名雪の表情が曇った、と思いきや――。
「ゆういちゆういちゆういちーっ!」
「ぐあっ!」
 体当たりされた。俺にぶつかってきた名雪は、そのまま俺の背中に手を回して、力を入れてきた。まったく、いきなりびっくりさせるな。今の体勢は正直言って役得だけど。
「嬉しいよ……わたし、うれしいよぉ……うっ、ひっく……ふえぇぇぇん」
「おい、何も泣くことないだろ」
「だって、だって……こんなことされたら、泣いちゃうよぉっ……」
「そっか。よしよし」
 俺の胸元でしゃくり上げる名雪の頭を撫でてやる。サラサラと流れるような髪の感触を楽しみながら。
 俺も名雪もこの調子じゃ、今日のデートは予定が大幅に狂っちゃうな……。
 ただ、今がどうであろうと、将来がどうなろうと、俺は名雪と、ずっと一緒にいたい。そして彼女の傍にはあの模型がいつもあって欲しいと思う。俺はそのことを、今も大湊で佇むあの艦の心、魂に願ってやまない。
 そんなことを考えながら、俺は名雪を抱きしめ続けた……。
 

 おわり
 


 以下は、拙作「名雪と『名雪』」の原作となった「駆逐艦『名雪』の生涯」です。作者のブラック・ストーン氏のご厚意により、参考資料として転載の許可をいただきましたので、全文を掲載します。
 これをお読みくだされば、拙作の理解が容易になるかと思います。


駆逐艦「名雪」の生涯(作:ブラック・ストーン)
 

 帝国海軍の駆逐艦として吹雪クラス(特型)は余りに有名である。
その一番艦から四番艦までには雪の名前が当てられている。すなわち、吹雪、白雪、初雪、深雪である。これらは、一時期を除くと第11駆逐隊を編成しており、常に行動を共にしていた。しかし、ここに不幸な事故が発生する、昭和9年、演習中に駆逐艦雷に衝突された深雪が失われたのである。第11駆逐隊は定数に足りない3隻編成で行動する事になった。
 当時、吹雪クラスの駆逐艦は建造を全て終えて、次の初春クラスの建造が始まっていた。初春クラスは吹雪クラスよりも300トンも小さな排水量で特型に匹敵する重武装(砲数が一門少ないだけ)を目指したのであるが、これが無理な設計であるという批判も、軍令部内に存在していた。多くの議論の結果、すでに生産が終了している特型のライン図を流用して、初春クラスと同様の武装(ただし、砲は吹雪クラスに準ずる)を搭載する、比較検討用の駆逐艦建造案が出てきたのである。これは結果的に深雪の喪失を補う事になった。
 初春クラスに対する懸念は現実のものとなり、昭和8年に竣工した初春を始めとする各艦は、所定の性能を発揮し得ず大幅な改正が必要となった。それに対して、追加建造された特型駆逐艦は良好な試験結果を残している。これにより、初春クラスの設計上の欠陥が明らかになり、初春クラスの建造は4隻で打ち切られ、設計を大幅に改正した有明クラスの建造に移行したのである。なお、ロンドン条約による補助艦艇の制限もあって、特型の追加建造も一隻だけに終わり、昭和9年に竣工し名雪と命名され、深雪の後を埋める形で第11駆逐隊に編入された。

 名雪とは「名ごり雪」の意味である。命名にあたっては、深雪の後を埋めるというのと、吹雪クラスの最後の艦という意味を込めているものと思われる。
 名雪は建造時期が大幅に異なるために、特型の他の艦とかなり異なっている。
 駆逐隊を構成する他の艦は初期のT型であるが、名雪のベースとなったのは最終型であるV型であり、空気予熱器等が強化されており機関重量の軽減と航続距離の増大に寄与している。このために、T型で4缶あったボイラーは3つに減少し、第一煙突が細くなっている。
 ただし、名雪には何故か他の特型よりもボイラーの圧力の上昇に時間がかかるという欠点があった。これは当時における品質管理技術の限界を示しているのかもしれない。その代わり、最高速力はしばしば他の同型艦よりも2ノットの優速を示しており、「名雪は起こすのに苦労するが、その気になれば速い」と言われていた。しかし、歴代の機関長は「起こす」のに苦労したようである。
 名雪はまた他のV型と同じく、艦橋構造物も大型化しているが、最も大きな相違点は魚雷発射管であろう。名雪の水雷兵装は初春型に準じており、他の特型と大きく異なっている。次発装填装置を装備しているのは名雪のみである。なお、名雪の竣工した昭和9年には、水雷艇友鶴の転覆、第四艦隊事件が発生して、これを契機とした性能改善工事を、後に名雪も受ける事になった。
 同じ隊の艦とやや異なるシルエットは美しいと思われていたようであり、艦船ファンからも好まれていた。
 吹雪クラスの搭載魚雷は新造時には8年式2号であったが、後には90式に変更されたものの、最後まで酸素魚雷は搭載されなかった。しかし、名雪は93式酸素魚雷が使用できるように改造されたという説もある。

 開戦後、名雪はエンドウ沖海戦、サヴォ島沖海戦、第3次ソロモン海戦、クラ湾夜戦などに参加した。機関の不調により、しばしば会戦に遅れかかったが、重要な局面には必ず間に合った。特筆すべきは、クラ湾夜戦における名雪の活躍であろう。
 当時、名雪はコロンバンガラへの輸送任務についていた。昭和18年7月5日、第3水戦司令秋山輝男少将の率いる増援部隊は以下の編成でショートランドを出撃した。

 支援隊=新月、涼風、谷風
 第一次輸送隊=望月、三日月、浜風
 第二次輸送隊=天霧、初雪、名雪、長月、皐月

 しかし、アメリカ側は日本側の行動を察知し、エーンスワース少将率いる艦隊(軽巡ホノルル、ヘレナ、セントルイス、駆逐艦4隻)に待ち伏せ攻撃を命じた。
 深夜2336、コロンバンガラ島北東の海域で、アメリカ艦隊は新月をレーダーで捕捉、しかし、直後の2348に日本側もアメリカ艦隊を視認、秋山少将は艦隊に集結を命じた。
 2356、エーンスワース少将は砲撃を命令、6インチ砲弾が支援隊に属する3隻の駆逐艦を襲った。5分間で千発以上に達する射撃により、秋山少将の座乗する新月はたちまち火災を起こし波間に没した。
 この段階でエーンスワース少将は日本艦隊が壊滅したと信じ、掃討のために、艦隊に回頭を指示すると同時に、駆逐艦に対して雷撃を命令した。しかしその時、涼風、谷風は雷撃を終えて次発装填のために退避行動に入っていた。
 0002、ヘレナの艦首が目もくらむような閃光を発した。ついで4本の水柱があがる。ヘレナは艦体の前部をもぎ取られ、前のめりになって沈没した。
 次に敵に接触したのは第二次輸送隊であった。各艦は砲撃を開始すると同時に、敵に雷撃を加えたが、いずれも命中しなかった。初雪は被弾して舵機の故障を起こし、圧倒的な形勢の不利に、日本側は退避にかかった。
 ヘレナを失ったものの、エーンスワース少将は依然として勝利を確信していた。敵の魚雷を全て回避したので、すでに日本側からの雷撃はないと判断していたのである。
 この時点で、アメリカ側は次発装填装置の存在を知らなかった。そして、二次輸送隊では、名雪のみがこれを装備していた。次発装填を終えた名雪は、再度魚雷を発射、ホノルルに3本、セントルイスに1本の魚雷が命中した。ホノルルは轟沈し、エーンスワース少将は戦死した。セントルイスは大きく傾斜しながらも辛うじて戦域からの離脱に成功する。この後、第一次輸送隊による散発的な攻撃が試みられたが、アメリカ側が退避したために戦闘は終了した。
 日本側は新月を失ったが、軽巡2隻を撃沈、物資の揚陸にも成功したのである。
 名雪は大きな損傷を受けはしたものの、戦争を生き抜いて、戦後は復員輸送任務につき、後に防波堤として艦体が利用された。

 名雪の指揮官で最も有名なのは水瀬少佐である。眠ったままで戦闘指揮をしていたという豪傑ぶりは、今でも語りぐさになっているという。
 実は、クラ湾夜戦の時も、物資の搭載のために輸送隊は予備魚雷を降ろす事になっていたのだが、副長が作業の許可を求めようとしても、どうやっても目が覚めず、そのままで出撃したという逸話も残っている。
 お孫さんの水瀬秋子さんの回想によると、「おじいさまは『ふぁいとだよ』というのが口癖で、敵性語であるとして上層部からは批判されたそうですが、乗員の受けは良かったようです」との事である。
 秋子さんにはお嬢さんが一人いらっしゃるが、「おじいさまの大好きだったおフネ」にちなんで「名雪」さんと命名されている。
 


 あとがき

 ここまでお読みくださった皆様、お付き合いくださりどうもありがとうございます。「名雪と『名雪』」の作者のU−2Kです。

 私が本作の原作たる「駆逐艦『名雪』の生涯」(以下「名雪」とします)の存在を知ったのが、おそらく1999年の末か2000年の初め頃――発行直後で、なおかつ私がKanonをプレイする前だったかと思います。
 しかし、Kanonをコンプリートした後、(ヒロインの中で名雪に一番萌えたこともあり)「名雪」が無性に欲しくなりました。が、コピー誌でもあるそれを手に入れるのは困難だろうと思い、また私のコミケ会場の回り方が甘かったのか、実際に「名雪」を目にする機会はありませんでした。
 それから時は巡り2003年の春、日頃お世話になっているMURAJIさんが、つくばから引っ越されるということで、近所に住んでいる私は軍事関係を主とする蔵書をいただきにうかがうことになりました。
 そして、本という宝の山の中に、ひときわ輝くものを見つけたのです。
 そう、そこには4年前に欲しいと強く望んだ「名雪」があったのです。状態も良好でした。
 そこで私は、MURAJIさんに無理を申し上げて、「名雪」をいただいてしまった訳です(MURAJIさん、その節はお世話になりました)。
 念願叶い目を通してみると、そこには短いながらも非常に魅力的な、そして下地のしっかりした物語が綴られており、私がそれの虜となるのに、そう長い時間は必要としませんでした。
 そこで思いついたのが、今回の「名雪と『名雪』」のストーリ、という訳です。

 次に、拙作の補足になりますが、作中の主な出来事は2002年の10月下旬から11月頭ということになっています。名雪たちが出かけた「土日と文化の日を交えた3連休」とは、具体的には2002年11月2〜4日です。
 この頃に、果たして世間一般の大学の推薦入試は終了しているのか。それは自分でも疑問なのですが、物語の都合上、もう終わっているということにしました。
 なお文章中に、軍事的にあまり正しくない描写や台詞があるかと思います。ですが、この話は軍事オタクではない人が試行錯誤しつつ、軍事について調べるというものなので、どうか目を瞑っていただければ幸いです。書いている人間は軍事オタクなので、祐一たちを素人らしく書くのに一番苦労しました。

 今回、皇国水軍隆山鎮守府に掲載させていただきましたのは、「名雪」が、ここの初めの頃のネタに大きな影響を及ぼしたのではないかと考えたのが第1の理由です。「名雪」の初版が1999年12月、そして隆山世界の原型である「八八(cm)艦隊物語」が始まったのが2000年の1月末頃だったかと記憶しています。史実と架空の違いはあれど、「ギャルゲーのキャラクターを軍艦にする」という形式は共通していますし、その点ではむしろ「名雪」が、「八八(cm)艦隊」の元ネタの1つになったのではないか、とも思っています。
 第2の理由としては、実は今後に含むものがありまして、今回のお話はその布石であったりもします。管理人の七崎さんには個人的に大恩ありまして、その「含むもの」でご恩を少しでもお返しできれば良いのですが。

 拙作の公開に当たり、多くの方々にお世話になりました。
 私と原作者のブラック・ストーンさんを引き合わせてくださったヴェルフェンさん。
 拙作を受け入れてくださった七崎正一郎さん。
 拙作の掲載を支持してくださったチャットルーム「鶴来屋“四紀亭”」の皆様。
 そして何よりも「名雪」の原作者であり、SSを書きたいという私の申し出を快く認めてくださり、執筆中も数多くのご助言をいただき、さらには原作の転載までも認めてくださったブラック・ストーンさんに、限りない感謝を込めつつ、ご挨拶に代えさせていただきます。
 どうもありがとうございました。

             2004年2月22日  U−2K


 「駆逐艦『名雪』の生涯」以外の参考文献(敬称略)

 世界の艦船1992年7月号増刊 日本駆逐艦史(海人社)
 歴史群像太平洋戦史シリーズVol.18 水雷戦隊T 特型駆逐艦(学習研究社)
 軍艦越後の生涯 中里融司 著(学習研究社)
 福井静夫著作集第五巻 日本駆逐艦物語 福井静夫 著(光人社)
 駆逐艦入門 木俣滋郎 著(光人社)
 聯合艦隊軍艦銘銘伝 普及版 片桐大自 著(光人社)
 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型](光人社)
 図解・軍艦シリーズ4 図解 日本の駆逐艦 雑誌「丸」編集部 編(光人社)
 軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦 森恒英 著(グランプリ出版)
 海鳴り果つるとき 横山信義 著(中央公論新社)

 その他、多くのホームページを参考にさせていただきました。

 著者・編者・管理者の方々に、厚くお礼申し上げます。


 管理者(代行)解説

 「名雪と『名雪』」は、「皇国水軍隆山鎮守府」の世界(通称「八八(cm)艦隊物語」若しくは「隆山世界」)の設定とは全く関係を持っていない。
 でありながら「皇国水軍隆山鎮守府」に掲載された背景には、作者であるU−2K氏の要請と「含むもの」に加え、「駆逐艦『名雪』の生涯」が、「皇国水軍隆山鎮守府」の誕生に影響を及ぼしていた可能性が恐ろしく高い、という理由がある。

 2000年1月31日、「昼戦艦橋」に書き込まれた「ギャルゲーのキャラクターを戦車に当て嵌めた」表現。これをきっかけに始まった「八八(cm)艦隊物語」そして「隆山世界」は、その誕生以来4年に渡り存在を維持し、今なお緩やかながら設定構築を続けている。
 近年の設定基盤は「商業仮想戦記とギャルゲー」と言う基本原則を逸脱している感はあるが、2000年当時の有力な基盤の一つに仮想戦記「征西の艦隊(青木基行氏/アスペクトノベルズ)」があり、その世界には日本帝国海軍航空母艦「千鶴(せんかく・通称「チヅルさん」)」が存在していたのである。
 そして、1999年冬コミ後に行なわれた「てるぴっつの部屋」オフ会では、「駆逐艦『名雪』の生涯」が会場に持ち込まれ、話の遡上に上っていたと記憶している(当時小生は「Kanon」を良く知らなかったが)。
 「元ネタの一つ」と言うU−2K氏の推測は、恐らく間違っていないであろう。

 駆逐艦<名雪>
 吹雪型(特型)駆逐艦の第一シリーズ6番艦。
 艦隊型駆逐艦が時代遅れになり、松型などの護衛駆逐艦、あるいは秋月型などの防空駆逐艦が駆逐艦の主力となるなかで、英国から導入された新技術であるガスタービンエンジンの試験艦として手頃だったために(つまりは、潰しても惜しくはない、と思われていたと言うことだ)昭和○○年に改装された。
 彼女に最初に搭載されたガスタービンエンジンである、ロールスロイスの技術指導を元に制作された<GR15>は非常に優秀で、その最高速力はかつて<島風>が記録した40.2ノットを大きく超える45.2ノットという速度を彼女に与えた。しかし、<GR15>はその分取り扱いの難しい機関でもあり、一度火を落としてしまうとどんな熟練の機関員の手によっても絶対に一度では起動しないとも言われ、<名雪>が「ねぼすけ」あるいは「眠ぎたない」などと言われる原因となったほどである。もっとも、「眠ぎたない」ことに関して言えば、当時は部品の耐久性の問題などから一日12時間以上は機関を動かすことが難しかったことも影響しているようであるのだが。
 だがその後、彼女を運用する中で培われた多くの技術は、帝国海軍が多く建造することになったガスタービン艦、当然その中には戦艦<播磨>も含まれる、に活かされ、その点から彼女を高く評価するものが多いこともまた事実である。
 結局、彼女はその生涯において一度として戦地に赴くことなく、昭和○○年に艦体の老齢化によって解体された。

駆逐艦<名雪> 吹雪型第一シリーズ6番艦
諸元(カッコ内は改装後)
公試排水量 1950トン(1860トン)
全長 118.50メートル(120メートル)
全幅 10.36メートル(10.4メートル)
主兵装 12.7cm連装砲塔×3(同じ)
    61cm三連装魚雷発射管×3(廃止)
最高速力 38ノット(45ノット)
機関 ロ号艦本式専燃艦×4(同×2およびGR15×2)

(くわね@まるち氏/2000年2月27日・「てるぴっつの部屋」掲示板「昼戦艦橋」の投稿より抜粋)
 これは、「隆山世界」に於ける「名雪」の(旧)設定である(現在は設定調整により変更されている)。
 世界や艦隊計画が史実と大きく違う為、建造経緯や戦歴・そして余生こそ相違するものの、「彼女」の立ち位置はブラック・ストーン氏の「駆逐艦『名雪』の生涯」と酷似していると言ってよいだろう。
 「駆逐艦『名雪』の生涯」は、「皇国水軍隆山鎮守府」の誕生のみならず、彼女の「隆山世界」の「分身」にもその影響を齎しているのではないだろうか。

 U−2K氏は、「隆山世界」でも巡洋戦艦<保科“天城”智子>級・重巡洋艦<江藤>・水上機母艦<千紗>・四二式陸攻<聖山>・そして作品内仮想戦記「鋼鉄のヴューティーガール」等多数の投稿を発足当初から頂いている。
 近年では、「kanon Combat One - shattered Air -」(以下KCO・「び〜ば〜ダム」で公開中)を執筆し、本編はMURAJI氏の強い要請もあり同人誌として発行され、またその外伝は現在も複数のSS作家から投稿が続いていると言う魅力ある世界を築く力を持つSS作家である(最近は一八斤SSもモノにしたとか)。
 また、自らを「名雪萌え」と称しており、その姿勢はSSにも現れている(例:KCO)。今回の作品も、その基本スタンスを見事に昇華させて誕生したと言えるだろう。
 そして、本作の続編(実を言えばその企画に小生も一枚噛んでいるのだが)にも、その点は少なからず反映されるであろうし、氏が実際に見聞したコトも生かされると期待している。
 加えて「軍事オタクでは無い人間の視点」を如何に描写するのか、(小学生から温い軍事オタクだった小生としては想像がつかないので)これも愉しみなところである。
 なお、作中に於いて歌われた『太平洋行進曲』だが、ここでオーソドックスな「行進曲・軍艦(所謂軍艦マーチ)」ではなく「♪仰ぐ誉れの軍艦旗・・・」の歌い出しの同曲を持って来たのも、軍歌オタクを自認する氏ならではと言えるかも知れない。

 ・・・蛇足ながら、作中に登場する駆逐艦<名雪>の御霊は果たして如何なる装備なのか、小生としては激しく気になるところであり、是非ともその辺の描写が見たかった。
 「人にまぎれてある程度は動ける」と言う事なら軍装ではないと思われるが、「正規軍装をきっちり着こなした女性」属性の小生としては、少し残念といえば残念である。
 (補足:後日氏の語るところによれば、『軍艦籍ではなくなった』のでやはり『軍装ではない』との事である。無念)

 最後に、「皇国水軍隆山鎮守府」掲載を申し出て下さったU−2K氏と、原案である「駆逐艦『名雪』の生涯」同時掲載に了承して下さったブラック・ストーン氏、そしてこの企画に関わった多くの人に、この場を借りて御礼申し上げ、解説を終える事としたい。

皇紀2664年3月7日 「皇国水軍隆山鎮守府」管理者(当時) 七崎正一郎


作者(U−2K氏)メールアドレス:y-kanai2@xd5.so-net.ne.jp
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